火の御子 (1)

 狭霧が雲宮へ戻って来てからというもの、また輝矢の館には朗らかな笑顔が戻った。


 ひとたび忍び込めば安曇に見つかるまで過ごす……ということはなくなったものの、狭霧は毎日輝矢のもとへ会いに来た。


 巻向から戻ってからの狭霧は、毎日のように兵舎へ通っていた。紫蘭しらん桧扇来ひおうぎが意宇の宮からしばらく移り住むことになったので、彼らから薬師の心得を習っていたのだ。


「わたしね、薬師くすしになりたいんだ。事代ことしろは不思議な力がないとなれないみたいだから、せめて薬草の使い方を覚えて、薬師に」


 そういって、狭霧は輝矢に力強く笑いかける。目には美しい輝きがあった。


 そして狭霧は、毎日のように日々の修練の内容を輝矢へ告げた。


「昨日はね、甘野老あまどころっていう薬草を習ったの。肌がきれいになる効き目もあるんだって。それに、すごくいい香りがするの、ほら」


 その日、狭霧は衣の隙間に干からびた草を忍ばせていた。差し出されるので、輝矢は鼻先をそれに近づける。


「本当だね、不思議な匂いだ」


 素直に感想を告げるものの、輝矢は実のところ、どう応えていいかわからなかった。


 そうやってしばらく時を過ごすと、狭霧は微笑んで戸口へ向かう。


「じゃあ、そろそろいくね。今日はまた別の薬草を教えてもらう約束なの。これで九つめよ。あと三月も通えば、百は覚えられるわ。そうすれば、わたしも薬師って呼んでもらえるかなあ?」


 それにも輝矢は、懸命に微笑んだ。


「……頑張って、狭霧」


 明るく手を振って、狭霧は戸を開けて出ていくが。


 狭霧が去ってしまうと、輝矢の館は再び貴人の牢屋へ戻る。


 たった独りの静けさは、輝矢には身を切りつけてくる刃のように痛かった。狭霧を見送るのに上げていた手のひらをじわじわと下ろすと、肩から力が抜けていく。それから、ここと外界とをふさぐ唯一の道を塞いでいる頑丈な戸を見つめて、うなだれた。


(三月後には薬師か。そのころ僕はなにをしているのかな。このままここにいるのか、それとも――)


 狭霧のように明るく前を見るなど、輝矢にはできなかった。


 なにしろ、彼は囚われているのだ。輝矢の前にあるのは、自分の望むままに開くことなど決してない屈強な扉。……暗い影だけだ。






 輝矢がぼんやりと過ごす時間は日に日に長くなった。


 日に一度、輝矢の館には人が訪れる。輝矢に世の中のことを教えに来る聖たちだ。


 それは、幼い頃からずっと続けられてきた大国主のはからいだ。いや、それだけではなかった。彼のために招かれる有能な聖に、立派な衣に調度品に……。敵国の人質という身の上のわりに、大国主は手厚く輝矢の暮らしを守ってきた。それは輝矢も身に染みてわかっていたし、感謝もしていた。でも……いまの輝矢にはそれも重荷だ。


 ひじりとは「日知ひじ)り」とも書き、もとは星読みをする占師うらしのことだったが、しだいに指すものが広がって今では賢者を意味する。


 いま輝矢の館に訪れている男も、星についてはさほど詳しくない。そのかわり彼は、国々の動きに詳しい。彼は最近出雲へ流れ着いたという話で、輝矢だけでなく大勢の出雲人に国々の話をして回っているのだとか。


 いまも出雲の隣国がどうだとか珍しい話をしてくれていたが、相変わらず輝矢は呆けている。さすがに彼は咎めた。


「輝矢様、どうなさいました。お気が逸れておられるか」


 彼の名は四尾しび。齢は三十半ばだ。


 それで輝矢ははっとする。一応謝っておいた。


「ああ、すみません」


 四尾はしばらく呆れたように黙った。


 それで輝矢は姿勢を正して、今度はより丁寧に、もう一度謝った。


「すみませんでした。ちゃんと聞きます」


 輝矢は四尾の目を見つめるが、しだいに恐ろしくなった。四尾の目がこれまでと変わったのだ。彼は、目の奥の深い場所に隠していた思惑をじわじわと輝矢に見せはじめた。


「……あの」


 輝矢は身構える。すぐさま四尾はそれを制した。


「静かに。小声で話しましょう」


 いい方も、ただの聖らしくはない。


 四尾は何度も背後の扉を振り返り、人の気配がないことをたしかめる。彼の隙のない仕草から、輝矢は察した。


(彼は出雲の敵なんだ。窺見うかみか?)


 窺見というのは、他国へ潜入して探りごとをしたり暗殺を謀ったりと、表舞台ではない場所で暗躍する者のことだ。この大乱の世では、そういう窺見が大勢国々を行き来しているという。


(窺見なら、どこの。まさか)


 輝矢は息をひそめて、四尾の仕草を追う。四尾は早口で、ひそやかに告げた。


「私の名は亥月いづき伊邪那いさなからまいりました」


 それは、輝矢の予想通りといえば予想通り。敵国の目を盗んで輝矢のもとへやってくる窺見など、故郷の者しかないだろう。でも、輝矢は唇を噛んで目を逸らした。


「では亥月。なにをしにここへ?」


「それはもちろん、あなたを助けに……」


「……信じられません」


 輝矢は眉根をひそめて声を振り絞る。


「では、あらためて聞きます。なぜいま? 伊邪那という名にすんなり飛びつくほど、僕は無邪気ではありません。僕を納得させる理由を」


 輝矢はいいながら自分で思い知った。


(僕は、いやなやつだ)


 知らないうちに輝矢は、ずいぶん用心深い少年に育っていた。


 亥月はそれを責めない。むしろ申し訳なさそうに頭を下げて、いっそう真摯な声で語りかけた。


「伊邪那はいま危ういのです。伊邪那王はすでに王宮を出て、離宮へお移りになりました」


「危ういって、出雲との戦で?」


「いえ……それだけでは」


 亥月はいい渋るが、ちらりと背後の扉を見やると再び早口で伝えた。


「あなたとは腹違いになりますが、伊邪那王の姫が、王宮を乗っ取ったのでございます」


「姫が?」


「はい。名は月読つくよみ。いまは天照あまてらすと名乗っておりますが、あなたの父王の初めのお后の姫君で、あなたとはかなり齢が離れていて、二十年近く前に異国へ嫁いでいらっしゃったのです。しかし、そこでなにごとかあり、乱をお企みになったようで、異国に声をかけて兵を集めた天照は、伊邪那の王宮に攻め入りました。天照の母君である王妃はそこでご自害なさり、伊邪那王は離宮へと逃げおおせました。あなたの母君とともに」


「……母上と」


 輝矢は顔をしかめた。


 顔も覚えていない母のことを聞いたのが気味悪かったのと、亥月が告げた恐ろしい話に。


 黙り込む輝矢に、亥月はなおも告げた。目尻では背後の扉の向こうを、ちらちらと見張っていた。


「すべて、ここふた月の間に起きたことでございます。それを知った出雲が、離宮とその周りに軍をおき、陣を張り……。いまや、伊邪那は――」


 そこまでいうと、亥月は悔しそうに唇を噛んだ。


(なるほど、だから)


 輝矢の頭のなかの霧は、少しずつ晴れていった。


(ここしばらく出雲軍が慌しかったのはそのせいか。いまのうちに伊邪那を滅ぼそうとしたんだ。そして、天照という姫の野心にひと杭打っておこうと。……うん、繋がる)


 亥月の言葉の真偽を胸でたしかめると、輝矢は落ち着いた真顔をつくる。それから、静かに尋ねた。


「では亥月。それで僕になにをしろと。出雲にいるのだから、出雲を内側から食い破れと?」


 いい方は亥月を脅すようだった。そんな都合のいいことを口にしてみろ……と呪詛を吐くように。亥月は慌てて顎を振った。


「違います、まさか」


 それから彼は、平伏した。


「私に窺見を命じたのは、あなたの母君なのです。いまや伊邪那に、かつての姿はない。あなた様がここに囚われることになんの意味もないと、みずからお助けにまいると申されまして……」


「母上が? ……みずから?」


「はい。あなたの母君、五佐波いさなみ姫は、かつて女武人として名を馳せた方。離宮へ移るものの、あなたのことを想うといてもたってもならぬとおっしゃられて、数人の武人を連れて伊邪那を出られました。いまは出雲の隣国、伯耆ほうきに……」


「待って、亥月」


 輝矢は顎を引くとこめかみを押さえた。


「僕の母上が、かつて名を馳せた女武人?」


 輝矢は懸命に言葉を飲み込もうとするが。どれもが輝矢の理解を超えていた。


「僕は母上がどんな人かだって知らないんだ。それほど長いあいだ会っていない。それなのに、僕を助けに伊邪那を出た?」


 あまりに飲み込めなくて、輝矢は口元に薄笑いまで浮かべた。


「しかも、すでに伯耆にいるだって? まさか……」


「どれも真実です、輝矢様。どうか私めに免じて、ここを……!」


 亥月は声に熱を込めるが、輝矢は首を振っていた。


「それが本当だろうと、僕にはできない」


「そんな……輝矢様!」


「おまえは、正体が明るみにならないうちにここを去るんだ。母上を伊邪那へお連れしろ」


「でも……」


「僕にはできない! 僕が逃げたときに大国主に母上の居場所が知られたら? 僕がこれまでどおり囚われていれば何事も起きない。……母上を道連れにするなんて、僕には――」


 輝矢は小刻みに額を振って暗い声を振り絞る。


 それを亥月は精一杯慰めた。


「なぜ、そのように悪いほうへばかりお考えなさる。母君はあなたとの暮らしを取り戻したくて、ここまでいらしたんです」


「でも……僕には――」


 輝矢は顎を引いてうつむくと、そのまま肩を震わせてしまった。……泣いているのだ。


 亥月は、ため息を吐いた。


「驚かれて仕方のないことです。ゆっくりお考えください。私が次にあなたのもとへまいるのは七日後です。それまでに」


 亥月は輝矢の様子を気にしていた。ほんの少し肩を震わせるだけで、輝矢は声も立てずに涙をこぼしていた。混乱と緊張にじっと耐える囚われの王子の姿は、亥月の目に痛ましいものと映った。輝矢を思いやった彼は、温かな声で慰めた。


「私は聖の姿に戻って、しばらく一人芝居を続けます。あなたに国々のことを教えているはずの私が無言でいるのを番兵に見咎められれば、一大事ですから。……どうか心を静めてください。惨い仕打ちを、どうか許してください……」


 それを聞くなり、輝矢はぐっと涙をこらえた。そうしないと自分の身の上がとんでもなく哀れなものに感じて、大泣きしてしまいそうだったからだ。


 こんなふうに同情されたのは、輝矢にとってはじめてだった。



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