千古の誘い (2)


 湯屋の端には、石を削った湯船があった。


 湯船に満ちているのは、地中から自然に湧き出たお湯ではなく、水に焼き石を入れて熱くしたもの。床には、平たい石が順序良く敷き詰められている。お湯は床の窪みにも流れていたので、湯屋の中は湯気がもうもうと立ち上っていた。


 香々音かがねは湯船の湯ではなく蒸気の湯に浸かるようにいい、床に置かれた木造りの寝台を案内した。


「狭霧様、どうぞこちらに寝転んでくださいませ」


 それで、狭霧は湯着を身にまとったまま寝台の上にうつ伏せになる。


 香々音は、壺を持ってきていて、それを寝台のそば横に並べた。狭霧の湯着の背中のあたりをはだけて、壺の中身を塗りつけていった。


 背中に塗られたどろりとした感触に驚いて、狭霧は悲鳴をあげた。


「い、いまの何?」


藻塩もしおと、泥を混ぜたものです」


「泥? 藻塩って――?」


「海の藻と塩を合わせたものです。湯の川から運んだんですよ? 顔を上げないでくださいね。今からこれを、髪にも塗りますから」


「か、髪に、泥を?」


「姫様、藻塩は娘の肌や髪にとてもよいのですよ? 一の姫様がわたくしを遣わせたのは、姫様の肌をよりきめ細かに、髪を艶やかにして、御身を飾るためです」


「わたしを飾る?」


「はい。こたびの離宮住まいは、婚儀明けのお二人に大国主がくださったお暇だとか。ですから、姫様を特別おきれいにしてさしあげろとの命を受けております」


「婚儀明けのお暇? そんなんじゃ――」


 狭霧が阿伊に来たのは高比古に用事があったからだ。わざわざ暇をもてあましにやってきたわけではない。


「わかりました。ご用事があると、そういうことになっているんでございますね? それはそうでしょう。大国主は、船団を率いてもうじき出立されます。そんな時分に、策士様が新妻と遊んでいらっしゃるといいふらされたら、いい気はなさいませんものねえ」


「そうじゃなくて――」


 狭霧はまだいい返したかったが、しだいにそれもできなくなる。


 香々音が背中に塗る藻塩というものは程よくぬるまっていて、肌触りも悪くなかった。そのうえ、なだらかな弧を描くような香々音の手つきは、いいようもなく心地良かった。


「――それ、気持ちいいね」


 自分の腕を枕に寝そべっていると、つい目を閉じて、うとうととしてしまいそうだった。


「そうでございましょう? 一の姫様の美貌を輝かせ続けているのは、この香々音たち、湯の川の侍女でございます。衣装や結髪ゆいかみなど、美しさに関することならなんでもお任せください。姫様のお肌も、ぴかぴか、つやつやにいたしますから!」


 香々音は藻塩というもので狭霧の背中一面を覆うと、次は髪、それも終わると仰向けに寝かせて、頬や首元、脚――と、肌に香々音がいうところの「美しさの素」を塗っていく。


 最後には薄地の布で身体を覆って、しばらく休むようにいわれた。


「あと少しだけご辛抱くださいね。この湯屋は床から湯気が立ち上っているでございましょう? この湯気とあなたの御身を包んだ『美しさの素』は、美しさにおける最高の切り札でございます。藻塩を洗い流せば、あなたのお肌はすっきりぴかぴか! ああ、早く見てみたいですね……。でも、少しお待ちを。もう少しですからね?」


 香々音は、狭霧以上にその時を待ち望んでいるように見えた。


 狭霧はといえば、こんなに長い時間湯屋に入れられたのが初めてで、のぼせかけていたが。


「そっか、ありがとう……。あの、相談なんだけど、少し待つならここを出てほかで待ったりしちゃ駄目かな? そうしたら、この湯屋を空けて高比古が使えると思うんだ……。湯屋を独り占めするのは、やっぱり悪いから。暑いし――」


「それでは美しさを極める技の効き目が半減するではありませんか! それに、姫様がこの湯屋お出になれば、高比古様にお姿を見られてしまうかもしれないではありませんか!」


「そうだね、たしかに……今、わたし、へんな格好をしてるものね。顔も身体も泥だらけだし――」


「そういう問題ではありません。何人たりとも、美しくなっている最中の娘を覗いては駄目なのです。殿方は、女人のもっとも美しい姿さえ見ておられればよいのです!」


 仕事をこなすにつれて、香々音の態度は厳しくなっていった。


 時が過ぎて、狭霧の身体を覆っていた泥を湯で流し取り、寝台に腰掛けて髪を梳き始めると、今度は髪の切り方に対して文句をいった。


「まあ――切り口が不揃いだこと。なんてこと……こんな髪で婚儀を済ませられたなど、なんたる――出雲の侍女の、なんと詰めの甘いこと! 辱めを受けたも同然でございますよ。ああ! 婚儀の前にわたくしを呼んでいただければよかったのに! わたくし、髪切り道具ももっておりますから、髪も切り揃えましょう。もっと可憐に、もっと美しく! 大丈夫、姫様はこれまでよりもずっとお綺麗になられます!」


 放っておけば、自分の身体すべてを別のものに造りかえられてしまいそうだ――と、狭霧は少し怖くなった。それに、「美しさを極めなければ!」とか「可憐に! 綺麗に!」と繰り返されるのは恥ずかしいものがある。


「あ、あの、髪まではいいよ? あんまり変わると恥ずかしいし……」


「遠慮なさらなくてもいいのです。さあ、髪は梳き終わりました。すぐに髪切りはさみをご用意いたしますからね」


 結局、香々音の納得がいくまで、狭霧が解放されることはなかった。


 湯屋で髪を揃え終えると、さらの湯着を何枚も使って身体や髪の水気を拭きとり、次は湯屋の隣の舘へと移る。そこで湯着を脱いで下衣に着替えると、香々音は櫛を手にして狭霧の黒髪を丁寧に梳いた。


「髪が乾くまでは、よけいな癖がつかないように下ろしておきましょうね。しっかり梳いて、耳の上あたりに小さな髪飾りをつければきっとお似合いになりましょう」


 じっとしているのに飽きてちらりと外を覗くと、日の光はすでに傾いていた。


 小窓からは、炊ぎ屋から漏れる美味しそうな匂いも漂ってくる。


「本当だ、夕餉の時間に間に合うかどうか心配だね。綺麗になるって、手間がかかるんだね……」


 香々音にされるがままに半日過ごしただけで、狭霧はすっかりくたびれていた。


 でも、香々音が普段仕えている一の姫の透き通るような白い肌や、匂い立つような美しさを思い出すと、きっと、あの美貌を保つには並々ならぬ努力をして、時間も費やしているのだろうなあ――と思った。


 やがて、髪を梳き終え、耳の上に小さな飾りをつけ、眉もきれいに整えると、香々音はそれまでし続けていた真剣な顔をやめてぱっと笑顔になった。


「できました! これで……」


「終わった? よかった」


 やっと、解放される――。心の底からそう思って息をつくが、香々音は折り合いをつけることがなかった。


 狭霧の顔を見て「ん?」と眉をひそめると、自分でここまで運んできた籠の中をごそごそとかき回し始める。


「髪飾りの色が合いませんね。――変えます。少々お待ちを」


「まだ終わらないんだ……。髪飾りの色が変わるだけで、そんなに変わるもの?」


 なかば辟易としてため息をつくと、香々音は髪飾りを探す手を止めた。


「大違いです! ほんのわずかな色味の違い、形の違い、目元や肌の色、御顔の輪郭の形との釣り合い、これらのすべてがうまく馴染めば、それはもう、ぴたーっ!と、美しくなるものなのです! ――あ、これがいい! さっそくつけてみましょう」


 香々音は、手にした飾りをいそいそと狭霧の耳もとにつけるが、少し離れた場所から狭霧の顔をじっと見つめると、やはり眉根をひそめた。


「――これもちょっと違う。変えます。選び直しますので、少々お待ちを」


「はあ――」


 もう、されるがままだった。


 とはいえ、香々音の腕は大したものだった。手際良く髪飾りを付け替えると、夕餉の時間に十分な時間をもたせて仕事を終わらせた。


 最後に香々音は籠の中から円鏡を出して、鏡面を狭霧に見せた。


「完璧です。いかがでしょうか、姫様」


 差し出された鏡面を覗きこんでみた。すると、そこには可愛らしい顔があった。


 肌は白くつやつやとしていて、唇はぷくりとして自然な艶がある。眉は大陸の官女のように美しく整えられて、そのせいで目もとがいつもよりも凛々しく華麗に見える。黒髪には黒玉のごとき輝きがあって、あれよあれよといううちに着けられた衣装も、倭国一と謳われる越の錦で仕上げられた華やかな形。襟元に山吹色と茜色を配した色の取り合わせも見事だった。


 鏡に映った自分の顔を見て、狭霧はぽかんと口をあけた。


「すごい……さすがは、一の姫の侍女ね――」


 感嘆してそういうと、香々音はお辞儀をして「恐れ入ります」といった。


 鏡の中の、まるで別人のような自分の顔を覗くのは、恥ずかしかった。


 でも、それ以上に胸が高鳴った。今、一番この姿を見せたい人のことを考えた。


(高比古、なんていうかな。似合うっていってくれるかな――)






(高比古、どこにいったかな――)


 高比古と別れたのは半日前だが、昨日もその前の日もずっと一緒にいたせいで、半日離れただけでとても長い間離れているように感じた。


 一緒に旅に出るまで、狭霧はひと月のうちの半分を杵築きつきの高比古の舘で過ごし、半分を意宇おうで暮らし――と、半月ごとに都を移る暮らしを続けていた。その時は、半月の間高比古の顔を見なくても仕方ないと諦めることができたのに、今は、彼の居場所がわからないと思うとどうしようもなく焦った。


(この離宮ってどこに何があるんだろう。はじめて来た場所だと、よくわからない――)


 馬屋や門前の広場や、舘の奥の木陰――。高比古が休んでいそうな場所を覗きこみながら、狭霧は離宮を奥へ奥へと進んだ。


 その離宮は雲宮のように途方もなく大きいというわけではなかったが、一の姫や心依姫の離宮よりはずっと敷地が広かった。


「高比古様なら、真中の庭にいかれたのを見ましたよ。大岩と川のある離宮で一番大きな庭です。それにしても、狭霧様……」


 雲宮から一緒にやってきた武人たちとすれ違ったので、高比古の行方を尋ねると、彼らは様変わりした狭霧の姿に目を細めた。


 驚いたように見つめられるのは、とても恥ずかしかった。


「あ、ありがとう。探してみます」


 そそくさと礼をいうと、狭霧は逃げるように離宮の奥を目指した。






 真中の庭は、離宮の中央にあった。


 庭はこの地にもともとあった小川を引き込んだ造りで、引き込まれた水は人の手で掘られた窪みを、美しい弧を描いてさらさらと流れている。川筋に馴染むように大岩が置かれて、庭には、昼間に出かけた峡谷に似た趣があった。


 大岩の下や大きな樫の木の根元などを覗きこみながら庭を進んでいると、声を聞きつけた。高比古の声だった。


(誰かと話しているのかな?)


 声を頼りに、行く手の景色を遮る木立や岩をよけて進む。


 でも、その庭には高比古のほかに誰もいなかった。


 高比古は、狭霧の背よりも大きな岩に背中をつけてあぐらをかいていた。はたから見ても不機嫌で、目を閉じたままぶつぶつといい、何度も姿勢を変えていた。


「ああ、それくらい大したことない。いまのうちに慣れておけ。――なに? 大勢の前に立つと足が震えるだと? おまえなぁ――立つこともできないのか? おれの代わりに、そこでそいつらに命じろっていわれたらどうする気なんだよ……」


(独り言? ――じゃ、なさそうだな)


 周りに人の気配はないが、高比古は誰かと話をしているようだった。


 邪魔をしないようにと、狭霧は少し離れた場所で足を止めた。とはいえ、狭霧が足を止めたのは高比古の真正面だ。目さえあければ必ず目に入る場所だが、高比古は狭霧に気づかないまま鬱陶しそうに誰かを叱りつけた。


「馬鹿、おれのふりをしてそこにいってるくせに、おれに恥をかかせるような真似をするな。――だから、焦るな。だいいち、誰もそこまでおまえに求めていない。――酷いことをいうなって……事実をいったまでだろう? もう知らん。一人でやれよ。――いやだ、もういい。うるさい、一人でやれ!」


 最後、怒鳴るようにして話を終わらせると、高比古はぱっと目を開けた。


 目を開けても、高比古はしばらくうつむいていた。


 何度も息をして苛立ちを静めてからようやく顔を上げて、正面に人がいることにいま気づいたというふうに、ゆっくりと目線をあげていく。


 狭霧のくつや、足首まで垂れる鮮やかな色の裳を目で追って、目と目が合う。でも、高比古はすぐに目を逸らした。


(あれ?)


 肩すかしを食ってぽかんとする狭霧と同じくらい、その後すぐに、高比古は大仰に驚いて見せた。はっと顔をあげて、目を丸くした。


「狭霧か? 別の人かと思った」


 一度目を逸らしたのは、狭霧ではない別の姫だと勘違いしたからだ。


 たしかに、髪の結い方や飾りや衣装は、普段狭霧が自分では絶対に選ばないものばかりだ。恥ずかしくなって、狭霧は顔を隠してうつむいた。


「う、うん。香々音がやってくれたの。すごいね、越の人――。ごめん、邪魔したね。誰かと話していたでしょう?」


「いいよ。済んだ」


「今話していた相手は、佩羽矢ははやさん?」


「ああ。今、港にいて、船出にそなえる軍議がおこなわれたらしい。今回の船団は大きいから、びびりやがって――」


「佩羽矢さんにとっては初陣だものね」


 佩羽矢は、高比古の影となることを望み、自分の命を形代かたしろにして高比古と目や耳を繋げる力を得たのだとか。


 仕上がりを試すのだといって、阿伊あいへ向かう道中にも、高比古はその力を使って何度か佩羽矢に話しかけていた。


 これまでのところ、仕上がりは上々。神野くまのと意宇が「これなら他にも使い勝手がある」と、別の使い道を思案しているとかで、高比古はそれに「おれで試すなよ」と文句をいっていた。


 道中のことを思い出して、狭霧はくすくすと笑った。


 それから、佩羽矢のことを思い出したついでに、その青年の妻となった娘のことを思い出した。




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