青海原と、夜の光 (2)

 報せを受けてやってきたのは、安曇だ。


「本当に、あなたは! ……ああーっ!」


 安曇の小言は、声にならなかった。それでも彼は、小船の上で縮こまる狭霧に腕を伸ばすと抱きかかえて、好奇な眼差しの真ん中から助け出してくれた。腰まで海に漬かって、ざばざばと脚で水を掻いて、狭霧を浜へと運んで――。


 そこまで来ても、まだ安曇は言葉にならない息を吐くだけだ。彼はひたすら呆れていた。


「どうして、なぜ、ここに……ああーっ!」 


「ごめんなさい!」


 狭霧もそれを繰り返すだけ。なにしろ……。


 どうしてこんなことになってしまったのか。


 いまいち自分でもよくわかっていなかった。






 出雲からやってきた軍船がつながれた港の奥には、松原があった。


 柔らかい砂地には大勢の兵が思い思いに寝転んでいて、布で屋根をつくった簡素な休息所、天幕もいくつか建てられている。


 安曇が狭霧を連れて向かったのは、そういう天幕の一つだった。


 中から出てきたのは、仏頂面をした高比古。


「で。なぜおれが」


 ひととおり事情を説明されると、彼は相変わらずのしらけた目で、安曇の背後で小さくなる狭霧を見やる。でも、狭霧のほうも同じ意見だった。


(なんで、こいつが)


 できれば、彼とは二度と関わりたくなかったのに。狭霧は目を逸らして、ひたすら足元の砂を見つめていた。


 安曇は多少慌てていた。


「すまないが、狭霧を頼むよ。私は忙しい」


「あんたが忙しい身分なのはわかるが……おれだってひまなわけじゃ。姫の世話なんか、下っ端のひまそうな兵にやらせれば……」


「飢えた男の中に狭霧を放り込めというのか?」


「おれならいいのか?」


 高比古がこめかみをぴくりとさせるので、安曇はおだてるようにも次々といった。


「なんというか、おまえは男臭いところがないというか、野獣めいたところがないというか。安心できるというか」


 でも、それは結局褒め文句にはならない。


「はあ!?」


「すまない! ばかにしたわけじゃないんだ!」


 高比古が眉をひそめて食いかかるので、安曇は調子よく謝った。


「頼むよ。下の兵に頼んだところで、狭霧を外で寝かせるわけにいかないよ。石玖王いしくおう名椎王なづちおうに頼むわけにもいかないだろう?」


 安曇がそこまでいうと、高比古は渋顔のままでそっと松原へ目をやる。そこにはほかの天幕が建っていたが……。そこにあるのは兵を従える立場にある戦の君たちの詰め所と、大国主や小国の王たちなど、高比古や安曇よりよほど格上の武人のための天幕だった。


 戦の旅の途中、天幕の中で休める者はそう多くない。いま安曇が口にした、石玖王や名椎王や……名のある王たちに、狭霧のために天幕を明け渡せなどといえるはずがないことを、高比古は承知していた。


「……わかりました」


 渋々と高比古がつぶやくと、安曇はほっと息をついて口早に告げる。


「とにかく、二日だ。巻向まきむくまでいけば向こうで侍女を雇うから。じゃあ、頼むよ。穴持なもち様に呼ばれてるんだ。ああ、忙しい!」


 安曇はそそくさと去っていくが。高比古は、安曇の背中を見つめてぼやいておくことを忘れなかった。


「逃げたな、あの男」


 愚痴を吐いてから、高比古は目の前に取り残された狭霧を見下ろした。


 二人の目が合ったとき、狭霧はかなり身構えていて、顔も渋面をしていた。


 でも、不機嫌なのは、高比古のほうも同じだった。凄まじく機嫌悪そうに舌打ちをすると、彼は足早に天幕を出てしまう。そばの砂地にしゃがみ込んだ彼は、狭霧をぎろりと睨み上げた。


「中を使え。おれは外で寝る」


「その、ごめんなさい。あなたの寝床を奪うことになって」


 渋々ではあったが、それは事実に間違いなかったので、狭霧は謝っておく。それから、念のため尋ねておいた。


「あなたはここで寝るの? わたしのすぐそばで?」


 そうでなければいいと期待を込めたが。冷ややかな目つきで見上げる高比古は、また舌打ちをした。


「いまのやり取りが理解できなかったのか? 安曇はおれに、あんたを守れと命じたんだ」


 相変わらず、彼のいい方はきつい。彼は目を逸らして横顔を見せつけたが、最後にいい放った言葉は、狭霧を斬りつける武具のように刺々しかった。


「生まれだけは極上なくせに馬鹿なやつは、大嫌いだ」


 生まれだけは極上の馬鹿。


 散々ないわれようだった。でも、狭霧はいい返せなかった。


 とぼとぼと天幕の中へ足を踏み入れると、力なく膝をついて横になる。


(どうしてこんなことになっちゃったんだろう)


 暮れてゆく空には、白い煙が立ち上っていた。


 松林の向こうの浜には、焚き火がいくつもできていた。そこには、千人とも二千人ともつかない、途方もない数の兵すべてのための飯をこしらえる即席の竈(かまど)ができていた。


(そうよね。ごはんを食べるものね、みんな)


 王宮の炊ぎ屋で働く女たちのような真似を、体格のいい男たちがしているのは、狭霧の目には不思議な光景と映った。でも、これも戦の光景のひとつだ。それに気づくと、ほんの少しだけ満足した。


(わたしは戦のことが知りたかったんだもの。出雲のことが)


 安穏と立ちのぼっていく幾筋もの白い煙を見つめて、天幕の中に敷かれた粗い織物に横たわる。


 そうしているうちに、目の高さに果てしなく広がる地面を踏んで近づいてくるつま先が見えた。軍旗と同じ黄色に染められた紐で飾られた、美しい革のくつ。それを履いて歩み寄ってくる脚。……高比古だった。


 天幕の入り口で膝をつくと、高比古はそっと椀を差し出す。中には粥が盛られていた。


「飯だ。これしかないから、まずくても食っておけ」


 態度は依然として横柄だ。でも、どうやら本当に世話を焼く気でいるらしい。


「……ありがとう」


 起き上がって礼をいうが、高比古はもう背を向けてしゃがんでいて、自分の粥をすすっていた。


 




 戦の野営で天幕をあてがわれるのは、指折りの身分をもつ者だけだ。……とはいえ。


 天幕の底布は固いしへんな臭いがするし、身体にかける布も粗い。はっきりいって寝苦しい。


 夜中に目を覚ました狭霧は外を覗くが、たちまち息を飲んだ。


 天幕の周りには、途方もない数の兵たちが伏していた。木の根を枕に、もしくは鎧や篭手をうまく使って。彼らは、冷たい地面を覆う落ち葉のようになって寝転んでいた。


(一日中移動して、野山で休んで。戦ってこんななんだ)


 狭霧にこみ上げるものがある。それは、地位ある武人であろうがそうでなかろうが、どの兵にもおなじく降りかかる労苦への敬意に近かった。とにかく、王宮で暮らすだけでは知りえなかった想いだ。


 それからふと、寝静まった暗闇のなかを動く白い影を見つけた。


 背格好を見ただけで、狭霧はそれが誰のものなのか気づいた。どちらかといえば細身の少年の後姿……高比古だった。


 天幕の前をたしかめても、高比古の姿はさっきまで彼が寝そべっていた場所から消えていた。


(こんな夜更けにいったい、どこへ)


そう思うと、狭霧は天幕を抜け出てしまった。




 


 周りの地面は、寝入る兵たちの身体で足の踏み場もないほどだったが、慎重に避けながら、狭霧は白い影になる高比古の背中を追った。


 松林を抜け、暗い砂浜をいき。高比古は、浜の端、遥か先にそびえる岬の付け根となった崖際へ向かっているようだった。


 出雲軍の野営となった砂地にはいくつものかがり火が焚かれていたが、彼を追っていくうちに、その火明かりはずいぶん後ろに遠ざかった。人の営みのある場所から離れてしまうと、暗い夜の海の寂しさが増して、ざざ、ざ……という波の音が覆い隠していた足音も、しだいに耳につくようになる。


 そのせいか。


 眼前にそびえ立つ崖の手前で歩みを止め、暗闇を見つめていたはずの高比古が、急に振り返った。まだ狭霧は、ずいぶん離れた場所にいたというのに。


「なにをしに来た!」


 彼は目を剥いて怒鳴った。表情も恐ろしかったし、口調も、これまで耳にしたどれより荒い。気後れはしたものの、狭霧はつくり笑顔を浮かべて、海風で湿った砂を踏みつけながら彼のそばへ寄った。


「どこへいくのかと……」


「くだらない……!」


 高比古は、唾を吐き捨てるようないい方をした。


「なんで、あんたみたいのが大国主の娘なんだ。なんであんたみたいに、考えなしにふらふらしてるようなやつが……」


 彼はやはり、狭霧を罵った。でも、なぜだかいまの狭霧は、それに悔しいと思うことすらできなかった。


 夜の海辺に漂う妙な寂しさのせいか、それとも。


 理由はわからなかったが、いい返すどころか、狭霧の目は潤んでしまった。


「いいすぎよ。わたしだって、好きでとうさまみたいな偉い人の娘に生まれたわけじゃないわ。わたしだって……」


 そんなにいじめないでよ。


 誇りのようなものまでかなぐり捨てて、すがりつくようにもいったのに。高比古は舌打ちするだけだった。


「虫唾が走る。あんたにできるのは、目の前にあるものを恨むことだけか」


「……そんなにいわなくたって」


 狭霧はとうとう袖で顔を覆って、うつむいてしまった。


 さすがに気がひけたのか、高比古はそれ以上の言葉を飲み込んだ。


 でも、しばらく黙るものの、やはり冷ややかないい方で命じた。


「早く戻れ。いいから」


「でも……。あなたはここで、なにをするの」


「知ってどうする。あんたになにができる!」


 恐ろしい形相で、高比古は脅すようにも責めてきた。彼の態度は、その剣幕に脅えて狭霧の身体が動かなくなるほどで、結局、彼がいったように野営へ戻るどころか、かえって狭霧の足はすくんでしまった。


 高比古は何度か、ちらちらと視線をさ迷わせた。それから顎を小刻みに振って、落胆の息を吐いた。


「くそ……もう間に合わない」


(なんのこと?)


 狭霧はわけがわからず、涙の粒を頬に残したまま、高比古の表情をうかがおうとした。でも、見つめる先で、高比古は狭霧のもとへずかずかと近づいてくる。


(殴られる!)

 

 勢いと表情が怖くて、思わず目をつむった。でも、そうではなかった。


 狭霧の目の前までやって来た高比古は、両手でがっしりと狭霧の肩を掴んだ。それから、とても近い場所からまっすぐに狭霧を見つめると、懇願するようにもいった。


「いいか。絶対に逃げるな。なにを見ても脅えるな」


「見るって、なにを」


 かろうじて尋ねるが、高比古は答えない。一度ちらっと背後を見やると、彼は暗いため息を吐いた。


「あいつの狙いはおれだ。脅えさえしなければ、あんたは襲われない。身構えていろ。しばらく隙をつくるな」


「あいつ?」


 狭霧は高比古が気にしている先に視線をやるが……絶句した。


 二人が立ちすくむ崖の先には、なにかがいた。寂しい海風に吹かれた波打ち際の暗がりで、青白く輝きながら、それはじわじわと蠢いていた。いや……こちらへ近づいてきている。


たった一瞬目にしただけで、狭霧は息が止まるかと思った。


(物の怪……)


 目の裏に突如として蘇ったのは、母が死んだときの光景だった。


 母、須勢理を死へ呼んだのは、弟の死霊だった。


 母が息を引き取ったあのとき、狭霧は大切な人を死の世界へ連れていく恐ろしい死霊の存在を知った。


 そして……まさにいま目と鼻の先にいるのは、幼い狭霧に絶望や恐怖を突きつけたのと同じものだった。死霊だ。


「どういうこと、襲われるって……!」


 狭霧の声は上ずるが、すぐさま高比古は威喝する。


「脅えるな! ここまで来たのは自分だ!」


 びくっと狭霧は身体を震わせる。


 いい方は厳しいが。高比古がいうのは、たしかにどれも間違いではなかった。


 自分の非を認めるしかなくて、でも恐ろしくて。狭霧はがちがちと歯を鳴らす。


 そのうちにも、恐ろしい青白の影は宙を滑るようにして二人のもとへと近づいてくる。


 それとの距離を横目でたしかめながら、高比古は狭霧の肩を掴んだままで、落ち着かせるようにわざとゆっくり声をかけた。


「怖いなら目を閉じていろ。あいつの狙いはおれなんだから」


 彼は、狭霧を庇おうとしていた。


 狭霧がかくかくと首を振ると、高比古は狭霧の肩からそろそろと手のひらを離して、数歩遠ざかる。


 それから彼は、両手を広げて迫り来る光を待った。


 結局、狭霧の目が閉じることはなかった。


 怖いは怖いが、これからなにが起こるのかが気になって、不安で。


 涙ぐんだままで、狭霧は高比古の仕草一つひとつを追った。


 ギョオオオ……。


 風に似ているが同じではない、不気味な唸り声。それが狭霧の耳に届きはじめる。


 近づいてくると、青白い影は思った以上に大きくて、大きな船ほどはあった。高比古はあえて狭霧から離れていたが、それでも影が彼に近づくにつれて、不気味な影は狭霧の頭上にも手をのばす。死そのものが形を得て、すぐそばにいる気分だった。狭霧は身の毛がよだっていまにも悲鳴をあげそうになるが、狭霧の耳には高比古の罵声がこだましていて、それがどうにか唇を塞いでいた。


 脅えるな、ここまで来たのは自分だ。


 言葉の強さにつられるように狭霧は自分の身体を押さえつけて、叫びだしてしまいそうなのを精一杯こらえる。でも、目だけは高比古の姿から離れなかった。


(なに、なんなの、これ)


 高比古も狭霧も、夜の浜辺すらも包み込もうと手を広げる恐ろしい影は、間違いなく死や怨念と呼ぶべき不吉なものだ。少なくとも、すがすがしいものでは絶対にない。それなのに。


 不気味な影と差し向かう高比古は、なんとも美しい微笑を浮かべていた。


(……笑ってる)


 狭霧が高比古の笑顔を見たのは、それがはじめてだった。


 細い顎をわずかに上げて怨念の中心を見据える高比古は、それをまるごと抱きとめるように両腕を広げていた。


 青白い影は、引き寄せられるようにして高比古に近づくが、やがて悲鳴のような音を漏らした。


『光よ、清きものよ。我を清めよ』


 それが夜の浜に恐ろしく響いても、高比古は包みこむような温かい微笑を崩さなかった。


「おれはここだよ。来いよ。生への未練など、すべておれに置いていけ」


『……助けて』


 最後に影は、救いの手に安堵したふうにつぶやき、その後。


「きゃ!」


 狭霧は目を覆って身構えた。突然、恐ろしい影をまとった風が嵐のようにあたりに吹き荒れたのだ。


(……高比古は)


 我に返るなり高比古の姿を探すが、すぐに狭霧は涙ぐんでしまった。


 狭霧が感じた嵐の真ん中に、高比古はいた。そのうえ、彼の身体はつむじ風に姿を変えた死霊の渦に翻弄されていた。温かい笑顔を浮かべていたはずの顔は苦痛に歪み、苦しげな呻き声を漏らしていて、彼のほうこそが、死にゆくさなかの人のように見えていた。


 たちまち脳裏に母の死の光景が蘇って、狭霧は青ざめた。


「高比古、高比古!」


 とりつかれたように名を呼ぶが。死霊がつくりだした風の渦のなかで揺らめく高比古は、わずかに頬を動かして風の壁越しに狭霧を探すと、鬱陶しそうに目を細めた。


「ばか、怖いならわざわざ見るな」


 風の音にかき消されたせいで声は届かないが、唇の動きはそういっていた。


相変わらずの毒舌だが、仕草に力はなく、狭霧に聞こえたのはむしろ、死に際のような吐息や呻き声だ。高比古は風のなかで、死に掛けているように見えた。


 やがて、時が過ぎて。浜に満ちていた恐ろしい気配が、少しずつ薄れていく。それどころか、神々しいとまで感じる光のようなものが、寂しい海辺の暗がりにきらめきはじめた。


(幻?)


 高比古の周りで輝く光の粒を、狭霧は目で追うが、どうやら見間違いではなさそうだ。吹き荒れていた死霊の嵐は弱まり、そこには美しい光が溢れはじめていた。


 彼の身を宙でもみくちゃにしていた嵐が弱まっていくと、高比古の身体はふらりと傾く。それから、支えを失ったように、ゆっくりと砂地に倒れこんだ。


「高比古!」


 ドサッと音を立てて砂を巻き上げた高比古のもとへ駆け寄ると、狭霧は青ざめてしまう。高比古の身体からは生気が消えていた。まるで死んでしまった人のように。


 ぞっと背筋が凍って、我を忘れて呼び続けた。夢中で肩を掴んで揺さぶった。


「高比古、高比古……!」


 しばらく経ってから、ぴくりと高比古の頬が揺れた。それから彼はわずかに目を開けて、狭霧を探した。


 目が合ったのはほんのわずかなあいだで、すぐに高比古は、ほっとしたように目を閉じた。






 とりあえず死んではいないと胸を撫で下ろすものの、狭霧はどうしていいかわからない。


(野営に連れていかなきゃ。でも、わたし一人で運べるかしら。人を呼んでくるべき? ううん、ここに高比古を一人で置いていくのはいやだ。またさっきの恐ろしいものが襲いに来るかもしれないのに)


 遠く離れたせいで小さくなったかがり火や、平穏を取り戻した暗闇や、彼方で夜空と混じる真っ黒な水平線や。あてもなく視線をさ迷わせながらああでもない、こうでもないと、狭霧は焦った。


 でも結局、狭霧がなにかを決める前に、高比古が再びまぶたをおし上げた。


 ふらついていたが、ゆっくりと身体を起こしもする。


「だ、大丈夫なの?」


「倒れていたいさ。でも、あんたをこんなところへ置いたままで眠れないだろうが。あんたを天幕へ戻して、天幕の前でもう一回倒れる」


 ため息を吐きながら、彼はやっぱり憎まれ口をきいた。じわじわと膝を立てて立ち上がると、かかとをひきずってみずから砂浜を歩いた。


「あ、あの……わたし、手伝うから」


 せめて高比古の背中を支えようと腕を伸ばすが、すぐさま振り払われてしまう。


「余計な世話だ」


 それから野営の天幕へ戻るまでも、高比古のつく悪態が途切れることはなかった。


「ったく、邪魔ばっかりしやがって」


 でも、狭霧はいい返せなかった。高比古がいうのは間違いではないと、身に染みていたからだ。


 勝手に高比古を追いかけて、帰れというのも聞かずに踏みとどまって、そのうえ庇ってもらって。狭霧はただ震えていただけで、ろくに歩けなくなるほどひどい目にあったのは高比古だけだというのに。


 それに、目の奥には、死霊に向かっていたときの高比古の優しい微笑が焼きついていた。口は悪いが、高比古が真摯に狭霧の身を気にしていたことも、胸にはたしかに刻まれた。


(きっと悪い人じゃないんだ)


 胸のなかで唱えてうなずくと、


「ごめんなさい、ありがとう」


 心から謝って、感謝した。






 船団がたどりついた港は、出雲軍のための軍港だったのだそうだ。


 その周辺は、異国でありながら出雲の領地なのだとか。


 船をそこにつないで陸にあがった軍勢は、翌朝から山へ分け入る。細い山道をいくのに兵たちの列は細く長くのびるが、出発した朝から晩になるまで、軍列から余裕めいた雰囲気が薄れることはなかった。


 高比古の背を追って、狭霧も山道を進むが、時おり耳に入る兵たちの噂声からすると、ここは出雲軍にとって行きなれた道なのだそうだ。この道の先にあるのは巻向という国で、出雲人と祖を同じくする友国なのだとか。


 高比古は人を気遣うとか、そういう仕草を取り繕うとかいうことを一切しない人だったので、時おりあからさまに不機嫌になった。それでも狭霧が、一人では登れないような岩道にさしかかったり、疲れて歩幅が小さくなったりすると無言で腕を差し伸べてくる。


「最悪だ。なんでおれが」


 そのたびにこういう不満を漏らし、言葉どおりの渋顔で狭霧を睨んでいたけれど。


 




 山に入って三日目。この日の道は、進むにつれて上り坂がきつくなる。


 だが、あるとき、一気に視界が開けて、目の前には息を飲むほど美しい景色が広がった。


「うわあ……!」


 足に溜まった疲れも忘れて、狭霧が思わず歓声を上げたほどだった。


 一行は、山を登りきっていたのだ。足元にはなだらかに広がる山の裾野があって、その向こうにはきらきらと輝く美しい湖が横たわっていた。海のように広いが、狭霧がよく知っている海の青さとは色味が少し違う。緑色に息づく山々に囲まれて、狭霧が見つけた水面は、海より清らかに澄んでいた。


淡海あわうみだよ」


 息を飲む狭霧のそばで、説明をしたのは高比古だった。


「淡海?」


「ああ。巻向を潤す水の要。内陸に栄えるいくつもの都をつなぐ水の道でもある」


「水の道?」


 狭霧はきょとんとして、高比古の真顔と眼下の湖とを見比べた。


輝く水面には、小船がいくつも浮かんでいる。きっとそれらは漁をするための船で、そのようにいさり船が点々と浮かんでいるということは、この湖はきっと、魚や生き物が豊富な豊かな場所なのだろう。そういうことは理解できたが、高比古がいうような「水の道」という考え方は、狭霧には無いものだった。


(道? 水が?)


 よくわからなくて口を閉じていると、狭霧の困惑を見越した彼が、再び唇を開く。でも、その時の彼の態度は、王の娘のくせにそんなことも知らないのかと馬鹿にするようだった。


「海も水海も川も、どれも道となりうる。道は、王宮や砦や集落を築くのに深慮すべきもののひとつだ。どこに拠点を置いて、どこを通って、なにをすべきか。そういうことを考えるときに、大地をつぶさに見渡して、通るべき道や繋げるべきものを見出すのは、上に立つやつなら当然のことだろう?」


 正直なところ狭霧は、高比古がなにやら難しいことをいっているぞ、としかわからなかった。そして、狭霧はついっと高比古の横顔から目を逸らしてしまった。


(なんていうか)


 高比古は、出雲軍を動かす立場にある若者にふさわしく、聡明なのだろう。それはもう認めるしかなかった。が。


 なにか文句をいおうものなら、百倍にして返されるような相手なので、いまさらいさかう気も起きないが、なんというか……。


(高比古ってやっぱり、性格悪い)


 やはり、彼とは仲良くなれそうにない。狭霧はため息をついて、肩を落としてしまった。




 


 巻向の王宮にたどりつくと、門の前では安曇が待っていた。彼は一足先に着いていたようで、戦装束すらすでに脱いでいた。


 別れ際にも、高比古は愛想笑いすらせずにあっさりと背を向ける。


「せいせいする」


 でも、狭霧も同じ気分だった。


「ああ、良かった。離れられて」


 そして、心の底から安堵して息を吐いた。






 安曇は狭霧の先に立って、巻向の王宮を案内した。


 その王宮は、出雲の雲宮とはずいぶん趣きが異なる。雲宮の本宮、つまり、主である大国主の住まいとなっているような巨大な館は一つとしてなく、小ぶりな館があちこちに建っていて、山際の素朴な雰囲気に合う粗造りだ。


「あなたの寝屋はこっちです」


 安曇はこの王宮に慣れているようで、勝手を知ったふうに王宮を闊歩する。


 でも、安曇だけではなく、王宮へ入った出雲の武人たちもみんなそれは同じだった。いやにくつろいで見えて、異国に来ているふうには見えなかった。


 よく見れば、出雲の武人たちが主に集っているのは、王宮の中でもある館の周りだった。


 狭霧は尋ねてみた。


「あの館は、出雲の?」


「ええ。こちらにお邪魔したときには自由に使うようにと、巻向王が建ててくださったんだ。狭霧も会うといいよ。この王宮の主は須佐乃男様の御子で、あなたにも縁のある方だから。名は桂木かつらぎ様とおっしゃるよ」


「桂木様……」


 狭霧は反芻しておくが、気乗りはしなかった。


 それよりも、安曇に聞いておきたいことがあった。


「あの、とうさまはなにかいってた? わたしがここにいるっていうことは、お耳に入っているわよね」


 緊張して小さくなる狭霧に、安曇は苦笑で応えた。


「笑い飛ばしていらっしゃったよ。……私は叱られたけれどね。先読みが甘いって」


 そこまでいうと、冗談を続けるように安曇は口もとをほころばせる。


穴持なもち様は、女だ子供だという分け方をしない方です。いい機会だから巻向を見て帰らせろと、そうおっしゃっていたよ。だからといって、一人で出歩いてはいけませんよ。友国であれ、ここは間違いなく異国なんですからね」


「……そう。うん、わかった」


 狭霧の胸は、むずむずと弾んでいった。


 唇にも力がかよって、いつのまにかにんまりとした笑顔になっていた。


(とうさまが、うなずいてくれた。軍についてくるだなんて馬鹿な真似をしたのに、叱らなかった。わたしを許してくれた)


 そして、狭霧は手のひらを背中で組むと、跳ねるようにして安曇の後を追った。


 軽やかな足音を、異国の王宮に響かせて。



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