殯宮 (1)


 神岬で出雲軍を取り囲んだ大和の船団は、一旦西の海へと居場所を移したが、戦地に残した窺見から、出雲軍が長門を去ったという報を得ると、数隻だけの小さな船団で再び神岬に戻り、上陸した。


 一行は近隣の浜里へ寄り、主のために馬を借りたいと願ったが、浜里の民は震えあがってなかなかいい返事をしない。業を煮やした大和の武人は、浜の民を打ちすえた。


「ここにおられる方を誰だと思っているんだ! 大和の日嗣ひつぎの御子、様だぞ。身に余る誉れとして、ひざまずいて馬を貸せ。鞍をつけよ!」


「し、しかし、出雲に逆らえば、大国主が……! どうかお許しください!」


「出雲の武王のことなど、気にしなくてよい。出雲は今に大和にかしずくようになる。大和の次期王であらせられる、邇々芸様の手助けをできることを喜べといっておるのに――」


「しかし、裏切りは許さないと、出雲の死神が……」


「ええい、しかし、しかしとうるさい奴め!」


 結局、その武人は里者の手から手綱を奪い取った。


 その様子を、少し離れた場所から遠目に見つめる青年がいた。青年の名は穂耳ほみみといい、鮮やかな鬼灯ほおずき色の衣を身につけていた。穂耳のそばには、彼の主、邇々芸がいたが、邇々芸が身にまとう衣は純白をしていたため、二人で並ぶとどちらの色も引き立って、白も橙も際立って鮮やかに見えた。


 穂耳は、ちらりと邇々芸を見やった。


「長門の民が脅えていますね。西側の里では我々の介入を喜ぶ者が多かったのに、これでは、やりにくい――」


「そのようだな。――馬が来た」


 部下の武人が、馬を連れてやってくる。手綱をひかれた馬がそばまで来ると、邇々芸はひらりと鞍にまたがり、一行に出発を促した。


「いこう。長門の王宮がどうなったのか、この目でたしかめたい」






 長門の王宮は、神岬の浜から、少し奥に入った場所から続くくねった坂道を登り切った先、海が見下ろせる高台につくられていた。


 長門を大和の友国に引き入れるのは、邇々芸にとってもっとも大事な役目の一つだった。


 邇々芸は、その王宮をこれまでにも訪れたことがあったが、久しぶりに訪れた長門の王宮は、様変わりしていた。


 王宮へ続く坂道は、大勢が通ったせいで周囲の草地が踏み荒らされ、ばらばらになった鎧の一部や折れた矛の柄などが、方々の草陰に散らかっている。


 荒れ果てた王道を進んでいくと、焦げ臭いにおいが漂う。王の丘の木々の幹に焦げ跡が目立ち始め、さらに進んでいくと、焼け落ちた門の梁や、押し倒されて地面に横たわる防壁であっただろう木材など――真っ黒になった館の跡が現れる。


 邇々芸は手綱を操り、残骸となった門の前で馬の足をとめた。


「惨状、という言葉がふさわしいな」


「はい、邇々芸様」


 隣を歩く穂耳は、真顔を崩さなかった。部下を見下ろして、邇々芸は苦笑した。


「たった一日で一国の王宮を炭にするなど――さすがは出雲の大国主、といったところか。それで、長門の王はどうなったのだ」


「長門王とその一族は捕らえられ、その日のうちに刑に処されたとか」


「敵に寛容なあの出雲が、そこまでするとは珍しい。つねなら、後継ぎを奪って終わるのに」


 くつと、邇々芸は冷笑した。


「どう思う、穂耳。大国主がそこまでしたのは、友国の兵に囲まれて逆上したからか?」


「そう思っている民はおりましょう。あなたは、違うと?」


「違うだろう。これは、見せしめの制裁だ。長門と同じになりたくなければ、今後いっさい大和と関わるなと、他の国々に伝えたのだ。『大和に寝返った長門は、大国主の怒りをかって、その日のうちに滅びた』。これほど強い警告があるか?」


「大国主は、こうなることを見越したと? 考えすぎでは――」


「どうあれ、結果はそうだ。さっきの浜里の民を見ただろう? 大国主は、出雲と関わりのある国すべてに、恐怖を植え付けた」


「しかし、大和の船団が出雲の船団と相対した時、出雲が長門のみを敵とみなして戦い始めるまで、そう長い時はかかりませんでした。あなたが今おっしゃったことが事実だとすれば、あの短かな間に算したということ。そうであれば大したものですが、どうでしょうか。やはり、逆上したのでは――。おや……」


 穂耳は目を細めて、王宮の奥、中央あたりをじっと見つめた。


 そこには黒焦げになった柱や、焼け落ちた屋根の隙間に、伐られたばかりの枝や藁で覆われた真新しい屋根が見えていた。


「なんでしょうか。新しく造られたようですが」


 眉の上に手の笠をつくった穂耳に、邇々芸は馬上から教えた。


「屋根に、神具がついているのが見える。殯宮もがりのみやだろう」


「――弔いの場ですね。長門王のためのものでしょうか」


「おそらく。――いこう」


 邇々芸は、あぶみに乗せた足で馬の腹を蹴る。馬が歩き始め、炭色になった王宮に、蹄の音をかつ、かつと響かせた。


 壊れ果てた屋根や柱の奥には、大勢の人がいた。ほとんどが耕民で、異国風の身なりをする邇々芸が、穂耳や警護の武人に添われて王宮にやって来たことに気付くと、彼らの顔はさっと気色ばんで、焦げた柱の陰に身を隠した。


 しかし、邇々芸たちが大和の一行だとわかると、物陰からじわじわと顔を出して手仕事に戻り始める。隠れはしないものの、耕民たちは、居心地悪そうにちらちらと邇々芸の一行の動向を気にした。


 歩きながら、穂耳は主の盾になるようにすっと馬へ寄った。


「警戒されているようです――あまり近づきすぎないように」


 しばらく進むと、荒れ果てた王宮には農夫だけでなく、館衆らしい身なりをした男の姿もちらほらと見え始める。館衆の男たちが邇々芸の一行をあらためる目は、際立って厳しかった。身を隠した物陰からそろりと出てくると、いぶかしげに様子をうかがっている。


「恨まれているのでしょうか。武王と戦うように長門をそそのかしたのは、あなたですから」


「僕が出雲者でないとわかって、ほっとしているのではないか? それに、話に乗ったのは長門で、長門が僕に興味をもったのは、連中の前に立ちそびえていた出雲の霊威を暴いた大和の霊威にひれ伏したからだ」


「そうであれ、今、長門の民は出雲の武力にひれ伏しているでしょう」


「そうかな。窺見の話では、長門の王族や兵、それから館衆は、大勢浚われたらしい。そこまでされては、ここにいる連中は武王にかしずくより逃げるほうを選ぶはずだ。――見ろ、ここで、出雲軍の目を盗んで長門王の殯をするほど、王に忠誠心をもつ者たちだぞ?」


 長門の館衆や農夫たちは黙々と手を動かし、焼け焦げた柱の陰から使えそうなものを集めたり、王宮の中央に建つ殯宮に出入りをしたり、黙々と仕事に励んでいる。人が歩いた足跡の上に砂が舞い上がったり、木材が動いたりする音が響くだけで、人の話し声はなく、そこは荒れ果てた光景と同じく、寂しく静かだった。


 しかし、ある時。うぎゃああ、と甲高い童の声が響く。


 童は殯宮の中から外に連れ出されたところで、火がついたように泣いていた。童の齢は五つ、六つくらいで、身にまとうのは淡い紫色に染められた品のいい長衣。そばには侍女か乳母らしき女が数人付き添い、小さな背中をよしよしとなでている。


「穂耳、あの童に見覚えがある。あれは長門王の孫、世継ぎの御子だな」


「そのようですね。世継ぎの童は生き残ったのですね。祖父王と母君の弔いに来ているのでしょう」


「ふうむ」


 邇々芸は手綱を操ると、進む向きを変えた。


 殯宮から遠ざかり、少し進んだところで足を止める。


 そこからは、弔いの光景を一望することができた。真新しい殯宮の前で泣きじゃくる御子のそばには侍女や館衆も大勢いて、地面に膝をつき、涙している。


 遠目に眺めて、邇々芸は馬上でぽつりとつぶやいた。


「穂耳、大国主は、なぜ御子だけ残したのだろうな」


「うまく匿われて、逃げおおせたのでしょうか」


「それで、今もここで難を逃れているというのか? 僕なら、草の根を分けても探し当てて息の根を止めるが。どちらにせよ――大国主は、詰めが甘いなあ」


 邇々芸は、鳥の羽根のように柔らかな印象のある眉をひそめて、苦笑した。


「穂耳、僕が世継ぎの御子を守りたいといっていると、連中に話してこい」


「はい」


「長門の滅びは、出雲への恐怖と忠誠を諸国に生んだ。しかし、今回のことで、かえって出雲に反感をもった国も少なくないだろう。あの御子は、大和の外里で大切に育てることにしよう。いずれ、出雲の滅びを願う立派な棟梁になろう」


「御意」


 軽くうなずいて、穂耳は殯宮のほうを向き、足を浮かせた。


 一歩踏み出すが、振り返ると、馬上にいる主の顔を見上げた。


「そういえば、神岬に捨てられた出雲の船はいかがしましょう」


「出雲の船? そんなものはすべて焼いてしまえ」


「焼け崩れたものもありますが、半数はほぼ無傷で浜に上がっております。こちらで使うという手もありますが――」


「連中の使い勝手のいい船が残っていれば、連中には奪い返すという考えも生まれよう。その道を閉ざすべきだ」


「はい」


 穂耳は従順だった。真顔をぴくりとも揺らさずに淡々とうなずく。


 邇々芸は微笑んだ。


「先日、船団で出雲の軍を囲んだのは、我々の存在を知らしめるためと、連中の足元に楔を打ち、その足を止めるためだ。連中は、引島で何かが起き、出雲の西の海の絵地図が変わったことに気付いただろう。連中をこのまま自国に孤立させ、交渉に持ち込もう。我々に有利な交渉に、だ」


「はい、邇々芸様」


「もはや、剣は要らない。このままでは危ういという混乱の芽を育てて、大国が内から崩れていくのを待てばよい。連中が伊邪那いさなを潰した時と、同じ方法をとればよいのだ」


「伊邪那、ですか」


「ああ、そうだ。我が母の祖国、伊邪那が音もなく滅び去ったのは、出雲の奸智のせいだ。あの時のように、難を逃れたいと願う民の心がほうぼうに傾いて、内側で争い、自滅の道をたどればよいのだ。――出雲への使者をたてよ。そうだな、三雷みかづちがいい」


 三雷という名が出ると、穂耳は背後を向いてその男に呼びかけた。


「三雷、お呼びだ」


 三雷という男は、邇々芸の守護を任された武人の一人だった。顎に黒髭を生やしており、鎧を身にまとうと小さな鉄山のようにも見える大男だ。


 三雷が邇々芸がまたがる馬のそばへ歩み寄り、主を見上げると、邇々芸は命じた。


「引島に戻って、あそこで番をしている杼甫子ひぼことともに、機を見て出雲へ向かえ」


「はっ」


「持ちかける話は、二つ。武王の娘と、佩羽矢に会いたいといえ」


 三雷は太めの黒眉をひそめた。


「武王の娘と、佩羽矢――ですか。耳慣れない名ですが、佩羽矢とはいったい何者です?」


「佩羽矢は、僕がかつて阿多への御使いを命じた大和の民だ。今は出雲にいるそうだが、よもや出雲のすべての者が、佩羽矢が味方についたと信じきっているわけではあるまい。佩羽矢を疑う者は、彼をひきこんだ武王を疑うようになる。それで何も起きなくとも、佩羽矢の名を出して、おまえが出雲を去るまでに不和の種をまけばそれでよい」


「はあ、なるほど――?」


 答えるものの、三雷が首を傾げるので、邇々芸はくすりと笑った。


「小難しい顔をするな。腑に落ちないなら、杼甫子に任せてよい」


「はあ、杼甫子様に――わかりました。では、武王の娘とは――もしや……遠賀で邇々芸様のおそばにいた、あの娘ですか?」


「ああ、そうだ」


 邇々芸は顎をあげ、青色に澄んだ空を見上げた。


「武王の娘で、名は狭霧姫。その姫に、僕が会いたがっていると伝えてくれ。おそらく出雲王の彦名や須佐乃男は、意味を解するだろう。これまで連中が繰り返したことと、同じことを申し出ているのだからな」


「とはいえ、もしや、邇々芸様――妻問いをなさるおつもりですか? その姫はたしか先日、出雲の策士という若者と婚儀を済ませたのでは――」


「ああ。須佐乃男と大国主の血を引くその姫は、次の武王といわれる男の后になった。だから、面白いだろう?」


 天の薄青色に洗われた爽やかな笑みを浮かべて、邇々芸は馬上から三雷を見下ろした。


「話をもちかけた後に出雲がどう出るかで、向こうの意図が読める。大和と相いれる気がなければ拒むだろうし、もしその姫を僕と会わせるまで時を稼ぐようであれば、迷っているということだ。もし、すんなりとその姫を僕のもとへ寄こすなら、我々を受け入れる気でいるか、もしくは――何か、からめ手を企んでいると疑うべきか」


 邇々芸は、笑った。


「すべて、僕の描いた線に沿って進んでいる。問題ない」






 狭霧と高比古の一行は、阿伊へ向かって場所を移していた。


 しかし、歩みは遅い。少し進んでは、日女が声をかけて一行の足を止める。


 そのたびに日女は、神具のしめ縄で周りや行く手の道を囲った。それは、一行が足を踏み入れてよい場所を少しずつ足して広げていくためで、そこまで済ませてようやく、日女は一行を進ませた。


 日女は頑なで、やり方は徹底していた。神具のしめ縄が足りなくなればその場で新しいしめ縄をつくるまで、決して一行を動かそうとしなかった。


 場所を移るのは〈御津〉という奇妙な場所から遠ざかるため。


 それを一行はよく理解していたが、逃避行は思った以上に進みがのろい。


 〈御津〉を探し当ててから、二日後の昼。一行の苛立ちは頂点に達して、武人の長、八重比古はとうとう文句をいった。


「巫女どの。いったい何に脅えて、このようにいちいち止まるのだ。あなたの神威とやらを疑う気はないが、あまりに遅すぎる。これではいつ阿伊に――いや、杵築に辿りつけることか……」


 八重比古がため息をつくと、日女はかっと目を見開いて怒鳴った。


「何も感じることができず、見えもしないくせに、口答えをするな! しかも、私の神威とやらを疑う気はないが、だと? 口先ばかり、高比古様をお守りする武人の長とは名ばかりの情けない男だな! 腹では私を疑っているから、そのようにいうのだろうが!」


「な、なんたる言い草――! 後日、神野の大巫女にあなたの無礼を訴えてやるぞ!」


「無礼でも葡萄ぶどうでも勝手にしろ。大巫女ごときに告げ口されたところで、私は痛くもかゆくもない!」


 日女は機嫌悪くつんと横を向く。


 狭霧は、慌てて八重比古を宥めた。


「ま、まあまあ、八重比古さん。みなさんがお疲れなのはよくわかるのですが、こらえてください。わたしたちの中で一番疲れているのは、きっと日女です。たった一人で、昼も夜も高比古とわたしたちを〈御津〉から守ってくれているんですから! ――たぶん」


 狭霧が割って入ると、八重比古は言い合いをやめるが、ぶつぶつと不服をもらした。


「そうであれ、いったいどれほど守られているかはわかりかねます。まこと、目に見えないものを相手にする巫女というのは、ともすれば人を騙すあやかしと紙一重。本当にそこにあるのかどうかもわからないのに、さも大変な仕事があるようにふるまうのですから、我々にはたしかめようもない」


 日に日に、一行に漂う雰囲気は悪くなっていく。


 夜通し高比古を守って疲れていく日女が疲労の八つ当たりがてらに苛立つのは早かったし、その日女を庇おうとしない高比古も事を荒だてた。


 どれだけ世話を焼かれても、高比古は日女を追い払おうとしたからだ。


「おまえなど顔も見たくない。おれの前に姿を見せるな」


「高比古、それはひどいよ。日女は――!」


「お言葉ではございますが、高比古様。私とあなたは、すでに形代の契りを結んだ仲。どこにいようが、私とあなたは誰より深い場所でつながっているのですよ? 出雲一の力をおもちの事代であられるあなたともあろうお方が、今さら何をおっしゃっているのか――」


 唇を尖らせて日女が嫌味をいえば、高比古は舌打ちをした。


「おまえとつながっているだと? 考えただけでへどが出る。――さっさとどこかへ消えてくれ」


「――高比古様。私にも、切れる堪忍袋の緒があるのですが……!」


「お願いだから、みんな、落ち着いて!」


 一行の歩みは遅く、丸一日かけて進んでも〈御津〉へ行く前日に進んだ道のりをまだ戻れていなかった。


 山道を抜け、谷道を降りて山間の野にいきついたものの、一行の周りにあるのは見渡す限りの手つかずの草むら。人が暮らす里など、まだ影も形も見えない。


 今も、そこで一行の足をとめた日女は山で採った蔓を編んでしめ縄をつくっている。日女の手から伸びる蔓のしめ縄は大人の背丈ほどには長くなっていたが、さらにその三倍は長くならないと先へ進めないことを、一行は前日のうちに覚えていた。


「また待ちぼうけか。いったい、いつになったら進めるのだ……」


 武人たちは、地面に腰を落として背を丸めている。


 八重比古や日女だけでなく、全員が疲れていた。


 狭霧は、ため息をついた。立ちあがると、目の前の景色を眺めた。周囲に広がる野は、奥に見える次の山の裾野までえんえんと続いている。遠すぎて細い糸のようになっているが、今一行がたどっている道の先は、向こうの山際まで続いていた。しかし、その道に人の姿はほかになかった。


「桧扇来と三穂、遅いね。ちゃんと阿伊に辿りつけたかな。高比古が桧扇来たちに頼んだ援軍もなかなか来ないね――」


 肩を落とすと、周りで力なくくつろぐ武人に声をかけた。


「食べ物って、足りるかな。山の中を進めば木の実がたくさんなっているけれど、この分じゃ、しばらくこの野から出られないよ」


「そうですね。もってきている干し飯と干し肉も減っています。馬は、いいですねぇ。ここの草を食べ放題です……」


 一行が連れていた三頭の馬は、野の草をもくもくとついばんでいる。武人は、うらやましそうにそれを眺めた。


「見る限り、水場もここにはないね。川も泉も遠そうよ。やっぱり誰かに馬に乗って出かけてもらったほうがいいよね? 前に泊めてもらった里へ向かって、食べ物と水を分けてもらったほうが……」


 一行の腹の心配をするものの、狭霧の手を引いて地面に座らせる手がある。高比古だった。


「水はいらない」


「どうしてよ。のどが渇くと歩けなくなるじゃない」


「水音なんか、聞きたくない」


「御津のことをいっているの? あそこの水音はふつうの水音とは違うんでしょう? 高比古だって、そういってたじゃない」


「もういい。水は嫌いだ」


「高比古、いったいどうしちゃったの? 眠れるようになったと思ったら、今度は、起きていても寝ているみたいになって――」


 御津で気を失ってからというもの、高比古はさっぱり無気力になっていた。


 呆れて、狭霧は肩で息をする。それから、高比古の腕を押しやって一行の顔を見回した。


「誰か、早馬を――。次の里にいって、食べ物と水をもらってほしいの。日が暮れたらまたここで野宿よ。――あぁあ、早く帰りたい」


 一行に満ちる険悪な雰囲気を取り除こうとするものの、狭霧も本音をつぶやいた。


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