殯宮 (2)
「では、私がいってまいります」
名乗り出た武人が、馬にまたがって一行のもとを去りゆこうとする時。日女が、しめ縄を編んでいた手を止めて、天の方角を見上げた。
「何か、来る――」
「手を止めないでくれよ。あなたがその神具とやらをつくらないと、我々は次へ進めないのだろう?」
「ま、まあまあ、八重比古さん。それより、日女、何かって――?」
不機嫌に咎めた八重比古を宥めて、狭霧も、日女の目が向く方角を見た。
そちらは東の方角で、
「――」
日女は茫然として、身体が固まったように身動きをしなくなった。
「何かあるの? わたしには何も見えないんだけど……」
狭霧がさらに目をこらした時、ぐいと腕が引っ張られる。高比古だった。
「いやだ」
狭霧の腕を掴んだ高比古は、立ち上がると、進んできた方角へ向かって飛び出そうとした。
「ちょ、ちょっと!」
狭霧がそうはさせまいと力を込めても、高比古は聞く耳をもたない。狭霧を引きずるようにして道を逸れ、草むらに入った。
「いやだ。会いたくない」
「会いたくないって、誰に? 待って、高比古、待ってってば――!」
高比古の足が緑の野に入ると、日女が目をむいた。
「おやめください、高比古様。私の結界を一歩でも出たら……武人ども、高比古様をおさえろ!」
「偉そうに――」
八重比古はぶつぶつといったが、結局日女に従って、高比古の進む方向へ先回りをすると、両腕を広げて立ちはだかった。
「高比古様、どうなさったのです。あの巫女のもとを離れてしまっては、まずいようです。みな、手伝え!」
武人たちは、総出で高比古を取り囲み、押さえた。
騒動が目に入ったのか、馬に乗ってその場を離れていた武人までが戻ってきて、高比古を押さえる輪に加わる。
「放せ!」
高比古は暴れ続けて、押さえつける腕の隙間から飛び出ようと手足を動かす。
高比古の半身が何度か輪の外へ飛び出そうになると、日女はため息をついて嫌味をいった。
「何人がかりだと思っているんだ? 武人なのだから、腕っぷしくらい自信があるのだろうが。不甲斐ない――。すぐさま高比古様を私のそばにお戻ししろ。そうしないと、高比古様は、〈御津〉の化け物に食われるのだぞ?」
「食われるだと? ということは、〈御津〉というのは化け物なのか!」
「どうでもいい。人は、自分にとって都合がよければ神、不都合なら化け物と呼ぶものだろうが? 私は知らんし、あれが神だろうが化け物だろうが、どちらでも構わん。食われるといったが、食われると思うかそうでないかも、どうでもいい」
「投げやりな……なんて巫女だ」
文句の応酬とばかりに、八重比古は不満を訴える。
そして、それまで以上に高比古を囲いこむと、草むらの中でじわじわと追い詰めて、高比古の足を道の上へと戻した。
「高比古様、どうなさったのです。お気をたしかに――!」
狭霧は、腕を高比古に引かれていたものの、武人総出のもみくちゃの押し合いで、いつのまにやら輪の外に押しやられていた。
「もう、なんなのよ」
あちこち引っ張られてよれた衣を直し、崩れた横髪を耳にかけ――。狭霧は、日女を探した。
いまや日女は、騒ぎから目をそむけて、東の空を見つめている。
狭霧は、そばに歩み寄った。
「ねえ、何が来たの? どうして高比古があんなに脅えているの? 厄介なものが来るの?」
「おまえに話して、どうにかなるのか?」
日女は冷笑したが、日女のこういう態度に狭霧はもう慣れていた。
「それは、どうにもならないわよ。でも、高比古があんなに脅えているんだもの。ここから逃げ出したくなるほど苦手なものが来るなら、わたしは、あなたを振り切ってでも高比古と一緒にここを離れるわよ」
狭霧は口調を強めた。
「ねえ、教えて。いったい何が来るの? 高比古があんなに嫌がっているのよ? 教えてもらえないなら、わたしは高比古を信じて、あなたから離れるほうを手伝うわ」
不機嫌にいった狭霧へ、日女は小首を傾げてみせた。
「なぜ高比古様が脅えているか? 知らん」
「――知らないって、無責任ね。じゃあ、いったい何が来るのよ」
「べつに、脅えるようなものではないと思う。神野の大巫女だ」
狭霧は、天を見つめて眉根をひそめた。
「神野の大巫女様?」
日女の目が見つめる方向には、はじめ何も見えなかった。しかし、じっと見つめていると、しだいに薄青の春の空には、鳥の群れに似た陰りが現れ始める。烏や雁など、大型の鳥の群れに見えたが、近づいてくるにつれて、もっと小さなものの集まりだとわかる。陰りをなしているのは、
黒の陰りとなったもやの塊は、ゆっくりと天を駆けてくる。
さらに近づいてくると、蝙蝠や羽虫とも違うことが、狭霧の目にもわかった。
まず、色が違った。そのもやは暗い色をしていたが、黒ではなく、赤黒かった。
狭霧は、はっと息を飲んで視線を落とした。目がいったのは、日女の腰元。そこには、拳大の小さな壺が結わえられている。
(あれは、この壺の中身だ。血だ――)
日女は眉の上に手で笠をつくって、やってくる赤黒いもやを見つめていたが、ある時、奥歯をぎりと噛んだ。
「人を運んでいるな。――須佐乃男だ」
「えっ、おじいさま?」
狭霧も、眉の上に手のひらを重ねた。
目を凝らすと、赤黒い色をした小さなもやの中に人影があるのが見える。人影は二つあり、一人は身体が小さく、長い裳をなびかせている。一人は身体が大きく、腰にきらりと輝く鉄の塊――剣の鞘を提げている。
日女は、やってくるもやから目をそらすと、忌々しげにいった。
「また、鹿が一頭死んだな。いや、二人運んでいるんだから、二頭か」
「えっ?」
「哀れな――くそじじいのために殺されるなど」
「――えっ? くそじじいって、それ、もしかして、おじいさまのこと?」
須佐乃男は出雲の賢王と呼ばれ、出雲だけにとどまらず、近隣諸国でも勇名を誇る老王だ。
今の王、大国主と彦名すら一目置く老王のことを、そんなふうに呼ぶなど――。
狭霧は耳を疑ったが、日女はかえって不機嫌にいった。
「それ以外に誰がいる? 大巫女のことを呼ぶなら、くそばばあと呼ぶだけの見識は私にもある。大巫女は女で、くそじじいではないからな」
「見識とか、そういう問題じゃなくて……」
「くそじじいをくそじじいと呼んで、何が悪い? もういい、おまえのじいさまがしゃしゃり出てきたからな、私は知らん」
「ちょっと……知らないって、日女――」
「知らんものは知らん」
「日女!」
日女はへそを曲げてぷいと背を向け、高比古が武人に取り囲まれている道の端より、さらに奥への草むらへ遠ざかってしまった。
「武人ども。もう高比古様を道へ戻さずともよい。いまは私がここにいるし、これからは、大巫女が高比古様をお守りするはずだ」
日女は渋々といい、草むらの上に腰をおろしたかと思えば、ばたんと足を投げ出す。
「ねえ、ちょっと、日女」
日女を目で追い、それから八重比古たちに囲まれる高比古を見て、やって来る赤黒いもやを見て――狭霧は、肩を落とした。
「いったい、なんなのよ――」
そのうちにも、赤黒いもやは天を滑りつつやってくる。近くに見えるようになると、たしかに、もやの中にある姿は、須佐乃男と神野の大巫女のものだった。
やってくる奇妙な靄を見上げて、八重比古たちはぽかんと口をあけた。
「空を飛んで、いらっしゃった……?」
狭霧も同じ思いだった。
「鹿の血――っていうことは、もしかして、日女もああやってここまで来たの?」
しかし。日女はすでに、われ存ぜぬという風に背を向けて、知らんぷりを装っている。
「もう……」
日女の態度に呆れつつも、狭霧は一行の先頭に立って、やって来た祖父を出迎えた。
野に降り立つと、須佐乃男と大巫女を包んでいた赤黒いもやは、ふっと泡がはじけるように小さく分かれて、強く吹いた一陣の風にそよがれ、薄れていく。
地に足がつくと、須佐乃男はつま先を浮かして、一行のもとへ近づいてきた。
「おじいさま、あの、高比古が大変なんです。実は……」
なぜ、祖父がここにやってきたのか。空を飛んで山を越える奇妙な術は、神野の神威となのか?
尋ねたいことは他にもあったが、まずは経緯を説明しようと、狭霧は一歩を踏み出して、祖父に話しかけた。
須佐乃男は狭霧と一度目を合わせたが、すぐに目を逸らして、そばを通り過ぎた。
「狭霧や、おまえの話は後で聞こう。わしも大事な話がある。高比古はどこだ?」
狭霧のそばをすり抜けた須佐乃男の目は、八重比古たちに囲まれてうずくまる高比古を向いていた。
とうとう、お咎めか――。そこにいた全員がはっと息を飲み、広々とした野原が、しんと静まり返った。
ざ、ざしゅ……と、須佐乃男の
須佐乃男が足を進めるたびに、八重比古たち、高比古を囲む武人は、一人、また一人とそこを離れて場所を譲っていく。
人々が固唾を飲んで見守る中、須佐乃男はまっすぐに高比古のもとを目指し、真正面までいくと、そこで歩みを止めた。
須佐乃男が目の前に立っても、高比古は居心地悪そうにうつむくだけで、目を合わせようとしなかった。
須佐乃男は高比古をじっと見下ろし、尋ねた。
「神野が、出雲の女神からの神託を得た。おまえも、何か聞いたか? 神野の大巫女は、神はおまえに何かを伝えたと聞いたそうだ」
高比古は、答えない。唇を動かそうとすることもなく、ひたすらうつむいた。
須佐乃男は、一度肩で息をした。
「――わかった。そういう時もあろう。神託の話を聞きたかったが、今はいい。しかし――」
須佐乃男は、夢の中をさまようような今の高比古を許した。しかし、冷ややかな氷の拳で殴りつけ、手ずから現実に引き戻すように、須佐乃男は事実を伝えた。
「いま、どうしても報せなければならんことがある。――意宇の事代が、急報を伝えた。穴持の軍が、敗走している」
その瞬間、高比古の顔がさっと上を向いた。まばたきを忘れたように、目は見開かれた。
須佐乃男は、表情を変えなかった。老王は淡々と告げた。
「事代が伝えるには――穴持が持っていった戦船はすべて失われたらしい。しかし、兵の大半は生き残っており、陸路で出雲に向かっている。――奴らを、一人残らず出雲へ戻せ。急務だ」
「まぁた、くそじじいが出しゃばりやがって……」
日女は、ぶつぶつと文句をいい続けた。高比古の身を守る役が日女から奪われ、大巫女に託されることになったからだ。
日女の態度は悪かったが、須佐乃男も神野の大巫女も、咎めることはなかった。神野の大巫女などは、日女のことなど目に入らないとばかりに無視をして、淡々と準備を進めた。
神野の大巫女の腰には、日女のものとほとんど同じ形の拳大の小壺が結わえられている。中に入っているものも同じで、大巫女が壺の封を解いて中に指をさしいれると、指は、ねっとりとした赤黒いものをすいくとった。血だ。
赤く染まった指が、大巫女の頭上でさっと一振りされる。すると、指の先から霧状のもやが生まれて、一面に散る。それを何度か繰り返すと、もやは、人の身体を包みこむ大きさにまで膨らんだ。
血の色のもやで包まれたのは、神野の大巫女と、須佐乃男、高比古、狭霧の四人。
もやの中にいる狭霧から見ると、上下左右が赤黒く濁ったもので覆われていくのは、不気味な姿をした檻に囲われていくようで、少々心もとない光景だった。
「わぁ……」
思わず、高比古の衣にしがみついた。しかし、高比古は、さっきまでの逃げ腰がうそのように、自分の仕事に没頭している。目を閉じ、小刻みに震える唇からは言霊が漏れ聞こえた。
初めの音を立てて、四人の身体を包んだ赤黒いもやが、上空に浮かびあがる。
滴のもやという手ごたえのないものに乗って宙に浮き、進み始めたが、奇妙なことに、浮いている感覚はなかった。足元がおぼつかなくなることもなく、ただ、もやの向こう側でびゅうびゅうと唸る風を、もやの中ではいっさい感じることができないのが不思議だった。
「すごい、風に乗ってる――高比古……」
悲鳴混じりに、狭霧は高比古の腕にしがみついた。
でも、高比古は答えない。まぶたを半分閉じて、心ここにあらずというふうにぼんやりとしている。狭霧の声に気づく様子もなかった。
ふと、狭霧を諭す女人の声があった。
「話しかけようが、むりだよ」
高比古を挟んだ向こう側から狭霧を覗きこんでいるのは、神野の大巫女。齢は五十半ばとの噂だが、肌に目立った皺はなく、齢よりずっと若く見えると狭霧は思った。いや、その女人は、もともと実の齢を感じさせない顔立ちをしていた。
神野の大巫女は、日女と同じ神野風の姿をしていた。目尻に朱色の化粧をほどこし、丁寧に洗われた純白の衣装を身につけて――。
大巫女は、朱で彩られた唇の両端をわずかに吊り上げて、笑った。
「〈
大巫女の言い方は、判じものの問いかけをするようだ。
言葉ではなく雰囲気で、狭霧はなんとなく意味を解した。しかし、納得する気はなかった。
(なによ、わかりにくい言い方をして――つまり、高比古が〈命〉だっていいたいのね? 〈命〉は出雲の王で、女神の夫になる人だって、日女が前にいってたっけ。だから高比古は今、わたしを見ないんだって、そういいたいのね?)
狭霧は、高比古の衣を握る手に力を込めた。
「わたしは、高比古に命じているわけじゃありませんし、高比古の名前は〈命〉じゃありません。それに、高比古がいずれ〈命〉と呼ばれる出雲の王になるにしても、王には、いろんな人がいるはずです。高比古が、あなたがおっしゃる通りの人になるかどうかは、まだわかりません。高比古だって、そういうと思います」
応戦するように答えると、大巫女は驚いたといわんばかりに口を大きくあけて、笑った。
「そなたは、両親にそっくりだね」
狭霧はむっと眉をひそめた。
「答えになっていません」
大巫女は、それ以上口をつぐんだ。しかし、意味ありげに微笑んで狭霧を見つめている。
狭霧は、ふいと目を逸らした。狭霧のほうも、これ以上あえて追及して、答えを求める気は起きなかった。
(へんな人。つんとして、わけのわからないことをいうところは、日女に少し雰囲気が似ているけど――)
日女は、巫女の神威という狭霧にはよくわからない力をふるう巫女だ。しかし、長く一緒にいてみると、ただ奇妙な娘というよりは、ずけずけと子供っぽいわがままをいったり、ふてくされた仏頂面をしたりもする、童女のような娘だった。
思う存分つむじを曲げる日女の顔が脳裏に浮かぶと、狭霧はため息をついた。
(似てないか。日女のほうがよっぽどかわいいわよ。あの子は、なんていうか、素直な感じがするもの。自由というか――)
思えば、日女には、身分や血筋など、ふつう人を縛り上げるものからいっさい束縛されていない、気ままな雰囲気があった。
それから、日女と初めて会った時のことを思い出した。
その時、狭霧の目に日女は、ただ怖い娘としか映らなかった。妙なことをいって高比古を追い回しては、狭霧や、高比古の妻、心依姫を敵視する妙な巫女だと――。
今、狭霧は、その時ほど日女のことが苦手ではない。それが、不思議だった。
(付き合ってみないと、人ってわからないものね……。あんなに苦手だと思っていたのに、今はもう、どうして苦手だったのかも思い出せない――。それに……)
もう一人、別の娘のことを思い出して、狭霧はひときわ重いため息をついた。
(前は、苦手だと思ったことは一度もなかったのに、今は、会うのが怖い……。心依姫は、わたしを恨んでいるだろうなあ――。自業自得だっていうことは、よくわかっているけれど)
やがて、山をいくつか飛び越えると、青色をした水平線が見えてくる。海ぎわに広がる
意宇の野に広がる都に近づくと、薄青の天を進んでいた赤黒いもやは降下をはじめる。
空の旅が終わりに近づいた頃、それまで息を止めたかのように黙っていた高比古が、ようやくぶりに長い息をした。
「佩羽矢を、見つけた……」
声を聞いてほっとしたのもつかの間。狭霧は、血相を変えて尋ねた。
「佩羽矢さん? ――とうさまといる? 安曇や、みんなは?」
高比古は狭霧を向くと、笑みを浮かべた。
「みんな無事だ。これからも、無事だ。おれが、全員を出雲へ連れ戻す」
高比古は、ゆっくりとした動きで背後を振り返った。そこには、須佐乃男が立っている。
「今、大国主の軍にいる佩羽矢の目と耳になって、向こうの様子をうかがいました。大国主の軍は長門の都を出て、出雲を目指しています。――それで、おれを届ける先は、意宇ではなく、杵築にしてもらえませんか? 杵築で援軍を組み、支度が調い次第出立して、大国主と合流し、杵築へ戻します」
「よかろう」
一通りのことを告げ、今後のことが決まると、高比古は黙った。それから――用心深く言葉を選びながら、話を続けた。
「お伝えしなければいけないことがあります。大国主が船団を失ったのは、長門が裏切り、大和の側についたせいのようです。そのため――長門が滅びました」
「え?」
狭霧は、目をしばたかせた。
須佐乃男は、無言のままじっと高比古を見つめた。
白い頬を下げ、高比古がうつむく。まつげで瞳が隠れるほど目を伏せると、高比古は小声でいった。
「長門は、大国主によって滅ぼされました。しかし、それ以上に考えなくてはいけないことが多くあります。たとえば、引島や――」
高比古がすべてをいい終えるより先に、須佐乃男はじわりとうなずいた。
「わかった。まずは、穴持を杵築へ戻せ。話は、それからだ」
高比古は、うなずいた。
「はい」
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