戦が原に、幻が遠ざかる
狭霧がお邪魔することになったのは、出雲の武人のために建てられた館ではなく、
ふだんは王の一族に仕えているという位の高い侍女までが世話に訪れるので、軍にくっついて異国にいるとはいえ、狭霧のまわりには華やかな品々が溢れかえる。はじめて目にする柄ではあるものの、丁寧に織り上げた上等の布で仕立てられた衣や、壁掛けや、風紋や波紋を思わせる模様が刻まれた上品な器の数々や。汗臭い天幕で過ごした数日が嘘のようで、暮らしは雲宮とさほど代わり映えしなかった。
一度狭霧は、巻向王に呼ばれて王の間へうかがった。
そこで、
「出雲の姫が軍に忍び込んでやってきたか。いやいや、驚くまい。
忍び笑いを漏らす桂木王は、みずからも軍を率いるという言葉どおりに、屈強な体躯を誇る男だった。
巻向王は昔語りを懐かしんで愉快な笑い声をあげるが、狭霧は面食らった。
こんな異国の地でまで、母の武勇伝を耳にするとは思わなかったのだ。
須勢理の勇名は、出雲だけにとどまらないのだ。
(それはそうよね。かあさまは、とうさまについて戦に出かけていたんだし)
巻向がとくに出雲と親しい友国であるなら、母がこの王宮を訪れた機会も一度や二度ではなかったろう。
もしかしたら、狭霧のためにと案内された部屋だって、須勢理がかつて使った場所だったかもしれない。
そこまで思うと、狭霧はふうと息を吐く。
(……なんて、考えすぎかな)
狭霧はいま、案内された部屋の前に横たわる渡殿の端に腰かけて、温かい陽光を浴びていた。
耳をすませば、山に住む鶯が鳴く声までが風に乗ってやってくる、平穏な昼下がり。狭霧は日差しのなかでまぶたを閉じた。
(……静かだわ)
王宮を賑やかしていた出雲軍は、今日は出払っているのだ。彼らは今朝、戦地へ発ったのだから。
王宮に建てられた出雲の館はもぬけの殻で、その隙を狙って、いまは侍女たちがそこに出入りして床拭きやらなにやらに励んでいる。
「水汲みは済んだの?」
「ねえ。奥間の片付けは誰がいっている?」
「あの子がいってるわ。好みの武人が泊っているからお世話するんだって、張り切って!」
「またぁ? 今度の相手は誰かしらね」
庭をはさんだ向こう側の回廊で、噂話に興じる侍女たち。温かな風は華やかな笑い声までを狭霧の耳に届ける。裳をはためかせて働く、彼女たちの軽やかな足さばきまで。
(侍女のする話って、どこでも似ているのね。こういう他愛のない話は、雲宮でもよく聞いた)
ふと、同い年の男の子の顔が目の裏に浮かんだ。
愛らしい二重の目の奥は、幼い頃からずっと変わらない。大人びた笑顔の向こうで、彼はいつでも毅然と前を睨んでいた。
(元気かな、輝矢。わたしが軍に紛れ込んでここにいるって、誰かあの子に伝えてくれているかしら。会いたいなあ)
狭霧は膝を抱えると、そこに頬を寝かせた。露粒を思わせる模様が織り込まれた碧色の裳が擦れて、ささりとかすかに音をたてた。
輝矢のことを思い浮かべると、狭霧には緊張や戸惑いも生まれる。
いま狭霧は巻向にいるが、巻向の領地のどこかで出雲軍は戦をしている。その相手はきっと、
(輝矢が生まれた国は、この近くなのかな。……ごめんね、輝矢だって帰りたいはずなのに、わたしだけ来ちゃって)
あまりに穏やかな春の午後。
ちゅんと小鳥が屋根でさえずり、庭の隅に植えられた野草の花びらには蝶が舞う。
(本当に静かだわ)
さまざまなことが、狭霧の想像とはだいぶん違っていた。
戦は男だけの世界だ。須勢理のように女ながらに飛び込んでいく者もいるが、それはごくわずか。雲宮で見る武人たちは、たいてい隙のない目つきをしていて声も身振りも豪快で大きい。その最たる人が、父である大国主だった。近寄ろうとしたところで容赦なく跳ね除けるような攻撃的な雰囲気をつねにまとっていて、視線だけで人を射抜き、威嚇する。
だから狭霧は、戦というのはそういうものだと思っていた。けれど。
いま狭霧の周りにあるのは、穏やかな静寂なのだ。そこにあるのは、出雲での暮らしとはさほどかわらない、姫……大国主の娘としての暮らし。
(軍が出かけたっていう戦地は、ここから遠いのかしら。それっぽい音もぜんぜん聞こえないなんて)
それから狭霧は、もう一人の武人のことも思い浮かべた。
高比古だ。これまでは彼のすること成すこと、すべてが理解できなかった。いまでも苦手な相手であることには変わりないが、それでも認められる部分はたくさん出来た。それに。
ことあるごとに狭霧には、あの夜更けの出来事が蘇る。
寂しい夜半の浜辺で、怨念と呼ぶべき恐ろしい気配をまとって襲い掛かってきた死霊に、彼は微笑んで、そのうえみずから抱きとめて、不穏な影を輝く光に変えてしまった。
(あれはいったい、なんだったんだろう)
どれだけ考えても、さっぱりわからない。
でも、狭霧はこんなことを思うようになっていた。
(近づけば近づくほど、見れば見るほど……姿は前に思っていたものと違って見える)
そして、狭霧はゆっくりとため息を吐く。
(もっと戦に近づけば、出雲のことがわかるのかしら。……とうさまのことも)
でもそれは、狭霧のなかでは夢物語を追うのに近いおぼろげな願いだった。
そうかもしれない、そうあればいい。もしできれば。その程度だ。
ふう、ともう一度息をつくと、狭霧はゆっくりと顎を膝に寝かせた。
しばらくして、狭霧の耳にざわめきが届きはじめる。人が大勢やってきたような騒がしさも感じた。耳を澄ますと、それは間違いなく出雲の館の方向だった。
(戦が原から帰ってきたんだ)
狭霧はごくりと唾を飲んだ。それから。
腰掛けていた渡殿からすとんと庭へ降りて、地に足をつける。陽光を浴びてぬるまっていたはずなのに、いまや地面はすっかり冷めて、ひんやりとしていた。日差しが降り注ぐ時間はとっくに過ぎていて、いまは、西の方角の空に琥珀色が混じる頃だった。
出雲の館へ向かうものの、奇妙なほど歩いている感覚がなかった。前を向いているのは足だけで、心はいやがっているようだ。
それでも強硬に前を見つめて出雲の館へ近づいていくと、少しずつ人が増えていく。どれもが立派な武具を着けた武人たちで、表情は疲れていたが、どこか朗らかだ。篭手や鎧や兜や、自分の身を勇ましく飾る戦装束を一つひとつ外しながら、明るく話もしていた。
狭霧は早足でそこを歩く。来てはいけない場違いな所にいるのは身に染みた。でも、なにかせずにはいられなかった。せっかくここまできたのに。
(……安曇は)
安曇は大国主とつねに行動を共にする側近で、ひとたび戦に出れば、副将のような存在なのだとか。でも、狭霧にとってはここで唯一気心の知れた相手だ。迷子が母親を探すようにして、ひたむきに彼の姿を探した。安曇の優しい顔を。
でも、見つけてしまったのは安曇ではなかった。
「……あっ」
つい、足が止まる。
目の前には、出雲の館から出てきたばかりの若い武人の姿があった。狭霧とほとんど変わらない若さなので、ここに集う男盛りの武人のなかで彼はかなり目立っていた。……高比古だった。
目が合うなり、狭霧はもはや癖のように身構えた。向こうも鬱陶しそうに眉をひそめるので、険悪な雰囲気を感じ取るなり、狭霧の足の歩みはますますおずおずとして小さくなった。
高比古は、露骨にいやそうな顔をした。
「なにやってるんだ、こんなところで。あんたがここになんの用があるんだ」
(それは、そのとおりなんだけどさ)
ぐっと詰まるものの、ありったけの気合いを振り絞って、はにかんでみた。
「安曇を探してるの。どこにいるか知ってる?」
「安曇なら、大国主のそばだ。あの人は大国主の側近中の側近なんだから。あんたの世話係とでも思ってるのか」
高比古は眉根を寄せ、そうかと思うとふっと唇の端を吊り上げて意地悪く笑った。
「安曇になんの用だ。今度はなにをする気なんだ」
口調の陰では、次はどんなばかげたことを考えているんだ?と、彼は狭霧を嘲っている。
そんなふうにされると、なんとかうまくいって場をしのごうとするような余裕などはなくなってしまう。狭霧にできたのは、素直に想いを暴露することだけだった。
「あの、戦へいきたくて」
「はあ?」
「とうさまがいく場所を見てみたいの。そうすれば出雲のことがわかる気がして」
面食らったふうに真顔をした高比古は、小さく唇をあけたまま、しばらく言葉を発しなくなった。
(また馬鹿にする気なんでしょう? 苦手よ、この人)
沈黙が痛くて、狭霧はつま先にぎゅっと力を込めて時が過ぎるのをじっと待った。
やがて、高比古はぴくりと頬を揺らす。それから。
「あっはっはっは!」
なんと大笑いをはじめた。しかも、豪快な笑い声はしばらくやまなかった。
狭霧のほうが驚いて、身構えつつも高比古の妙な笑顔に見入るしかない。そのうち高比古は、肩を震わせたまま狭霧を見つめる。それから、思いもよらなかったことを口にした。
「おれがいま連れていってやろうか?」
狭霧は目を丸くした。
「あなたが?」
「ああ。安曇に頼んだって、あの人にそんなひまはないよ。だから、おれが」
「いいの? 本当に?」
期待で目を輝かせて狭霧が念を押すと、高比古は微笑む。
「ただし、連れていくのは戦が終わったばかりの野原だ。あんたみたいな姫を、戦に連れていけるわけがない。戦は命を賭ける場所だ。戦を見たいっていっても、命を賭ける覚悟はないだろう?」
尖った言葉はそこかしこにあるものの、彼の横柄さにはいい加減狭霧も慣れてきているようで、そこまで気にならなかった。それより、期待が勝った。
(こんなにうまくことが運ぶなんて。しかも、この人がわたしの面倒を見てくれるなんて)
狭霧は高比古の笑顔から目を離せなかった。なにしろ彼は、いつも狭霧にはつらく当たるばかりで、こんなふうに笑顔を向けられたことなどなかったのだ。
「なら、決まりだ。馬屋へいこう」
先に歩き出した高比古が振り向くので、狭霧は夢中で追いかけた。
「うん!」
馬屋で馬と鞍を物色しているあいだも、高比古は笑っていた。それは鞍を扱う狭霧の手つきが、それなりに慣れていたせいだ。
「馬には乗れるんだな。王族のお姫様なのに」
「珍しい?」
「じゃあおれの馬にも、鞍は一人用のでいいんだな?」
「乗せていってくれるつもりだったの?」
「馬鹿にしすぎたかな」
高比古はくすくすと笑う。それで、狭霧の頬も緩みっぱなしだった。
(この人、ちゃんと笑うんじゃない。もしかして、ものすごく人見知りをする人なのかしら)
仲良くなることは永久にないだろうと思っていた相手との遠出は、不思議とくすぐったい気分で、嬉しくもあった。厄介ごとのひとつが溶けていくようで……。
鞍にまたがったまま馬屋を出て王宮の正門へ向かうと、高比古は馬上から門番へ告げる。
「すぐに戻る」
彼がするのは、いかにも高い身分の男がするような傲慢な態度だ。
でも、門の左右に立っていた門番たちは、自分たちより一回り齢が若い高比古へ向かって、深々と頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
そうやってかしずかれるのがさも当然とばかりに、高比古は頭を垂れた門番と目も合わせずにそばを通り過ぎる。
彼の態度はやはり横柄だ。でも、図々しいという文句を思い浮かべるだけでなくて、納得させるだけの自信じみたものが、彼にはみなぎっていた。
(苦手だけど……高比古って悪い人じゃないもの。頭が良くて、この若さで安曇やほかの武人と渡り合うほどの力がきっとあって……)
自分の先を歩む高比古の背中がやたらと頼もしく見えて、狭霧は微笑んだ。
そのうちに高比古がちらりと振り返る。
「しばらく走る。ついて来い」
「うん」
狭霧は応えて、馬の腹を蹴った。
その様子をたしかめて、高比古はふっと笑った。でも……目の奥は笑っていなかった。
野道の早駆けは爽快だった。
王宮を出てしばらく駆けると、野道は美しい水際に沿う。ここへ来るときに高比古が狭霧に教えた湖、淡海だ。陽が傾いていたので、日差しは黄金色に染まり、光が撫でるすべてのものに煌めきと陰をつくっている。淡海の水面も例外ではなくて、湖面は金色の波模様を浮き上がらせて、美しく輝いていた。
「きれい!」
美しい湖と、その向こうで白ずんだ陰になりゆく異国の山影。
頬のそばを通り抜ける清らかで冷たい春の風。どれもすがすがしい。
そうやって狭霧がはしゃごうが、高比古はちらりと振り返るだけで応えない。
そして。高比古は手綱を器用に操り、少しずつ速度を落としていった。倣って狭霧も馬足を遅めていく。
(着くんだ、戦が原へ)
興奮で鼓動は早まっていく。でも……。その一呼吸後に、高比古が狭霧を振り返った。その眼光の鋭さといえば、抜き身の刃の切っ先じみていた。
狭霧は息を飲んだ。その瞬間、気づいた。
高比古が屈託のない笑みを浮かべていたと思ったのは、狭霧の勘違いだったのだ。
彼は、心から笑っているわけではなかった。
でも、気づいたからといってその理由も狭霧にはわからない。
(なぜ? なにを考えているの? わたしになにをする気?)
たちまち不安が胸で渦を巻き、それから騙されたことに愕然とした。
駆けるのをやめた馬の
眼前に広がった野原には、大勢の人間がいた。ただ、そのほとんどが地面に倒れて草陰に身体を隠していたので、遠目からは気づかなかっただけだった。
(……戦が原)
その言葉が目の前を覆って、真っ暗にしてしまう。気が遠のきかけて、狭霧の指は手綱の操り方すら忘れた。
茜色の美しい西日が禍々しい血の色に見えるのは、狭霧だけなのか。
(怖い、止まって。なぜそんな場所へわたしを連れていくの)
必死に胸の中で呼びかけるが、先をゆく高比古には止まる気配がない。彼のまたがる馬の蹄が、草むらに倒れる誰かの身体に触れそうなほど近づいて、ようやく彼は手綱を握り締める。そして、狭霧を振り返った。彼はやはり微笑んでいた。
「ようこそ、戦が原へ」
目が合うなり、狭霧の目は潤んでしまった。
彼の笑顔の向こうにあった彼の胸のうちに、とうとう気づいたのだ。
高比古は、狭霧を馬鹿にしていた。
巻向の、出雲の館の前で鉢合わせたときからずっと。いや、思い返してみても、その前からずっと。
狭霧を振り返る高比古は微笑んでいたが、その目は。笹の葉の先のような鋭い目もとには、狭霧へのいたわりなど皆無。それはただ、動揺する狭霧を面白がっていた。
「今日は圧勝だった」
戦の後。国同士の殺し合いの名残が色濃く残る野原の惨状を見つめて、彼は誇らしげに唇の端を吊り上げた。
「あんたのとうさま……大国主と戦に出たのは久しぶりだったが、あの方の指揮は本当に素晴らしい。命を賭けるなら大国主にしたいと、心から思わせる」
もう一度狭霧を振り返ると、彼は意味ありげに目を細めた。
「凄い男だぞ、あんたのとうさまは。どうだ、ここへ来て少しはわかったか? 大国主と出雲のことは」
それは皮肉だ。来たところで、どうせあんたには理解できまい。彼の目はそういっていた。
意地悪い視線は、ぐさりと狭霧の胸に突き刺さり、えぐり……。
(いい人だと思ったのに。苦手だけど、いい人だって……)
精一杯信じたのに、裏切られたむなしさ。それに、目の前の惨い光景は追い討ちをかける。
手綱を握る指も目も頬も、すでに震えていた。目を覆って泣き出してしまいたい衝動を必死でこらえて……。
狭霧の頭のなかはいまやめちゃくちゃで、すべてを投げ出して泣き叫んで、出雲へ逃げ帰りたい。そこまで脅えていたのに、狭霧の目は、戦場の光景の中に奇妙なものを見つけてしまった。
野に伏している者たちは、おそらくすべて死んでいるのだろうが、死者の身体のそばを踏み歩く出雲の武人がいた。彼らは、死体のなかから誰かを探している。しかも彼らの手には、剣や矛がある。……いったい彼らはなにをしているのか。想像のつかない狭霧にとって、彼らの存在は異様なものでしかなかった。
「……あの人たちは」
ぽつりと問うと、高比古は冷笑を浮かべた。
「とどめをさしてるのさ」
「……敵に?」
「まさか。味方にだ」
明らかになっていく暗い現実に、狭霧の胸の奥はぞっと凍りついたようになった。
「味方に? 出雲の仲間にとどめを?」
高比古の顔からも、じわじわと笑みが消える。彼は慎重に声を出した。
「助からない傷で死を待つほど苦しいものはないんだ。だから、仲間は殺してやる。敵は……放っておく」
高比古の言葉を胸で反芻するなり、恐ろしさで喉が引きつった。
(助かる見込みのないほどの傷を負った仲間は、殺してあげる。助からない敵は、苦しませたまま見殺しにする。……これが、戦)
胸が詰まって息をするのが苦しい。胸も腹も痛い。寒い。
「……いや、いやだ」
狭霧は青ざめて、小刻みに顎を振る。それから手に触れるものがすべて恐ろしいとばかりに手綱を放り投げると、崩れ落ちるようにして鞍の上でぐらりとよろけた。足を乗せていた
「ばか……!」
たちまち高比古が血相を変えて、鞍を下りた。大きな跳躍で狭霧のもとへ駆けつけた彼は、狭霧の身体を支えようと腕を伸ばした。
でもそのとき、狭霧はすでに自分がなにをしているのかよくわからなかった。鞍から下りて地べたに膝をつくと、そこで息絶える大勢の死体と目が合ったような気がして。
彼らから恨み言を投げつけられる気分で、狂ったように泣き叫んでしまった。
「ご、ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! 助けて、ごめんな……」
誰に向かってなにを謝っているのかもわからなかった。それなのに。
「落ち着け、狭霧」
後ろから羽交い絞めにしてくる高比古の腕は、乱暴だった。そのうえ声には、ざまあみろという暴言が隠れている。それに気づくやいなや、それにも狭霧は半狂乱で叫んだ。
「どうして……! わたしをいじめて、なにがそんなに楽しいの! わたしが大国主の娘だから? ……そんなんじゃない、わたしはとうさまの娘なんかじゃない。出来損ないの、ただの子供だ……!」
狭霧は、声が割れるほどの悲鳴をあげた。
高比古と狭霧の騒動に、とどめをさしにやってきたという出雲の武人たちも気づいた。彼らは疲れきった暗い顔を上げて二人を見たが、狭霧の悲鳴に目を向けたのは彼らだけではなかった。
「大国主の娘……」
死者が死の国の言葉で呪詛を吐き、動いた。そう、たしかに狭霧は思った。
異国の戦装束をまとった男が、狭霧の背後でじわじわと起き上がった。出雲に命を奪われて、冷たい地面に伏していたはずなのに。
彼自身のものか誰かのものか、男の顔は血を浴びて真っ赤に濡れていて、そのうえ……。狭霧は男の身体を見るとのけぞった。男は片腕がもげていた。それを奪ったものはきっと、出雲の刃に違いないのだ。
死の淵から蘇った敵国の男の目には、恨みしかなかった。男は、残っていたほうの腕で剣を拾うと、狭霧へ向かって振り下ろそうとした。
「死ねぇ、我が友の報いを受けよ……!」
だが、狭霧を背に庇って進み出た少年がいた。高比古だ。
「死に損ないが」
高比古は死に掛けた男とは比べものにならない速さで剣を抜くと、あっというまに男の胸を突く。鎧のつなぎ目を狙って剣を深々と突き刺すと、伊邪那の武人は白目をむいて膝を折り、再び地面へと倒れていった。――狭霧に死に顔を見せつけて。
「……っ」
狭霧は、自分も息が止まったと思った。
息の仕方が、手足の動かし方が思い出せなくなり、がくがくと顎を振り、肩を震わせて。涙が溢れてぼやけた視界のなかでは、真っ赤な血の色に似た色濃い夕焼け空が、さらに狭霧を責め立てた。
「……いやあ!」
身体を折り曲げて、狭霧は絶叫した。
「おい!」
後ろから力ずくで押さえつけようとする高比古の腕までを、力の限り押しのけて。
暴れながら狭霧は、戦が原の惨状に見入った。自分を痛めつけたかった。
目の前の光景には、胸の奥からこみ上げる幻も浮かび上がって重なった。
戦の熱気に酔いしれる出雲の軍勢と、それを導く武王、大国主。そして、馬上から軍勢を振り返り、大弓を掲げて微笑む刃の女神……母、
でも、須勢理の幻はすでに遠い場所にいた。狭霧が手を伸ばそうが馬を駆って追いかけようが絶対に追いつけない場所にいて、そのうえさらに遠ざかっていって小さくなる。
「……あ」
狭霧は夢中で胃の腑のなかのものを吐き出した。
戦を知った。それはあまりにも凄まじかった。
戦で出雲軍を率いたという刃の女神、母の存在はあまりに遠かった。
これまでどおりに憧れるべきか、そうでなければどう感じるべきか。
それすら自分で決められないほど、戦は恐ろしかった。
(わたしは出来損ないだ。ごめんなさい)
ひたすら狭霧は、知らない誰かに向かって胸のなかで謝り続けた。
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