クマシロ (2)

 翌朝。夜が明ける頃、狭霧はすでに王門のそばにいた。


 夜明けとともに戦が原へ出立するという出雲軍を見送るためだ。


 出雲の館から一人、また一人と姿を現す位の高い武人たち。そして、王宮の門の向こうの河原で暖をとる位の低い兵たちの集合地となった王門前には、異様なまでの熱気がうずまいている。


 ……あいつを殺してやる。


 ……死ぬものか。生き延びてやる。


 ……殺せ。伊邪那を滅ぼせ。


 認めるべきなのか、それは良くないと進み出るべきなのか。それもまだ狭霧にはわからない。


 でも、巻向の王宮の門前を埋め尽くす武人の群れは、出雲のためにここにいるのだ。それは間違いない。倭国大乱という、大なり小なり、幾多の国々が戦を繰り返すこの戦乱の世の中で、それぞれの家族や仲間を守るために。


 そして、彼らを導くのは、出雲一の武王である大国主。狭霧の父だ。


 金色に磨き上げられた美しい鎧を身にまとった父が軍馬にまたがって姿を現すと、門前に集っていた武人たちは熱狂に沸いた。手にする武具をそれぞれが天へ掲げて、祈りとも雄叫びともつかない叫び声をあげた。


「大国主!」


「出雲の軍神!」


 それは、天を揺るがすほどだった。


 立派な武人の群れのなかにいても、ひときわ華やかな姿をして、ひと睨みでほかを圧倒する大国主はけっして人の陰に埋もれることがなく、この国一番の武王に見えた。


 いまの父には、狭霧の父などという、ただの人めいた気配はひとかけらもなかった。


 狭霧は、見送りにつめかけた侍女や下男など、大勢がいる場所から父の姿を探していたが、そこに狭霧がいると気づいたところで、大国主は娘を見ようとしないだろう。いまの父は、大国主という武王でしかないのだから。


 狭霧は唇を固く結んで、目の前をゆっくりと通りすぎる大国主の横顔に祈った。


(わたしを振り返らないで、とうさま。あなたは武王だ。わたしは平気だから。昨日のことなんか忘れて、みんなを導いて)


 胸の前でこぶしを握り締め、あっさりと通り過ぎた父の後姿に胸を撫で下ろしてから、狭霧ははっとした。


 そういえばいまの想いは、昨日父から聞いた母の姿に重なる。


 母、須勢理は、ただの男みたいにいちいち妻や子どもを振り返るなと、よく父を叱っていたという話だ。実のところ、あの父が女に叱られている姿はすんなり想像がつかなかったが、母がそう口にした理由が、すこしわかった気がした。


(かあさまはきっと、こんなふうに思っていたんだね。とうさまに心配をかけたくなくて。とうさまを待っているものがあんまりにも大きくて、凄まじいから)


 かあさまと同じ。


 そう思うと、狭霧の頬は少しずつ緩んで赤くなった。嬉しかったのだ。いや、ほっとした。






 やがて、


「出立!」


 大地をも揺るがす大音声をあげて大国主が号令をかけ、それに軍勢が応えてどよめく。颯爽と進みはじめた兵の列は、みるみるうちに巻向の王宮から遠ざかった。そして、あとには静寂が残る。


「やれやれ、いつもながら勇ましいものだね」


「そりゃあ、戦の国出雲だもの」


 見送りがすんだ下男たちが軽く噂話をしつつ去っていくと、王宮の門前は、何事もなかったようにいつもどおりの平穏を取り戻す。


 いや、狭霧の耳はそこで、危うい声を聞きつけた。


「誰か、手を」


「お湯を沸かすのを手伝ってくれるだけでいいんです」


 そこには、門の前で右往左往する妙な格好の男たちがいた。彼らは、王宮ではたらく下男たちを懸命に呼び寄せているようだが。


「どうしたの? わたしでよかったら……」


 狭霧がおずおずと近づいていくと、男たちはぱっと顔を輝かせる。


「ほ、本当ですか?」


 が。狭霧の顔を見るなり、男たちは両手を振ってじりじりと後ずさった。


「こ、これは大国主の御子姫……狭霧姫!」


「姫様のお手をわずらわせるわけには……」 


「手伝いを探していたんでしょう? いいのよ、わたしは手が空いているから。お湯を沸かすんでしょう?」


 狭霧は笑って、結局、男たちより先に一歩を踏み出して案内をさせてしまった。


「どこへいけばいいの? こっち?」


「あの、でも……」


「姫様を忌小屋いみごやへ入れるわけには……」


 男たちは、慌てて狭霧の後を追いかけた。






 身なりを見ても体格を見ても、その男たちは武人というわけではなさそうだ。


 剣など持ち上げる力すらなさそうな細い身体に、ぶかぶかの衣をまとっていて、齢は二十歳前後に見えるが……実のところ、それもよくわからない。童の齢だといわれればそうかと納得するし、三十を越えた青年だといわれても、まあそんなものかと疑わないだろう。着ている衣はあまり見ないかたちで、袖がいやに大きく、けっして動きやすそうな格好とはいえない。髪は、両耳のあたりで結わえて出雲風の角髪みづらにしているし、首を飾る宝玉も、出雲でよく見るかたちをしているので、出雲からやってきた人には間違いなさそうだが。


「こ、ここなんですが」


 狭霧を引き止めるのは諦めたようだが、案内したものの、男たちの仕草はまだ遠慮がちだった。


「あの、ここは忌小屋と呼ばれている場所で……。出雲では、薬師くすしの館とか医師の館とかもあるんですが、なにしろ戦の旅先ですので……その、ごちゃごちゃになっていて……」


 男たちが狭霧を案内したのは、即席で建てられた粗末な小屋だった。そこが忌小屋と呼ばれている理由を、狭霧はなんとなく感づいた。なにしろ、その小屋の周りにはたくさんのむしろが敷かれていて、何人もの兵が寝転んでいたのだから。それも、みなが手や足に布を巻きつけており、その布には赤い血が滲んでいたり。


 小屋の戸は閉ざされていたが、そこには不穏な気配がたちこめている。おそらくそこは……。


 狭霧は、じっと息を飲んでからぽつりとつぶやいた。


「ここは、深手の傷を負った人のための場所なのね」


 すると、狭霧を案内した二人の男は地面にひれ伏して、深々と頭を下げた。


「そ、そうなんです! 姫様のような高貴な方が足を踏み入れる場所ではございません!」


「目を閉じてください。死で目が穢れてしまいます!」


 二人が口々にいうことに、狭霧は納得がいかなかった。


「高貴な姫? わたしが?」


 眉をひそめて男たちを見下ろすと、念じて胸を落ち着かせながら、いい切った。


「そんな人は出雲にいないわ。高貴かどうかは、その人ではないほかの人が決める国だもの」


 口に出しながら、狭霧は胸が妙にすっきりとしていくのを感じた。まるで、詰まっていた雪の塊が溶けて、一気に流れ落ちたような気分だった。


 戦に出かけた出雲の兵は、戦が原で敵国の兵と殺し合う。


 死に掛けた仲間は、できるだけ楽な方法で殺してあげる。昨日、高比古が狭霧に教えたように。


 でも、生きられるなら……。


 狭霧は腿のそばに垂らしていた手のひらで、ぐっと握りこぶしをつくった。


 それから、居心地悪そうに目配せをし合う彼らに、懇願した。


「お願い、やらせて。……手伝いたいの、わたしにできることなら」






 狭霧が門前で出会った風変わりな男たちは、薬師や医師と呼ばれる人だった。そのなかでもとくに「事代ことしろ」と呼ばれる身分だそうで、彦名が治める東の王宮で暮らしているのだという。


 狭霧が小屋の外で湯を沸かし、いわれるままに熱湯に布を浸して、焚き火の熱さに耐えながら妙なかたちの鉄を熱するのを手伝って……。


 小屋の中では、従軍したなかでも一番の腕をもつ医師が、傷を癒しているのだとか。


 小屋に入ることは許されなかったが、時おり死に瀕した雄たけびが漏れ聞こえる。


 そのたびに、狭霧と一緒にいた二人の事代たちは血相を変えて、狭霧の目隠しになる壁になろうと立ちはだかってみせる。


「耳を塞いでください。耳が穢れます!」


「いいのよ、平気」


 自分でも不思議なほどだが、狭霧は怖くならなかった。


(昨日の戦が原よりずっとましだもの。生きようとして叫んでいる声だもの。殺されているときの声じゃないもの。……頑張って)


 狭霧はぎゅっとまぶたを閉じると、粗末な小屋の中へ向かって心からの祈りを捧げた。






 小屋の中でおこなわれていた治療に、そこまでの時間はかからなかった。


 やがて小屋を閉ざしていた薦が開け放たれ、中から壮年の男が顔を出すと、甲高い声で怒鳴った。


「祈祷を! 眠らせてやるんだ!」


 声を聞きつけると、狭霧のそばにいた若い事代たちは飛び上がって小屋の前に並ぶ。


(祈祷?)


 小屋へ向かった彼らは、神妙な面持ちを浮かべてまぶたを閉じる。二人が唇をひらくと、あたりには奇妙な音が漂いはじめた。声なのか別のなにかか……。どちらにせよ、狭霧の耳には意味を成す言葉には聞こえなかった。


 これが、祈祷と呼ばれるものなのだろうか。


 そのうち、奇妙な風が忌小屋の周りを潤しはじめた。


(なに、これ……)


 妙に重くて息苦しいのに、思い切り浴びてみたいと足を踏み入れたくなるほど、妙に温かい。


 それが、二人の事代が成した異形の業だったようだ。


 しばらくして、小屋から顔を出した壮年の男は、ほっとしたように微笑んだ。


「……眠った。あとは待とう」


 




 事代たちの腰の低さはそうとうだった。


 騒動が落ち着いて一息つこうと焚き火を囲んでも、狭霧をここまで案内した事代も、小屋のなかにいた壮年の男も、揃ってぺこぺこと頭を下げてくる。それも、何度も。


「杵築の姫様のお手をわずらわせたなど……。ほれ、頭を下げろ、そなたたちも!」


「すみません、すみません」


「もうしません、すみません……!」


 齢がよくわからない顔つきのうえに、仕草までもが子供のようだったり老人のようだったり。事代という身分のせいなのか、持って生まれた気性のせいか、狭霧が出会った三人はとても風変わりだと、狭霧は思ってしまった。


「いいんです、やりたかったんです。わたしが無理やり案内させたんです」


 微笑んで、狭霧は応えた。


 若い事代はそれぞれ、紫蘭しらん桧扇来ひおうぎと名乗った。どちらも狭霧と目が合うとおずおずとしていたが、慣れてくると笑顔はしだいに童のように無防備なものになる。


 狭霧も二人と同じように膝を抱えると、無邪気に笑いかけた。


「すごいのね、あなたたち。不思議な技で、苦しんでいる人を眠らせてしまうなんて。東の王宮にはたくさんの巫覡が住んでいるってきいたことがあるけれど、あなたたちのこと?」


 彦名が治める東の王宮は、政と祭祀を司る場所だ。戦に関わるすべてのものが大国主の治める西の王宮にあるというなら、東にはそれ以外のすべてが揃っている。薬草の倉も薬の智恵も、呪術にまつわるものや、おそらくは事代という風変わりな人たちの住まいも。


 狭霧に褒められると、紫蘭と桧扇来は顔を見合わせて頬をゆるませた。 


「そ、そんな。私たちなんてまだ……」


「ねえ。できることっていったら、それくらいしか……」


 謙遜しつつも、二人は嬉しそうにしていて、まんざらでもなさそうににんまりと笑う。


 狭霧はくすっと笑った。


(不思議な人たち。東の王宮には、こんなふうに純粋に笑う人が大勢住んでいるのかしら)


 そう思うと、狭霧は東の王宮を思い浮かべた。


 年に一度か二度、そこで開かれる大宴に顔を出すくらいで、そこまで頻繁に出かける場所ではないものの、記憶を探せばすぐに蘇るほどには、狭霧はその王宮のことを覚えていた。


 敷地のなかに、巨大な兵舎をもつ杵築きつきの雲宮ほど大きくないが、宮の絢爛さは雲宮よりも上だ。なにしろ東の王宮は、出雲の表の王宮と呼ばれている。その名のとおり、意宇の宮は出雲の顔で、つ国から訪れる客を出迎える場所は、表の王都である、意宇おうだ。そして、表立って「出雲王」と呼ばれるのも意宇の主、彦名だった。裏の王都の主、大国主ではなく――。


(きっと意宇の宮は、雲宮とは雰囲気が違うのね。煌びやかで、ゆったりとしているのかもしれないな)


 狭霧は照れ笑いを続ける紫蘭と桧扇来を眺めていたが、ふと、ひとつを思い出した。


(そういえば高比古って、意宇で暮らしているんだっけ。あんな、いかにも武人って人が)


 不似合いなような、うなずけるような。


 そう思ってぼうっとしていると、あるとき、狭霧は耳をうたがった。紫蘭と桧扇来が、その名を口にしたのだ。


「でもなあ、高比古様がいらしてくれたら」


「私たちの力なんて、あの方に比べたら足元にも及ばないんです。さっきの祈祷だって、高比古様だったらほんの一瞬で、言霊の力なんて借りずにやってのけますよ」


 狭霧はぽかんと口を開けた。


「高比古のことを知ってるの?」


「も、もちろんですよ!」


「……はっ! 内緒ですよ。私たちがあの方の噂なんかをしていたなんて……!」


 狭霧は目を丸くした。紫蘭と桧扇来の高比古に対する態度があまりにも恭しく、また、逆鱗に触れるのを恐れるように、これ以上彼の話をするのを、ぴたりとやめてしまったのだから。


「高比古って、そんなに偉い人なんだ?」


「偉いもなにも。私たちとは違うんです」


「あの方はすべての精霊に愛された子です。選ばれた方です」


「精霊に愛された子? あの……精霊って?」


 狭霧が首を傾げると、紫蘭と桧扇来は目に見えないものを探すようにして、上気した頬を虚空に向ける。高比古のことを語る二人は、酔いしれるようないい方をした。


「精霊というのは、風や石や木々に宿る力のことです。人に魂があるように、どんなものにも精霊が宿っています。私たち事代は、言霊ことだまと呼ばれるまじないの文句を操ることで精霊のかすかな声を聞き、話し、力を借ります。でも、高比古様はそれと自在に話をします。……あの方は、桁違いの力をお持ちなんです」


「死した魂にとっても、高比古様は聖なる方。夜ごとに哀れな魂を救っているとか」


 狭霧は懸命に、紫蘭と桧扇来の言葉を胸で繰り返した。


(言霊を操って精霊の力を借りるのが、事代。ただし、高比古には言霊が必要ない。そんなものを使わなくても、自在に話ができるから)


 精霊、言霊?


 どれもはじめて耳にすることで、すぐには染み込んでいかない。でも胸が高鳴った。


 狭霧をどきどきさせたのは、この言葉だ。


(死した魂にとって高比古が聖なる方? 夜ごとに哀れな魂を救う?)


 それは、狭霧がいつか見た凄まじい光景と繋がった。


 巻向へ着く前の野営での出来事だ。真夜中の寂しい海辺で、高比古は恐ろしい影に襲われた。しかも彼は、みずから腕を広げて影へ微笑みかけて。


(あれは、死んだ人の魂だったんだ。それを救っていた?)


 狭霧の鼓動は早まるばかりだ。すんなり飲み込めなかった。


「あの、聖なる方ってどういうことなの? わたし、そばに居合わせたことがあるんだけど、あのときの高比古は苦しそうだったわ。救ってあげてるっていうよりは、襲われているっていう感じで……」


「それはそうです。死んだときの苦しみも、死霊になるに至った未練もすべて肩代わりすることで、高比古様は死霊から怨念を解き放つんですから」


 紫蘭は控えめないい方で説明するが。狭霧は眉をひそめてしまう。


「それって、高比古がそのたびに死ぬ思いをしてるっていうこと? そういう魂に出会うたびに、最期の記憶を押し付けられているって?」


 すると紫蘭と桧扇来は、そわそわと目配せをし合った。狭霧はずいっと身を乗り出した。


「いえないことなの?」

 

 でも結局、紫蘭も桧扇来も口を閉ざしたまま、しばらくなにもいわなかった。


 二人の代わりに応えたのは、焚き火の向こう側で休んでいた壮年の男だった。


「いえないのではありませんよ、姫様。わからないのです。あの方以外には、誰にも」


 たちまち狭霧は、声のしたほうへ目を向けた。


 壮年の男は、紫蘭や桧扇来がそのまま年を経たような細身の身体をしていて、顔を覆う皺のわりに、目元はどことなくあどけない。着ているものは紫蘭たちと同じく袖の長い衣だったが、彼のものは深い紅に染められていた。狭霧は、聞いたことがあった。その色の衣は医師の証。人の傷を癒す者に与えられる服だ。


「あの方が、死した魂を癒しているのは私たちの目に見えます。でも、それであの方が受ける苦しみは、私たちにはわからないのです。わかるのは、あの方がとてつもなく強い心をお持ちだということだけ。考えてもみてください。すがってくる死霊を受け止めれば死を味合うとわかっているのに、それでも受け入れるのです。……出雲のために」


(出雲のために?)


 最後の部分は引っかかったものの、尋ねられる雰囲気ではなかった。


 壮年の男は、深いいたわりと敬意を込めてゆっくりと続けた。


「そのうえ、武人でもある。かつて彦名様は、策士として数々の戦を大国主とともになさいましたが、高比古様はその後継です。あのお人以上の事代は、しばらく現れますまい」


「事代?」


 狭霧は、聞き返してしまった。


「高比古って事代なの? その……紫蘭や桧扇来や、あなたみたいな?」


 壮年の男は、ふふっと笑った。


「ええ。あの方は薬を扱う我々のなかでも、最上の力を持つお方。事代主(ことしろぬし)となるにふさわしい方です」


「事代主?」


「これは、姫様はご存知なかったですか。事代主とは、意宇の主の別称です。出雲の表の顔は呪術と医薬の国ですから。いまは彦名様ですが、高比古様は、いずれ彦名様の位をお継ぎになるでしょう。あの方を超える事代など……いえ、医師も薬師も含めて、あの方以上の者は、しばらく現れませんでしょうから」


 狭霧はぽかんと口を開けた。


 いろんな新しいことを聞いてしまったので、頭がおかしくなりそうだった。でも、逃げようとした頭を、必死でいい聞かせた。


(だめだ、逃げるな。知らなきゃ)


 おぼろげではあるが、狭霧のなかで出雲という国が、じわじわと姿を見せはじめた。


(出雲にある二つの王宮、それぞれが持つ二つの顔。東の意宇は政と呪術をつかさどる、そちらは出雲の表の顔で、西の杵築は、戦をつかさどる、そちらは出雲の裏の顔)


 おそらく、その二つが複雑に絡み合って、出雲という国は成り立っているのだ。


 まだ、大まかにしかわからなかったけれど――。


 大国主が率いる武人の集団や、紫蘭たちのような事代や、事代と武人とを繋ぐ高比古のような策士や、すべてを統べる彦名や須佐乃男や……。


 さまざまな役の人がいて、それぞれの仕事をして、だからこそ出雲にはいろんな面があって、そうやって戦乱の世を生き抜いているのだ。


 胸に仕上がったものに圧倒されて、狭霧はしばらく無言になってしまった。


 やがて、狭霧のそばが騒がしくなった。一緒に火を囲んで休んでいた紫蘭たちが、そわそわと小屋を気にし始めたのだ。


「起きた?」


 ぽかんとして小屋を見つめた二人の声に気づいた医師の男は、はっと腰を上げると、まっすぐに小屋のなかへ駆け込んだ。


「大丈夫かなあ。なかの人、元気になれるかなぁ」


 医師の男がくぐり抜けると、小屋の戸口には薦が落ちる。そこを心配そうに見つめながら、紫蘭と桧扇来は手を取り合って祈りを捧げた。

 

 しばらくして、再び小屋の戸口にかかる薦が揺れ、なかから医師の男が顔を出す。そのとき、彼の顔には安堵があった。


「峠は越えたよ。命の緒は繋がった。あとはそなたたちの出番だ。薬草を整えて、祈祷をしてやってくれ。せめて、痛みを忘れて寝かせてやろう」


 きっと、小屋のなかで死の淵をさ迷っていた兵が生気を取り戻したのだ。


 気づくと、狭霧も腰を上げて歓喜した。


「よかった!」


 紫蘭たちも、目を輝かせて小屋のなかへ飛び込んでいった。


「わかりました。お任せください!」


 力仕事などできなさそうに、紫蘭たちの後姿は細く、頼りなげだった。でも、彼らの身には、傷ついた人の生気を蘇らせるすべがあるのだ。


(すごいね、事代って。薬や言霊を使って、命を助ける人たちなんだね)


 いつのまにか頬には幸せな笑みが浮かんで、微笑んだまま、紫蘭たちの手仕事を背後から見つめた。そして、いつか――狭霧は、はっと唇をおさえた。胸に、美しい光が閃いたと、そう感じた。


(わたしもなれるかな、事代に)


 胸に生まれた美しい光が言葉になっていくと、狭霧の身体にはむずむずと力がこみ上げた。


(ううん、なれなくてもいい。出雲に、少しでも近づきたい。……とうさまが守り、かあさまが愛したこの大地に)






 出雲への帰り道。そこで狭霧の世話を焼いたのは、行きと同じく高比古だった。


「どこへいくんだ、あんたはこっちだ」


 巻向を出るなり、軍勢はいくつもの集団に分かれるので、迷子になりかける狭霧を高比古はひっつまんで連れ戻す。


「あ、ごめんごめん」


 王宮中の人から心配されるほどの目にあわされたというのに、狭霧がそのときのことで高比古へ文句をいうことはなかった。それどころか、吹っ切れてしまった狭霧は、そばにいるのが高比古だろうが明るく接した。


 そこは、淡海の脇に伸びる道がいくつにも分かれる場所だった。狭霧たちを含めた軍勢とは別の方角へ進んだ小勢があったので、遠ざかる武人の群れを見つめながら狭霧は尋ねた。


「あの人たちは?」


石玖王いしくおうの軍勢だ」


「石玖王って?」


 尋ねると、高比古は考え込んだあとでこう答えた。


「名うての武将だ」


 あまりに簡単な説明だ。詳しく答えたところで狭霧には理解できまいと彼が悩んだのが目に見えるようで、狭霧は文句をいっておく。


「そんなに馬鹿にしないでよね。教えてもらえば、ちゃんと覚えるわよ。それで、石玖王はどこへ向かったの? 出雲へ帰らないの?」


「あんた、感じが変わったな」


 高比古は気圧されたようだった。鋭い目つきは相変わらずだが、笹の葉先のように尖った目は、狭霧を前にして少したじろいでいた。


「石玖王は巻向に留まるんだ。おれたちが出雲に戻ったら、別の軍が巻向へ発つことに決まったから、それと交代するまでは出雲へ戻らない。伊邪那軍の残りを見張るためにな」


 無理やり説明させたとはいえ、狭霧はうまく話が飲み込めなかった。


「ふうん?」


(どうせ同じ場所へ戻るんだから、みんな一緒なのかと思ったのに。ややこしいのね)


 難しい問いを咀嚼するように唇の奥でつぶやくが。狭霧を見下ろす高比古の目は、ほら見ろといわんばかりだ。


「わからないんだろう? だからいったのに」


「そんなことないわ! そりゃあ時間はかかるかもしれないけど、ちゃんと考えるわ」


 間髪を入れずに狭霧が威勢よくいい返すので、高比古はわずかに後ずさる。それから彼は、小さくぼやいた。


「やっぱりあんた、感じが変わったな」






 武人の群れに紛れてもと来た道を戻り、懐かしい故郷、出雲へ。


 狭霧が雲宮を留守にしていたのはひと月ほどだったが、しばらくぶりに王門を抜け、懐かしい大路に足を乗せると、胸が躍る。


 王門を超えてしばらく進むと、とうとう高比古と別れるときがきた。彼は、武人たちと一緒に兵舎へ向かうそうだ。二人の足が止まると、目が合う前から、狭霧は思い切り彼の両手を握り締めた。


「あなたは苦手だけど、嫌いじゃないわ。いろいろありがとうね!」


 高比古の目をまっすぐに見上げて勢いよくいうと、動揺したのか、高比古は笑顔とも不審顔ともつかないふうに真顔を歪めた。


「……いや、どうも」


 そして、狭霧の手を振り払うように、あっというまに腕を引っ込めた。


(愛想の悪い人ねえ)


 狭霧は思ったが、口に出すのはやめておいた。


「じゃあ、またね」


 軍列を飛び出した狭霧は、大きく高比古に手を振った。


 つられたように高比古はわずかに手のひらをあげるが、それもすぐに、恥ずかしそうに引っ込めた。


 軍列に背を向けて駆けてゆく狭霧の後姿は、どんどん小さくなる。もともとの身なりは立派だが、兵士に混じって山道を歩いてきた後だけのことはあって、彼女が身にまとう衣装の布地はずいぶん汚れていた。


 そういえば、狭霧は山道を歩くあいだ、けっして音をあげなかった。


 山歩きに慣れているふうでもないのに、血筋の良い姫君のわりに脚は丈夫なようで、よほど段が高い岩場を登るときくらいしか、高比古は彼女に手を貸さなかった。脚をふわりと覆う裳が石にひっかかって裂けてしまっても、狭霧はそれほど嘆かなかったし、山道を歩くあいだに怪我をした兵には、「わたしの衣が、一番布の量が多いわ。裂くから、血を止めるのに使えばいいわ」などと平気で笑いかけて、兵たちをのけぞらせることもあった。


 無邪気や、能天気という一言で片づけるには、狭霧は少々風変りな姫だった。


(へんな姫だな)


 小さくなる少女の後姿を見送りながら、高比古は狭霧が向かう先をしばし見つめる。


 狭霧が駆けていくのは王宮を貫く大路だが、狭霧は、わき目もふらずにまっすぐに大路の果てを目指している。その先にあるのは、伊邪那の王子が住まう貴人の牢屋だ。


 それを見届けてから、高比古は止めていた足を浮かせた。


(馬鹿なやつ。伊邪那の王子なんて、あんたが添い遂げられる相手じゃないのに)


 高比古の胸に浮かんだのは、狭霧への悪態だった。でも、前のような刺々しさはそこから薄れていた。高比古のなかには、狭霧を憐れむ想いが生まれていた。




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