クマシロ (1)

 二人が巻向の王宮へ戻ったとき、狂ったように腕をさ迷わせる狭霧を抱きかかえた高比古は、まるでいきのいい獲物を運ぶ狩人に見えた。


 狭霧を奥の宮まで送り届けて侍女に託したあとで、高比古は出雲の館へ戻る道をいくが、彼の顔にはほんのりとした薄笑いがあった。


 道を逸れて庭を横切り、まっすぐに出雲の館を目指す高比古は、満足げに見えていた。


 それを見つけて、大仰なため息をついた男がいた。安曇だ。


 高比古より二十近く年上の、三十半ばの位ある武人。ひとたび戦に出れば、また別の顔を見せるものの、休んでいるときの安曇の気性が穏やかなことは、武人のあいだでも良く知れている。大国主が娘を預ける気もわかる。父親役にはもってこいの寛容な男だ、と。


 いまも、安曇は苦虫を噛み潰したような渋顔をしているが、武人よりは父の顔だと高比古は思った。


「ちょうどいいところで会った。おまえを呼びにいこうとしていたんだ」


「おれを探していたんですか?」


 からかうように高比古が尋ね返すと、安曇は肩で息をしてゆっくりと腕組みをした。


「狭霧を戦場へ連れていっただと? 無茶をして」


「あの姫がおれに頼んだんだ」


 素っ気なく目を逸らした高比古の仕草は、どちらかといえばふてくされていた。それのどこが悪いんだ、という心の声が聴こえてきそうなほど――いや、彼は本音を隠そうとしなかった。


 安曇は呆れていたが、あるとき彼の穏やかな真顔には深刻な影がにじむ。


「高比古、大国主がお呼びだ」


「おれを? ひとりを?」


「そうだ。覚悟していけ」


 日が落ちて、王宮からは陽光がすでに遠のいていた。そこかしこでかがり火が焚かれていたが、静穏なはずの薄闇には、妙な慌しさもにじんでいた。それは、狭霧が運び込まれた奥の宮から届くものだ。異国の姫の変わりぶりに、王宮ではちょっとした騒ぎが起きていた。


 狭霧と高比古の遠出の噂はすっかり広まって、人の耳に馴染んでいるようだった。出雲の館の周りには大勢の武人が休んでいたが、高比古がそこに現れるなり、彼らはちらちらと目線を送ってくる。


「あいつが狭霧姫を戦場へ……」


「はじめて戦を見る若い姫に、むごい」


 非難めいた目配せをほうぼうから感じると、高比古はふんと鼻で笑っておく。


「御用はなんだ。お咎めか? 娘をいじめるなと? ……まさか。おれはいまや出雲軍になくてはならない存在なのに?」


 高比古はいい切るが、安曇の目は彼を憐れむようだった。


「おまえは大国主に、いったいなにを期待しているんだ。あの方だって人の親だ。狭霧は、あの方が守るべき大切な姫なんだ」


 安曇は一度視線を落とすと、それから、低い声を出した。


「腕一本くらいは覚悟していけ。あの方は荒神そのものなんだ」


 さすがに、高比古の顔からは笑みが消える。怒りに任せて片腕くらい斬りおとされるかもしれないぞ、と脅されたのだから。


「腕? 神って?」


「誤解であれいっときの激情であれ、機嫌を損ねればたちまち死を与える。それが神だろう? あの方の気性は荒神そのもの……神代くましろなんだ」


 頭ひとつ分高い場所から見下ろしてくる安曇は、表情こそ穏やかだが、目の奥には闇がいた。その闇なら、安曇自身も何度も見たことがあると、彼の目はそのように高比古へ助言しているふうだった。


 唇を固く結んだ高比古を、先に一歩踏み出した安曇は振り返って、声をかけた。


「……いこう」






 数人の侍女が行き来していたものの、出雲の館のなかは砦同然、野営の天幕同然で、戦の香りに満ちている。かがり火にいろどられて浮かび上がる薄暗い回廊を進み、高比古は先を行く安曇の背を追った。安曇は、真奥に位置する大国主の寝所の前までいくと、戸口にかかった薦越しに二言三言告げた。それから……。


「入れ」


 息を飲んで立ちすくんだ高比古を振り返って、神託を告げるような厳格さで命じた。






(腕? ……まさか。いや、腕くらい。大国主が相手なら)


 胸のなかでいい聞かせながら、高比古は薦の端に手をかけた。


「失礼します」


 慎重にすき間をつくりつつ、奥を覗くと……。闇に沈んだ部屋の四隅には、高脚のついた火皿が置かれていて、ちょうど腰の高さで明かりを灯していた。そして、五つ目の火皿は真奥に悠々と座る男の顔のそばにある。


 小さく揺れる炎の輝きを浴びて、男の頬や鼻には陰影が揺らいでいた。だが、炎にいろどられた頬などより、よっぽど高比古の目を奪うものがそこにあった。それは目、いや、その奥で睨みをきかせる眼光だ。大蛇や竜蛇など、人とかけ離れたものを想像させるほどにそれは鋭く、その目をもつ男は、どう見たところでただものには見えない。それが大国主という男だった。


 齢は三十八ときいた。武人として成熟しきった体躯は逞しく、男盛りの面には、出雲の兵たちを無言のうちに従わせる凄みと華が満ちている。


 存在に気圧されたのか。戸口で薦を手のひらですくったまま、高比古は動けなくなった。それを見かねたのか、奥に座す男はゆっくりと唇を開いた。


「入れよ。近くへ来い」


「……はい」


 高比古は、薦から手を離すと、声に引き寄せられるようにして数歩前へ進む。そこで膝をつくと、深く頭を垂れた。


 人にへりくだったり頭を下げたりするのを、高比古は毛嫌いしていた。でも、いまはそれも心地よい。かしずいて申し分ない相手だと、そこにいる男のことを心底認めていたからだ。


 大国主は、高比古にとって理想そのものだった。


 垂れた前髪が床につくほど頭を下げながら、高比古は胸でいい聞かせた。


(うそだ。この人がおれを咎めるなんて。おれはいつも大国主の言葉どおりにやってきた。力こそすべて、それが出雲だと)


 やがて、とうとう高比古の耳に大国主の声が届く。それは失笑混じりだった。


「困ったガキだな、おまえは」


 おずおずと顔を上げると、苦笑した大国主の顔が目に飛び込んでくる。大国主は脇月に肘を預けてあぐらを崩していて、安曇が脅したような激昂した荒神という印象はない。


 高比古は、ほっと息をついた。


(なんだ、やっぱり)


 だが大国主は、笑みを浮かべたまま目の奥で、ぎろりと高比古を睨んだ。


「ひとまず見逃すが、このたびのことがもとで狭霧が笑わなくなったら、そのときはおまえを殺すぞ。……あんまり狭霧をいじめてくれるな」


 その途端に、高比古からは力が抜けていった。


(どうして。……力こそすべて。それを体現しているのは誰より大国主、あなただった。それなのに)


 高比古にとって、狭霧は力無きものだ。極上の血筋のせいで多少得をしているだけの小娘でしかない。


 血筋とかいう出雲には無用のものに遠慮して、誰もその娘を咎めないから、自分が咎めてやったのだと、高比古はずっと納得していた。大国主も必ず認めると信じて。


 突然道を見失った子供のように呆然として、高比古は大国主を見つめた。


 大国主は一度、肩を揺らして笑った。


「不満そうだな」


 顎に太い指をかけて、それから彼は目を細めて高比古を見やった。


「教えてやろうか? なぜおまえがそこまで狭霧にこだわるのか」


「……え」


 高比古は目を丸くする。そんな話になるとは思ってもみなかった。


 高比古の驚きなど見越しているとばかりに、武王は、子供の反応を面白がっているようだった。


「おれが狭霧をかわいがってるからだよ。戦に身を置く男なら、誰しもが一度は格上の男に憧れる。憧れる男の愛するものは、どうにかして自分のものにしたい。違うか?」


(違うか、といわれても)


 いい返そうにも、大国主は反論を許すような目つきをしていなかった。


 眉をひそめて黙り、無言でいると、大国主は昔語りをするように続けた。


「おれにも覚えがある。おれの場合は、相手が須佐乃男すさのおだった。それでおれは、須佐乃男の愛娘の須勢理すせりを奪った。須勢理さえ手に入れれば、須勢理に向けられた須佐乃男の愛情までが手に入ると思ってな。……おれはどうにかして、須佐乃男の息子になりたかったんだ」


(どうにかして、憧れる男の息子になりたかった)


 その部分だけはなんとなくわかるような気もする。でも、高比古はやはりすんなりとはうなずけなかった。


「あの。おれは手に入れたいとかいうわけじゃ……」


 いまの大国主のいい方では、高比古は敬愛する大国主の娘である狭霧に嫉妬して、妻として手に入れたがっているという意味に取れる。狭霧に対する恋心などはこれっぽっちもないと、きっぱりいい切れるというのに。


 大国主はそれも見透かしていた。高比古の反抗を悠然と囲いこみ、そのうえばっさり切り捨てた。


「ああ、おれとおまえはやり方が違う。おまえのほうが根暗だな」


(……根暗)


 ぐっと詰まる高比古を、大国主は愉しげに見ていた。


「おまえは、おれが狭霧をかわいがるのを許せないんだ。自分のほうが狭霧よりかわいがられる素質があると、そう驕っているから。無知な小娘より、ひとたび戦に出ればよっぽどおれのそばにいるおまえのほうが、と。違うか?」


 高比古の唇を押し開けようとする言葉は、もうなかった。


 ……大国主に憧れすぎて、愛娘に嫉妬している。


 ……根暗。


 ……自分の力に思い上がっている。


 とっさに高比古には、逃げ出したくなるほどの恥ずかしさがこみ上げる。大国主が並べた言葉はどれも高比古が抱える落ち度で、どれも真実だった。


 認めるのも癪だし、悔しいが。黙るしかなかった。


 唇を噛み締めて沈黙を貫く高比古に、大国主は笑う。


「違わんだろう? どうだ、幼稚だろう、高比古」


 追い討ちをかけるようないい方ではあったが、大国主の豪快な態度はそれを笑い飛ばすようだった。若さゆえの欠点などは些細なものだ、と。


「高比古、おまえは出雲に必要な若者だよ。だが、このとおりまだ薄い。もう少し大人になれよ。好きな女でもつくるといい。いろいろわかる。おれが狭霧を気にかける理由も、ほかのことも」


「……おれは」


 高比古はおずおずと唇を震わせるが、続く言葉などなかった。


 大国主の目には、高比古を包み込むような穏やかな光がにじむ。その眼差しで高比古を癒しながら、大国主はゆっくりと諭した。


「おまえの力は本物だよ。ふつうであれば絶対に得ることのない、途方もない智恵。それをおまえは、身を削りながら得ている。それには感謝しているが……。おれはおまえが心配なんだよ。おまえはずいぶん繊細な男のようだから。せめて男でも女でも、腹を割って話せる相手をつくれよ」


「……はい」


 床につけた高比古の手のひらは、緊張と感動でいつのまにか汗ばんでいた。身構える隙も与えず急所へ切り込んでくる大国主の鋭さに、思うままに人を従わせる深さに、ひれ伏さずにはいられなかった。


(おれはやっぱり間違っていない。この男についていこう)


 神を崇拝するに似た眼差しで、高比古は大国主を見上げた。だが。


「以上だ。下がっていいぞ。……いや」


 大国主は最後に、顎を震わせて鼻で笑う。それから恐ろしい眼光を再び目に宿して、高比古をぐさりと射抜いた。


「おまえが納得しやすいようにいい換えておこうか。おれはいまから狭霧を慰めにいく。武王のおれが、たかだか策士の坊主の尻拭いなど……願い下げだよ。金輪際ごめんだ」


 萎縮する高比古を射抜くように、その目で容赦なく蹂躙して……それから。


「いいな、狭霧を……いや、これもいい換えよう。戦の場でなくとも、策士ならあとになにが起きるかくらい考えて動け。おれが武王と呼ばれるのは戦場だけでない。その意味を知れ」


 大国主は武王として高比古を縛り付けた。








 侍女に先駆をさせた大国主が渡殿の木床を踏み鳴らし、狭霧が閉じこもっているという部屋の前へ着いた頃、あたりはすっかり夜闇に包まれていた。


 月は小さく、そのぶん頭上には満天の星が輝く。


(美しい夜だ)


 夜空を見上げた大国主がしばし目を留めるほどの星空だった。


 侍女を帰すと、大国主は薦越しにそっと呼びかける。


「狭霧。おれだ。入るぞ」


 有無を言わせない口調だが、声は穏やかだ。


 返事も待たずに戸口を覆う薦をよけると、その向こう側には、真っ暗な部屋の隅でうずくまる狭霧がいた。


 ……ひくっ、ひっく。


 薦を一枚隔てただけで消えるほどの小さな嗚咽を漏らしながら、狭霧は、部屋のなかにあった布という布にしがみついて小さくなっていた。


「狭霧」 


 薦を下ろして回廊とその部屋を隔てると、大国主は暗闇のなかを娘のもとへ近づきゆく。火皿の炎は吹き消されていたので、光は、小さな木窓から差し込むささやかな星明かりだけだった。


 狭霧は、目もとを腫らして泣き咽んでいた。暗がりのなかではろくに見えないはずなのに、そうだと大国主にはわかった。


 戦というもののあれこれを散々聞いたのちに戦に出る少年兵も、初陣のあとの夜は震えるのだ。人によっては気が狂ったり、まるでべつの人間になってしまうことだってある。たとえば、二度と笑わなくなるような――。


 それで、娘に近づいて抱きしめるなり、大国主は吐き捨てた。


「あのくそガキめ。やっぱり、腕くらいへし折っておくんだったかな」


 愛娘をこんな目にあわせた犯人を、いい諭すだけで許したことを悔やんだのだ。


 狭霧には、父の言葉の意味がわからなかった。


 言葉の意味どころか、いま自分の身に起きている状況すらよくわからずにいた。


 ふだんはほとんど話すことのない父が、わざわざ狭霧を慰めにそばにやってきたことが、類い稀に珍しい奇跡に感じた。でも、不審がるより先に、いまは自分を抱きしめる逞しい腕や、大きな胸にしがみついていたかった。


「……とうさま」


 かぼそい涙声でつぶやいて、父の胸もとに涙を押しつけた。


 父の態度は、温かかった。


 いつも父が身にまとっている凄まじいまでに威圧的な気配は、いまに限って消えていた。ただ狭霧の親の顔をして、彼は、小さな背中を手のひらで撫でていた。


 このうえなくありがたいが、狭霧は心のどこかで不思議がった。父からこれほど温かく接してもらったことなど、これまでに一度もなかったのだから。


 やがて大国主は声をかけるが、その声も狭霧がはじめて耳にするふうで、包み込むような頼もしさに満ちていた。


「戦場を見たのはつらかったか、狭霧」


 戦場。


 その言葉を聞くと、狭霧の目にはたちまち大粒の涙が溢れゆく。


「違う、違う」


 夢中で首を振り、涙で濡れた頬を父の胸に押し付ける。


「はじめはそうだったけど……違うの!」


 腹のなかのものを洗いざらい吐き出すように、狭霧は早口でまくし立てた。


「わたしは絶対にむりだ。わたしはかあさまのようになれないの。あんなところで人を殺して、そのうえ兵を振り返って、導いて、微笑むなんて、絶対にできない……」


 それから狭霧は、うわ言のように繰り返した。


「ごめんなさい、とうさま。わたしは、とうさまが誇れるような娘じゃない。わたしなんか、わたし……」


 弱々しくつぶやいて、ひっくひっくとしゃくり上げる。


「落ち着きなさい、狭霧」


 大国主は、大きな手のひらを狭霧の小さな背中に行き来させていた。仕草は母親めいていて、父親めいていて。狭霧は救いを求めるように父の胸にもたれて、そっと力を抜いていった。


 少しずつ狭霧の息が整い、身体中をがくがくと震わせていた嗚咽もおさまっていく。


 腕のなかの娘の身体が強張りから解けると、ようやく大国主はすこし身体を離して、娘の顔を覗き込んだ。明かりのない部屋を満たすのは暗闇だけだが、長いことここにいたせいで、二人の目は闇に慣れていた。大国主が見下ろしたとき、暗がりのなかにぼんやりと浮かび上がる娘の頬に、流れる涙はもうなかった。目の下が涙のせいで腫れているものの、息づかいもまともだ。だいぶん落ち着きを取り戻したようだ。それを悟ると大国主は微笑んで、もう一度か細い身体を抱きしめて腕に囲った。


 それから、ゆっくりと唇を開いた。


「狭霧、おまえのかあさまは本当に強い女だったぞ。弓の腕前などは出雲軍でも群を抜いていた。だがな、須勢理の強さはそんなものじゃなかった」


 父が語るのは、狭霧もよく耳にする母の武勇伝だった。でも、父の声の裏には、狭霧と母を比べるような思惑は少したりともない。


 それで狭霧は、珍しいものを不思議がるように、父の昔語りにそっと耳を澄ました。


「よくおれは、須勢理に叱られた。いちいち振り返るなと。武王で、百万の民の上に立っているんだから、ただの男みたいに妻や子どもを心配するなと」


 大国主は、遠くの星明りを見つめてぼんやりとした。


「狭霧、かあさまがいないのは寂しいな。暴露すると、おれがこんなにおまえをいとしく思うのは、須勢理が死んでからなんだ。それまではあいつがすべてを肩代わりしてくれていたから、おれは自分が望むままに、武王でさえいればよかった。……あいつは、おれが常に武王でいられるようにしてくれていたんだ。あの細い身体で」


 大国主の声は、ふとした隙に夜の静けさに溶けてしまいそうに柔らかく、いとしいものを思い出しているふうだった。そして、しだいに声には震えが混じる。


 父は母を懐かしんで、寂しがっているのだ。


 それに気づくと、狭霧はぎゅっと父の胸にしがみついた。


(わたしがいるから、とうさま)


 自分も同じ思いだと、それを伝えたかった。


 うまく伝わったかどうかはわからなかった。ただ、大国主の声の震えは消え去り、彼はさきほどと同じように温かな口調で丁寧に話を続けた。


「無理をしなくていい、狭霧。おまえはかあさまではないし、おれでもないんだ。おれと須勢理の娘だからこうあるべきだと、周りからいわれることもおまえは多いだろうが、そいつらは、おまえではないのに勝手にいっているだけだ。聞き流すことを覚えろ。それから、そういうやつらにも微笑んでやるだけの余裕を持て」


 いつも狭霧は、父にはいろんな人を従わせる力があると思っていたが、いまもそうだった。


「……はい」


 涙ぐんで素直に返事をすると、父の腕のなかでそっと涙をこぼした。


 暗闇に差し込む、かすかな星明り。


 遠くからぼんやりと聴こえてくる、蛙の鳴き声。


 よくある夜の景色が、いまもそこにあるのだと狭霧が思い出したのは、そのまましばらく時が過ぎたあとだった。


 壁に背をつけてあぐらをかく大国主の胸にもたれて、狭霧は小窓からじんわりと闇に広がる白い星明りを見つめていた。


 あるとき、父はふっと吹き出した。仕草が愉快そうなので、狭霧は尋ねておいた。


「思い出し笑い?」


「いやな、やはり母娘おやこなのだと思ってな」


 父の顔をしたままの大国主は、狭霧を見下ろすと、くすぐったそうに肩を揺らした。


「昔な、須勢理をこんなふうに抱きしめたことがあった。あいつの初陣の夜だった。はじめて戦を見た日、あいつもずいぶん取り乱した。いって諭したものさ。戦は殺し殺される場所で、おれたちは国で待つ民の命を守るためにここにいるんだ、と」


 狭霧はきょとんとして唇をひらいた。


「かあさまも?」


 刃の女神と崇められる須勢理に、はじめて戦を見た日があったなど、想像したことがなかった。そのうえいまの狭霧のように震えて、父に慰められていたなんて。


 薄ぼんやりと色づく星明りを眺めて、大国主はつぶやいた。


「寂しいな、狭霧。かあさまがいないのは」


 声はうつろで、まるで星明かりの向こうに愛する妻の幻を探すようにも、ぼんやりとしていた。



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