聖地遷御 (1)


 深淵の底からすうっと身体が浮き上がって、水面に顔をあげるような――。


 寝床で目を覚ました狭霧は、久しぶりの感覚に戸惑った。


(なんだか、とても深い眠りについていたみたい。わたし、いつから眠っていたっけ――)


 清らかな香りのする寝具をよけて、起き上がろうとした。でも、うまくいかない。いつもより身体が重くて、首をもたげるのですらやっとだった。いったいなにが起きたんだろうと、寝入る前の記憶を探して目をしばたかせるが、隣の寝床に横たわる青年の寝顔が目に入るなり、じわじわと笑みが浮かんだ。


 狭霧がいたのは、見たことのない舘の中だった。


 美しく面を削られた丸太を並べた壁があり、同じ木材が床にも敷かれている。枕元には薬湯をたたえた壺が置かれて、それを口に含ませるための吸い口付きの盃もそばにある。


 壺から漂う爽やかな甘い香りには、覚えがあった。それは、高比古へ飲ませるように事代ことしろへ頼んだ薬草の香りが、いくつも絡まったものだ。


 狭霧の胸にかかった掛け布には阿多風の紋が描かれていて、隣の寝床で眠っている人の胸にも同じものが掛かっている。


 その人は狭霧が覚えているとおりに寝相がとてもよく、ほとんど身動きもせずに静かに寝息を立てていた。すう、すう……と、息をするのに合わせて、胸が安穏と上下する。もともと彼の肌は白かったが、いまの顔色は、病や毒を感じさせるような危うい白さではない。


 彼の寝顔に、見ていると不安になるような影は見えなかった。


(よかった……)


 だから狭霧は、もう一度、さっきまでいたところへ戻ろうと思った。


 もう一度深い眠りについて、ゆっくりと休んで――。


 そして、とても静かな場所で一人になって、あとすこし自分と向き合ったら、しばらくずっと胸にあった闇の謎が解けるような――。そんな気がした。






『そういえば、高比古って、もとの名前は?』


 そう問われた時、高比古はしばらく、いったいなんのことかわからなかった。


『高比古って、彦名様がつけた名前だったはずでしょう? だから、高比古って呼ばれる前は、どんなふうに呼ばれていたのかなあって、気になって――』


 それは、遠い昔の話だ。思い出せといわれても、なかなか思い出せない。でも――。


『……内緒のこと?』


『そういうわけじゃないよ。ただ、もう消したから。ないんだ』


 その時はそう答えたが、嫌だからと簡単に消してしまえるなら、そう苦労はしない。


 前よりはずっと減ったが、病に冒されたり、怪我を負ったりして身体が弱ると、高比古は時おり見たくもない夢を見た。


 それは背後から見張り続ける記憶の番人じみていて、これまで高比古に恐怖を与えたものを、一番恐ろしかった瞬間だけ、うまい具合に連ねて脅かしにくる。


『呪われた子だ、私の子じゃない! 私の子じゃ……!』


 自分を見て、気がふれたかのように泣きわめく母の青い顔。


 髪を振り乱して脅える母の肩を抱き、慰める父の姿。


『落ち着け、大丈夫だ、おまえの子じゃない。あれは悪霊が置いていったんだ』


 そんな、とうさん。じゃあ、おれはなに?


 そう思った幼い頃、高比古は泣きたかった。


 でも、泣こうと思っても、笑ったり人の言葉を話したり、動かし慣れていない顔は石のようにかたまって、涙も出ない。


 幼い頃、高比古は里外れの岩室で暮らしていたが、どれだけ眠ってもどうしても身体がだるくて、起き上がれなくなったことがあった。やけにぼんやりとして、いつまでたっても身を起こそうとしない童の身を案じたのは人ではなく、岩の精霊だった。


『困ったね、それは、風邪というものだよ』


「風邪? それって……?」


『人の病だよ。食べて、眠れば治るから――』


 その岩室は人里離れた場所にあったが、食事だけは毎日届けられた。その里で高比古は童の姿をした魔除けと扱われたので、「お供え物」と呼ばれたが。


 でも、高比古が寝そべったまま動かなくなると、「お供え物」は届かなくなった。代わりに、里人は日に何度もそこを訪れるようになり、岩室の入り口となった裂け目から、奥で倒れ伏す小さな童を覗いた。里長の爺と、息子だった。


「やれやれ、ようやく死期が来たかのう。成長して身体が大きくなっては、囲い場所に困って厄介だし、このまま死んでくれるとよいのだが……」


「ならば、盛大に祭りをひらいたほうが――。魔物の子は禍事まがごと形代かたしろとして、あらゆる災厄を身にたずさえて去ってくれるといいます。あの子が死ぬときに、里にあるすべての穢れをかぶってもらえれば――」


 彼らは手ぶらで、高比古の弱り具合をたしかめに来ただけだった。


 風邪をこじらせて寝こんでも、人は誰も助けてくれなかった。それどころか彼らは賑やかな祭りをひらき、死を願った。


 ドン、ド、ドッと、打ち鳴らされる太鼓の音。毎夜、里に焚かれる巨大な炎。それから、高比古の死を願う里者の声。


 岩室に横たわった幼い彼は、音や声のする方角をぼんやりと眺めて過ごした。


 そうか、おれは、もうすぐ死ぬんだ。


 そして死ぬ時には、災いをこの身に連れて、この里の穢れを払うんだ。


 だっておれは、悪霊が置いていった呪われた子だから――。


 それを、そうではない、怒らなくては駄目だと教えてくれたのは、精霊たちだった。


『あなたにこんな仕打ちをするなんて。あの村の木は枯らしてやるわ。木々たちに、枯れるようにいってくる』


 吹きそよいでいったのは、秋の風。別の風は、温かな湿り気を含んで戻ってきて暖をとらせた。森の木々は枝を伸ばして果実を与え、泉は、動けない高比古を気遣ってそばまで流れてくれた。


 そして、連夜続いた太鼓の音や祈りの声はいつしかやみ、里長の爺と息子が再び高比古の岩室を訪れた。冬にはまだ早いというのに、立ち枯れた木々だけになった里を憂いて、いったいなんの祟りだとここへやってきた親子は、絶句した。そこには、秋に咲くはずのない花が咲き乱れ、たわわに果実を実らせる豊かな森があった。


 親子がやってくると、岩室の周りの気配がいっせいに変わった。


 岩も風も森も水も、親子をぎらりと凝視して、責めた。


 だから、高比古も同じように睨みつけた。目や口のない精霊と同じように、意図の見えない冷めた気配で、無言で責めた。


(そっか、こういうときって、怒っていいんだ。怒っていいんだ……怒って――。うん。おれは、あんたらが嫌いだ。大嫌いだ。あんたらなんか、消えてしまえ。一番いやな死に方で、苦しみながら、消えてしまえ――!)


 すると親子は化け物に出くわしたように飛びあがって、つまづきながら逃げていった。情けない後姿を嗤いながら、高比古は胸でさらに罵った。


(ざまあみろ、ざまあみろ――)


 幼い頃の記憶は、わずかな安堵と、寂しさと、悔しさと、怒りの日々だった。

 




 ここは、どこだ――。


 じわじわとまぶたをひらいていくと、近くで大きな声がした。


「……高比古? 高比古!」


 がん、と頭を殴られたように感じるほど、声を強烈に感じた。目まいが起きて、いったいどこから聞こえてくる声なのかもわからなくなるほどだった。


 久しぶりに浴びた陽光をまぶしがるように耳を庇いながら、高比古はわずかに顎を傾けた。すると、目が驚いた。これまでに見たことのないふしぎな太陽の光が、目の前にあった。


 そこは簡素な舘の中で、薄暗い。強烈な陽光などない場所だ。


 まぶしいと思ったのは、そこで高比古を覗きこむ娘の顔だった。


「おはよう、高比古。平気? つらくない? ごはんは? なにか食べられそう? いま、お水を……!」


 狭霧だった。


 たちまち高比古は腕をあげて、顔の上で交差させた。


「高比古……。まぶしい?」


 仕草は、目を庇うようだった。狭霧ははっと顔をあげて、寝屋に射しこむ光のもとを探した。部屋の壁には突き上げ式の木窓が四つあって、木窓には琥珀色の光がにじんでいた。いまは、すでに日が傾いている時間なのだ。


 すぐに狭霧は、立ち上がるような素振りをした。


「窓、閉めようか」


「そうじゃない」


 まぶしかったのは光ではないし、顔を腕で庇ったのも、まぶしかったからではない。


 だから、窓を閉める必要はないといおうとしたが、声が出た瞬間に驚いた。声は、涙が似合うふうに震えていた。


「高比古……?」


 おずおずと、狭霧は高比古の顔を覗きこむ。


 その視線から逃げるようにさらに腕を交差させて、高比古は小さな声でいいわけをした。


「おれ、人から看病をされたことがないから――」


「え……?」


「……なんでもない」


 ゆっくりと息を吸っているうちに、心は静まっていった。


 それから、なぜこんなふうに寝床にいる羽目になったかと思い出した。


(おれは佩羽矢ははやのふりをして大和の奴に会いにいって、毒針にやられたんだ――。死に至る猛毒だった。それなのに、なんでおれ、生きてるんだ……)


 あの毒を食らってまだ生きているなら、それは、きっと――。


 深刻なふうに黙ってから、高比古は尋ねた。


日女ひるめは――」


 すると狭霧は、ほっとしたように微笑んだ。


「無事よ。もしかしたら、わたし、あの子に怒られてしまうかもしれないけれど」


 ここに自分が生きているなら、あの巫女は死んだと思っていた。


「無事、なのか?」


 出雲の一の宮、神野くまので、形代の契りというものを日女と交わしたが、実のところ、高比古は半信半疑だった。でも、毒針が胸に刺さって、その毒に身体が驚いて「死ぬ」と感じた瞬間に、遠く離れた場所にいるはずのあの巫女と繋がった気がした。


 契りの力が働いた――。そう思って、疑わなかった。


 きつく交差させていた腕をそろそろと緩めていくと、上から見下ろす狭霧の目が、一瞬びくりとしてかたまった。それから彼女は、ますます高比古を安堵させるふうに、ふわりと笑った。


「あなたが助かったのは、事代と薬をつくったからなの。毒味はしたけど、飲んでも死なないということしかわかっていない状態であなたの口に入れてしまったから、とても心配だったの。どこか、苦しいところはない? 妙な感じがするところとか――。胃の腑は? 指先が痺れるとか、そういうことはない?」


 狭霧の目は、高比古の目もとから離れなかった。


 目もと――。狭霧がじっとそこを見つめている理由に気づくと、高比古は顎を引いて視線を逸らした。それから、そそくさと腕でこすって、にじんでいた涙をぬぐった。


「大丈夫だ。身体が重くてすこし熱っぽいが、寝過ぎたせいだろう。……でも、毒味?」


 狭霧の口から毒味という言葉が出たのが、不思議だった。


 毒味は命を賭ける役目で、それを口にすることによって、災厄を事前に肩代わりする行為だ。「死んでも構わないな?」と念を押されてまっとうするような役目を、自分のために誰かは押し付けられたのだ。


 そんな役目のことを、粥の味加減をみるかのように狭霧があっさりと口にしたのが妙だった。


「毒味は、誰が――」


 たぶん、事代の誰かだろうと思った。彼らは、呆れるほど高比古への忠誠心が高いから。


 でも、事代は大切な戦力だ。たった一人で一流の薬師、窺見の役をこなすことができるし、彼らの力は得ようとして得られるものではない。一人でも失えば、大きな痛手だ。


 許しなくそんな役目を引き受けた奴がいたなら叱るべきだし、兵の誰かや、そこらの里者にその役を命じるような機転をしたなら、褒めるべきだ。


 尋ねると、狭霧は照れ臭そうにはにかんだ。


「わたしがやった」


 意味を理解するなり、さあっと血の気が引いた。


 微熱がさがり、一気に冷えて、鳥肌が立った。


「あんたが?」


「うん、わたしが。その薬は、わたしがつくったから」


 怒りがこみ上げて、わなわなと拳が震えた。


「あんたが、毒味? あんたは、なにをしたかわかってるのか。薬を生半可なものに考えているのか? 失敗してもそれ以上は身を損なわない、いい作用しか生まないものとでも思っているのか。薬は毒と紙一重だ。自分の命を奪ったり、あんたの身体を一生おかしくするかもしれないものを、あんたは――」


 胸の底から込み上がるものを吐き出すようにいうと、狭霧はすこし身を引いた。でも、ぎこちなく浮かべたはにかみの笑顔は、まだそこにあった。


「それは、わかってたの。だから、怒らないで――。わたしはあなたを助けたかったし、日女も助けたかったの――」


 狭霧がいうのを遮って、高比古は唸り声をあげた。


「あいつは死んでも仕方ないと、そういう役目を負った奴だ。なぜ放っておかなかった。あんたが命を危険に晒すくらいなら、さっさとあいつを死なせるべきだった……!」


「でも、わたしは、どっちも助けたかったもの――!」


 狭霧の目は、訴えるようだった。


「それに、わたしは、あなたの身代わりになって死んでしまってもよかったの」


「なにを、ばかな――」


「わたしの代わりにあなたっていう人を生かせるなら、だって……」


 毒を癒す薬をつくったと聞くと、高比古には、そのときに狭霧がいた場所の喧騒や、彼女の焦った顔がじわじわと目に浮かんだ。


 事代たちはきっと自分を救おうと奔走しただろうし、そこで事代たちをまとめながら懸命に薬をつくろうとした狭霧の姿も、まぶたの裏にこみ上げた。


(さっき、あんな夢を見た後だからか――)


 風邪をこじらせても誰ひとり手を差し伸べてくれなかった幼い頃の記憶や、そばにいる人に対して、怒りや蔑みのような想いしか抱かなかった遠い過去とは相反するところに、いま自分はいる。そう思うと、つんと鼻の奥が痛くなって、目もとが熱くなった。


 苦しくなっていく息をおさえようと横を向いて、どうにか高比古は文句をいった。


「ばかだよ、あんたは。あんたがしたのは、無駄なことだった。あんたは大国主が溺愛する唯一の娘なんだぞ? あんたの命を吸って生き長らえたところで、その後で、どうせおれが大国主に殺されるだけなんだから」


 するとたちまち、狭霧からは威勢が薄れた。


「……大国主の、娘」

 

 すこしうつむいた狭霧は、ゆっくりとまぶたを閉じた。


 それと似た仕草を、高比古は戦場で見たことがあった。それは、戦の末に連れてこられた敵国の兵がしていた仕草だ。いまの狭霧はまるで、故郷へ戻る道を断たれてうなだれる虜囚のようだった。


 胸が締め付けられて、ぎくりとした。


 なにがまずかったんだろう。こんな顔をさせるようなことを、おれはなにかいったのかな――。


 もうすこしで、高比古の唇からは嘆願するような情けない言葉が出てしまいそうだった。


 ごめん、おれ、なにかへんなことをいったか?


 そうなら、謝るから。おれ、あまり気が回るほうじゃないし、それに、その――ごめん。


 唇が脅えて、いったいどうすればいいのかと戸惑っているうちに、狭霧はふっと微笑んだ。


「そうだよね。わたしは、大国主の娘なんだよね……」


 その微笑は美しくて、いつもの狭霧らしくなかった。目の前で人が変わっていく瞬間を見ているようで、意味を理解できないものの、気味が悪くてたまらなかった。


 きっといま、とんでもないことが起きかけていると胸が騒いだ。そして、手も足も出ないことに脅えた。


「どうしたんだ、狭霧。それが……」


 すくみあがったように見つめていると、狭霧はくすっと笑った。


「ううん、ただ――。わたしは、とうさまの娘なんだなあって思って。実の親子っていうことは、たとえば、わたしが死んでしまっても変わらなくて、生きていても死んでもついてくる、逃げられないものなのかなあって――」


 そこまで聞くと、理由がすこし見えた。


 たぶん、「おれのせいで狭霧が死んだら、おれが大国主に殺される」といったことに端を発しているのだ。


 でも、理由はわからない。たったそれだけのことで、なぜそんなふうに寂しげな顔をするのか――。


 それは変えようがない事実じゃないか、と高比古は思った。


「それは、そうだろう――。あんたは、大国主の……」


「うん。それからは、絶対に逃げられないんだね。わたしはそれに、いままで気づかなかった。毒にあたって死んでしまえば終わるかと、心のどこかで思っていた」


 ぽつり、と狭霧はつぶやいた。


「わたし、薬師になれればいいと思っていたの。わたしは住む場所が王宮じゃなくなってもよかったし、荷担ぎをしたり土いじりをしたりして、すこしずつ力をつけていければいいって。野宿も船旅も嫌いじゃないし、戦の旅についていくのも苦じゃなかったし……。とうさまの娘じゃなくて、一人の薬師として生きていきたいなあって」


 狭霧がいっていることが、高比古はよくわからなかった。


 でも、真剣に答えなくてはならないという脅しは、目まいのように頭にいた。


 これをいえば、いったいどうなるんだろう。先の読めないやり取りに、胸は焦った。でも、狭霧に向かい合ってやらなくてはと思った。


「……ちやほやされるからか?」


 じわりと高比古が答えると、狭霧ははっと顔をあげた。


「そんなんじゃ……」


「そりゃ、楽だろう。他と同じことをしているだけで、大国主の御子姫が手を貸してくださったと、みんなはあんたに感謝する。でも、大国主の娘じゃなかったら、そんなふうにいわれたかな」


 水面に波紋が広がるように、さあっと狭霧の顔が白んだ。


 高比古は、慰めるように首を横に振った。


「責めてるわけじゃないよ。だから、そんな顔をするな」


 狭霧が自分に求めているのは、きっとこういうことだと胸の奥ではわかっていた。


 いくら冷たいことをいっても狭霧が自分から身構えることがないのは、ありのままをいってほしいからだ。


 でも、いま、その役目は――傷つけるのを承知で自分が気づいた真実を話すのは、どうしても苦しかった。でも、苦しいと感じているのも奇妙だと思った。


「出雲が阿多みたいに、王族であればそれだけで崇められる国だったら、あんたはもう少し楽だったんだろうな」


 それは阿多に来て、この国の姿を見て、ところ変われば変わるものだなあと感じた時から思っていた。出雲での狭霧は、妙な位置にいるのだろうなぁ、とも。


「王族――といったが、父も母も、祖父も祖母も王だの王妃だのっていうのは、出雲では盛耶とあんたと、異国から嫁いできた姫たちくらいだ。王族がいないはずの国で王族と呼ばれるのは、奇妙なものなんだろうな」


 それはきっと、出雲に染みわたる力の掟を理解していればいるほどそうなのだろう。狭霧の身の上にあるのは、矛盾だけなのだから。


 それに気づいたからこそ、高比古は、狭霧へ阿多に嫁ぐようにすすめた。


 ここなら、大丈夫だ。ここの水はあんたに合っているだろうし、先に都合のいい駒になっておけば、つらい駒にさせられることもないのだから。


 狭霧はしばらく黙ってから、首を横に振った。


「ううん、ちがう。火悉海様は、名と血に恥じないように誰より努力されていたと思う。わたしとはちがう……」


 火悉海にある妙なほどの自信が、彼の努力の末に培われたものだろうというのには同感だった。


 なによりそれを示すのは、最初の大宴で彼が見せた舞の見事さだ。あれほどの舞を披露するには、身体も度胸も相応に鍛えられていないといけないだろう。火照王はあの舞を、一族がたどった歴史と戒めをあらわしたものといっていたが、ということはきっと、あの舞を舞う心得として、政のなんたるかも火悉海は学んでいるはずだ。


 だいたい、のうのうと身分に驕っているような奴だったら、力の掟を信じる高比古は、火悉海をいまほど信頼しなかった。


(こいつも、ちゃんと見ていたんだ――)


 これまでにそういう話はしなかったが、狭霧もそのあたりは見抜いていたらしい。


 狭霧はうつむいて、はらはらと涙をこぼした。


 白い頬に涙が一筋つたうごとに、狭霧の大切なものがほろりとはがれおちていくようで、それ以上はやめろ、やめたほうがいいと、手を伸ばして涙をぬぐってやりたかった。でも、指はためらってわずかに震えただけで、上にあがろうとも、伸びようともしなかった。


(どうしておれは、こんなになにもできないんだ?)


 無力を感じた。流れ者として出雲にやってきて、親無しの分際で、高比古は出雲王の名代という地位を得ていた。なにもない状態から最上に近い場所までのしあがった高比古は、周りの兵たちから羨望の眼差しで見られたし、自分でも満足していた。


 それなのに、こうして戸惑っていると、せっかく得たものがどうしようもなく薄っぺらい影のように感じてくる。


 せめて、狭霧、と名を呼んで、我に返らせてやりたいと思った。でも、たったそれだけのことにすら唇が躊躇して、結局なにもできないうちに狭霧が唇をひらいた。


「ごめんなさい――」


 なぜそんなことをいわれたのかも、さっぱりわからなかった。


「なぜ、謝る」


 あんたが謝る必要がなにかあったか。そんなふうに思って、声は刺々しくなった。


 狭霧は泣いていたことを恥ずかしがるようにして、無理に笑った。


「わからない。けど……」


 美しい、綺麗な笑顔だった。でもそれは、朝や夕の黄昏時に一瞬だけ訪れては消えていく儚い光に似ていて、そんな笑顔をしていることも咎めたくなった。


「狭霧……」


 ようやく絞り出した声は、唸るようだった。


 狭霧の顔に、さっきの綺麗な笑みはもうなかった。狭霧はじっと高比古を見つめていたが、そこにあるのはなんの感情もない真顔だった。


 黄昏時の一瞬が過ぎて、急に訪れた宵闇に冷やされ、いつのまにかそこにあった夜の肌寒さに驚くように、高比古は戸惑った。


 なんなんだ、いったい――。


 狭霧の真顔は、さっきより翳って見えた。ふと見れば、木窓から差し込む光が薄れていた。


 でも、高比古を見つめる目には凛とした光があった。それは夕空に浮かんだ一番星のように鮮烈なまでに耀いて、存在を見せつける。


 もう、お手上げだ。


「いったい、なにがあったんだ……」


 困り切ってそう尋ねると、狭霧は小さな唇を歪めて寂しげに笑った。


「そっちに、いってもいい?」


 言葉の意味には、すぐに気づいた。胸を借りたいというのだ。泣きたい気分なので、しがみついてもいいか、と。


 狭霧が泣いている時に抱きしめたことは、二度ほどあった。


 一度目は、想い人の幼馴染が目の前で死んで悲しんでいた時で、二度目は、その幼馴染への想いと決別しようとした時だった。一度目はそうしてくれと頼まれたが、二度目は、放っておけばなにかの拍子に崩れてしまいそうだったので、自分のほうからそうした。その時の狭霧は、なぜ慰めようとするのか、放っておけと、抱きしめた腕の中で静かに暴れていた。それがますます危うかったから、落ちつくまで腕で囲って慰めた。


 いまは三度目だが、みずから抱きしめるようにせがんだ狭霧は、これまでのどれより危うげだった。


 だから高比古は、拒んでしまおうかと思った。抱きしめたら、狭霧が別のものに変わってしまいそうで――。


 でも、夕空の星のように妙なほど澄んだ眼でじっと見つめられると、胸が苦しくなった。むず痒い、奇怪な気分だった。


「……いいよ。来れば」


 寝床から脚を出して胸をあけてやると、一度立ち上がって床を歩んだ狭霧は、高比古の前にすとんと落ちるように座った。それから、そっと両腕を広げて、胴を包むように手を背中に回した。


 自分の胸に頬を添わせて目をつむると、狭霧は静かにいった。


「やっぱり、落ちつく。高比古のそばにいると、だんだんいろんなものが静かになっていくの。そうか、じゃあ仕方ないな、やるしかないなって……」


「……あのなあ、おれはいったい、なんなんだ?」


 いい方が、自分を便利な道具かなにかだと思っているふうなので、毒づいておいた。


 背中に回った細腕は、しがみつくでもなく、そっと指と指を繋いでいるだけだった。


 胸に寄せた頬にも、もう涙はない。微笑を浮かべていたが、ほんの少し手を触れただけで壊れてしまいそうな繊細な飾り細工に見えて、やはり不思議と危うげだった。


 狭霧の背中の向こうで高比古も両手を組んで、ほとんど力を込めずに、腕の輪の中に狭霧を囲い込んだ。


「なにが、あったんだ」


 話して欲しかった。自分は、関心さえもてば敏感に感じ取れるほうだと思っていたし、たいていのことならわかると思っていた。


 とくに狭霧とは、遠賀からしばらくずっと寝食を共にしていた。


 興奮している、脅えている、困っている、焦っている。それくらいなら、狭霧の考えていることはいつもわかった。わかっても、とくになにもしなかったが――。


 でもいま、見て見ぬふりをしてきたことを悔やんだ。見て見ぬふりをし続けるうちに、いつのまにか狭霧は、高比古が感じ取れないふうに変わっていたのだから。


「どうしたんだ。なにかあったのか」


 抱き合うでもなく、ただ互いに腕を背中に回したまま、しばらく時が過ぎていった。


 沈黙がたまらなくなると、高比古は何度か尋ねた。


「おれがさっき、なにかへんなことをいったのか? そうだったら、謝るから」


「なあ、いえよ」


「いわなきゃ、わかんない――」


 わからないことが苦しくて、こんなに苦しいものかと不思議に思って、苛立ちすら感じながらいくつも問いをするが、結局狭霧が応えたのは一度だけだった。


「よくわからないけど……偉大な王の娘って、たいへんだな」


 あまりにも手ごたえがないので、ため息混じりに吐いた言葉だった。


 それに狭霧は反応して、自分の胸の上で小刻みに首を横に振った。


「ちがう。みんなと一緒。たいへんなことが、すこしずつちがうだけで」


 声は、震えていた。



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