窺見と刺客 (2)


 立派な装飾がなされた王の船に乗る一行の主に、と話をされたのは鹿夜だったが、彼女はそれを断った。


「ええー、なんだかものすごく面白そうなのに、つまらなさそうなほうをあたしに押しつけるってわけ?」


「おまえら、絶対に面白がってるだけだろ。先視さきみをされたっていう乱のこととか、どうでもいいだろう? そもそも先視なんて、信じていないんだろう……」


 高比古は最後まで渋ったが、そうこうするうちにも高比古と佩羽矢は衣装を取り替えて、互いになりすます支度を始めることになった。


 狭霧たちが夜の訪れを待つことになった場所は、港の奥につくられた阿多の浜小屋。その小屋の中で、高比古と佩羽矢は衣服を互いに譲り渡すことになった。


 戸外の木陰に隠れつつ待っていると、やがて戸が開く。支度を終えた二人が、外にいる狭霧たちを呼び寄せたのだ。


 二人はまだ袖を通しただけといういでたちで、足結あゆいの紐はほどけており、剣などの飾り物も佩き終えていなかった。それでも、戸口から中を覗きこんで化け合った二人を見るなり、そこにいた面々はほうと吐息した。


「すげえ、似てる……っつうか、うまく混ざったっていうか。なんか、同じ顔が二つあるみたいで気持ち悪い」


 率直な感想をいった火悉海を、高比古はふてぶてしく咎めた。


「おまえがやらせたんだ、おまえが」


「いや、いいよ。身なりを整えろよ。髪も結い直さなくちゃな。すげえな、面白くなってきた!」


 渋々と角髪みづらを解いた高比古の髪を、佩羽矢が大和風に結う。それが済むと、狭霧が佩羽矢の髪を出雲風にしつらえた。袖口を留める色紐を結び、帯もきっちり結び、高比古は背に弓矢を背負って腰に銀の剣を佩き、佩羽矢は高比古の出雲剣を帯に佩き――。すると――。


 二人の姿が変わりゆくさまを狭霧は固唾を飲んで見守ったが、とうとう仕上がると、ほかんと口をあけた。高比古の鋭い目もとが佩羽矢になりきるには不似合いだったり、佩羽矢のおどおどとした仕草が高比古になりきるにはおかしかったりするものの、二人は魂を入れ替えたのではないかというほど、互いの姿に代わっていた。


 櫛を握り締めたまま、狭霧はため息をこぼした。


「すごい……。夜に会う人は、初めて会う人なんですよね? だったら、絶対にばれませんよ。そっくり……」


 もはや火悉海は、いたずらを喜ぶふうだ。


「なんだ、こんなに面白いことになるなら、この前の宴で入れ替わりの芸でも披露すれば盛り上がったのに。あ、次はしような。絶対に受けるから!」


「だからおまえ、面白がるな……」


 高比古は鬱陶しそうにこぼした。


 やがて日が傾き、夜の足音がひそやかに忍び寄る。


 そこまでくると、腹をくくったのか、高比古が文句をいうことはなかった。


「そろそろいくよ。さっきの奴は、佩羽矢一人で来いっていってたよな。異国の者にはできない話があるとか」


「そのはずだ。頼んだぞ。しっかり佩羽矢になりきって、うまい話を聞いてきてくれ」


「……調子がいい奴だな」


 ぶつぶつと火悉海へいうと、高比古は最後の支度とばかりに自分の姿に身をやつした佩羽矢のそばへ向かった。彼は、自分の衣装を身にまとう佩羽矢の腕から一つを抜きとる。それは、出雲の軍旗と同じ鮮やかな黄色をした染め紐だった。すこし前まで狭霧の手首にあったものだ。


 いったいなにをする気なんだ――? 好奇の眼差しを浴びながら、高比古はそれを口もとに寄せてなにやらつぶやき、それが済むと狭霧を向いた。


 狭霧は、きゅうに脅えた。前にも、彼がその染め紐をもって同じ仕草をしたのを見たことがあったからだ。


 不安は的を射て、狭霧のもとへ歩み寄った高比古は、是非も問わずにその染め紐を細い手首に結わえ始めた。


「あの、高比古……?」


 前に高比古がその紐を狭霧の手首に結わえた後、狭霧は大和軍に浚われて、戦が始まるきっかけになった。


 あの時と同じ――そう気づくなり、狭霧の頬はこわばった。


 脅える狭霧を、高比古は苦笑して宥めた。


「なんとなく、あんたにこれを渡しておいたほうがいい気がするんだ。渡す相手があんたなら、たぶんちゃんと働くだろうし――」


「働く――?」


「おれの声や、おれが聞く音をここへ飛ばすように細工をしておいた。おれは、一人で会いに来いといわれてるんだ。ここを離れて遠ざかってしまったら、おれが相手となにを話しているのか聞きとれないだろう? それに、ありのままを聞くほうが、おれづてに聞くより信じられるだろう。だから、これで様子がわかるようにしておく。……知りたいだろ? ぜんぶ」


 高比古が話している相手は狭霧ではなく、周りで彼の手先を目で追うすべての人だ。


 とくに、彼が意味ありげな目配せを送った相手は、火悉海。


 佩羽矢のふりをして敵国の使者に会いにいくことになった高比古は、たった一人で敵地に忍び込む窺見の役を、突然任されてしまったようなものだ。でも、彼に怖気づくような気配は皆無。


 冷笑を浮かべた高比古は、さらなる役目を尋ねる余裕すら見せた。


「いま、大和の奴に一番会いたいのは火悉海、おまえだろう? ここしばらく、おまえには世話になってるからな、礼をするよ。知りたいことをいえよ。聞きだしてきてやる」


「おまえ……」


 好敵手の腕前に惚れ惚れとするように、火悉海は軽快な笑い声をあげる。


「知りたいことか? それなら、乱の兆し、それだけでいい。――おまえは?」


「いまのおれにはとくにない。出雲が知りたがっていることについては、国で、すでに主が動いているはずだ。それに――いまなら、佩羽矢に訊ける」


 話が済むと、高比古はすぐに背を向けた。


「じゃあ、いく」


「ああ。気をつけろ」


 振り返りもせずに小屋を出ていく高比古の背中に、小心という言葉はない。


 彼に役目を押し付けた本人、佩羽矢は、高比古の毅然とした背中を見送ると、きまりが悪そうに頬を赤くした。それから、何度も繰り返してつぶやいた。


「あいつ、すごいなあ。すごい……。怖いものとか、ないのかなぁ」


 佩羽矢の身体は、まだ時おりがくがくと震えている。


 それだけではなく、いつのまにか彼の指は狭霧の袖をつまんでいた。


「佩羽矢さん、そんなに脅えなくても――」


 佩羽矢の背は高比古と同じくらいで高く、狭霧が佩羽矢の表情を覗こうとすれば、顎を傾けなくてはならなかった。それなのに、彼の仕草はまるで、お化けが怖いとめそめそする幼い童のようだ。


「どうか落ちついてください。佩羽矢さんが、さっきの大和の人に会うことはもうありませんよ。もう大丈夫ですから」


「う、うん……ありがとう、姫様。でも、なんか俺、怖くて――」


 いくら慰めの言葉をかけても、狭霧の袖をつまむ佩羽矢の指の震えは止まらない。


 ぶる、ぶるっ……と小刻みに震える指は、彼の頭が怖がっているというよりは、得体の知れない力で恐怖を感じ取って、知らぬあいだに身体が震えだすというふうだ。


(そういえば、佩羽矢さんにも霊威っていうものがあるんだっけ)


 いつだったか佩羽矢は、自分は伊邪那いさなで暮らしていた術者一族のすえで、近くの里からは占師うらしの一族と呼ばれるほど勘がよく当たると狭霧たちへ話した。


(占師……。勘……?)


 出雲の事代ことしろや巫女の仕組みすらよくわかっていない狭霧に、異国の術者の力は想像もつかない。


 青ざめてがくがくと震える佩羽矢は、決して頼もしい存在とはいえなかった。いくら背格好や顔立ちが高比古と似ているとはいえ、佩羽矢の仕草の一つ一つは、一国を背負いゆく者の影じみたものを帯びる高比古とは似ても似つかない。心のままに泣き言をいうところなどは、すくなからず情けないものがある。


 でも、それは、きっと――。


(佩羽矢さんは、なにかを感じ取る力がふつう以上に強い人なんだろうな。だからいまみたいに、ふつうの人よりも敏くなにかを感じ取って、震えているのかもしれない)


 それは、彼のもつ霊威のせいかもしれない。仕方ないことだと、狭霧は思った。


 やがて、ある時。小さな木窓から外の砂浜を覗いていた火悉海は、小屋で身を潜ませる面々に支度を促した。


「暗くなってきたから、闇に紛れてすこし近づこう」







 火悉海は、昼間のうちに目をつけておいた浜の奥の草影を目指した。そこに身を潜ませると、浜の様子を覗ける姿勢を探す。


「大和ねえ――。遠目からでも、いったいどんな奴がやってくるのか見てやる」


 好奇心旺盛な彼の目は、わずかでも多く知りたいことを掴み取ってやるといわんばかりだった。


 火悉海は、丁寧に狭霧の手を引いてそばに率いた。その隣には鹿夜もつく。火悉海とつるんで悪行をするのに慣れているのか、鹿夜には躊躇がない。砂地に這いつくばって身体を低くしながら、鹿夜は大胆不敵な笑みを浮かべた。


「あれじゃないの。あら、けっこう大所帯ね」


 鹿夜の目が気にした先は、闇に染まって暗くなった波の上だった。


 海上には、闇に紛れるようにして浜を目指す小舟が何艘も浮かんでいた。乗っているのはすべて武人の姿をしていて、白い飾り気のない服に、銀の柄の剣を佩いている。そして、その姿は――。


「大和の服だ……」


 狭霧のつぶやき声に、火悉海は鼻で笑った。


「大和ってのは、そうとうな臆病者だな。大勢の仲間と大仰な飾り剣と一緒じゃないと、話もしにこられないのか」


 小舟が浜に着くと、白服の武人たちはばしゃんと音を立てて海に降り、膝で海の水をかきわけながらぞろぞろと浜にあがってくる。


 歩き方や止まり方までが定められているのか、彼らが湿った砂浜を進む歩幅はみな同じだった。武人たちは、波打ち際の高比古から一番遠い場所には十人、その前には八人、その前には六人、さらに前には二人というふうに列をつくって止まり、列をなした武人すべてが足を止めてから、最後の一人が前へと進み出た。


 小勢の長らしいその武人は高比古とかなりの距離をあけて立ち止まったので、高比古の居場所まで声が届くように、かなりの大声をあげた。


「おぬしが天若日子あめのわかひこ……いや、唐古からこの里の佩羽矢か」


 高比古の力を移した染め紐の力をわざわざ借りずとも、狭霧たちにも届くほどの大声だった。


「偉そうな話し方だなあ。異国の者には聞かれたくない話だとかいってなかったかよ。あいつは馬鹿か?」


 難癖をつけた火悉海のそばにしゃがみ込んで小さくなりながら、狭霧もおかしいと思った。


 気になって、背後を振り返る。そこには、浜にあげられたいさり船や、阿多の船が何艘も並んでいる。その影には、火悉海の護衛たちが潜んでいるはずだ。護衛たちに腕を掴まれた佩羽矢も。


 佩羽矢の震えは、止まっただろうか?


 暗い浜に現れた大和の兵たちを見て、前よりもっと震えているだろうか――。


 そんなことを考えているうちに、狭霧の手首から、大和の男に答える高比古の声が響いた。


「いかにも、そうです。佩羽矢と申します。あなたの御名は? その、おれは、どのようにお呼びすれば……」


 佩羽矢のふりをする高比古はすこし声色を変えていて、いい方も、ともすれば横柄に聞こえるいつもの感じとはちがった。しおらしく尋ねる高比古へ、小勢の長らしい武人は肩をそびやかした。


「おぬしが知る必要はない。まずは、おぬしの知らせをせい。遠方への赴任、ご苦労だった。して、首尾は。阿多隼人は、いかに申した」


「万事順調です。阿多の王は、大和への助力の用意があるといいました」


「なに、まことか」


「はい。阿多王、火照ほでりは、おれの姿を見て、大和の国が忍ばれる、きっと美しく気高い国だろうと褒めそやしました。とくに、背にいただいた弓矢には興味をもったようです。それで、お許しがあれば、王へ献上したいのですが――」


 高比古は嘘をいっていた。笑顔で嘘をいいながら、慎重に相手の出方を窺っていた。


 小勢の長の声が、秘密を隠すようにひそかになった。


「それは、まことか、佩羽矢。しかし――いま、阿多の都には出雲軍がおろう?」


「……それは、はい」


「主は出雲の武王、大国主と、そのように知らせを受けたが……。それでも阿多王は、大和に助すると申したか」


 佩羽矢のふりをする高比古の声は、さも驚いたといわんばかりにいった。


「なぜ、それを――。もしや阿多には、おれ以外にも大和の者が……窺見が放たれていたのですか。おれと仲間以外に大和の人があの都にいたなど、おれはまったく気がつきませんでした。隼人風に身をやつしていたのでしょうか」


「……であれば、おぬしのおかげだろうな。おぬしが大和の身なりを貫いて、大和者とはこうだと、周りに知らしめていたから」


 高比古は、明るく肩をすくめるような仕草をした。


「おれのおかげ? ……おれはそんなに目立っていましたか」


 手首についた染め紐から聞こえてくる声に耳をそばだてながら、狭霧の胸はどきどきと高鳴った。


 佩羽矢らしく振る舞っているが、その裏で糸を引こうとする高比古の意図がわかった。


(佩羽矢さんが目立っていた? それに、阿多に大和の窺見が放たれていた? だったら、もしかして、佩羽矢さんがとうさまの舘に出かけたことも、もう――)


 平然とした顔を保ちながら、高比古はどこまで知られているのかを探ろうとしていた。


「阿多に忍ばせた窺見が都を離れたのは、出雲の船が着いた晩に、宴の騒ぎに紛れたという話だが――。おぬしの姿をあちこちで見かけたと、そう申しておった。聞いたぞ。ずいぶん道楽をしていたそうじゃないか。火照王に取り入りもせず、王宮にもかよわず、朝から晩まで怠けていたと――」


 小勢の長は苦々しげに睨んだが、高比古はほっとしたふうに芝居に力を込めた。佩羽矢が高比古たちと共に出歩くようになったのは、出雲軍が着いた日の翌日からだ。いくら長の目が厳しくなろうが、最悪の事態に比べれば、それは彼にとって些細なことだ。


「いえ、ちがいますよ。ただのんびりしていたわけではありません」


「ていのいい嘘を申すな」


「おれが働いたのは、夜になってからです。阿多にはおれと齢が近い若王がいます。夜ごとに王宮に誘われて、彼と飲み明かしました。すっかり打ち解けて、阿多王とも顔つなぎを――」


「……まことか?」


「まことです。とくに、いまはおっしゃるとおり出雲軍が阿多に来ていますので、火照王とその若王も、出雲の手前、そうだとはいいづらいようで――」


「……信じられんな。おぬしがか?」


「異国の者同士ということは、若者と若者には大した隔たりではないのです。では、証に、どうぞなにかをお申し付けください」


「……おぬしに?」


「ええ。若王も火照王も、おれの味方です。なにか大事なお役目があれば、なんなりといってください。このおれが仲だちとなって、必ずやお二人を説き伏せてみせましょう」


 手首から聞こえる高比古の声は、自信に満ちていて快活だった。


 よくもまあ次から次へと都合のいい嘘を……と、もはや尊敬まじりに聞いている狭霧にも、本当に彼が、どんな頼みも引き受けてくれそうな頼もしい存在に感じてくる。


 威張り散らすような小勢の長や、大勢の武人を前にしながらひょうひょうといい分を通して、腰低く頭を下げる高比古は、たしかに凄腕の御使いに見えていた。


 彼の様子に、小勢の長はなにかを迷うふうだった。


「う、む……いや! おぬしには、とっておきの役目がある」


「なんなりと。必ずやご期待にこたえてみせましょう」


 高比古がねだったのは次の役目だった。


 火悉海が気にする「乱」に繋がるような――。


 でも、小勢の長が求めたのは、高比古が求めたものとはすこし違っていた。


 小勢の長は目を細めると、ゆっくりと右手を上にあげて、背後の船へ合図を送った。


「なら、おぬしに頼もう。まずは船へ乗ってもらう」


「船……ですか」


 手首に結わえられた染め紐から聴こえる高比古の声が、その裏でぴんと張った。


 そう感じるや否や、狭霧も冷や汗を感じた。


 船へ乗せられたら、なにかが起きても高比古を助けることはできない。


 それに――いったいなぜ、わざわざ船へ乗せようなどと小勢の長はいったのか。


 高比古の声は渋った。


「話なら、ここですればいかがでしょう。幸い、この浜には我らしかおらず――」


「いいや、どうしてもおぬしを連れていきたい場所があるのだ。さあ、早く乗れ」


 狭霧の隣で膝をつく火悉海の目が、険しくなった。身を隠す壁となった草が揺れないように気を配りながら、彼は瞳だけで周囲を窺う。


「まずいぞ。妙だ――」


 彼の視線の先には、暗い浜が。たった一人で砂浜に立つ高比古と、総勢三十人からなる武人の小勢がある。


 彼らの思惑は? その意図は――? 背中はぴくりとも揺れないが、内心では懸命に様子を窺っているだろう高比古に対して、小勢の気配は妙なふうに変わった。品のない薄笑いを浮かべた小勢の長の男と同じように、彼の背後に控える武人たちも一斉に肩をそびやかして、高比古を罠にかかった獲物のように見た。そこに生まれた薄気味の悪い気配は、殺意と呼ぶにふさわしかった。


 ぞくりと、狭霧の胸が震えた。


「火悉海様……」


「ああ、よくわからないが――。とにかく奴らは、佩羽矢と話をしにきたんじゃない。……乱の始まりをつくりに来たんだ――」


 火悉海はじわりといい、すこし離れた場所に立つ高比古の背中をじっと見つめる。


 歯切れが悪くなった高比古に、小勢の長の声音は脅すように変わった。


「とっとと来い。おぬしが来なければ、なにも始まらんのだ。早く……」


 彼らの異様な気配には間違いなく気づいているはずなのに、高比古の後姿はまだ静かだった。


 きっと、この場をどう脱しようかとあれこれ考えているのだ。


 彼は策士で、出雲一の霊威をもつ事代だ。事代の技というものを駆使して窮地を脱することも、腰に佩いた剣で相手を払って逃げることも、彼にはできるはずだ。


 ある時、狭霧ははっとして火悉海の衣を引いた。


「高比古が、合図してる――」


「なに?」


 その時、高比古は「いやあ、その……船ですか。どうしてもですか?」などと、適当な言葉を繋げながら肘を曲げて頭の後ろを掻いたり、片脚を浮かせてつま先を砂につけたり、小さな身動きを繰り返していた。


 狭霧が見つけたのは、かかとの動きだった。足のつま先で砂を掻くような仕草をしていたが、小さく前後に動いて、見ようによっては「こっちへ来い」と合図を送っているように見える。


 その後、高比古は腰に手をあてるような仕草をした。背の後ろに回した時、指は三本立っていた。それは、急襲の合図を示していた。この指が一本になった時に出て来い、と――。


「……そうだな、そうだよな、わかった」


 狭霧が読み解いた高比古の合図を、火悉海も解した。


 彼の指の動きを見つめて、火悉海は小さくうなずいた。


「たぶん、脅かせという意味だ。混乱に乗じて、後ろに下がる気だ。その後、応戦する気なのかもしれないが――。とにかくいまは、あいつが……出雲の策士が、佩羽矢のふりをしたってのがばれるのが一番まずい。一番明るみになっていいのは、俺が……阿多の跡取りが、実は背後に隠れて様子を窺ってたってことだ。さっきあいつは、佩羽矢と俺が酒飲み友達だっていってるし」


 火悉海はわずかに腕を上げて、背後にいる彼の部下へ合図を送る。


 草というとばりの影にいて大和勢からは見えないとあって、さっき高比古がしたよりはあからさまな合図だった。「奴らを襲え」と示した手のひらは、やがて親指と小指を折って、三本だけになる。高比古の合図を、彼も背後へ伝える気だ。


「狭霧と鹿夜はここで、俺たちが出るのを待て。全員出たら、後ろに下がれ。鹿夜、狭霧を守れ」


「わかった――」


 火悉海と鹿夜のあいだで言葉が交わされた直後、高比古の指がわずかに動いた。そして、一本ずつ指が減っていく。


 三、二……一。最後まで残った人差し指がわずかに振られて、それは背後の火悉海たちへ「いまだ」と示した。


 その瞬間、火悉海が立ちあがった。


「全員、出ろ。そいつを守れ!」


 目を丸くしたのは、大和の小勢だ。


「何事だ!」


 浜の奥の船の隙間から、武装した阿多の若者たちがいっせいに飛び出した。


 同じ時に、高比古は一歩退いて、人差し指を口もとに当てていた。きっと、事代の技を使うのだ。


 妙なことになりかけたけれど、これで高比古は助かる、よかった――と安堵していると、腕を引かれた。鹿夜だった。


「狭霧、後ろへ下がるよ!」


「はい!」


 狭霧の隣を怒涛のごとくすり抜けていく阿多の武人は、彼ら特有の大きな盾を前にして、大きな跳躍で夜のひんやりとした砂を跳ねあげていく。


 でも――。火悉海が、突然大声で叫んだ。彼はその時、背後から駆けてくる部下が彼の武具を届けにくるのを待っていた。


「高比古、下がれ! 逃げろ!」


 血が吹き上がるような、鬼気迫る声だった。


 火悉海はそれまで、佩羽矢のふりをしているのが出雲の高比古だとは明らかにしないように努めていた。それなのに――。


 火悉海の声に脅えて、狭霧は高比古のほうを振り返った。でも――。


「……!」


 声が出なかった。


 高比古がさっきまで立っていた場所に、彼の姿はなかった。いや、彼はぐらりと揺れて、砂地へその身を沈みこませていた。


「高比古!」


 思わず狭霧も、その名を叫んだ。


 大和の小勢の長の男は、首を傾げた。


「高比古……?」


 しかし、それは狭霧の目に入らない。咄嗟に駆け出した狭霧を止める、火悉海の声が響いた。


「来るな、狭霧! 吹き矢だ。盾を前にして、高比古を守れ。賊は向こうの岩場だ!」


「吹き矢……?」


 耳慣れない言葉だが、それが武具の名であることは狭霧も知っている。


 火悉海のひっ迫した怒声が静かな夜の浜に響く頃、すでに護衛たちは火悉海より前まで駆けていて、倒れた高比古を庇う壁をつくるように大盾を縦に置いて並べている。


 来るなといわれようが、狭霧に立ち止まることなどできなかった。


「高比古……!」


 ぐったりとなった高比古のそばにたどり着いてすぐに、そばに火悉海がしゃがんだ。彼は高比古の胸元を覗きこんでいたが、ある時怒鳴った。


「絶対にさわるな、狭霧! 毒針だ!」


 肩布を自分の身からはぎ取ると、それで指を覆ってから、火悉海は高比古の胸に刺さった細長い棘のようなものを慎重に抜き去る。


 それから、鼻を近づけてひと嗅ぎすると、舌打ちをした。


「この針は、熊襲くまその……? まずい、亥殺しの紫毒だ。駄目だ、動かすな。回りが早くなる。……鹿夜、いますぐ山宮に駆けろ! 呪女を全員、叩き起こして連れてこい!」


「亥殺しの紫毒? それってなんですか。毒? 高比古は毒を受けたんですか!」


 火悉海は、引きちぎるようにして高比古の上衣をはだけさせると胸元をあらわにする。それから、ほんの小さな傷を見つけると唇を近づけて毒を吸い出した。


 周りの肌が青くなるほど吸って、ぺっと外へ吸い出しても、高比古の様子は変わらない。肌は、夜闇の底に現れた二つ目の月のように異様に白くなり、顔は苦しげに歪んだ。


 火悉海は、獣が咆哮するような唸り声をあげた。


「紫毒は、大亥だろうが一矢でたちどころに殺せる熊襲の猛毒だ。……どうすんだ、こんなものを食らったら、時を遅めるしか、こいつを救う手立てはねえぞ!」


 火悉海は、遠くの闇を睨みつけていた。


 浜には、なにごとかと居竦まる大和の一団がいる。彼らは、高比古を囲むように現れた阿多の武人たちと、そこですっくと立つ火悉海をじろじろと見比べた。


「その者は佩羽矢ではないのか――? それに、あなたは、もしや阿多の……」


 でも、火悉海が睨んだのは、おののいた小勢の長の男ではなく、そのさらに背後。


 そこには、浜の果ての岩場がある。木々に囲まれた岩場で、夜ともなれば、そこにあるのは闇のみ。でも、夜目が効くのか、彼が見つけた人々の身なりに見覚えがあるのか、火悉海は迷うことなく怒声を発した。


「熊襲の針なんか使って、山の民の仕業に見せかける気だったのか? きたねえ真似しやがって――。高比古が阿多で死んだら、出雲に襲われるのはうちだ。冗談じゃねえよ。手を下した奴を全員しとめて、大国主のもとへつき出せ!」


「高比古が死んだら――?」


 狭霧が力なく反芻したその時には、火悉海は従者たちを導いて駆け出し、狭霧と高比古のもとから遠ざかっていた。


 阿多の武人から襲われる羽目になり、大和の長は震えあがった。


「なぜ、阿多隼人の若王と軍がここにいるのだ。まずいぞ――。隼人は、ひとたび敵とみなした相手には獰猛に襲いかかると聞く……。殺されるぞ、逃げろ――!」


「しかし、佩羽矢にすり替わっていたあの若造はいったい……? このまま退いて、我々は主へいかに告げればよいのです……! なにしろ我々は、無断で……!」


「真相を知るも告げるも、命あってのことだ。わしが許す。とにかく逃げろ!」


 情けない悲鳴をあげて、大和の兵たちは蜘蛛の子を散らすようにしてばしゃんばしゃんと水音を立てながら、浅瀬に待たせたままの船へ飛び乗っていく。


 そして、それから十も数えた頃――。


 笠沙の浜からはすっかり人の気配が消え、そこにいるのは、呆然として高比古を見下ろす狭霧と、そのはるか背後で、腰が抜けたように尻もちをつく佩羽矢だけになった。


 涙目になった佩羽矢は、狂ったように繰り返していた。


「お、俺、俺……とんでもないことに……」


「高比古、しっかりして。目をあけて、高比古……!」


 狭霧は、涙をこぼしながら高比古に呼びかけ続けた。


 高比古の身体に、痙攣じみた小刻みな震えがあらわれはじめた。


 それでも彼は、ある時、最後の力を振り絞ったふうにぐいっと顔をあげ、狭霧の手首を掴む。力の加減を忘れたふうに無中で力を込める彼の手は、そこに巻かれた黄色の染め紐もろとも、狭霧の手首を握り締めた。


「状況を、伝えろ」


「状況? どうやって……。高比古、しっかりして。どうすればいいの、どうしよう」


 取り乱して、狭霧は首を横に振るだけだった。慌てふためく狭霧を罵るような目をして、高比古は叱りつけた。


 彼は、うまく動かなくなった舌を懸命に動かし続けた。


「あんたしかいないんだ。都にいる、出雲の事代に繋いで、状況を伝えろ。大国主に伝えて、指示をあおげ。それから、事代には、すべての薬をかき集めて、すぐにここへ来いと……」


「……薬?」


「そうだ、薬。毒を打ち消す薬をつくる、もと――。とにかく、大国主へ。……状況が読めない。敵が誰かも、狙いも、数もよくわかっていない。おれなら、死なない。平気だから、火悉海を止めて、戻せと。なにがなんでも、あいつを死なすな――。そうしないと、出雲と阿多で、戦が起こる……」


 そこまでいうと、高比古の目には、重そうなまぶたが降りていく。


 でも、彼の瞳がまぶたに隠れてしまっても、狭霧はまだ彼から睨まれている気分だった。


 早くしろ。すぐに。今すぐ。


 迷っている暇はない。たった一つの正答を見つけ出して、すぐさま、おこなえ――。




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