大地の癒し手 (1)

 出雲の事代ことしろに繋いで、状況を伝えろ――。


 そういい残して意識を失った高比古は、最後まで狭霧の手首を握り締めていた。そこには、彼の力を移した黄色の染め紐がある。出雲の軍旗を染めるのと同じ、鮮やかな黄色にはっとするなり、狭霧は高比古の言葉の意味を解した。


 さっそく、手首を掴んだままの高比古の手のひらを、その外側からもう片方の手でさらに包み込んで握り締める。それから目を閉じて、がむしゃらに願った。


(お願い、誰か。紫蘭しらんでも桧扇来ひおうぎでもいい。お願い、助けて。高比古が――!)


 どんな言葉で、どんなふうに、何度繰り返したのかも覚えていられなかったが、ある時、頭にふしぎな針を突き立てられたと感じた。それはとても妙な気分で、月の光でできた細い細い針のようなものが頭に刺さった。そう思ったら、どこかと繋がった、繋がるべきどこかを見つけたと思った。そして、はっとした時、耳もとで風が囁いた。


『姫様……? 姫様ですか? 高比古様は……』


 紫蘭か桧扇来か、ほかの誰かか。聞いたことのある声だったが、誰かはすぐにわからない。


 これは、必ず尋ねておかねばならないことだ。そう思うと、有無をいわせぬふうに尋ねる声はきつくなった。


「狭霧です。あなたは誰? ごめん、わからないの。名乗って」


 相手はすぐに答えた。


『紫蘭です。いえ、姫様の声は、私だけでなくほかの事代にも届いています』


「ほかの事代にも?」


『はい。いったいどうなさったのです。高比古様は……?』


 狭霧が話している相手は一人ではないらしい。もしかしたら、出雲の事代以外にも聴こえている人がいるかもしれない。それは、つまり――?


 たちまち狭霧は、考えられうるあらゆることを恐ろしく思った。でも、きゅ、と唇を噛むと虚空を睨んだ。いまは、急を要する。悠長に悩んでいる暇はない。いくら高比古の力を借りているとはいえ、この力がどれだけ続くかはわからないし、なにより――。高比古の脈が一つ音を立てるたびに、毒が彼の身に回るかもしれない。


 すう……。息を吸うと、狭霧はゆっくりと唇を動かした。


「高比古は、毒針を射られました。毒の名は、亥殺しの紫毒と呼ばれているものだそうです。効き目を和らげる薬が要ります。すべての薬をかき集めて、船を借り、すぐさまこちらへ来てください」


『ど、毒……? 高比古様が……』


 たちまち狭霧の耳もとで、風がざわついた。それはきっと風が、狭霧の声を聞いた事代たちの悲鳴や焦りを伝えたのだ。狭霧は、きつい声でそれを咎めた。


「聞きなさい。わたしは高比古の力を借りて話していますが、どれだけもつかわからない。だから、口を挟まずに最後まで聞きなさい。いい?」


『は、はい。姫様……』


「わたしの声は、ほとんどの事代が聞いていると思っていいのね? なら、みんなに伝えます。誰か一人は、とうさまのもとへ走りなさい。笠沙の浜で、高比古が毒に倒れたと伝えてください。黒幕は大和の人のようですが、手を下したのは、おそらく隼人のどこかの部族の者です。高比古が倒れたことに怒って、火悉海ほつみ様が賊の後を追っています。相手が誰かも、数も、狙いもわかっていません。でも、なんであれ火悉海様に……阿多の若王に、高比古が理由で怪我を負わせるわけにいきません。……援軍をと、伝えてください」


 援軍を――。その言葉を告げた瞬間、身体の芯あたりがぞくりと震えた。


(またわたしは、戦を起こそうとしている――)


 前に遠賀おんがで感じた凍えそうになる寒気が、ふたたび蘇った。でも、いまは感じるべきではないと無理に目をそむけて、言葉を次いだ。


「では、すぐに支度を。とうさまのもとに走る者のほかは、薬を集め始めなさい。もし近くに阿多の巫女がいれば、亥殺しの紫毒のことを聞いておいてください。でも、こちらにも巫女はいるはずだから、これはできればでいいです。……わからないことはありますか?」


『いえ、いえ……姫様……!』


 狭霧の耳もとを吹きとおるふしぎな風は、一心に狭霧のほうを向いていた。そしてそこから、さきほどあった焦りや悲鳴は薄れていた。


(よかった)


 話しかけた相手が落ちついていることにほっとすると、狭霧の唇にはおのずと小さな笑みが浮かぶ。ひそかな安堵を、狭霧は最後の声に乗せた。


「以上です。あなたたちの助けを、ここで待っています」






 夜の山道を果敢にも駆けて、笠沙の山宮へ戻っていた鹿夜かやは、すぐに巫女を連れてきた。


「狭霧、高比古は……」


 高比古は砂浜に寝かされていたが、さきほどから一度も目をあけない。顔色が悪くなっていて、唇の色は紫がかって見えている。身体の痙攣はおさまるどころかひどくなり、時おりびくっ、びく……と腕や背が大きくのけぞった。


 高比古のそばに膝をついた鹿夜は、青白い顔を覗きこむなり涙ぐんだ。


「紫毒の最後のしるしだわ。こうなってしまったら、あとは弱っていくだけよ。……もう助からないのか」


「鹿夜さん?」


 それを狭霧は、きつく咎めた。


 それから、鹿夜がやって来るのを目で追うあいだに下へ置いたものを手に戻した。それは火悉海の肩布で、中には毒針が包まれている。


 さきほどから狭霧は、その毒針と睨み合っていた。鼻を近づけて、つんと鼻に通る尖った匂いを嗅ぎ、火悉海の肩布ににじんだ濁った紫色の染みを見つめて、染みに向かって胸の中で問いただした。


 あなたは誰? あなたはどんな毒? 


 あなたの力を抑えるには、どんな薬が要るの? 


 あなたは、そうとう強そうね。あなたは意地っ張り? 寂しがり? それとも、獰猛?


 あなたを消すためには、どんなものが要るのかしら。


 意地っ張りならひっぱたくし、寂しがりなら優しく寄り添うし、獰猛なら、立ち向かってあげる。


 教えてくれなくても、見つけ出してみせるから――。


 匂いを嗅いで、毒を感じて、効き目を和らげるための何かを、狭霧は探し続けた。


(なにがなんでも、高比古に飲ませる薬をつくらなくちゃ――)


 狭霧の頭にあったのは、それだけだった。


「鹿夜さん、巫女は? 隼人では薬を扱えるのは巫女だけなんでしょう? 亥殺しの紫毒を消す方法は……」


 尋ねられた鹿夜は、顔を歪めた。


「紫毒を消す方法? ないわよ」


「ということは……阿多の巫女も、毒を消す薬はもたないんですね」


「そうよ。だからこんなに困ってるのよ!」


 鹿夜は叫ぶようにいった。


 そういえば、火悉海もそれっぽいことを怒っていた。受けてしまえば死ぬのを待つしかない毒だと――。でも、そうとう手ごわい毒だということなら、向かい合ううちに狭霧も感じていた。


 それでも、なぜか胸は冷静だった。


(じゃあ、薬をつくるしかない。それしか――)


 そういおうとして、顔をあげた時。鹿夜は眉をひそめたままで無理やり笑った。


「でもね、時を遅めることはできる。笠沙の巫女は、阿多の味方よ。高比古の死を、せめて遅くしてあげる。……きっと、大巫女様のお力も働くわ」


「時を遅める? 大巫女様の、力……?」


 ついと顎を傾けて、狭霧は鹿夜の目に真偽を問おうとした。でも、その途端に目は、鹿夜の顔の向こう側を気にしてしまう。


 そこには、暗い影となった笠沙の丘がある。山宮への道は、夜だというのに人の気配で満ち、いたるところで炎の明かりがゆらゆらと動いている。

きっとそれは、巫女のもつ明かりだ。鹿夜に呼ばれた巫女たちが、浜へ降りようとしているのだ。




 


 隼人風の身なりをした巫女の娘たちの列は、ぞろぞろと浜へと続いた。


 狭霧は駆け寄って彼女たちを出迎えたが、しだいに青ざめていった。


 おかしなことに、誰ひとりとして薬草らしきものはもっていなかった。巫女が手にしていたのは振り鈴のついた木幣や、清らかな紐飾りのついた杖や、水壺など、神具と呼ばれるものばかりだった。


「薬はどこ? 隼人で薬を扱えるのは巫女だけなんでしょう? 早くしなくちゃ、高比古が……!」


 てっきり、山宮から来る巫女たちは薬を担いでやってくると思っていた。


 阿多で薬を扱うのは巫女だけだと、前に火悉海から聞いていたから。


 巫女たちが浜へ集う頃になると、騒ぎは浜里中に広がり、浜の民までが勢ぞろいしていた。彼らは、傷ついた異国の若者を救う手助けをしようと奮闘して、すぐさま浜に木の板を敷き、周りを木幣で囲った即席の寝屋をつくった。


 出雲でも、戦場近くの陣営には傷ついた者のための小屋が建てられる。


 でも、笠沙の浜につくられた寝床は、前に狭霧が見かけたものとはずいぶん印象がちがっていて、あまり機能的ではなかった。そこには山宮からもちよった神聖な品々が飾られたが、そこは病や傷を癒すための場所ではなく、儀式のための場所だった。


「薬は……?」


 狭霧のもとへ近づいてくる、年配の女人がいた。緻密な文様の入った領布ひれを額に巻き、鮮やかな赤色をした肩布を二枚も肩からかけていて、齢は五十ほどに見えた。浜に降りた巫女たちの長のようで、支度に急ぐ巫女たちを捕まえては尋ねる狭霧を見つけてやってくると、恭しく頭を下げて、神事の始まりを告げた。


「姫様、どうぞお心安らかに。いまから祈祷をいたしますので」


「祈祷? そうじゃなくて、わたしは薬を……」


「薬?」


「そうです。彼を助けるのに、薬が要ります。薬はどこです? 早くしないと……!」


 でも、年配の巫女はむつかる童を見るように笑って、小さく首を横に振るだけだった。


「いいえ。残念ですが、紫毒は死の猛毒で、いったん身体の中に入ってしまえば、助かるすべはないのです。阿多に伝わる聖草の数々も、紫毒には効きません」


「それは聞きました。だからこそ、一刻も早くつくらなくてはいけないでしょう? そのためにも、もとになる薬草が……」


「ですから、姫様。薬草は使えないのです。紫毒を追いやる草は……」


「そんなことはありません。だって、この毒はここに在るじゃないですか」


 巫女との会話は、うまく噛み合わなかった。


 手にしていた毒針を火悉海の肩布ごと握り締めて、狭霧は身を乗り出した。


「在るということは、消す方法は必ずあるんです。死を呼ぶからといって、面と向かわなければ絶対になにもできないわ。手の施しようがないと諦めるのは、ここにこの毒があるのに、見て見ぬふりをすることなんだから――」


 でも、年配の巫女は、奇妙なものを見るようについと眉をひそめるだけだった。


「失礼ですが、姫様のお言葉はよくわかりません」


 狭霧は、かっと目の奥が熱くなるのを感じた。


「――あなたは、わたしすら見て見ぬふりをするの? 目の前で話をしているわたしすら」


「……申し訳ございません。出雲の姫様のお言葉は、私には難しゅうございます」


 そのうち、その巫女は背後の若い巫女に呼ばれてそばを離れてしまった。


若頭わかがしら様、祈祷の支度がととのいました」


「わかりました。始めましょう」


 狭霧と問答をした巫女は、若頭という役についているらしい。


 狭霧のもとを離れた若頭の巫女は、弟子の巫女たちを促して一列をつくると、高比古の寝床の周りを歩んで、大きな輪をつくった。巫女たちはそれぞれ枝を一本手にしていたが、それで夜風を払ったり、撫でたりという仕草をしながら、ゆっくりと輪を回り始めた。


 彼女たちの唇は、歌とも奇声とも呪詛ともつかないふしぎな響きを奏でる。


 その響きは夜の闇を妖しく染めて、高比古が寝かされた簡素な神殿じみた寝屋に、重い風を揺らめかせる。


 一心不乱に祈りを込める巫女たちの群舞を、手伝いに集まった浜の人たちは息を飲んで見つめた。


「おお……笠沙の巫女たちが、異国の若者の命を救おうとしている……」


 でも、狭霧にはむずがゆいものがこみ上げるだけだった。


 さきほど鹿夜は、「笠沙の巫女は高比古の時を遅める」といった。そのあいだに、山宮にいる大巫女の力も働くだろう、と。


 高比古のような事代に慣れているせいか、高比古の寝屋に起きているふしぎは、なんとなく狭霧も感じることができた。


 出雲では言霊ことだまと呼ばれる呪詛のようなものが、重い風になって高比古の周りに立ち込めていた。でも狭霧は、掴んだままの火悉海の肩布を、手から放そうとは思えなかった。


(無理だ。あれじゃあ、なんの解決にもならない。だって、時を遅めたって、高比古にあるものは消えないじゃない。毒は、高比古を死へ向かわせるだけじゃない)


 死――?


 その言葉を想うと、狭霧は脳天を鞭打たれたように呆然とした。


 そういえば高比古は、「おれは死なないから平気だ」といった。彼が受けたのは、即死をもたらす猛毒なのに。


 そのうち浜には、巫女の群舞に感銘を受けたような民のため息がこだまする。


「なに、あの若者が受けたのは亥殺しの紫毒だと? それなのに、まだ息があるのか。なんとも、笠沙の巫女様がたのお力の凄まじいことよ……」


 それを聞きつけるなり、狭霧はぶんぶんと首を横に振りたい気分になった。


 それはちがう、そうじゃない――と。


(高比古がこの毒を食らって生きているのは、きっと――高比古の代わりに命を奪われようとしている人が、ほかにいるからだ)


 ぽっと頭に浮かんだのは、小憎らしい目でじろりと狭霧を睨む若い巫女の顔だった。


日女ひるめ――)


 その巫女は、出雲で高比古と形代かたしろの契りというものを交わしたといっていた。高比古の命が危うくなった時に、その肩代わりをする契りを――。


 たちまち狭霧は、幻を視た気がした。砂の上につくられた寝床に寝かされた、高比古。仰向けに横たわる彼の首のあたりや胸元から、奇妙な力がゆらりと抜け出していくような――。それは雲のようにふわりとしているが、とてつもなく重く、もし触れてしまえば、触れた指をこの世からあとかたもなく消して、無に溶かしてしまうほどの強い負の力をもっている。


 高比古の身体からじわりじわりと立ち昇る妖しい雲は、一筋の揺らぎとなって闇に舞い、夜の海を渡ろうとしている。そういう――。


 狭霧の目は、恐怖で潤んでいった。


 そして、腿のそばに垂らした手の中にある火悉海の肩布ごしに、毒針を握り締めた。


(あの子が死んじゃう。駄目だ、やっぱり早くしなくちゃ……!)


 跳ねかえるように勢いで踵を返した狭霧は、隼人の巫女たちの祈祷に背を向けた。


 同じ頃、若頭の巫女も高比古の異変に気づいたらしい。


 若頭の巫女はゆっくりと足を止め、祈祷をする群舞の輪から抜けると、ぼんやりと高比古を見つめた。その時の高比古は、寝床の上で息を止めたように横たわっていた。


「死が、移りゆく……。これはいったい。それに、これは――」


 それから、顔をあげると、若頭の巫女は海の方角を眺める。今宵の海は凪いでいて、穏やかな潮騒を響かせている。暗い浜辺の奥にある波は夜空よりなお暗く、鉄の塊のように重く沈んで見えた。そして今や、暗い波の上には、ぽつりぽつりと火の明かりが浮かんでいた。


 夜の海の光景を見つめながら、年配の巫女はおののくようにつぶやいた。


「いましがた、我らの時を遅める術が強くなったと思ったら、なんと、あの者たちが我らに響きを合わせてきたのか。あのような沖にいながら――。あれが話に聞く、出雲の事代――」


 若頭の巫女が見つけたのと同じ炎の明かりを、狭霧も見つけていた。


 ばしゃんと水音を響かせて、暗い海の水に膝まで浸からせながら、狭霧は火明かりに向かって大声で叫んだ。


「紫蘭、桧扇来、お願い、早く。急いで! 高比古が……日女が死んじゃう!」

 

 彼方の沖のほうからゆっくりと近づいてくる煌めきの点は、出雲の船が船主に灯す導きの明かりだった。







 出雲の船団が笠沙の浜に着いたのは、先頭を進んでいた事代の船が着いてから、しばらく後だった。


 事代たちと違って、武人の乗る船団は足並みを揃える必要がある。


 とはいえ、事代たちが、驚くほどの手際の良さで船出の支度を終わらせたのは事実だった。


 こたびの船旅に随行した事代は、わずか五名。対して、武王の護衛軍として仕える武人は、約百五十名。数の差は歴然としているが、戦に慣れている連中で揃えたはずの精鋭軍だ。出陣の支度を済ませるのは決して遅くなかったが、それでも事代たちの身軽さにはかなわなかった。いや――、事代たちの熱心さに負けたのだ。


 毒に倒れた彼らの主のために、彼らに呼びかけたという姫君のために――と、彼らは息をつく間も惜しんで船出にこぎつけた。


 出雲の船団が浜に着く頃には、事代たちの船はすっかり浜にあげられ、船を降りた彼らは夜の浜を忙しなく行き来していた。


 笠沙の浜は、それほど広くない。ちょうど中央あたりに人が集まる場所があり、そこを照らすように松明が配され、炎の明かりが煌々とぎらついている。赤い輝きに炙られたその場所で、異国の呪女たちはそこをぐるりと囲んで練り歩き、ふしぎな響きのある言葉を唱え続けている。


 その光景を目にするだけで安曇は、なんらかの呪術だと疑わなかった。


(高比古が、毒を……)


 浜につくられた即席の寝床に寝かされているのは、出雲の若者のはずだ。安曇や、船団の主、大国主が精鋭兵を連れて夜の海を渡ったのは、そこで倒れた若者のためだ。


 しかも、話を聞けば――。安曇は、はらわたを掴まれるような憤りじみたものをおさえきれなかった。


(高比古が、大和の御使いとすり替わって、大和の者のもとへ会いにいっただと? そこで、賊に襲われたとか。……あいつはいったいどうしたんだ。そんなふうに、子供のいたずらじみたものに手を貸すような奴じゃなかったのに)


 安曇が初めて出会った頃の高比古は、奇妙な亡霊のような少年だった。


 身体はやせ細っていて、青白く陰気で、目だけがぎらついている容貌は、まるで少年の顔を描かれた、美しいしゃれこうべ。


 どこぞの海で見つけたという高比古を出雲へ連れ帰ったのは、出雲王の彦名ひこなだった。彦名はいい拾い物をしたと満足していたが、誰よりも近くへおいて弟子として育て、当時、そこまでの難もなく策士を務めていた者を遠ざけてまで高比古にその役を与えた、との報がもたらされた時、杵築きつきの動揺は生半可なものではなかった。


「異国生まれの、あのような少年が――」


 策士とは、意宇の王が従える事代を率いて、武王がつかさどる戦に同行する者のことだ。その際に王の全権を預かって行使することから、出雲王の次席といわれている。つまり、いずれ王となって国を動かす者のための王の見習いのような地位だ。


 時おり意見が食い違うものの、大国主は彦名に全幅の信頼を置いている。


「彦名がいうなら、なにか考えがあるのだろう」


 次の戦で、様子を見よう。大国主はそういったが、悠長に構えていたのは武王だけだった。


「いったい彦名様は出雲を……杵築を、どのようにお変えになる気か」


 動揺する杵築を案じた安曇は、彦名のもとへ出向いた。


 あの少年には、いったいどれほどのことができるのか。彼を、みずからの後継とした決め手はなんなのか。そう、彦名へ尋ねるためだ。


 彦名は薬師あがりで、武人とはちがい、小柄な男だ。物静かで思慮深いが、笑い方はどこか影がある。彦名の師、須佐乃男のように気のいい笑みができるわけでもなく、意宇おうと杵築、二つの都とその王の役割がある程度定まっていた当時ですら、外交を司っていたのは彼ではなく、彦名が足しげく異国へ向かったり、異国の者を呼び寄せたりすることはあまりなかった。その役はもっぱら、須佐乃男が育てた若者、矢雲や、大国主が引き受けていた。いや、彦名は、須佐乃男のようにみずからが国の顔となるのではなく、ふさわしい人を遣わして、背後から糸を引く類の王だった。


 安曇が訪れたときも、彦名は少々陰気な笑みを浮かべて出迎えた。


「高比古か? あれを手に入れたのは、出雲の幸運としかいえないと、私は思うが」


「しかし、それだけでは――。策士は戦に同行し、兵の命を左右するものです。正直にいいますが、杵築には不安が広がっています。あのような流れ者の異国の少年を信じて、命を預けていいのかと。せめて、一年か二年は策士見習いとさせるべきでは――」


「仕方ない。いまの時点で、すでに彼が私の一番弟子だよ。いいか、安曇。あれはな、たしかにさ迷える魂のようなものだよ。亡霊のようなものかもしれない」


「ですからそれが、兵たちは不気味だと」


「不気味? なにが不気味だ。穴持なもちとて、人の言葉の通じない獣のようなものではないか。私にいわせれば、あやつのほうがよっぽど無茶苦茶で危なっかしいわ。それでもあやつは、武王として君臨しているだろう? 高比古とて同じだ」


「……あの少年が、いまに王の器を得ると?」


「ああ、そうとも。次の戦で、よくあの子を見ればいい。あの子は抜き身の剣のようなものだよ。みずからの切れ味に戸惑って、鞘を探している剣だ。そしていま、鞘を見つけかかっている。出雲という鞘をな」


「……」


「流れ者がまずいというなら、私だって同じこと。私も生粋の出雲の民ではないし、穴持とて、出雲の一の宮、神野くまの育ちとはいえ、父も母も定かではない棄てられだ。あやつの場合は、母の噂はあるがな。ここは、たしかな血筋が要る国ではなく、力と、出雲に生きる理由さえあれば上にのぼれる国だ。あの子には力があり、ここに生きなくてはならない理由がある。私とも穴持とも、おそらくおまえとも、同じはずだよ」


 たしかに、戦場での高比古の才は、目に見えて凄まじかった。


 彼は十五の齢から戦に同行したが、いったいどこで覚えたのか、薬師の知恵はおろか、兵法や馬術、高位の者がする礼儀作法にまでよく通じていて、また、それ以上の勉学や、武人の身体をつくることにも貪欲だった。


 彼の立てる策を一言でいえば、緻密。


 須佐乃男に育てられて、師と同じく、積み重ねた経験をもとに着実な策を練る彦名とは違って、天地のことわりをはじめから知っているように振る舞い、迷いもせずにたった一つの策を告げる姿は、神託を告げる禰宜ねぎのようだった。


 でも、彼は神託を告げているわけではなかった。彼の頭の中には、たしかに天地のことわりがあったが、それを彼は言葉で説明することができた。彼は驚くほど多くのことを覚えていて、その智をもって策を立てていた。


 異様といえば異様だが、軍と旅をして暮らすうちに身体は逞しくなり、顔つきも変わり、神秘的ともいえる鋭い気配をもつ彼に信頼を置く兵も増えていった。


 ようするに、高比古にははじめ、若者の気配がなかったのだ。あったのは得体の知れない奇妙な子供か、そうでなければ齢のいった老人の気配で、齢相応の幼い顔をしていても彼の目は、恒久の時を過ごすのに飽きて、朽ち果てるのを待っているように見えることもあった。


 だからこそ、彼が若者のいたずらに手を出して痛い目を見たという事実を聞いても、安曇は理解に苦しんだ。彼は、遊びに夢中になるような若者ではなかったのだ。







 船団の先頭の船に乗っていた安曇が笠沙の浜を踏んだのは、船団の誰よりも先だった。


 船底が砂浜につくと、船を降り、ざばざばと波をかき分けて上陸する。


 浜にあがった兵たちは、すぐさまそれぞれの役目をまっとうしようと駆ける。知らせを集めにいく者、積み込んできた武具を船から下ろす者、安曇や大国主のそばへ寄って、戦の算段をつけようとする者。


 安曇のそばにも、武人が一人寄ってきた。報せを取りまとめる役につく武人だ。彼がまず告げたのは高比古のことだったが、いい方は彼の不在を嘆くようだった。


「高比古は、起き上がれる状態ではありません。意識もなく、昏睡しています。戦の前だというのに――」


 安曇は顔色を変えずに答えた。


「いま起こっているのは乱だ。大軍相手の戦ではないし、私でじゅうぶん事足りるよ。どのみち、奴が毒を食らったいきさつが本当に私が聞いた話の通りなら、厳重注意、謹慎、もしくは降格ものだ」


 馬鹿な真似をしやがって――。腹にあったのは、大事な時に勝手にくたばることになった若者の、軽薄さと不実に対する怒りだった。もちろんそれは、まだ息があってよかったと安堵する想いのうえに生まれたものだが。


 報せ役の武人は、高比古が休まる寝屋を眺めて、落胆した。


「大丈夫でしょうか。隼人の巫女が、呪術を施して命をながらえさせているという話ですが」


「彼なら心配ないよ。形代の契りを済ませているはずだ」


「しかし――」


 彼は、矢傷の痕のある頬をついと傾けた。


「形代の契りというのは、対になった相手の命を奪う法とか。高比古の形代は、この旅に随行している巫女の娘でしたよね――」


 安曇にとって、たしかな決まりがあった。こういう時は、命にも救う順序を付ける必要がある。高比古の命は、巫女より上。狭霧の命もそれ以上――。


 安曇は、彼の言葉を遮った。


「それより、狭霧はどこだ。この浜にいるんだろうな」


「狭霧様なら、あそこです。事代たちを従えておいでです」


「事代を?」


 事代は出雲特有の術者で、戦にも多く関わる。


 彼らはふつうの人には視えないものを視て、聴こえない声を聴く人々で、なぜか揃って、他人との意思疎通を苦手とした。人のものではない言葉を使って風や草などと話すぶん、人の言葉を操るのが不得意なのか――。そんなふうに噂されているほどで、事代の中に長となれるような者はまずいない。彼らを束ねる長になるのはたいてい、医師か高位の薬師だ。事代に指示を出せる事代も、策士になった事代も、高比古のほかにはこれまでにいなかった。


 今回の旅に、彼らの長となるべき医師や薬師はいなかった。高比古にその役ができたからだ。でもいま、高比古は彼らを束ねられる状態ではないのに、夜の浜を行き来する事代たちは、統制がとれた動きでてきぱきと働いている。そこには、狭霧の姿があった。


「この毒には、出雲からもってきた薬だけじゃ足りないみたいなの。誰か、山宮へ……ううん、浜の人に話してみて。力の強い薬草を教えてほしいって」


 狭霧は事代たち数人とともに、浜に起こした焚き火のそばでうずくまっていた。


 力仕事をほとんどしない事代たちは、成人した男でも身体が細いが、そのなかでも目立つ小柄な娘の姿をしながら、狭霧はみずからもせっせと薬壺や水壺を運び、そうかと思えばしゃがみこんで、手先を動かす。そして、部下を扱うように事代へ指示を与えていた。


 それは、ここしばらく安曇が気にしていた狭霧の姿とはすこしちがっていた。


 ちがう……。と、不自然さを感じるやいなや、脳裏に蘇った記憶もあった。


 それは、いまなお出雲に影響を及ぼす老王、須佐乃男とのやり取りだ。


 狭霧は、須佐乃男の孫娘。狭霧の世話を任されていたせいで、安曇は須佐乃男から話しかけられることがたびたびあった。


「やれやれ、相変わらずのおてんばだのう。まあ、須勢理すせりと穴持の子だ。大人しい姫が生まれるはずがないのだが」


 木登りをして、時には大屋根にすら登って、王宮を駆け回る幼い孫娘を見かけるたびに、須佐乃男はそういって肩をすくめた。


「ときに、安曇。穴持は、狭霧をどうしようとかいっていたか」


「いえ、とくに」


 大国主は安曇へ娘の父親役を命じたが、その際の注意として武王がいい渡したのは、狭霧を、自分が眺められるところに置いて育てろということだけだった。まるで子飼いのなにかをそばに囲って、ふと思い出した時に見て愉しめればいいというふうで、大国主の望みは実の父親らしいものではなかった。


 いったいあの方は、どうすれば父親になれるのだろう。もしや、永遠になれないのだろうか――。


 無言になった安曇の心の奥を読んだかのように、須佐乃男は苦笑を浮かべた。


「だろうな。子育ては、大人の親がするものだ。あいつに子育てができるものか。あいつはまこと、いつまでたっても童のような男よなあ」


 くっくっと肩を揺らして、須佐乃男は笑った。


「ならば、あの子はおまえに託すしかないなあ。安曇、あの子は、あの子の好きにさせろ。いいな? 狭霧は、聡い子だ。いまのところの見立てだが、あの子は穴持のようにも、須勢理のようにもならないであろうよ」


「……どういう意味でしょう」


「あの子は須勢理に似て勝気で、穴持に似て大胆だ。そして、敏いよ」


「それはそうでしょう。お二人の御子です」


「ああ、安曇。あの子は敏くて、あれはどうだ、これはなぜだと、しょっちゅう問いかけてくる。館の木組みから、港のつくり、警護の武人の数や交代の理由に、宴の意味まで、なんでもだ。それなのに、あることに関してだけは決して尋ねようとしないのだよ。むしろ、遠ざかりたがるように逃げていく」


「はあ」


「幼い頃に好んでいたことより、苦手だったものに、将来従事してしまう者が時たまいる。それはな、知らずのうちにその重みを感じ取るせいだ。本質を知ってしまうために、興味が湧くと同時に、恐ろしがったり気味悪がったりするのだ」


「狭霧にもそういうものがあると? ……それは、なんでしょう」


「気づかんか? ようく見ていろ。あの子はしごく大胆だが、恐ろしいと感じているものには、慎重すぎるほどだよ。それにどうやら、あの子の好みは、穴持や須勢理よりは、わしに似ているようだなあ」


 実のところ、安曇は須佐乃男が苦手だった。だから、我が子のように慈しんで育てている狭霧が、敬愛する大国主や須勢理ではなく、老王に似ているといわれるのは癪に障った。


「狭霧の肉親は、いずれも立派な方揃いです。どなたに似ても、素晴らしいことです」


 心にもないことをいうと、須佐乃男は苦笑する。


「まあ、いい。とにかく狭霧は、まだ種だ。同じ房からとれたものでも、芽を出すことのできない種のほうが、芽を出せる種よりも圧倒的に多いものだ。どれだけ大きく立派な種だろうが、芽生えの時すら迎えられないことなど、ざらにある。なにしろ穴持が、あの子を懐から出したがらないのでは――」


 そこでいいやめた須佐乃男は、安曇に向き直ると、穏やかな微笑みを浮かべた。


「いいか、安曇。あの子を想うなら、あの子の前ではなにも隠すな。あの子はすべて見ているよ。ただ、慎重で、答えを出すのがとても遅い」


 それは、老王による心からの忠告だったはずだ。でも――。


 安曇は片膝を土につけ、最敬礼の姿勢を取った。


「もちろんです、須佐乃男様。私は穴持様から、狭霧様の父代わりをせよと仰せつかってはいますが、狭霧様は我が主の御子姫。いかなる時も、虚言を申すつもりはありません」


 あなたの命令であれば、聞くしかない。でも、それは、あなたにいわれたからやるのではない。主のためにやるのだ――。それは、安曇にとって、せめてもの抵抗だった。


 頭上高い場所から安曇を見下ろして、老王は失笑した。


「おまえも、穴持と同じく、昔から変わらんのう。警戒心が強く、心をひらくのが苦手だ」


 安曇の無言の抵抗に、須佐乃男は気づいたはずだ。当然だ。ここぞとばかりに安曇は、過去の恨みを込めたのだから。


 でも、須佐乃男は咎めることもなく、微笑を浮かべて立ち去った。


 老王のしたたかな笑みが蘇ったついでに、安曇は別の時のことを思い出した。


 それは、狭霧を連れて宗像むなかたへ出かけた老王が、戻ってきた後に安曇にいった言葉だ。


『種から、芽が出た。さあ、どうなるか』






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