千古の誘い (3)


 その娘は名を照流てるといい、佩羽矢ははやたっての願いで狭霧に預けられていた。


 狭霧は照流を、意宇の薬倉に勤める下女の役に就かせた。照流には薬の知恵があったので、本当は薬師見習いにしたかったのだが、薬師を増やすのはいいが、むやみに増やして質を落としてはいけないと、医薬師たちの許しがおりなかった。それで、薬師見習いのさらに見習いということで、今の立場にひとまず落ち着いたのだ。


「そうだ、思いついた。佩羽矢さんの奥さんの照流には、香々音かがねみたいに、きれいになるための薬や方法を学んでもらってもいいかもしれないね。香々音はね、長門ながとの出だけれど、いろんな異国の知恵をもっているの。命にかかわる病や怪我を治すことも大事だけど、たとえば、肌がかゆくて困っている人や、軽い病や怪我で悩む人も里にはいるわ。女の人をきれいにしてあげるのも、例えば、それが婚儀の前だったりしたらとても嬉しいと思う。誰かを幸せにしたり、お祝いしたりするための薬や技をまとめていくの。ねえ、どうかな? いい考えだと思わない?」


 高比古は苦笑して、その話をなかったことにした。


「――ごめん、今、そういうことを話されても、頭に入ってこない」


 高比古は狭霧を見上げて微笑んでいた。


「はじめ見た時、別人かと思った。でも、あんただ。他の娘なら、おれはこんなに触れたくならないし――」


 うつむいた狭霧の指を、高比古の手が引いて、そばに座らせた。


 耳たぶのあたりにじんわりと降る甘い言葉に緊張して、狭霧の胸が鳴った。


「あの――気にいってくれた?」


「おれに気にいってほしかった?」


「うん――高比古がどう思うかなって、それしか考えなかった……」


「うん――」


 高比古は、それ以上話を続けなかった。ただ、指先で狭霧の頬をなぞる。頬に飽きると、次は髪、また頬……と、照れ臭い言葉を口にするのをためらうように、彼は指で狭霧を何度も撫でた。


 誰もいない静かな庭で二人でそうしているのは、とても幸せだった。狭霧は、手のひらで感じた胴の温かさや、耳に下りてくる吐息にうっとりとした。


 でも、二人だけの場所と思ったのは気のせいだった。


 二人がいた大庭は、四方を舘に囲まれている。舘と舘を繋ぐ渡殿があり、そこを行き来する人が大勢いた。


 ふと笑い声を聞きつけてはっと後ろを振り向くと、舘の回廊で侍女が数人立ち止まって、狭霧と高比古を見ていた。中には香々音の姿もあって、力強く握り拳をつくっている。


「あ……」


 寄せ合った身をそそくさと離しながら、高比古は、決まりが悪そうにいいわけをした。


「あんたといると、ここにいる目的を忘れそうになるな」


 それは、狭霧も同じだった。


「うん――困ったね」


 雲宮を出て二人だけの旅をしていると思うと、つい隣にいる人のことばかりを目で追ってしまう。考えなくてはいけないことはたくさんあったし、こんなことをしている暇はないはずなのに――。


(これじゃ、駄目だな)


 気持ちを切り替えようと、狭霧は大きく息を吐いた。


 忍びやかな笑い声まじりの覗き見を済ませると、侍女たちは止めていた足を動かして行き来を始めた。


 侍女たちがせわしなく働いているからには、夕餉の宴の始まりが近いのだろうが、支度が済めば声をかけにくるはずだ。酒壺や料理が乗った高杯たかつきを運ぶ侍女たちの足取りを目で追いつつ、狭霧は高比古に話しかけた。


「ねえ高比古、ここに来た目的ってなに? もしかして――」


 その問いをこれまで尋ねなかったのは、答えに思い当たっていたからだ。


 高比古はじわりとうなずいた。


「ああ。実は、御津みつを探そうと思って」


 御津――。


 高比古は、出雲と笠沙という聖地を守る二人の大巫女から託宣を受けたことがあった。御津というのは、その託宣の中の言葉だ。




『そなたの夫は……いまに必ず事代主ことしろぬしとなる。巫王の呼び名として、事代主の名を大八嶋おおやしまに知らしめるだろう。大国主おおくにぬしという呼び名が、武王の意味をもって知れ渡ったようにね』


『その決め手となる場所は、御津』




 船でいけばふた月近くも要する離れた場所で、二度も同じことを聞いた時、狭霧は身体の芯がぞくりとした。大巫女という地位をいただく二人の巫女の霊威を、身をもって感じたと怖くなった。


 高比古はふうと息をした。


「信じていなかったが、婚儀を終えて、おれにはまだ大国主を継ぐ力がないと思ったら、あの先視さきみのことを思い出したんだ」


 うなだれるようなため息を聞きつけると、狭霧は須佐乃男の声を思い出した。


(まだとうさまを継ぐ力がない、か。高比古、気にしてたんだ……)


 


『――高比古はまだ生煮えだ。生煮えの若造など、食えたものじゃない。どんなふうにも育つと、そのように将来の甘い夢を描けるだけだ』


『あいつは、武王になるにはまだ死の匂いが足りない。まずはそれを覚えて、女神と向き合わねばならないというのに』




(やっぱり高比古におじいさまの話をしなくてよかった。高比古は自分でちゃんとそう思ってるもの。自覚して、悩んでいたんだ――)


 思い返せば、狭霧との婚儀を「王の跡継ぎ」として済ませた時から、高比古はいらいらとする日が増えていた。


 でも、高比古には、王の候補といわれる若者の中では群を抜いた才能があると思っていた。これ以上何を伸ばせば須佐乃男が気にいるように育つことができて、高比古が自分で納得できるのか。狭霧には見当もつかなかった。


「高比古は、十分がんばってると思うけどな」


「十分やっていようが、結果がついてこなければ無意味だろ」


 高比古は、微笑した。


「違うか。おれはまだ十分やっていないんだよ。嫌な予感がすると大巫女の先視を避けていたが、それはつまり、力足らずがわかっていながら、嫌だからといってそれを遠ざけているということだ。そんなことができる身の上でもないくせに」


「でも、その〈御津〉っていう場所がどこにあるかはわからないんでしょう? 日女ひるめは、出雲にあるかどうかもわからないって――」


「まあな」


 高比古はぼんやりと庭向こうにある舘の屋根を見つめた。


「〈津〉っていうのは浦――つまり、海と陸の繋がる場所のことだ。〈御〉は貴い場所を呼ぶためについた言葉だろうから特別な意味はないとして、つまり、〈御津〉は水辺だよ。〈御〉の意味も加えれば『聖なる水辺』っていい換えられるかな。だから、水に関わる場所だと思った。阿伊に来たのは、出雲の水と思うとここのことを思い出して、来てみたくなったんだ」


「『聖なる水辺』か。その思い出した場所って、昼間にいった峡谷のこと?」


「ああ。出雲で水が関わる場所でおれが一番覚えていたのが、あの峡谷だったから。水と石の気が溢れていて気持ちよかったから、もしかしたらと思ったんだが」


「水と石の気? そんなのがあったんだ。でも、ここは違った?」


 高比古は肩をすくめて見せた。


「さあ。ここが〈御津〉だとする決め手すらわからないからなんともいえないが、おれは違うと思った。――来てはみたが、結局無駄足に終わったな。手ぶらで帰るわけにもいかないから、明日かあさってにここを出て近くの砦に寄ってもいいか? 瀬戸との戦の仕方を考えるよ。山際の地形をこの目で見て、覚えて帰る」


「うん――」


 高比古が御津を探そうとしていることは、阿伊へいくことが決まってから狭霧は薄々気づいていた。でも、改めてそうだと聞くと、不安になった。〈御津〉という場所が、得体の知れない奇妙なものに映って仕方なかった。


「〈御津〉ってなんだろうね。大巫女様がいっていたのは、たしか――『この先千年に渡って力をあらわす偉大な巫王になる、その決め手となる場所が、御津』――だっけ」


「ああ、『この先千年に渡って力を顕す偉大な巫王』だよ。ものものしいよな」


 高比古は、人ごとのようにいって苦笑した。






 夕餉の宴は、大庭を見渡すことができる東屋あずまやでひらかれた。長旅に疲れたからと、早々に狭霧と高比古が退出したので、長くは続かなかったが。


 賑やかな宴の場を背にして寝所へ向かいながら、高比古はいいわけをした。


「宴は苦手なんだよ。人が大勢で騒いでいる場所も、おれは好きじゃない」


「そうみたいだね。好きにすればいいよ。わたしなら高比古の好みに合わせるから」


「好みを合わせる、か。なんだかそれって夫婦みたいだな」


「えっ、わたしたち、夫婦だよ?」


「冗談だよ」


「知ってるよ」


 くすくすと笑い合いながら手をつないで、寝所に戻った。


 寝床の支度は済んでいたので、すぐに身支度をして横になる。


「疲れたね」


「ああ、疲れた」


 並んで寝床に入りながら、狭霧はしんみりとつぶやいた。


「これから眠って、明日になったらここを出ちゃうんだよね。――じゃあ、これは今日で終わりだね」


「これって?」


「香々音がね、一の姫は、わたしたちがここにいるのを婚儀明けのお暇だと思っているっていっていたの。その時は違うと思ったけれど、なんのお役目もなくずっと一緒にいられるのは、高比古の舘で暮らすようになってからは初めてでしょう? 楽しかったなあって、そう思って。わたし、意宇の薬倉のこととか、学び舎のこととか、すっかり忘れてた……」


 頭の下で腕を組んで、高比古はくすりと笑った。


「おれもここ数日は遊んでばかりだ。――いいんじゃないか? 大国主も須佐乃男も、ここにいた時は役目を忘れていただろうし。たぶん、だけどな」


「とうさまと、おじいさまか」


 敷布に寝かせた手の甲に頬を置いて、狭霧は、灯かりが消えて暗くなった寝所の壁や、屋根の裏をぼんやりと眺めた。


「とうさまとかあさまもここで眠ったんだ――。この離宮って、王と王妃が遊びにくる場所なのかな」


「話を聞くまで知らなかったが、そういう雰囲気だな。まあ、おれは王じゃないし、あんたもまだ王妃じゃないわけだが」


「うん。でも――わたしがこんなところに来られるなんて、思わなかった」


「来ようと思わなかっただけだろ」


「そんなことないよ。高比古は、何年も前からいつか王になるっていわれていたけれどね」


「そうだけど。おれも、こんなところに来ようなんて思わなかった。一緒にいきたいと思う相手もいなかったしな」


(一緒にいきたいと思う相手、か)


 それは、妻のことだ。王になる夢はあっても、妻を得る夢はなかったというのだ。


 高比古の妻と思うと、狭霧はある姫のことを思い出した。


 狭霧は高比古の妻としてこの離宮を訪れているが、もともと高比古には、狭霧とは別にここへ一緒に招かれるべき娘がいた。


 その娘は、名を心依姫といった。そして、高比古と狭霧の婚姻を大国主が許したその日に、心依姫は流産した。その傷は癒えることなく心依姫の身を蝕んだので、秋と冬の間、心依姫はずっと伏せっていた。


 高比古は、何度か心依姫の見舞に離宮を訪れている。


 狭霧は自分も見舞にいきたいと尋ねたが、高比古はそれを断った。


『あいつはだんだん元気になってきた。でも、あんたに会えるほど落ち着いてはいないから、あんたはまだ来るな。平気だから、気に病むな』


 高比古は狭霧を気遣ったが、心依姫の身を蝕んでいる痛みは、今も心依姫を苦しめているはずだ。いや、心依姫を苦しめているのは、腹の痛みよりも心の痛みのはずだ。


(心依姫はわたしを恨んでいるだろうな。仲良くなって、高比古が好きだっていう相談にも乗っていたのに、裏切るような真似をして――)


 暗闇の中。掛け布が動いて、ささっと衣ずれの音を響かせた。


 掛け布の中にこもった温かな風がふわりとなびいて、狭霧を包み込む。


 黙りこんだ狭霧の肩を腕の中に囲い込むと、高比古は狭霧の耳の上で苦笑した。


「心依のことを考えてるのか? 大丈夫だ、そのうちよくなる。待つしかできない時もあるよ。おれは気を変える気はないし、おれが他に妻をもつかもしれないことは、あいつも宗像も、もとからわかっていたことだ。あんたのせいじゃないし、誰のせいでもない」


「うん――」


「誰がどうだろうが、おれが好きなのはあんただ。あんたにそばにいてほしい。そして、できれば、いつか――」


 そこまでいうと、高比古は言葉を濁した。


 言葉の続きの代わりにくすっと笑って、高比古は狭霧の耳の上にくちづけた。


「いや、いい。また今度いう。おやすみ」


 それからほどなく、寝所は、夜の気配で満ちていく。


 静かになると、遠くのほうから風が屋根を撫でていく音や、枝葉がこすれるかすかな音が響くようになる。どこかで誰かが話している声も、夜風に乗ってやってくる。


 互いの呼吸の音を聞きながら、高比古の腕にくるまれて、狭霧はうとうととしかけていた。


 でも、ある時突然、狭霧をぐるりと囲んだ高比古の腕がびくりと大きく震えた。


 震え方が尋常ではなかったので、狭霧にあった眠気はさっと遠のいた。


「どうしたの?」


 ぱっと顔を上げて高比古の顔を探すと、暗闇の中でもそうとわかるほど、高比古の顔が白くなっていた。


「今――水音が聞こえた」


「水音? 川の音のこと?」


 寝所が面する庭には川が流れていた。その水音は、今も夜の気配の中でさらさらと涼しげに響いている。


 高比古は、小さく首を横に振った。


「違う。たぶん、見つけた――」


「見つけたって? 何を――」


「違うな。おれが見つけたんじゃない、向こうにおれが、見つけられたんだ」


 狭霧は眉をひそめた。高比古の言葉も、妙に緊迫した気配も、妙だと思った。


「見つけられた?」


「御津だ。おれを、探してる。呼んでる――」



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