大地の癒し手 (2)
(もしや、須佐乃男様がお考えになっているのは――)
一つの考えが浮かぶが、いや、まさか――と、それを打ち消す言葉も浮かんだ。
(私は、ずっと考えていた。なぜ、かの老王は高比古を武王に推したのだろうかと)
たしかに高比古は、攻めと守りのどちらが得手かといえば、攻めるほうだ。策を立てる時も、彼は守りの最低限を知っていて、それ以上は防衛線に兵を置かない。慎重で、守りに重きを置いた彦名と比べれば、それは若さのせいだと差し引きしても、考え方のちがいは明白だった。
しかし、とはいえ――。
これまで彼は
もともと高比古は風や森の声を聴く
もちろん候補は若者たちだけではないし、御使いとしてほうぼうに仮住まいしている有能な者たちはほかにもいる。
しかし、もしかすると――。
(まさか。時期尚早だ。そうではなくて、もともと考えていたとおりに……いや)
その時、背に大弓を担いだ武人がそばに歩み寄ってきていた。
「安曇、そろそろ出陣できるが――。どうする」
何度も共に戦を切り抜けた戦友で、彼は名を
「どうするといわれてもなぁ。相手は――我々の敵は結局、誰なんだ?」
「隼人らしい。聞いた話だと、薩摩、大隅のあたりの部族だとか」
「その話の出所はどこだ。信用できるのか?」
「阿多の姫だよ。名を
「……ふうん。だが、薩摩、大隅? どちらだ。それとも、両方か?」
箕淡は、腕組みをしつつ息を吐いた。
「その姫は、
「なら、数は――」
「多くないらしい。丘の森に逃げ込んだらしく、先に二人ほど様子を見にいかせたが、いまは阿多の武人とそいつらで、闇の中で木に隠れつつ睨みあっているとか」
「若王には近づけないのか。無事なうちに退かせさえすれば、出雲が手を出す必要は――」
「それが……結論からいうと、無理だ。若王はすでに、丘の林の奥へ入られている」
「弱ったな――」
「……それで、
「それは、もちろん。私に聞くまでもないだろう? ……こうなったら、我々が出ていくのは仕方がないことなのか」
深いため息をついた後、安曇の顔には指揮官らしい強張りが戻った。
「闇の丘で木に隠れ――か。……まるで猿だな。猿を相手に猿の戦をしても、逃げられるだけだよ。猿には、罠をはるべきだ。丘の端の木を薙ぎ払って、焼き討て」
「だが、安曇、ここは隼人の聖地だぞ。聖地を火で荒らすなど――」
「聖地はそっちの丘だろう。戦をしている丘と聖地の丘は、別の場所だよ」
「しかし――」
近いぞ。目と鼻の先だ――。そう、箕淡の真剣な目は
安曇の表情は深刻な影がかかったまま、揺れなかった。
「それでも、阿多の若王を無傷で帰還させるほうが重要だ。風上と風下を見極めて火を放ち、賊を炙り出せ。山全体に火が回らないように気を配ることを忘れさせるな。賊が何者かわからぬのだから、穴持様は生け捕れとおっしゃっている。ただし、一番の目的を果たせぬようなら――それは、絶対でなくてもいいと」
「……わかった」
小さく二度三度うなずいて、箕淡は安曇のそばを離れた。
「斧はあるか。斧を集めろ」
彼は、木を切り倒す刃物を揃えにいくのだ。
箕淡と別れると、安曇は大国主のそばへ向かった。安曇が仕える主、出雲の武王は、波打ち際で腕組みをして立ち、浜辺の喧騒をじっと視界におさめていた。
安曇が近づいていくと、大国主はちらりと顔を向けてくる。
「策は決まったか」
「はい。火攻めでいきます。……いきましょう」
始まりを告げると大国主の足は颯爽と動きだし、いつもどおりの歩幅で浜を横切る。
武王の歩みに吸い寄せられるように、浜に散らばっていた兵たちの足取りは慌ただしくなり、できるかぎり早く列を為せと、いまの手仕事を終わらせようとした。
大国主の後姿を目で追い、安曇は一度、
(仕方ない。高比古は、あの子に任せよう)
狭霧は薬師だ。あの子があのように事代を従えているのは、高比古が食らった毒の薬をつくろうと懸命になっているせいだろう、と。
でも、一筋の不安がよぎる。
大丈夫だろうか。
高比古の様子がしばらくおかしいのと同じく、狭霧もここしばらくは――。
(もしかしたら私は、いや、出雲は、狭霧と高比古のどちらかを……いや、両方をいまに失うかもしれない――)
神官や巫女であれば
(もしや、私が打った手が間違いだったか――。いや、この世に、絶対に正しい策などあるだろうか。すべての正答は、常に誤りと隣り合わせだ。するべきは、誤りを抱きこむ覚悟だけだ)
そしてそれは、いまの安曇がどうにかできることではなかった。
大国主が向かったあたりから、安曇を呼ぶ声がした。箕淡だ。
「おぉい、安曇。山の風上に回る小勢を選んだ。十人だ。なにもなければ、このままいかせるが」
箕淡が尋ねたのは、策を動かし始めていいかとの是非だった。ひとたびここを出れば乱がおさまるまで戻ることがないかもしれない遊撃勢に、出立の合図を与えてよいかと。
「十人? 待て、いまいく」
振り切るように、安曇は狭霧の姿から目を逸らした。
(あの子を信じるしかない――)
それから、周囲の武人へ命じながら、大国主の背を追いかけた。
「誰か、四人。浜に残り、狭霧と高比古の警護にあたれ。――戦太鼓をしこたま持て。この闇と森では、音しか意図を伝え合う手段がない。いいか、戦太鼓を――」
地元の海民の腕を引っ張ってきた事代は、手の上に拳大の二枚貝を乗せていた。
「薬草ではありませんが、この貝が効くそうです。この貝は肝に毒をもつのでふだん食べることはないのですが、強い解毒作用があるそうで、紫毒の軽い徴が出た程度だったら、これで傷口を洗うか、ほんのひと切れを口に含むそうです。ただ、その後で海の水を飲む習わしがあるそうです」
「海の水?」
「はい。山の毒は、海の水で清めるのだとか」
平たい道具を使ってがちりと貝の口をあけると、立派な貝の身が姿を現した。
粘ついた体液に覆われたその貝は乳白色をしていて、月の光のもとでは星の滴をまとっているかのように輝いた。とても活きのいい貝で、突然貝の口をあけられたことに脅えて、ぐなりと身をくねらせている。動きは大きく身にはいきいきとした艶があり、じっと見つめていると、その奥には薬草からは得にくい強い効き目をもつなにかがあると感じさせた。
(これは、効きそう。あの毒と相性も良さそう)
狭霧は目を輝かせた。でも、いざ手を下して貝の命を奪って薬をつくろうという瞬間に手が止まり、稲妻に打たれたような気分になった。
(この貝の肝を使う。この貝を、殺す――?)
薬もまた、もとは生き物だ。
病を患ったり怪我を負ったりした時は、生き物の命や力をすこしずつもらいながら、人は生き長らえるのだ。そうでなくても、だいいち生き物はみな、食事をして生きている。
(これは、戦となにがちがうんだろう。敵を敵と見なして攻めて居場所や命を奪い、味方を守るのと、なにが――)
突然、泣きたくてたまらなくなった。
それから、さきほど「戦を起こした……」と恐ろしくなった自分を、さらに恐ろしいと感じた。自分はきっと「戦は恐ろしいものだ」と感じることに、安堵していただけだった――と。
(誰だって、お腹が空かなければごはんを食べないし、怪我をしたり病に冒されたりしない限り、薬は要らない。だったら、戦にも必ず理由があるはずだ。それも知らずに、戦は恐ろしいとか、ただそんなことをいうのは、もしかしたら偽善かもしれない。わたしだって毎日、なにかの命を奪って生きているのに――)
悪いと気づかないことは、悪いと気づいて苦しんでいるよりよほど危うい。そういうことを狭霧へいった高比古の目も、ふいに思い出した。
嫌だ、ひどいとこれまで思っていたことを、知らずのうちに自分もやっていたかと思うと、頭の奥にひどい痛みが走った。
でも――いまはこんなことをしている場合ではない。
早くしろ。すぐに。いますぐ。
迷っている暇はない。たった一つの正答を見つけ出して、すぐさま、おこなえ――。
胸で念じると、きゅっと唇を噛む。それから、目の前に差し出された大ぶりの貝や、集められた薬草の数々を一つ一つじっと見つめてから、目を閉じて胸に手をあてると、祈った。
「ごめんなさい。あなたたちの命と力を、彼にください。彼が失いかけている命を、あなた方の命で補ってあげてください。わたしのわがままを、どうか許してください」
それから、みずから手を伸ばして貝殻から乳白色の身を引き放すと、そばにいた事代へ尋ねた。
「肝を使った薬をつくったことが、いままである?」
「は、はい――いえ、見ただけなら。熊の肝が良薬とされているので、それを天日に干す仕事を薬師がしていたのを、意宇で見ました」
「そうか、そういう薬はあるのね。じゃあ、やってみよう」
うなずくと、狭霧は帯にさしてある小刀を手に取った。
「この貝の肝をすり潰して、薬をつくろう。あとは、集めた薬草の支度も始めなくちゃ。すり鉢が要るわ。それから、鍋と器も。さ、始めよう」
指示に従おうと、そばに集まっていた事代たちは持ち場を目指して、ある者はすり鉢のもとへ、ある者は焚き火の一角につくられた石竈へとさっと駆けていく。
五人の事代が懸命に手を動かす姿を眺めながら、狭霧はぼんやりと考えた。
きっと薬師というのは、手もとでほんの小さな戦を起こす人のことだ。
それはたいてい目に視えないほど小さいし、敵とする相手は人の形をしていない。でも、規模や方法は違えど、きっと薬師も、武人と変わらないのだ。
薬師にとって毒や病は敵だが、それも考えてみれば、滅ぼされゆく哀れなものだ。
毒もまた、人によって毒として使われる前は、なにかの命か力の一部だったものなのだから。
老巫女の祈りの声には炎の舞に似た抑揚があって、その響きは夜の浜に繰り返し響いた。
「この者の死に、しばしの猶予を。時を遅めよ。死の淵へ向かうこの者の足を、止めよ――」
声に合わせて同じ動きで円舞を為す若い巫女たちは、高比古が横たわる寝板の周囲をぐるりと囲み、息を合わせて舞い歩く。彼女たちが砂を踏む音や、声の響きが、夜の海風に妖しく染みていた。
それを背にして手仕事を続けながら、狭霧は何度か、巫女たちの口から驚愕が囁かれるのを聞いた。
「おお、死が移りゆく。これはなんとしたことか……。出雲の民は、死を操るすべをもっているのか――」
(きっと、
畏怖ともつかないため息を耳で感じるたびに、狭霧の手さばきはさらに慎重になった。
(やっぱり――。祈るだけじゃ、死は止められないのよ。早くしなくちゃ。高比古の時を止めたところで、代わりに
薬師として学び始めて一年になるが、このあいだに狭霧は、礎となる技の数々を習った。薬草の見分け方や育て方、飲み方や塗り方。草花から油薬を取り出す方法に、包帯の用意の仕方や巻き方。それから――薬のつくり方。
薬のつくり方だけは、みずからの手で成し遂げたことがなかったが、心得は高比古から教わった。
『薬っていうのは、身体の中の弱ってる部分をもとに戻してやるものだろう? まず、なにが足りないのかを見つけてやらなくちゃ駄目だ――』
狭霧は、そばに置いたままの
(わたし、この毒を消したいの。これを打ち消すものはなに? 足りないものは――、どうすればいい……)
気が遠くなっていく気分だった。狭霧の意識はたしかに目の前にある世界を離れていき、意識のすべてで毒を向いた。
ああ、ついに毒の世界に足を踏み入れた――そういう幻を感じながら、手はふらりと薬草に伸び、仕事を続けた。
やがて、出来上がった貝の肝の汁にいくつかの薬草の汁が混ぜられ、熱しても構わないという胸の声に従って、火にくべて――。
でも、そのうち、そばで働く
「もう無理です、姫様。薬をつくってもどうにもできません。だって、我々がつくっているのは毒です。これは毒を殺す毒で、死の力が溜まった汁です。たとえうまく仕上がっても、再び命を奪いかねないものを、高比古様の口に入れるわけにはいきませんよ。形代の契りが二度目にも効くかどうかは、わからないのですよ」
紫蘭は気が昂ぶったように、目に涙を浮かべていた。
「こうなったら、もう隼人の巫女の手にゆだねましょう。このまま時を止めて、高比古様を出雲へお連れしましょう。
紫蘭は幸運にすがるようだったが、狭霧は叱声で咎めた。
「そんなことをしたら、出雲に着く前に必ず日女が弱ってしまうわ。ここから出雲までは三十日……ううん、風が悪ければ、ふた月かかるかもしれないのに」
「ですから、姫様。だってこれは、薬というにはあまりにも……これは、毒です」
高比古の身体を蝕む亥殺しの紫毒を追いやろうとつくっていたのは、毒の効き目を打ち消す、真逆の効き目をもつ薬水だった。貝の肝を基としたその汁は泥水のように濁っていて、気味の悪い色をしていた。特別な霊威をもたない狭霧にも、その薬水には強い負の力を感じた。それはたしかに毒だった。
狭霧は、そばに置いた毒針をじっと見下ろした。
「でも、出雲の大巫女様に、この毒を消すことはできるのかな。この毒は、出雲にはないものからできたものよ。この毒を打ち消すものだって、きっと南の大地にしかないと、わたしは――」
「ですから、姫様……」
巫女様の命は諦めましょう――。紫蘭は、行き止まりにぶち当たったように目に涙を溜めていた。
狭霧は、つくりかけの薬水へと視線を移した。小さな土の器に溜まった泥色の汁は、相変わらず強い負の力を溜めこんでいる。
(毒か――。毒と、薬……。そのちがいは――)
ぼんやりと思ううちに、狭霧はぽつりとつぶやいた。
「そうだ、試してみればいいんだ……」
「試すとは――」
「うん、そうよ。毒と毒を合わせて、本当に打ち消し合うかどうかを試してみればいいの」
いうが早いか、紫色の毒汁がついたままの針へと向かう。布越しにつまんで目の高さにあげると、そこについていた汁の量を目ではかった。
それから、仕上がった薬汁のうちすこしを小さな盃へ移し替えると、そこに毒針を浸す。すると、水面に突き立てた針からはふわんとした輪がひろがり、泥色の水は波紋が通り過ぎるにつれてすこし澄んだ。
「負の力が薄れました――。やはり、考え方はこれでよかったんですよ。でも――」
小さな盃を覗いて紫蘭はいうが、やはり声は落胆していた。
「これを高比古様のお口に入れるわけにはいきません。だって、これはまだつくりかけの薬です、つまり、毒なんです。薬と毒は紙一重で、どちらにもなりうるのです。こんなに危ういものを――」
「それはわかってる。でも、待っていたら日女が死んでしまうかもしれないわ。日女は力のある巫女なんでしょう? みすみす死なせるなんて――」
「……仕方ありません。あの巫女様は、そのように運命づけられた方です。あの方もそれを覚悟しておられます。だからこそ、笠沙にはまいられませんでした。きっと今頃、阿多の神殿で死に臨む祈りを――高比古様から、すべての『死』を引き受ける誓いを――」
「どうして――」
やりきれなくて、首を横に振った。その瞬間、狭霧に危うい閃きが生まれた。
わたしは、どうだろう――。
そこで死に瀕している高比古は出雲を背負って立つ若者で、この先の出雲を生かしていく人だ。いずれ王者となる彼を死なすわけにはいかないと、巫女が命の番をしている。
でも、わたしは――。
ぎゅ、と膝の上で握りこぶしをつくった。
わたしは、軍旗だ。軍旗というものは、どれだけ見事で華やかだとしても、軍旗というからには戦に関わる場所にしかない旗だ。つまり、火種だ。
(わたしが生きていても、いなくなっても、どうせ戦は起きるんだろうな。これから千年にわたって出雲を生かしていく高比古とはちがって――)
いまほど冷静にものを考えた瞬間は、狭霧になかった。それほど心は静かだった。
そして、いつか、目の前にある小さな盃に手を伸ばしていた。それから、紫蘭がそれを止める間もなくあおって、飲み干した。
「姫様、なんてことを――! 誰か、水をもってきてください、誰か! い、いや、それより……言霊で時を止めるべきかな……! とにかくみんな、みんな来て!」
半狂乱になって、紫蘭が仲間の事代たちへ叫んだ。
ちがう、そうじゃない――と、狭霧は唇の内側で舌を震わせた。
飲み込んだものはやはり不完全な薬……つまり、毒だったようで、身体の中で一番先に触れた場所、舌はすぐに麻痺して、ろくに動かなくなった。胃の腑へ向かう通り道になった喉も、焼けるようにかっと熱くなった。
「水じゃない。ちがう、塩……。塩がいい」
「姫様、なんですか? なにかおっしゃいましたか!?
紫蘭は狭霧を抱え込むような姿勢になると、顔を無理やり地面の砂地へ向けさせる。口をあけさせて、喉をひらいて、そこを通ったものを吐き出させようとした。
狭霧は、その手を無我夢中で振り払った。
「ちがう、水じゃないの。塩よ。塩をもってきて……!」
いま、吐き出すわけにはいかない。せっかく身をもって、そこに足りないなにかのことがわかりかけたのに。
そういえば、誰かがいっていたではないか。笠沙の人たちは、この貝の肝と一緒に海の水を飲むと――。習わしには必ず意味がある。なんの寓意もない古来の知恵など、存在しないのだ。
塩には、強い浄めの力がある。塩を振った魚や野菜が腐りにくくなるのはそのせいで、疲れた人にひと舐めさせるだけで、弱った身体を回復させる力がある。それから、もっと別の力も。
「姫様が毒をあおったって――?」
混乱を帯びたざわめきは、たちまち広がっていった。
塩の袋と水筒をもってやってくる桧扇来の顔は青ざめていたし、ほかの事代たちも、いっせいに狭霧へ向かって手を差し出した。彼らは狭霧の中に起きている異変を食い止めようと、言霊を唱えて時を止めようとした。だから、狭霧は叫んだ。
「ちがう、やめて――! わたしはまだわかっていないの。ここまでやったのに、やめさせないで」
頭で考えて正答を導きだす余裕や時間がなかったから、自分の身体に答えを求めたのだ。理由はあとで考えるとして、身体は「今の薬には塩が足りない」と喚いていた。
むさぼるように指を広げて塩を掴むと、口の中に放り込んだ。「どれくらい食べればいい?」と身体に尋ねると、「たくさん」といったからだ。
事代たちは、それを止めようとした。
「駄目です、姫様。塩には害と益が共にあります。一度にそんなに身体に入れると、心の臓が乱れて……!」
それは狭霧も知っていた。でも、身体は、どうしてもこれだけの量が要るといった。
飲み込むと、ずきんと頭の内側が痛んで目まいがした。毒と薬は紙一重、境になる線は曖昧だ。でも、毒に痺れた舌は安堵を始めた。身体に取り込んだ毒の酸を、塩が打ち消し始めたと感じた。
毒については、これでどうにかなりそうだ。でも、次は塩の害を考えなくてはならない。薬には、効きもするが同時に害も与えるという諸刃の剣じみたものがある。その害を癒すものを同時に取り入れなければ、人の身に適した薬とはいえない。
狭霧は、大陸から海を越えて渡ってきた珍しい薬草をねだった。
「甘草を。噛むから、すぐに」
それには、心の臓の動悸やほかの薬の強すぎる効き目を和らげたりする力がある。
ふだんなら煎じて使うのだが、余裕もないいまは受け取るなりがじがじと歯で噛んで、とにかく身体に入れた。それから――。
「天豆と、蜻蛉蔓の実もちょうだい」
胃の腑を庇う薬草もねだると、それも口の中に放り込む。
そうしているうちに、狭霧はぐらりと目まいを感じた。
「狭霧様……! あ、熱い、熱が……!」
塩を食べてからというもの頭がずっと痛くてよくわからなかったが、いわれてはじめて身体が熱いと感じた。でも――。
「熱? でも、身体の中の毒は、だいぶん消える力を得たと思うの。ねえ、いま私にある熱は毒の熱? それとも、身体を
楽になりゆく予感があるとはいえ、まだ舌は痺れていた。回らない舌でうわ言のように尋ねる狭霧を支えながら、事代たちは泣きわめくように答えた。
「いまの姫様の御身に、呪いや毒の気配はありません。あるのは、毒を打ち消す時の清らかな熱です」
「なら、よかったね――」
狭霧は、満足した。それから、自分を覗きこむ事代たちの顔を見上げて、笑った。
「いまの混ぜ方で、わたしはいいと思う。さっきつくった泥色の薬水に、甘草と天豆と蜻蛉蔓の実を煎じたものを混ぜて、高比古に飲ませて。――ううん、量を減らして。わたしは飲みすぎちゃったみたい。量は、小さなさじに一杯あれば十分だと思う。それでも、飲んだらたぶん苦しくなるから、塩を……。でも、どうしよう……あんなものをあれだけたくさん、眠っている人が口にできるわけがないね。……そうだ、高比古の口の中に、塗り続けて。彼が舌を動かしたりするたびに、身体の中に入るように」
「はい、わかりました、姫様……」
鼻をすすりながら、狭霧を取り囲む事代たちは何度もうなずいた。
「煎じ薬は、たくさん用意して、口に含ませ続けてね。あれは、毒を和らげるためのものだから。でも、多すぎると身体が驚くわね――。高比古の様子を見て、量は調えてあげて」
「わかりましたから、だから、もう眠ってください――! 最後の熱というのは、すぐさま身体を休めよという身体の悲鳴です。おっしゃったとおりにお薬を用意しますから!」
「もういい、紫蘭! 言霊で姫様に眠りを……!」
まぶたを閉じゆきながら、最後に狭霧が聞いたのは、桧扇来の叫び声だった。
それにも狭霧は、待って、ちがう……と、文句をいいたかった。
わたしに構う暇があったら、一人でも多く高比古について、彼の身体を守ってあげて。それから、彼のそばで彼のために命を捧げる日女を――。だって、わたしは――。
意識を失うまでのあいだは、とても短かった。
でも、そのあいだにいろいろなことを考えて、想って、それから、もういいやと諦めた。
先にあるのは闇ばかり。その闇に明かりを灯したところで、闇が晴れた後にあるのもきっと闇だと感じていた。だから、どちらも闇なら、もうおしまいにしてもいいや。その瞬間が誰かを――高比古の命を助けることに繋がるなら、とても明るい闇だなあ――。そんなふうに思って、満足した。
「出雲の姫が、毒をあおった」
「毒を
「すぐに御身を神床へ運べ。呪女の霊威が届く輪の中へ!」
「どいてください、道をあけなさい! 姫様がみずから仕上げた薬を、高比古様に飲ませるんです」
「ここまで形になったのにうまく使わなかったら、あとで姫様が悲しみます。どきなさい、場所をあけてください!」
狭霧が意識を失ってから、夜の浜には喚き声や叫び声が溢れて、何事か起きたと騒ぎ始めたやじ馬までが浜の中央へ集まってきた。
もともとそこにいた笠沙の男たちは、力強い掛け声とともに狭霧の身体を持ち上げて、高比古が横たわる寝床の彼の隣へと運ぶ。
事代たちは細い身体を包む裾の長い衣装をひきずりながら、目の色を変えて高比古の枕元を陣取った。
「なにをしているのだ。あなたたちがそこにいれば、笠沙の呪女たちの祈祷が届かぬではないか……!」
笠沙の巫女へ無礼をするなと腰をあげた海民もいたが、事代たちはいまに限って、有無をいわせぬふうに海の大男たちを退けた。
「黙りなさい。姫様が仕上げた薬を飲ませるのが先です! 出雲は医術と薬の国。この先、高比古様の治癒は、我々が司ります!」
そうして、彼らが運んだ器や麻袋で、高比古の枕もとの隙間は埋まっていく。
笠沙の呪女たちはとうとう円舞をおこなう足を止めて立ち止まり、ぽかんとそれを見つめた。
その一部始終を、
自分になりすました高比古が、自分の代わりに殺されかけたのを目の当たりにしてからというもの、ずっと腰は抜けっぱなしで、いまも力は入らず、砂浜の端で尻もちをついて、がくがくと震えていた。
(いったいなんなんだ、これは――)
高比古は、自分が食らうはずだった即死の毒を食らって、そこで伏している。
自分は、本国の上役から殺されかけたのだ。いったい、なぜ――?
疑問は胸を刺すが、その痛みが感じられないほど、胸は脅えていた。
(俺、出雲の偉い奴を、あんな目に遭わせた……)
ほろり、と涙が頬を伝った。
(いまも、阿多の若王を危うい目に遭わせていて、そのうえ――)
どん、どん、どろどろ……。すこし前から、軍が向かった方角の闇から恐ろしい太鼓の音が響いている。はっと佩羽矢は顎をあげた。
遠くの闇に、煙が立った。そうかと思えば、夜天の裾野に鮮やかな火の色が浮かんだ。すぐ近くの丘で、森が焼けているのだ。
(出雲軍は火を使ったんだ――。賊をとらえて、若王を救うために)
そして――。再び目は、夜の浜の騒動を追う。そこには武王の御子姫の身が横たえられ、大勢の人に囲まれて、高比古とともに懸命の介抱を受けている。
(お、俺、この中の誰か一人でも死んだら、間違いなく殺される……)
怖くて、佩羽矢は震えが止まらなかった。
死の恐怖は彼を怯えさせたが、胸にはそれ以上に恐ろしいものが生まれていた。それは、ぽっかりと空いた虚無だった。
(俺は、結局なにもできなかった……。あそこで姫様は、あいつを助けようと薬をつくって、自分で飲み込みまでしたのに――)
身分ある異国の若者たちを三人も危うい目に遭わせたのが怖いだけなら、いまの混乱に乗じて逃げてしまえばよかった。佩羽矢を見張る人は、誰一人としてそばにいなかったのだから。
でも――。佩羽矢はそこから動けなかった。
(父さん、母さん、
亡くなった家族を想った。屍をこの目で見たわけではないが、笠沙の山宮で佩羽矢の願いを聞き入れ、死者の口寄せをしてみせた隼人の大巫女は、突然の大声を佩羽矢へ聞かせた。
『逃げて!』
『逃げろ!』
それは家族の悲鳴で、佩羽矢は鼻っ柱を殴られたような気分を味わった。
死者のための
『国と国の諍いが、我々の暮らしといったいなんの関わりがあるというのだ。私はただ、おまえたちと幸せに暮らしたいだけだった……。そこは、危ない。逃げろ、佩羽矢』
『大和は、はじめから私たちを殺す気だったのでしょうか。あなたはこれから、どうなってしまうのか。あなたが出かけたのは、遠いところなんでしょう? いつか、
最後に隼人の大巫女は、美しく咲き誇る花のような華やかな笑顔を浮かべた。
『兄さん……。どうして、そんなに遠い場所にいってしまったの? 貧しくても、私はちっとも嫌じゃなかったのに――。ちゃんと奥様をもらって、幸せにね。私のぶんまで……』
妹の魂を宿した大巫女の笑顔には、土の上にこぼれ落ちる寸前の花のように、散り際の寂しさがあった。
その時から、佩羽矢の心は決まっていた。
(阿多に戻ったら三熊たちに声をかけて、逃げよう――。出雲に来いといわれる前に、どこかへ逃げおおせてしまおう。どこだっていい。どこか大和も出雲もない場所で、ひっそりと暮らそう。どうせ俺なんか、誰も追ってこないよ。それに、俺が出雲にいったって、どうせなにもできないし)
でもいま、腰はじりとも動かず、冷やかな夜の砂に落ちたままだった。
出雲軍に焼かれた丘の方角から煙の匂いが漂い始めると、人々は揃って煙の方角を向いた。浜には人が大勢いたが、佩羽矢を気にする人は、やはり誰一人いなかった。
(逃げるなら、いまだ――。船だって、あんなに……)
夜の闇に沈んだ渚は、出雲軍が乗ってきた戦船や、浜里の釣り船でひしめき合っていた。粗末な小舟の一つでも拝借すれば、佩羽矢はすぐに出雲軍のもとから逃れられるだろう。そしてきっと、逃げたところで、たかが佩羽矢を捕まえるのに追手をつけたりはしないだろう。
(いま逃げれば、きっと俺は、のんびり楽しいふつうの民の暮らしに戻れる。でも……)
ふつうって、なんだろう――?
のんびり楽しい暮らしなど、はたして、いまのこの世にあるのだろうか。すくなくとも、いまの自分の前には――?
このまま逃げたら、それこそ二度とふつうの暮らしに戻れない――そう思った。そして、佩羽矢の腰は鉄に変わったように重くなり、冷えた暗い砂の上から動けなくなった。
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