聖地遷御 (2)

 筑紫の大島の東岸、日向ひむかの都に吹く風に乗って、白い鳥が空を切った。


 両翼を伸ばせば子供の背丈はあろうかという大型の鳥で、雲より白いその鳥が青空を滑ると異様に神々しく、見つけるとつい目で追ってしまうだろう。


 だから天を仰いだ邇々芸ににぎは、しまったと思った。


(これでは、目立ち過ぎる。せめて、もうすこし小さくするべきだ……)


 その鳥は八咫烏やたがらすと呼ばれている霊威の鳥で、邇々芸の母が生み出したものだった。羽毛は純白で、脚は鮮やかな山吹色をしている。そして二本の脚のあいだには、三本目の脚にも見える金の筒がさがっていた。密書を忍ばせる書筒だ。


 霊威の鳥は、日向隼人の王宮で庭先に出ていた邇々芸のもとへ吸い寄せられるように舞い降り、差し出されていた手の甲の上にふわりと止まった。


 くうくうと喉を鳴らす八咫烏の脚のあいだから金の書筒を抜きとると、栓を抜いた。そこには、薄く削られた樹皮が丸まっていた。


 それを指のうえで広げて目を落とすと、ふう……とため息をつく。


 その様子を、邇々芸をそこへ招いた男、日向隼人の長は畏怖をもって見守っていた。


「邇々芸様、そうしておられますと、あなたは神の御子にしか見えませんね。ところで、それはもしや、薩摩からの文でしょうか。なにごとか起きたかと書いてありますか」


 日向隼人の長はそわそわとして、吉報を待っているように見えた。


 邇々芸は、嘆息した。


「あなたは、知っていたのですね? 薩摩と大隅が、なにごとかを画策していたと」


 失望したふうにつぶやく異国の若王の目に、日向隼人の長――緋良多ひらたは動揺した。


「い、いえ……その」


「僕が求めるのは、生半可な繋がりではないんです。僕は……いえ、僕たちはいま、大八嶋おおやしまの流れをひっくり返そうとして動いている。それなのに――。僕はいま、屈辱的な想いでいます。僕の知らないところで、大和の者が関わった珍事が起きていたなど――」


 樹皮の書は、長く筒にいれられていたせいで、指をはなせばすぐに丸まる。邇々芸は忌々しげにそれをつまんだ指に力をいれ、潰してしまった。ぱちり、と薄い木屑が弾けたような音が鳴った。


「先に、僕の考えからお話しします。僕は、僕の部下のうち、このたびの乱に関わった者を、一人として許すつもりはありません。結果のあるなしではないのです。己の野心が国への忠誠心に勝った者など、僕は要らない。そんなものは、周りに悪い影響を与える根腐りのもとです」


 邇々芸のする眼差しは、冷え切った刃のようだった。


「あなた方もそうです。いったい、どういうことです。阿多へ、捨て駒となる使者を送ったとは聞きました。なにかあればその者の命をひそかに奪って、こちらから阿多に踏み込むことのできる理由をつくるのだと。でも、僕はまだなにも命じていないし、話も聞いていません」


「お、畏れながら……邇々芸様、隼人の民は、笠沙が欲しいのです。阿多の一族が、守ると称して独り占めしている、古来の聖地が――!」


 緋良多は、すぐさま邇々芸の足元にひれ伏した。


「どうか、どうかお許しください。これまで、隼人の民のあいだで刃を向け合うことがなかったのは、笠沙のせいです。笠沙の女神が互いの戦を禁じて、必ずや、攻める先に守るべしと教えていたからです。同じ教えを守る同士ですから、争いは起きようがありませんでした。ですから我々は、どうしても先に笠沙を手に入れたかったのです。代々笠沙の大巫女を擁し、ひざ元で聖地を守ってきた阿多を、敵とみなす前に――」


 邇々芸は手にしていた金筒をしばらく指でいじったが、その後で、金筒の口を腕に乗せていた純白の大鳥へと向けた。すると、大鳥の姿は崩れ、煙が吸い込まれていくように金筒の中へと消えていく。


 すべて入り切ってしまうと、ぱちんと音を立てて金筒の口を閉める。


 考えあぐねるようにそれを指でいじりながら、邇々芸はため息をついた。


「立ってください、緋良多王。あなたの望みはわかりました。でも、僕には、あなたたちがやったことは愚行としか映りません」


 純白の大鳥の姿をしたものが、指先ほどの細さの金筒に吸い込まれていく光景を、緋良多は目を見開いて見ていた。でも、邇々芸の声を聞きつけるなり、彼は立ち上がる前にむっと太い眉をしかめた。


「愚行とは、また――」


「だって、その笠沙という聖地を手に入れて、いったいどうするのです? 笠沙というその聖地へ、あなたはこれまでに何度出かけました? 一度ですか、二度ですか」


「それは……一度です。日向隼人の長になる時に、その許しを得に――」


「そうでしょう。長のあなたですらそうなのだから、民にとっての笠沙は、なおさら遠い地のはずです。……やはり、僕には理解できません。長となる男すら、人生のうちにたった一度か二度いくかどうかの場所のために、なぜ戦を起こそうとするのか――」


 地面から手のひらをはなし、じわりと立ち上がりながら、緋良多は懸命に訴えた。


「しかし、畏れながら……。邇々芸様は、隼人の民ではありません。我らの信じるものが――いにしえの時代から頼ってきたものが、おわかりにならないのです」


 あなたと私のあいだには、深い溝があるのです。歴史と民族の絆という溝が。それが、お見えになりませんか――? 緋良多の言葉には、そういう翳が染みていた。


 邇々芸は、静かに首を横に振った。


「いいえ。あなたたちにほかとは異なる神があり、それを信じていることはわかっています。でも、まわりをよく見ていただきたいのです。そういえばあなた方は、西の山奥にあるという神仙の峡谷や、南の霊峰、霧島という山を聖なる地として祭っていますね?」


「は、はい、それは――。笠沙に代わるものとして、古来、山の神に祈りを捧げておりますが――」


「では、今一度聞きたい。なぜそこまで笠沙にこだわるのか。笠沙の神は、あなた方になにをもたらします? ……なにもありません。隼人の民のなかで、いま際立った栄華を誇っているのは、笠沙の膝もとにある地、阿多だけです。それは、笠沙の神の庇護のためとお考えですか?」


 邇々芸の齢は二十歳をすこし過ぎたほどで、対峙している日向隼人族の長、緋良多と比べると三十は若い。しかし、壮年の王を問い詰める邇々芸の目に、疑念はない。その目でまっすぐに射ぬかれた緋良多が、そそくさと目をそらすほどだった。


「それは、その――」


「答えにくいですか? では、問いを変えましょう。いま、あなた方が笠沙を手に入れたとしたら、阿多にある繁栄がすぐさま大隅や日向、薩摩の民に移ってくるでしょうか。古来の神の庇護を得さえすれば、あなたたちは豊かになれますか?」


 緋良多は、言葉に詰まった。五十を過ぎた壮年の男の身体は王の名にふさわしく、さまざまな飾り布や染め紐で飾られていた。でもそれは、倭奴わぬや遠賀、宗像で時たま出会う、阿多の人々の身なりと比べると、格段に粗末だった。


 南海と筑紫を行き来して富をたくわえる阿多隼人族は、下男や船乗りにいたるまで身綺麗な姿をしている。でもそれは、神の庇護のせいではないだろう。そうではなく彼らが、彼らの一族が編みだした技を用いて大海に漕ぎ出で、南洋の宝をもちかえってくるからだ。その珍しい宝が、阿多の地に富をもたらすからだ。


 脂汗をかいて黙る壮年の王に、邇々芸は静かに微笑んだ。


「まだ、答えにくいですか? ――いいえ。あなたはもう、僕の本意に気づいている。そうでしょう?」


 黙り込んだ緋良多の代わりに、日向隼人族の重鎮たちが次々と地に膝をつき平伏した。


「しかし、邇々芸様、笠沙は――」


「お願いです、邇々芸様、どうかお許しを。我々はせめて、あの地の主だけでも、我々の手におきたいのです。古来、女神の声を聞くと伝えられる隼人の大巫女だけは――!」


「立ちなさい。僕は、あなたたちの神を否定したわけではありません」


 軽く手を伸ばして、ひざまずく男たちの肩をもちあげてやりながら、邇々芸は淡々と続きをいった。


「疑問はいくつかありますが、あなたたちが、かの聖地を司る大巫女という女人を伝え守るべき宝と考えているということも、僕は理解しました。でも、物事をどれもこれも正攻法で通すというのは、気短というもの。急がば回れというでしょう? やはり僕は、ひとまず笠沙のことを忘れるべきだと思いますよ」


「しかし、邇々芸様、それは――」


「いまは聞きなさい? いいですか、まずは、新しい海の道をつくるのです。そうすれば、いまあなた方の守る民は日々の糧に困るような粗末な暮らしを強いられていますが、それは潤っていくでしょう。対して、いまある海の道の富は半分、もしくはいくぶんかが奪われることになり、いま繁栄を極めている阿多は、力を失っていきます。――交渉とは、相手が落ち目に転じた瞬間にするものですよ。これ以上いけばなお悪くなるかもしれないと、不安を抱えた時にするのが一番いい。その時を見極めて、阿多、もしくは笠沙と話をすればいいのです。うまくいけば、刃のやり取りなしで笠沙の大巫女をいただくことができましょう」


 邇々芸は、つねに余裕を失わない青年だった。


 静かな笑みを浮かべて、ゆっくりとした口調で言葉を次ぐ。


 それは、彼が扱う純白の鳥のように、聖なる気配を言葉に与えた。


「そもそも、隼人の大巫女だけは手もとにといっても、笠沙を出たその女人は霊威を保つことができるのでしょうか? 代々大巫女を擁したのは阿多だと緋良多王はいいましたが、次の大巫女を探さなくてはならなくなった時に、それは阿多の助けなしでどうにかなるものなのですか? 僕はやはり矛盾していると……いえ、これ以上はいいません。あなた方の信仰を奪うような真似は、できればしたくはありません」


 一言も発さずに邇々芸の言葉に聞き入っていた日向の男たちは、脳天に一撃をくらったように、揃って口をぽかんとあけた。


「いや、はや、その……」


 きまりが悪そうに言葉を濁しながら、彼らは口々にいった。


「それは、たしかにそのとおりです。大巫女だけをここへ連れ去っても、どうにもなりませんね。笠沙を占拠しても、次の大巫女を育てるすべは、たしかに我々には――」


「それにしても、あなたは、なんともふしぎな御仁です。あなたの母君、天照様もふしぎな方でしたが……」


「あなたがた親子は、達見に富み、鄙地となった我々の都に生まれ変わるすべを次から次へとお授けになる。海の道というものを編み出して見事に国々を繋いでいく姿は、かつての出雲王、須佐乃男の再来だと、我々は――」


 そこまでいって、日向の男ははっと唇を閉ざした。


 いま彼が口にしたのは褒め文句だったが、それは、邇々芸を相手にする場合は決して褒め文句にはならないと察したのだ。


 邇々芸は、肩をすくめた。


「僕が、出雲の須佐乃男、ですか」


「いえ、口が滑ったのです。敵の名であなたをお呼びしてしまい、まことに……!」


「いいえ、構いません」


 邇々芸はくつと苦笑した。


「敵の英雄の名で呼ばれるのは、少々面映ゆいものがありますが、いまはあちらのほうが名を馳せていますし、仕方ありませんね。でも、いまにきっと、須佐乃男が僕に似ていたといわれる時が来ます。あなたがたの聖地と同じように」


 胸の位置まで垂れた彼の黒髪は両の耳元で綺麗に束ねられていて、鳥の羽を思わせる白い髪飾りがついている。すっと横に伸びた眉。憂いを帯びて見える優しげな二重の目。白い頬と、華やかな桃色の唇。それに細い顎。ふとした瞬間につい見入ってしまうほど、彼には奇妙な優雅さや、神聖と呼べるようなふしぎな雰囲気があった。


「あなた方が笠沙を想うことに異国の出の僕が口を挟むことはしませんが、僕自身の考えでは、そのような聖地など不要です。捨て去るのが良い。それは、過去の話だ。かつて筑紫を脅えさせた倭奴という国はもはやないも同然で、絆をもって抗った隼人の民の繋がりはすでに薄れています。たとえあなた方が笠沙の地を忘れ果て、ここから近い峰々を聖地として祀ったとしても、いまから百年後、いえ、それが五十年後でも、あなた方の子孫はその聖地を疑うでしょうか? いいえ、そんなことはない――。たとえば今後、大和という国が栄えていけば、もともとあの地にあった伊邪那いさなという国のことなど、誰も語らなくなる。それと同じです」


 美しい二重の目で彼は日向の王たちを見通し、微笑んだ。


「古いものには、必ず意味があります。ただ、それに縛られていれば、もっとも大切なものを見失う。いま新しく興るものも、いまに必ず古くなるということを忘れてはいけないと、僕は思います。誇りと古さを見誤えば、そこは滅びゆくのです。伊邪那や、倭奴のように――」


 緋良多王の顔から、血の色が引いた。


 乾いた唇を慎重に舐めながら、あちこちを使者として飛びまわっている大和という国の若王をじっと見つめた。壮年の王の目は、神託を告げる禰宜ねぎに脅えるようだった。


「邇々芸様、あなたは、倭奴が滅びゆくとお考えか」


 その倭奴という国は、かつて筑紫に栄えた強国だ。たしかにいまは国内のほうぼうで乱が起き、筑紫の民を震え上がらせた当時の面影はないが、その国はまだ細々とそこにある。


 そして倭奴は、邇々芸の生地だ。その地に妃として嫁いだ邇々芸の母の第二の故郷といえる場所で、伊邪那を滅ぼし、大和という国をつくるための大いなる助力となった軍勢を、女王へ差し出した国だ。


 畏怖混じりの目で見つめる壮年の王に、邇々芸は冷たく笑った。


「あの地で僕が欲しいのは、中継ぎ地となる遠賀だけです。そのほかは、早々に滅んでくれたほうが、僕はやりやすい」


 彼の生地であり女王の第二の故郷である国を、邇々芸は「そのほか」と呼んでそれ以上とは扱わなかった。


 緋良多王は血相を変えた。彼は、倭奴の王であり、女王の夫だった男、そして邇々芸の父である男の生前を知っていたからだ。


「しかし、邇々芸様、倭奴は父君の治めた地です。あの地の民は、きっといまに女王が困窮を救いに戻ると、あなた方の帰還を待っているのですよ――!」


「ええ、だから」


 邇々芸は、表情を崩さなかった。


「母は、新しい海の道つくりを……筑紫の平定を僕に任せたのです。それに――」


 邇々芸はくすりと笑って、日向の民の青ざめた顔を見回した。


「あなた方の聖地も僕の父も、意味合いは同じです。情に流されて大勢たいせいを見誤ると、せっかく伸びかけた新しい芽が滅びるのです。母は情に縛られ、倭奴に手を下すのをためらっていますが、それでも、尋ねれば母も必ずそういうでしょう。この先の僕に父は要りません。父の国も、僕が生まれた場所もです。できればとっておきたいという想いはもちろんありますが、この先の足かせになるものなら、迷いなく捨て去ります。――僕が、あなた方に笠沙を忘れろといった理由を、わかっていただけたでしょうか?」







 笠沙の岬で起きた乱をやすやすと鎮め、若王を無事に帰還させた大国主の軍に、阿多の主、火照ほでり王は賛嘆し、同時に頭を痛めた。


 笠沙の聖地にほど近い丘は、敵兵をいぶすために焼かれて裸になり、捕えられた敵兵たちは縛りあげられて都へ連れてこられた。


 捕虜の扱いに慣れていない阿多の兵に代わって、尋問は出雲軍がおこなった。その末に、敵兵の数人は乱の狙いを喋った。隼人の聖地、笠沙に近い場所で異国がからむなんらかの問題を起こせば、取り調べを名分として軍を上陸させることができる。そのまま笠沙の山宮へ乗り込み、占拠する気だった、と。


 大乱の煽りを受けて、各地で異なった王国を為す隼人の民は、大和寄りと出雲寄りに二分されつつあるのだ。


 それを伝え聞いた火照王は青ざめて、しばらく王宮に籠ってしまった。火照王がなにより憂いたのは、従者がおののきながら話した、出雲軍がおこなった尋問の様子だった。これが戦か――と、王はつぶやいた。


 何日にも渡って火照王は、王宮の庭に飾られた一族の神宝、巨大な盾飾りを見上げ続けた。その末に、火照王は大国主を王の舘へ呼び寄せ、かつて火の大宴でおこなった妻問いを取り下げた。


「不釣り合いな申し出をして、たいへん申し訳がなかった。我が長子を、私はほかにない自慢の丈夫と思っているが、阿多の主となる長子とあなた様の御子姫では、決して釣り合いがとれぬだろう。どうか彼の后にふさわしいべつの娘を選んで、のちに輿入れさせてくれぬか」


 それを聞かされた火悉海は抗ったが、火照王は暗い顔をするだけで、二度と狭霧を、長子の后に望もうとはしなかった。


「そんな、親父……! 出雲の姫とかじゃなくて、あの子、いい子だよ……? 戦場でのあの子が凄かったって、浜にいた奴らも巫女もみんな驚いて、感心してたし、あんな后がいれば、阿多はきっと温かな国になるって、俺は……」


「当人同士がどうだろうが、周りはそうは思わん。阿多の跡取りが出雲一の姫君を娶ったと伝われば、我々は出雲側と見なされる。いや、出雲に手を貸すという考えは、私は変えていないのだ。だが、相手が須佐乃男、大国主の血を引く娘とあらば、なにか起きた時に必ず滅ぼされる場所となり、また、いい逃れもできまい――」


 ついと顎をあげて、火照王は王宮の大盾を見上げた。


「我ら隼人は、戦を良しとしない一族なのだ。それが誇りだ。誇りが失われた時、きっと我々は滅ぶ――」


 吸い込まれていきそうなほど澄んだ青空に堂々とそびえ立つ盾の飾りは、青空に似合うふうに健やかで、剛健だった。


 笠沙で起きた乱のいきさつとともに、火照王からの妻問いと、その取り下げは、巫女の技をもって出雲にいる彦名へと伝えられたが、話を聞いた彦名は、小さく笑った。


『万事、よし――。さて、どの姫を遣わそうか?』



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