夢の裏 (1)


 朝、狭霧がふと気がつくと、額に温かいものが触れていた。頬には、ふう……と吐息がかかる。いつのまにか、頭の上には青年の腕が枕のように横たわっていて、もう一本の腕が、狭霧の肩をぐるりと囲んでいる。


 額に触れていたものは、その青年の額だ。


 抱きしめられたまま眠っていたんだ――と、自分たちの寝相の良さになかば感動しつつゆっくりと目をあけていくと、狭霧を囲む腕が背中に回って、もっとそばにと引き寄せた。


 狭霧は驚いて、青年――高比古の目元を探した。


「起きていたの?」


 木窓から射し込む光は、まだ淡い白色。夜が明けたばかりだ。


 高比古は狭霧の手をとって自分の腕に触れさせると、つぶやいた。


「眠れなかった」


「眠れなかったって、昨日の夜からずっと?」


「ああ、一睡もできなかった。しばらく、こうしていて。あんたがそばにいると思えば、落ち着くから……」


「――眠れそう?」


「わからない。でも、眠れなくても、気を休めてじっとしていれば、疲れた身体は元通りになるから」


「そうなの?」


「ああ。戦場じゃ、そうする……」


 目を閉じた高比古は眠っているように見えたし、すう、という安らかな響きは寝息に聞こえた。でも、狭霧が手のひらで髪や背中を撫でると、高比古はまぶたを閉じたままくすっと笑う。


 狭霧は手を止めて目を閉じ、精一杯自然な仕草ですう、すうと深く息を吐いた。高比古に眠り方を教えるように、眠っているふりをした。


(一晩じゅう眠れなかっただなんて、何か考え事をしていたのかな。御津のこと?)


 昨晩、寝つく前に、高比古はびくりと身体を震わせた。




 水音が聞こえた。おれを、呼んでる――。




 その時の仕草は、まるで何かに脅えるようだった。




 やがて時が過ぎて、離宮は目覚めの時を迎える。


 寝所へとやって来る侍女の足音がとんとんと響き始めると、狭霧はそっと顔を傾けて戸口を見つめた。


(ごめん、まだなの。高比古を起こさないで)


 戸口にかかった薦の奥に侍女のつま先が見えると、首を横に振った。


 そばでは、高比古が、すう、すうと寝息に似たものを吐いている。


 やってきた侍女は、ちらりと中を覗いて狭霧の目配せに気づくと引き返していくが、時が過ぎるにつれて朝は離宮に満ちていく。


 鳥の声が夜に鳴くものから夜明けに鳴くものへ、そして、昼に鳴くものへと移っていき、屋根を撫でる風の音がしだいに強くなっていく。山の離宮には、余すところなく朝の気配がいき渡った。


(気にしないで、休んで――ね?)


 目覚めていく離宮の中に眠りの気配を囲おうと、狭霧は懸命に寝たふりを続けた。


 でも、とうとうある時、高比古は目を開けた。


「……ありがとう。起きるよ」


「眠れたなら、もう少し眠ったら?」


「いいよ。少しは休めたし」


 高比古は、ゆっくりと首を横に振る。目は、まだ疲れていた。


「やっぱり眠れなかった?」


「ああ。でも、平気だ。きっと今晩は、今日の分も疲れて、ぐっすり寝るよ」






 一晩眠らなくても、高比古の様子はいつもと変わらなかった。


 冷たい清水さやみずで顔を洗って、洗ったばかりの白の衣に袖を通せば、いつも通りの彼だ。


「戦場にいけば、二日三日眠らないこともある。十日の間横になれなかったこともあるし、慣れてるから気にするな」


 高比古はそういって、離宮を出る支度を始めさせた。予定通り、次の目的地、山砦へ向かうためだ。


 口では平気だというものの、高比古は、ふとした時に目がくらんだようにまぶたを閉じたり、立ち止まったりする。


 旅支度を終えて一行が離宮の門に集まった時も、「ちょっと待て――」といって手のひらで目元を覆い、大岩の上に腰を下ろしたので、狭霧は慌ててそばに駆け寄った。


「やっぱり、疲れてるんじゃ……」


「疲れてはいない」


「強がりばかりいって。そんなふうには見えないわよ」


「本当に、疲れてるわけじゃないんだ」


 高比古は、ふうとため息を吐いた。そして、門に集った一行のうち、裾の長い風変わりな衣を身に着けた細身の男たちを自分のそばへ呼びよせた。集めたのは、事代ことしろと呼ばれる高比古の部下。高比古と同じく、霊威と呼ばれるものを身に備えて出雲王にかしずく出雲の術者たちだ。


 やってきた二人の事代は、名を紫蘭しらん桧扇来ひおうぎといい、狭霧とも馴染みの仲だった。


 大岩に腰掛ける高比古の足元に二人がひれ伏すと、高比古は尋ねた。


「おまえたちに訊きたいんだが――。何か、感じるものはないか。今ここに何か奇妙な霊威というか、なんというか――おれたちをたしかめようとしている存在はいないか」


「私たちをたしかめようとしている存在――ですか?」


 紫蘭と桧扇来は、小さな顔を上げて主の顔をぽかんと見上げた。


「紫蘭、きみは何かを感じる?」


「感じるといえば、ここには水と石の精霊が満ちていて、とても空気が濃いというか――重い風が、大滝や濁流みたいに四方から吹いているというか。桧扇来、きみはどうだい?」


「うん、私も同じだ。でも、それはここではなくて、奥の渓谷から流れてやってくる気だよ。ここより渓谷のほうがずっと濃くて強い。――高比古様、お尋ねになったのは、私たちをたしかめようとしている存在、ですか?」


 高比古は億劫そうに長い息を吐いて、うつむいた。


「――わかった。いいよ。おれの勘違いかもしれない」


 高比古が黙っているわずかなうちに、彼方から、ごろ……と遠雷の音が届く。そうかと思えば、天からぽつ、と雨の小粒が落ちてきた。


 集まった武人たちはさっと雷の音がした方角を向いた。


「雨だ……」


「高比古様、今日の出発はやめましょう。山の雨は時に災いを呼びます」


 供の武人たちが口々に申し出ると、高比古は少し黙って、つぶやいた。


「救いの雨か、それとも――」


 ため息をついて、高比古は、一行に出発の中止を命じた。


「わかった、出発は明日にしよう。――ん」


 高比古はうつむき、手のひらで目元を押さえた。当の本人がどういおうが、高比古はひどく疲れているか、目まいに悩まされているように見えた。


「あの、平気?」


 狭霧がそばに歩み寄ると、高比古は自嘲するような苦笑を浮かべた。


「まずいな。何かが、いるな」


「何か?」


 高比古は、事代という選ばれた者の中でも随一の力をもつ。普通の人の目には視えないものや耳では聴けないものを、難なく感じ取ることができる。


 狭霧は、周りの景色を見回した。しとしとと霧雨を降らせる煙霧のような雲が、山の頂きを覆い始めていた。だが、ここは山地。急の雨や、そのような薄雲は珍しいものではなかった。


「ここに、何か不思議なものがいるの? それって悪いもの? この雨は、怖い雨?」


「この雨が怖い?」


 高比古は真顔をして、じわりと笑った。


「雨は優しいものだ。へんなことをいって怖がらせたな。――戻ろう、狭霧。おれたちがここにいたら、ほかの連中がここを動けない。おれたちをさしおいて、先に雨宿りをするわけにいかないからな」




 

 早速立ちあがった高比古は、狭霧の手をとって門をくぐり、離宮の奥へと戻っていった。仕草は、自然だった。


 高比古とこうして心を通じ合わせる前、狭霧は、高比古はもっと女心に疎い人だと思っていた。不器用で人の想いに無頓着だから、世話を焼くべき娘がそばにいてもし損じることが多い、と。


 でも、一緒に暮らし始めてみると、高比古は思った以上に気配りが細かかった。


 今も、門から舘へ戻る間に狭霧が霧雨に濡れないようにと、自分用の肩布をひらりと頭の上に広げた。雨をしのげる木陰や屋根の下を通る時には、力強く手を引いて狭霧を内側におしやりもした。


「奥へいけよ。濡れるぞ」


「うん、ありがとう――」


 だから、狭霧はこんなふうに思った。


(まるで、前とは別の人みたい)


 高比古が優しいということは、少し前から気づいていた。


 彼の歯に衣着せぬ厳しい物言いや、裏表のない態度は、ある種の優しさの裏返しだ。それは、人を責める時も、気遣う時も、高比古がいつも真剣だからだ。


 妻問いを経て、彼の優しさを一心に受ける日々が始まると、時々、狭霧は海の底に沈みこんでいくような気分を味わった。


 こんなに幸せでいいんだろうか――。そんなふうに、かえって不安になった。


 高比古は、中庭の木陰で足を止めた。


「ここで雨宿りするか。どうせ舘に戻っても、雨あがりを待つのは同じだしな」


 狭霧を幹のそばに座らせると、自分は少し離れた場所に腰を下ろす。


 幾重にも重なった木の葉が雨露を遮る狭霧の居場所と違って、高比古がしゃがんだ場所にはぽつぽつと雨の雫が滴っていた。


「高比古、あなたこそ濡れるよ。こっちへ」


 狭霧は場所を譲ろうと腰を浮かせたが、高比古は苦笑して首を横に振った。


「わざとだよ。雨を浴びる場所に座ったんだ」


 首を逸らせて天を見上げると、落ちてくる雨粒の軌跡を目でたどる。


 雨に打たれながら、高比古は澄んだ微笑を浮かべた。


「雨は無垢だな。何か知っているかと尋ねても、何も知らないといって、ものを濡らして遊ぶだけだ」


「雨が、無垢?」


 狭霧はぽかんと唇をひらいた。


「高比古、もしかして、雨の……精霊っていうのかな、そういうものと話をしてる? その、霊威を使っているの?」


「ああ、そうだ。霊威を使っているかどうかは知らないがな。実をいうと、おれは霊威が何かっていうのがよくわかっていないんだ。これが妖かしの技といわれようが、こうやって人ではないものと話すのは、おれにとって普通のことだから」


「今ここに、そういうものはたくさんいるの? その、さっきいっていた『何か』っていうものもいる?」


 高比古は片膝をかかえてため息をついた。


「この離宮は精霊だらけだよ。だから、気が心地いい。さっきおれがいった『何か』もここにいるよ。いるというか、片鱗がここまで伸びているというか」


「片鱗?」


「事代が精霊と呼んでいるものは、普通、小さいんだ。大きくても、せいぜい舘一つ分くらいだ。だから、おれがさっきからいっているそれは精霊ではないと思う」


「高比古がいっているものが、とても大きいから?」


「ああ。小さく見積もっても山一つ分はある」


「山一つ分……!」


「おれの様子をうかがっているのは、そいつの尾の端というか、爪の先というか髭の先というか……。そいつがどんな姿をしているのか知らないが、とにかく、ほんの端の部分だ。こんなに大きな精霊は会ったことがない。いや、子どもの頃から毎日話をしていたものたちに『精霊』という呼び名があったことも、おれは出雲に来るまで知らなかった。知らない何かがほかにあったところで不思議はないんだが」


 高比古の額や頬は小雨でじわりと湿って、前髪が肌にはりついていく。


 濡れていく髪や肌が、狭霧は心配になった。


「高比古、もう木陰に入ったら? 風邪をひくよ」


「そうするかな」


 声をかけると、高比古は雨に別れを告げるように再び天を仰いで、笑顔を浮かべた。


 それが、雨への別れの挨拶だったのか――。


 高比古が木陰に入ると、狭霧は借りたままにしていた肩布を差し出した。


「髪を拭いて。濡れてる……」


「これくらい、いいよ。それはあんたがもってろ。肩から羽織っておけよ。雨が降ったら、すこし冷えた」


 高比古は雨に濡れた自分よりも狭霧を案じて、結局、肩布を受け取ろうとはしなかった。


 その肩布は、紫色の染め糸で縁刺繍がほどこされていた。高位をもつ青年の持ち物にふさわしい凛々しく品のいい縫い模様で、狭霧のもとに届けられる若い娘のための品ではない。


 男物の肩布でぐるりと身を包んでいると、むしょうに胸が急いた。それは自分のものではなく、そこにいる夫、高比古のものだと、そう思うと――。狭霧は高比古の胸の内を案じて仕方なかった。


「ねえ、高比古。その、大きな精霊って、もしかして――」


 小声で尋ねると、高比古は顎を下げて、目を伏せた。


「ああ。御津だ」


 高比古は、腕に抱えた膝頭に額をつけた。


「御津っていうのを、おれは『聖なる水辺』っていうか、どこか〈場所〉のことだと思っていたんだ」


「場所?」


「ああ。出雲の神野くまのや、阿多の笠沙かささみたいに、人から聖地と呼ばれる場所じゃないか、と。でも、どうやら違う」


「違う? じゃあ……」


「そいつはおれを見つけて、見張ろうとしている。意思をもって、好きに動いている感じがする。……わからない。そんな気がするだけで、ちょっとばかり不思議な、ただの地面なのかもしれない。結局、おれに扱い切れていないだけだ」


 高比古は何度目かのため息をつく。


 でも――。しだいに狭霧は、高比古の態度が不思議だと思った。


 高比古は、御津に対して不満をいうことがなかった。前に高比古が御津という名を口にした時は、ぶつぶつと文句をいっていたのに。


(あれはたしか、遠賀おんがだった。高比古を追いかけてきた日女ひるめと高比古が言い合いをしていた時だ)


 前に「御津」という言葉が絡むやり取りをしたことを思い出そうとすれば、狭霧が一番覚えているのは、高比古がひどく不機嫌だったことだ。




『あなたは、次の王たる若者。出雲の母神に必ず気に入られる。それに、あなたは力ある事代。力の契りを交わせば、今お持ちの力に加えて、巫女の力も手に入るのですよ?』


『巫女の力? 興味ない。――だいたい、出雲の母神っていったいなんだ? おれはよくわからないし、それに、おまえたちが崇める女神に気に入られる気なんかない! 面倒くさいことが起きそうな気がする――!』


『でも、大巫女はあなたが巫王になると予言を。御津という地に、その鍵があると……』


『だから、御津ってなんなんだ? だいいち、慌てて来るようなことなのか!? ……いい、わかった、なら気をつける。だから、さっさと神野に帰れ!』




 その時の高比古は、日女を追い返そうとした。


 でも今、高比古にその時ほど御津というものを疎んでいる様子はない。むしろ、恭しいものにかしずくように、まだよくわからぬその言葉に敬意を払い、遠慮していた。


 それはなぜか、狭霧を不安にさせた。


「ね、ねえ、高比古。そうだ、湯屋にいってきなよ!」


「湯屋?」


「今日の出発がないなら、身体をあっためて休んでおけばいいよ。身体がぬるまったら、きっと眠気もくるよ。それで、早めに寝床に入ろう? 明日こそここを出るんでしょう?」


 胸の焦りにおされて、狭霧は高比古をこの場から連れ去ろうとした。山という緑の壁に囲まれた野天の庭――精霊というものが大勢いるというこの場所から――。


「湯屋か。そうだな」


 高比古は笑った。でも、どこかぼんやりとしている。


 高比古は、狭霧の手が届くほど近くにいた。でも、普通の人には見えないものを難なく視る彼の目は、ここではない別の場所を探して見つめている――そんな気がしてたまらなかった。






 翌朝になっても、状況は変わらなかった。


 結局、高比古は一睡もせず、眠りに落ちることはなかった。


 眠気に任せて、意識が遠のくことはあるのだという。でも、もうじき眠りにつくという間際になると、決まって高比古はびくりと震えて、狭霧を抱きすくめた。


「……どうしたの?」


「今――。なんでもない……」


 狭霧はその都度尋ねたが、高比古は言葉を濁した。


 小窓から漏れる朝の光が濃くなっていくのを、高比古は恨めしげに眺めた。


「このままじゃ駄目だ」


 高比古は覚悟を決めて、離宮の出発を決めてしまった。


 行き先は山砦ではなく、阿伊からさらに奥にあるはずの聖なる地だった。


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