千古の誘い (1)


 雲宮を出ることになった狭霧と高比古が別れの挨拶をしに真浪のもとを訪れると、真浪は、越の離宮という場所まで足をのばそうともちかけた。


「越の、り、きゅう――?」


 誘われるなり、高比古は腰が引けたようになる。


 真浪は、すぐさま高比古の心中を言い当てた。


「なんなの、その顔? あ、わかった。盛耶に会いたくないんだろ」


「……なぜわかる」


 盛耶は、高比古と次期武王の座を争っていた相手のうち一人で、会えばいつでも口論になる仲だ。それは、きっと二人の生い立ちが真逆だからだ。盛耶は大国主と一の后の長子で、生まれながらの王子。対して、高比古は出雲の生まれではなく、力を示すことで成り上がり、今の位を得ている。


 高比古はしかめっ面をして、真浪の笑顔を睨んだ。


「おれ、おまえにそんな話をしたことがあったか?」


「いやぁ、ないよ。ただ、きみと彼って合わなそうだなあと思ってさ。あいつはおれの従兄弟いとこみたいなもんだから、よく知ってるしね」


「そうなのか?」


「そりゃそうだよ。あいつの母君が越の国の出で、童の頃から知ってる人だからね。盛耶の母君といえば美人で有名で、おれたちにとっては近くに住んでいる憧れの姉上だった。いやあ、懐かしい。憧れの姉上にかまってもらいたくて、幼い頃、よく王宮に忍び込んだっけなあ!」


「はあ?」


「というわけで、盛耶ならおれが相手をするから、大船に乗ったと思ってどーんと構えてろよ!」






 結局、真浪は高比古の背をぐいぐいと押して、越の離宮へと向かう道を進ませた。


 その離宮は、古志こしという越の国の名がついた里の中でも一番の良地にあった。


 丘を背にする川のほとりにあり、宮の入り口となる門は繊細な飾り細工がほどこされている。門をくぐると、中には道具が壁に順序良く連なった馬屋があり、炊ぎ屋があり――。一番奥には、立派な舘が建っている。入り口となるきざはしの昇り口には、小ぶりな桃の樹とだいだいの樹が、通り道を両側から挟んで一本ずつ立っていた。


「じゃあ、おれは盛耶のところへいくよ。そこで引きとめておくからさ。一の姫の舘はそっちだよ。あ、話はいってるから、そのまま階を登っていいよ。きみたちに会いたいっていったのは、実は一の姫なんだ」


 真浪が指した舘は、美しかった。


 舘は白木の造りで、材木にこだわるだけではなく、柱や庇など、いたるところに丁寧な彫り飾りがある。それは、出雲に嫁いだ自国の姫君のために、腕利きの木の匠を輩出する越の国の知恵と技をつぎ込んだ麗しい舘だった。


 その舘の主は、一の姫という名の姫で、大国主の一の后だ。


 一の姫は、盛耶と、昨年、阿多の若王火悉海の后となりに阿多に嫁いだ瀧木姫の母親。絶世の美女との名を欲しいままにした美姫だ。


 舘の入り口には薦が降りていたが、細い草の糸で織られた昼用のもので、繊細な織り目で中の様子を隠し、風と光をほどよく通すつくりになっている。


 狭霧と高比古が階を登り始めると、その薦は侍女の手に寄ってさらりと手繰り寄せられる。奥が覗けるようになると、そこには色とりどりの錦の壁掛けが垂れる華やかな広間があり、上座には女人が一人いた。


 その人の顔に、狭霧は見覚えがあった。むかし、まだ母、須勢理が生きていた頃に何度か会ったことがあった。それから六年以上を経ているのに、その女人の美貌はその頃となんら変わりなかった。むしろ、女人の美しさというものが少しわかり始めた今の狭霧にとっては、前に見た時よりずっと美しい人だと感じた。


 一の姫の肌は白く、雪のように澄んでいる。この舘を成す白木は、この姫君のためのものだ――と、それを、狭霧はすんなり理解した。


 一の姫の淡い色の眉や、優しい目元も、肌と同じく清らかな印象がある。


 目鼻立ちが整った顔立ちの美しさに加えて、一の姫には、桜色や萌黄色など、花の色を写し取った錦の衣服や、五色の玉飾りを身に馴染ませる華があった。


 狭霧はつい見惚れて、足を止めてしまった。


 高比古に促されて二人で立ち止まると、揃って頭を下げる。


 入り口から少し進んだ場所で足を止めた二人を、一の姫は、たおやかないい方で舘の奥へと進ませた。


「どうか、お顔をおあげになってください。そして、どうか奥へ」


 すす……と、柔らかな衣ずれの音を起こして立ち上がると、みずからの居場所を下座へ移して、高比古を奥へと座らせる。そのそばに狭霧が正座をするのを見届けると、一の姫は両手を恭しく床について、頭を下げた。


「お久しぶりです、狭霧様。それから、お初にお目にかかります、高比古様。わたくしは、大国主の妻、名を〈一〉と申します」


 名乗り終えると一の姫は顔を上げ、長いまつげに彩られた目を細めて、柔和な笑みをこぼす。仕草は慎ましいが、いくら謙虚な態度をとっても、一の姫が身に備える品の良さは、武王の一の后にふさわしいものだとなおさら強く印象付ける。


(これが、武王の一の后――)


 一の姫にある気品は、いずれ高比古が父の後を継いで武王となった暁には、狭霧が得ておかなければならないものだ。それに気づくと、狭霧は気が遠くなった。


 その姫君は、そば近くへいくのを踏みとどまらせる貴人の品格と呼ぶべきものを身に備えていて、里の娘とは一線を画していた。


 そのうえ、一の姫は相手への気配りを忘れない人だった。


「先日は、素晴らしい婚儀でしたね。お二人とも、出雲の婚礼衣装がとてもお似合いで、とくに高比古様の凛々しいお姿には、若い日の大国主を思い出しました。出雲の正装の白の衣装は精悍で、清楚で、強い意思を感じさせるふうに剛健で、わたくしはとても好きです」


 一の姫は終始にこやかに笑って、二人の来訪をとても喜んだ。


 それから、ここへ二人を呼んだ理由を話した。


「狭霧様はすてきな姫君でいらっしゃるから、大勢の方から妻問いを受けたことでしょう。かくいう我が子、盛耶も、あなたに懸想して、ここであなたの話ばかりを――。しかしながら、狭霧様には、さぞ迷惑だったでしょうね。どうか、許してくださいね。でも、実をいえば、盛耶の妻になってくださらないかと、わたくしもひそかに願っていたのです。そうすれば、わたくしは狭霧様の母になれたのですから。でも――あなたが幸せであることが、なによりも大切です」


 一の姫は、心の底を覗けるような清楚な笑顔を浮かべていた。そして最後に、こう締めくくった。


「あなたの母君、須勢理様に代わってお祝い申し上げます。御成婚おめでとうございます、狭霧様、高比古様」





 一の姫からの願いで、奥出雲へ向かう狭霧と高比古の一行には一の姫の侍従が一人加わることになった。


 その侍従は名を香々音かがねといって、普段は湯の川という里で働いている。


 湯の川という里は出湯いでゆで有名で、一の姫はとくにそこの出湯を気に入り、湯治のための離宮を建てた。香々音は、その離宮に勤めているのだとか。


 出発の日、雲宮を訪れた香々音は、狭霧に越の錦で仕立てられた上等の衣を奉った。


 そこには、一の姫が木板にしたためたふみも添えられていた。


 文には、大陸と倭の文字が混じった倭言葉で、こう書かれていた。


『須勢理様の代わりに、あなたへ』


 文を読むと、狭霧はむしょうに泣きたくてたまらなくなった。


 その涙は、一の姫の心配りに胸が震えたせいでもあったし、母、須勢理がこの世にいないことを思い出した悲しみのせいでもあった。


 婚礼衣装をいくつも手にして楽しげに笑っていた瀧木姫の姿が、脳裏に蘇った。


 きっと瀧木姫は、母君の一の姫からたくさんの衣装を贈られて、どの色が似合うとか、どの衣装なら異国での婚礼にふさわしいかとか、婚儀を終えてからの振る舞い方とか、そういう話を何度もしたことだろう。


 でも、狭霧には一度もなかった。婚礼に際して、母がする役目があるということすら、一切忘れていた。それに――母、須勢理のことを思い出そうともしなかった。それも、悲しくなった。


(普通なら、男の人に嫁ぐことになった娘は、母上に頼ったり相談したりするんだろうな。とうさまとかあさまの婚儀の時はこうだったとか――そんな話もするのかな。でも、わたし、忘れてた――)


 母、須勢理は、狭霧にとって名実ともに亡くなっていたのだ。それを痛感した。


 贈られた衣装を手にしたまま、はらはらと頬に涙を落とす狭霧を、高比古は不思議そうに見ていた。


「どうした。衣をもらったことがそんなに嬉しいのか? たしかに、綺麗な錦だとは思うが」


 母がもし生きていれば――そう想うことを忘れていた狭霧以上に、高比古は、婚儀の際に両親ふたおやが果たす関わりのことなど気にかけていないようだ。


 だから、狭霧は笑って応えた。


「そうよ、嬉しいの。たくさんの方に祝ってもらえて、幸せだなあって」


(かあさまはいないけれど、一の姫みたいにわたしを気遣ってくださる方はいるもの――)


 忘れていたものをわざわざ「足りない」と思い出して嘆く必要はないと思ったし、足りないことよりも、満ち足りていることを喜ぼうと、そう思った。






 高比古がいきたがった阿伊の里は、都からかなり離れた場所にあった。そこにある離宮にたどり着くには、険しい山道と、野の中を通るなだらかな坂道を三日かけて進まなければならなかった。


 やがて、道の果てに山を背にした離宮が見えるが、一行は歩みを止めなかった。高比古が目指したのは離宮ではなく、そこからさらに岩道を登って向かう岩だらけの峡谷だったのだ。


 その峡谷で、雪解け水を集めた清流は谷底に転がる岩々に当たってうねり、ごうごうと音を立てていた。


 水音の大きさに脅えながら近づいていくと、一行は峡谷の崖際にたどりつく。


 崖の向こうは、足を踏み外してしまえばひとたまりもない深さの谷だ。しかも、山から崩落したばかりというべき巨大な岩だらけ。


 高比古は、そこからさらに奥へいこうとした。


「少しいけば眺めがいい場所があるよ」


「ここを、いくの――?」


 高比古は崖際を指していたが、そこには、人ひとりがようやく歩ける狭さの場所があるだけで、際は崖っぷちだ。


「誰か、結ぶものを――」


 一緒に進んでいた供の武人に縄をねだると、高比古は狭霧の腰に命綱を巻いて、それを自分の腰にも巻きつける。


 ごうごう、ごう――。渓谷に響く水音は、四面を滝に囲まれている気がするほどの轟音で、地響きの音に似ていた。


 そこを進む狭霧の足は震えてしまったので、結局、高比古は狭霧をおぶった。


「こ、こんなところに、なんの用事があるのよ――」


「景色を見たいだけだよ」


「景色ぃ? いいよぅ、そんなの、見なくても――」


 高比古の背中にしがみつきながら、狭霧は声を震わせる。


 すいすいと進む高比古の足取りは、狭霧を背負っても変わらなかった。


「あんたって高いところが苦手だったのか? 意外だな」


 そんなふうにいって、談笑する余裕まであった。


 崖際を少し進むと、高比古は足を止めて、狭霧を足もとの岩の上に下ろした。


「ここはもう大丈夫だから。この岩を登るよ」


「岩を、登るぅ?」


 狭霧は、目尻に涙をにじませた。


 いつ落ちるかもしれない崖際の道を進んだうえに、岩登りなど――。しかも、高比古が登ろうといっているのは、大人が二十人いてようやく周りを囲めるほどの巨大な岩だ。出雲には、奇岩の景勝地が多く、狭霧は、その中のいくつかへ出かけて景色を眺めたことがあった。でも、これほど大きな岩を目の前にして、しかも、岩を登れと言われたのは初めてのことだった。


 狭霧は、高比古がどうしようもなく馬鹿な真似をしているとしか思えなかった。


「いったいどうして、こんな岩を登るのよ……」


「いいから。おれが先に登って手を引いてやるから」


 狭霧の泣きごとを、高比古は微笑でいさめる。


 岩の表面は、水に磨かれてつるつるとしていた。ひびも目立った出っ張りもない岩の表面に器用に足場を見つけて、高比古は、少しずつ上へと登っていく。そして、一歩登るたびに背後を振り向いて、手を差し出した。


「ひっぱってやるから。手を乗せろよ」


「うん――」


 いわれるままに狭霧がそこに手を置くと、高比古の腕はぐいと力強く引き上げる。


 逞しい手にいざなわれるままに、狭霧は目を潤ませながら、ゆっくりと岩を登った。


 最後、ひときわ力強い仕草で狭霧を引き上げると、高比古は狭霧から手を放してゆっくりと立ち上がった。


 二人が登ったのは、峡谷のはざまにぽつんと取り残された、巨岩だった。


「狭霧、ここまで来たんだ。立てよ。見ろ――ほら……」


 大岩の上に座り込んだまま立とうとしない狭霧に業を煮やして、高比古は再び手を差し伸べて、背中から抱きかかえるようにして立たせた。


 高比古の胴にしがみつきながら、狭霧は震える目で峡谷を覗いてみた。そして、言葉を失った。


 二人が登った大岩は、峡谷に突き出るようにして倒れていたので、そこから下を覗けば、峡谷を真上から眺めることができた。まるで、空に浮いているような気分で――。そこには、怒涛の勢いで流れて岩にぶつかり、泡だらけになる白い清流が、ごうごうと唸りながら絶え間なく流れていた。


 峡谷の景観は、圧巻だった。


 渓谷の谷川には、狭霧が登った岩より大きな岩がごろごろとあった。ある岩は剣の刃のように尖った形をして天を向き、ある岩は鳥の卵のような丸い形をして――。


 渓谷を成す岩の形はさまざまだったが、とにかくどれも大きい。


 そこから眺める景色には、雄々しいという言葉がふさわしい。暴れ狂うような力強さや、強靭さを感じさせる場所だった。


「すごい――」


 呆然として足もとの景観に見入っていると、狭霧を見下ろして、高比古がくすりと笑う。


「だろ?」


「高比古は、前にもここに来たことがあるの?」


「ああ、何度か」


「何度か? そんなに?」


「二度かな。一度は、出雲に来たばかりの頃、事代の技を習う時にその一連で――。もう一度は、大国主と来た」


「とうさまと?」


「ああ。大国主がこの景色を見たいといったから、寄ったんだ。この山の向こうは瀬戸だから、対瀬戸の砦がこの近くにあって、そこに用があったんだが、その用はないも同然だった」


「とうさまも、ここへ――。わざわざ来るなんて、そんなにここが好きなんだね」


「須佐乃男もよく来るらしいぞ」


「おじいさまが?」


「だから、こんな山奥なのに離宮があるんだ。――そろそろ、下りようか」


 雄大な眺めを思う存分堪能すると、高比古は大岩を先に下りていく。登り始めた場所までいきつくと、頭上にいる狭霧に向かって腕を広げて、飛び降りるようにいった。


「抱きとめるから、来いよ」


「えええ?」


「平気だ。来い」


 登る時は、なんと大きな岩だと思ったが、よく見てみれば、そこまで背の高い岩ではなかった。でも、表面がつるつるしていて足を引っ掛ける場所を探すのが難しいのは、始めも今も変わらない。


 狭霧の足では、その岩を登り降りするのは難しそうだった。


 仕方なく、狭霧は、一足先に岩を降りた高比古を岩の上から見下ろした。


「本当にいいの? ――いくよ。いくね?」


「ああ、いつでも来い」


 両腕を広げて、高比古は笑っている。


 その腕の中目がけて、狭霧は思い切り岩を蹴り、飛び降りた。


 岩の上から飛び降りるのが怖くて、狭霧は目を開けていられなかった。でも、すぐにふわりと身体が浮いて、ああ、もう大丈夫……と安堵した。


「ほら、平気だろ?」


 狭霧の脇の下あたりに、力強く胴を支える腕があって、その腕は、狭霧の足を軽々と地面にたどり着かせる。


 無事に岩を降りることができた後も、高比古の腕は、狭霧に手を貸そうとした。


「もとの場所に戻るぞ。背負ってやるから、おぶされよ。崖っぷちが嫌いなんだろ?」


 高比古の身体はわりに細身で、大男と呼ぶべき武人の身体を誇る大国主や、盛耶と比べると、少し頼りなく見える時もあった。でも、近くで見ると肩幅は意外に広いし、触れてみるととても頑丈だと、狭霧はもう知っていた。それに――。


 いわれるがままに背負われながら、狭霧は、温かな肩に頬を寝かせた。


 高比古の足が進むたびに上下する振動に身を預けながら、こう思わずにはいられなかった。


(この人は、いつの間にこんなに優しくなったんだろう――)


 でも――と狭霧は思った。


(そうじゃないね――。きっと高比古は、はじめから優しかったんだ。ただ、優しいところを人に見せなかっただけで――わたしが気づかなかっただけだ。高比古は、優しい……)


 その想いは、崖っぷちにいる怖さに上塗りをして余りあるほど、狭霧の胸にじんわりと広がった。






 離宮へ戻ると、門の前では、香々音が今か今かと狭霧の帰りを待っていた。


 馬に乗って坂道を下る一行を見つけると、香々音は、勢いよく腕を振って狭霧の名を連呼する。


「姫様、お早く! 湯浴みのお時間ですよ! お早くなさらないと、夕餉に間に合いませんよ! 姫様ったら!」


 香々音は慌てていたが、馬に揺られつつ天を見上げて、狭霧は首を傾げた。


「夕餉に間に合わない? まだ、昼間だけど……」


 離宮に着いたのは朝のうちだったので、高比古がいきたがった峡谷から戻ったのは真昼だ。


「聞いた? 湯浴みだって。この離宮には湯殿もあるんだね」


 隣で馬を駆る高比古に声をかけると、高比古は苦笑した。


「あるだろうな。なにせ、賢王様御用達の離宮だから」


「おじいさまの?」


「らしいよ。かなり昔だけど、須佐乃男がここで一年くらい暮らしていたらしい。だから、湯屋も舘も、ここにあるものは都並みだよ。大国主も、あんたのかあさまを連れて何度か来ていたみたいだしな」


 狭霧は目をしばたかせた。


「かあさまを連れて? 一の姫じゃなくて?」


「ああ。安曇に聞いたよ」


「そんなにいいところなのね? ふうん――」


「見どころはさっきの峡谷らしいけどな。まあ、気持ちがいいところだよ。おれもここは好きだな」


 高比古は、離宮の周囲をぐるりと囲む山々の緑を見渡して、深く息を吸った。


 山深い場所にあるこの里では、山の緑は四面にそびえる高い壁になっている。見上げると、青い空が、緑の壁の上に渡された美しい屋根にも見えて――。まるで、とても広々とした自然の宮殿に、お邪魔しているような気分になった。


「たしかに、気持ちのいいところだけど――。まあ、いいわ。いやな汗をかいたし、湯浴みができるなら嬉しいね?」


 


 


 でも、その日、湯浴みを許されたのは狭霧だけだった。


 離宮の門で狭霧の手首をがっしと掴んだ香々音は、狭霧だけをそこから案内した。


「たいへん恐れ入りますが、今日、湯屋は姫様だけの貸し切りでございます。高比古様は、あちらに川がありますから、そこらへんでご自由に水浴びを―――」


「か、川?」


 それでは、侍女や下男たちと同じ扱いではないか。高比古は、狭霧の夫だというのに。


「で、でも――! そうだ、なら、高比古に先に湯屋を使ってもらって、その後でわたしが使えば――」


 狭霧が折衷案を出しても、香々音は聞く耳をもたなかった。


「いいえ。今日はだめです。いきますよ、狭霧様。早く始めないと、夕餉に間に合わなくなります!」


「ええ? でも、まだ明るいよ?」


 狭霧が何をいおうが、香々音に折れる気配はない。結局、ぐいと手首を引っ張られるので、ぽかんとする高比古や、供の武人たちの目の前で、狭霧はたった一人で離宮の門をくぐることになった。


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