終章、赤穢の誓い



 日女ひるめが滞在していたのは、阿多の神殿だった。


 火の色に塗られた壁や、戸口にかけられた赤色の布。とくに赤を配したその神殿は、そこへ初めて足を踏み入れた佩羽矢ははやには、とても奇怪な場所に映った。


(火? っていうか血だよ、血。……ていうか、もしかして、俺、怖がってる?)


 佩羽矢は不安を無理に振り払い、目の前を進んでいく小柄な巫女の後姿を探した。


 巫女はわずかたりとも歩幅を変えずに歩み、佩羽矢を奥へといざなっている。男の佩羽矢からすれば巫女の歩みはゆっくりだが、しだいに彼は、ついていくのが苦しくなった。古い木の門をくぐって、赤に染まった宮へ足を踏み入れた瞬間から、見慣れない神殿の道はまったく同じ早さで通り過ぎていく。その景色に、酔いそうになった。


 ああ、これは絶対に戻れない道だ。いってしまえば、二度と引き返すことがかなわぬ道だ――。


 それはまるで、過ぎてしまえば戻ることのない「時」というもののようだった。いくのが怖い、進みたくないと泣いたところで、無情なまでに佩羽矢を先へと進ませる。


 日女が佩羽矢を案内したのは、神殿の中枢だった。


 素朴な庭の一画に、その小屋はあった。庭は、神殿が建てられた場所の地形を生かして、切り立った崖を背にしている。荒々しい崖を背にひっそりと建つ小屋へ籠ると、日女は佩羽矢を座らせ、自分も向かい合って正座をした。


 小屋には窓が据えられていたが、小さく、明かりはほとんど入らない。


 庭のどこかに滝か川があるようで、さらさら、ぴちゃんとかすかな水音が耳につく。でもいま、それはまるで、身体の内側を流れる血のめぐりの音のようだと佩羽矢は感じた。


(やっぱり俺、怖がってる? ……いや、もう、決めた――)


 佩羽矢の真正面で正座をした巫女、日女は、世間話をするでもなく、すぐに始まりを告げた。


「では、赤穢あかえの契りをおこなう。おまえの血をもらうよ。その血に誓え。今後、出雲にそむくことは二度とないと」


 赤穢の契り――。それは、みずからの血をもって出雲に忠誠を誓う慣わしで、とくに敵国から流れ着く者が、まずさせられる神事なのだそうだ。


 敵国からやってきた者が「いいや、おれは故郷を裏切って出雲に従う」といおうが、信用ならない。なんの縛りもなく懐にいれることはないのだそうだ。


(そりゃ、そうだよな。俺だって、そんな奴が近くにいたら危なっかしくていやだし。でも――)


 佩羽矢は、おもむろに息を吸った。


「なあ、聞いてもいいか」


 日女の肌は白く、眉や唇には、ふつうの娘ではないと知らしめる化粧がある。齢は十六と聞いたが、自分より三つも年下のくせに、日女は佩羽矢を上から押さえ込むように扱った。


「聞くだけなら」


(やりにくい女――。耀流てるとは大違いだ)


 素直で兄想いだった妹を思い出してため息をついてから、佩羽矢はあぐらをかいた膝の上に乗せていた指に、ぐっと力を込めた。


「一応、先に聞いておきたいんだ。赤穢のなんとかってのをしろとはいわれたが、結局それがなんなのか、さっぱり教えてもらってないからさ。それってつまり、どうなるんだ? 出雲に忠誠を誓うとして、もし……もしもだぞ? その誓いを破ったら、俺は……」


 日女は笑った。佩羽矢の背筋に、ぞくっとした寒気が立ち上るような冷たい笑みだった。


「そのとき、おまえは身体の半分を失う」


「……身体の半分って?」


「目は光を失い、耳は音を失い、喉は声を失う。おまえは人と関わることのできぬ獣となって、野をさすらう」


 神事というものを、佩羽矢はそれほど信じていなかった。


 術者一族の裔で、それなりに慣れていたから、霊威と聞けばもろ手をあげて凄いと称えることはなかったし、強い効き目を顕すために、どれだけの下準備が要るかということも知っていた。でもいま、とうとう佩羽矢は諦めた。


(こいつ、本物だ)


 出雲の巫女というこの娘は、彼女がいうとおりの術を、間違いなく自分にかけてしまうのだ――。


 諦めると、胸は静かになった。


「忠誠の呪いってわけか?」


 故郷の術者のあいだでは、そういう技を呪いと呼ぶ。


 そういうと、日女はふんと鼻で笑った。


「呪いとは、また軽々しくいい変えてくれるものだな」


 呪いなどではなく、これは神事だ、と彼女はいいたいらしい。


 こういうときは、逆らわないほうがいい。自らの技に誇りをもっている術者にどう接すればいいかということも、佩羽矢はよく知っていた。


「悪かったよ。じゃあ、あんたを見込んで、ひとつ相談があるんだが――」


「相談? なんだ」


 ごくりと唾を飲んで、佩羽矢はふたたび唇をひらいた。こういう場があるなら、出雲の霊威をもつ者に、ぜひとも尋ねておきたいと考えていたことがあったのだ。


「目も耳も口も使えない暮らしなら、俺は要らねえよ。そんなの、死んでるのと変わらない」


「そうか? そうして生き残って、幸せに暮らす者もいると思うぞ」


「幸せに? ……いいよ、俺は、幸せなんか。出雲は、大和と争うんだろう? なら、俺は手を貸したいんだ。――だから。俺は身体の半分じゃなくて、すべて賭けたい」


「……すべて?」


 日女は、真顔をこくりと横に傾ける。


 佩羽矢はじわりとうなずいた。


「ああ、残った身体の半分を賭けたらどうなる? 俺は、霊威かなにかを身に宿すことができるか?」


「霊威?」


「ああ、たとえば――」


 佩羽矢は、身を乗り出しながら訴えた。


「俺がいったいなにをできるかって、しばらく考えたんだ。それで、ひとつを思いついた。俺、高比古と顔が似てるだろう? だから、あいつの替え玉か、影の役になれないかって思ったんだ。でも俺、あいつほど頭が回らないからさ、たとえばもし、口を使わずにあいつと話ができて、あいつから指示を受けることができたりしたらさ、俺でも二人目のあいつになれるんじゃないかって――」


「――ほう」


 日女は、切れ長の目をわずかに見開かせた。


「なあ、どうかな、巫女様。あいつと俺を繋げることができるか? ――俺の命は、高比古と姫様に繋いでもらったようなものだ。だから、いまあるぶんはすべて姫様たちのために使うって決めた。だって、そうすれば――」


 そうすれば、大和に家族の仇を討てる。


 家族の命を守ることはできなかったが、報復することはできる――。


 目の奥をぎらつかせて佩羽矢が熱心に見つめた先で、日女はくすりと笑った。


「高比古様のために……ふうん、殊勝な心がけだ」


 それから日女は目を細めて、みずからも決意を告げるようにいった。


「よいだろう。おまえは、あの方に降りかかる矢剣を代わりに受けてさしあげろ。呪いは、私が受ける」






 南国の初夏の風は、涙をぬぐってはくれなかった。


 彼に呼びだされて、阿多の王宮の奥の庭ですこし話したが、そこから仮宿に戻って来るまで、狭霧は幾筋もの涙を薫風に散らした。


 大国主が護衛軍とともに阿多を離れる日は、明日に迫った。そのせいで王宮はどこかせわしなく、王宮の外に建てられた大きな天幕で暮らしていた兵たちも、荷をまとめたり、上役から呼び出されたりして、何人か姿を見かけた。


 顔見知りの誰かに会わないように、なるべく人気のない裏道を通って、狭霧は自分の宿を目指して走り続けた。


 狭霧を王宮の庭に呼びだしたのは、火悉海だ。


 火照王が狭霧への妻問いを取り下げたという話は、狭霧も聞いた。それを聞いた時は安堵もしたし、穏やかだったはずの唯一の道はこれで消えた……と、心もとなくもなった。


 これで、もう後はない。先へ進むしか――覚悟を決めるしかない。そんなふうに、決意を噛みしめもした。


 火照王が妻問いを取り下げた後も、火悉海はそれをさらに取り下げさせようと、父王に詰め寄っていた。


 二人が喧嘩腰でやり取りするのを狭霧は見かけたことがあったし、喧嘩の後で狭霧のもとに来て、火悉海から話されたこともあった。


 でも、そのまま時が過ぎて、出雲勢が帰途につく日が来ると、とうとう火悉海は業を煮やして狭霧の真意を問うた。


 人払いがなされた奥庭へと狭霧の手を引いた火悉海はいらいらとしていたが、落胆もしていた。それは彼にとっても、最後の賭けだったはずだ。


「なあ、狭霧……。阿多に残れよ。俺を夫にするのはいやか」


 狭霧は、うなずくことができなかった。


「わたしは、火照王様のご意見はもっともだと思います。わたしは、出雲の外の国にとっては火種のようなものです。いまおこなわれているのは睨み合いのようなものですが、もし、この先出雲と大和のあいだで大きな戦が起きて、その時にわたしが阿多に嫁いでいれば、阿多は、大和が必ず攻め落とさなければならない国になります。わたしを……大国主と須佐乃男の血をひく娘を連れ去ることは、出雲を屈服させた証になりますし、それになにより、阿多が豊かだからです。わたしを口実にして、必ず大和や、大和の息がかかったどこかの国は、阿多に踏み込むでしょう。笠沙で乱が起きたように――」


 何度も考えたことだった。暗い未来を考えるにつれて意思はかたまっていって、それはなおさら狭霧を暗く沈みこませた。


 火悉海は、狭霧の両肩をがしりと掴んだ。


「そんなの……俺が誰を娶ろうが起こりうることだ! 笠沙の乱で、阿多を狙ってるやつがいるっていうのはもうわかった。うちだってのうのうとはしてねえよ。二番目、三番目の乱に対する支度はもう始まってる。そんなことより、俺は狭霧にそばにいて欲しいんだよ」


 火悉海は、悔しそうに真顔を歪めて見下ろした。


「国を守るものは戦だけか? 俺はそうじゃないと思う。もちろん、そっちを怠る気はないが、阿多がもっと豊かになれば防ぐ方法はあるはずだ。前に狭霧を農地に連れていっただろう? あの土を豊かな農地に変える方法が見つかれば、同じ土に苦しんでいる薩摩にも、大隅にも、それを伝えてやることができる。そうすれば、きっと――。とにかく、俺は狭霧がそばにいれば、戦に頼らずに阿多を守れると思った。……親父を説き伏せよう。狭霧さえうんといってくれれば、俺は――」


 火悉海が語る未来は、とてもきらびやかで澄んでいた。


 火悉海の真剣な目を見上げる狭霧の目は、しだいに潤んだ。


 ああ、この方は本当に素晴らしい若王だ。


 こんなふうに澄んだ心をもつ一族が治めているのならば、きっと阿多は、いまの豊かさを誇りに思って、ほかの国を侵略していまより大きくなることもなく、いまのままの豊かさを保っていくのだろう。


 それは、とても美しい未来だった。


 だから狭霧はやはりうなずく気になれずに、強く首を横に振った。目からこぼれた涙が、ほろりと薫風に落ちた。


 そんなに美しいものをいずれ焼きつくしてしまうかもしれない不安の種には、絶対になりたくなかった。


 とうとう火悉海は、落胆の息を吐いた。小さな肩からそろそろと両の手のひらを放した彼は、つぶやくようにして最後の望みを告げた。


「俺は……次に出雲からの船でやって来る姫を后にする。その船に乗ってるのが狭霧だといいって、ずっと願ってる。だから――」


 火照王は、出雲に火悉海の后となる娘を望んだことは取り下げなかった。


 だから、火悉海の妻になる娘は、出雲で彦名たちが決めたどこかの姫になるのだ。会ったことのない娘を、火悉海は一生添い遂げる妻とするのだ。


 あまりにも火悉海の目が自然にそれを受け入れているふうなので、狭霧はつい尋ねてしまった。


 火悉海が、というのではなくて、狭霧にとってそれは、すこし癪に障ることだった。


「相手が見知らぬ人でも、妻にできるものなのでしょうか」


 見ず知らずの人と一生の誓いをするなんて、へんなの。


 それなら、その人は要らないじゃない。その人の血だけを娶って、ほかの部分は自由にしてあげればいいのに――。


 火悉海は、力の抜けた顔でわずかに眉をひそめた。


「おかしいと思うなら、狭霧が……。いや、もういわない――。とにかくそれは、王に近い位置にいる奴ならふつうのことだろう? 俺はいずれ親父の跡を継ぐつもりだし……高比古もそうだろう。あいつだって筒乃雄つつのおの孫を……会ったこともなかった相手を娶ったじゃ……」


 たちまち、狭霧は泣きじゃくりたくなった。


 きっと自分は、おかしなことをいったのだ。王族として振る舞うことになんの躊躇ためらいももたない火悉海に、けちをつけるようなことをしたのだ。


「……ごめんなさい!」


 泣きわめくようにして謝って、狭霧は火悉海のそばを逃げ出した。


 ――王族って、なんだろう。


 血ってなんだろう。


 その血をもっている人って、いったい――。なんのために生きているんだろう?


 べったりとまとわりついてくる嫌な想いに捕われて、人の目を避けながら阿多の王宮を駆け、狭霧は初夏の風に涙をこぼすことになった。






 目指したはずの仮宿が近づいてくると、狭霧ははっと足を止めた。


(高比古がいたら、どうしよう)


 そこが安全な逃げ場所ではなかったことを思い出すと、新しい逃げ場所を探さなくちゃと思った。どこか――とあたりを見まわした時、狭霧は一度、息を忘れた。


 自分をじっと見ている目があった。高比古だった。


 仮宿のある通りには樫の木が並んでいたが、高比古はその幹と幹のあいだにいて、八方に張り出した根の上に腰をおろしていた。


 まぶしいばかりの陽光がさんさんと射しこむ昼下がりだが、肉厚の葉をもつ樫の木陰には濃い影が落ちている。そこで片膝をかかえて座る高比古は、じっと狭霧を見ていた。


 笹の葉を彷彿とさせる涼しげな印象のある目は、いまに限って深く影が落ちた木陰の底に沈んでいて、触れただけで切りつけてきそうな鋭い印象はなかった。


 目が合ったまま逸らすこともできずに、しばらく経った。


 そしてとうとう、狭霧はふらふらと高比古のもとに歩み寄った。これだけ長く目と目を合わせたのだから、無視して通りすぎるわけにいかない。せめて一言、声をかけるべきだと思ったのだ。


 狭霧が近づいていくと、高比古は腰をあげて木陰に立った。


 狭霧は、いつも話をする時よりはすこし離れて足を止めた。それでも、立派な枝を広げる樫の木は、狭霧の足元まで木陰を伸ばしていた。


 木陰に入ると、あたりをそよぐ風が急にひんやりと涼しくなった。それは南国の温かな風よりもよほど涙をぬぐって、あっというまに狭霧の頬を乾かしていく。それで狭霧はほっとして、ようやく胸が静かになった。


 よかった、彼に泣き顔を見せなくてすむ。胸の焦りにつつかれて、また、まとまりのつかない悩み事を話さなくてすむ――。そう思うと、顔にははにかみの笑みも浮かんだ。


 困ったように笑う狭霧を、高比古は奇妙なものを見るように見下ろした。


「なにか、あったか」


 高比古が気にするのも、むりはなかった。涙は止まったが、狭霧の目もとには泣いた痕があった。それに、ここしばらく、高比古は狭霧を心配しているふうだ。


 でも、なぜか――。狭霧は、胸の内を打ち明けたくなかった。


 高比古に話せばきっと反対されると思ったし、そうでなくても、自分で自分の考えをかためてしまわないうちは、誰にも話したくなかった。


 だから、事実だけを伝えた。


「なんでもないっていうか――ううん、なんでもなくはないわ。火悉海様に、お別れをしてきたの。あなたの妻にはなれませんって、お返事をしてきた」


「……そうか」


 高比古はぼんやりとしていた。


 そのまま沈黙が流れるので、苦笑すると話を繋いだ。


「高比古こそ、心依姫に連絡はした? もう出雲に帰るんだから、最後くらい――」


「……しないっていったろ。この先の旅がどうなるかもわからないのに」


「じゃあ、リコさんに会いには……いけないか。もう間に合わないね。いまから笠沙にいって、戻ってくるわけには……」


「できるわけがない。そうじゃなくても、おれは安曇に大目玉を食って……。いや、おれの話はいいんだ」


 みずから話を終わらせたくせに、一度唇を閉じると、高比古は自分から話を続けようとしなかった。


 ふたたび無言の時が流れて、木陰を吹きそよぐ涼しい風が、何度も二人のあいだを通り過ぎていく。


 高比古の様子はぎこちなくて、なにか話したいことがあるのに、言葉が見つからずにいい淀んでいるというふうだった。


 もしかしたら――と、狭霧は高比古の胸の内を案じた。


 彼は賢いし、鋭い。もしかしたら、自分の意図に気づいているのかもしれない。そのうえで、彼も迷っているのかもしれない。まだ考えが定まっていないから、それを口にするのをためらって、自分の中でたしかな言葉が生まれるのを待っているのかもしれない。


 でも、狭霧にはそれを否定する声も生まれた。


(ううん。自分じゃない誰かのことなんか、わかるわけがないわよ。わたしはまだ、高比古が一番わたしのことをわかってくれるって思っているのかな。そんなことはないわよ。自分のことを決められるのは自分しかいないんだから、自分でわかっていなくちゃいけないんだから)


 都合のいいように考えようとしている自分がばかばかしいとは思いつつも、高比古と同じかもしれないと思うと、妙に胸がすっきりとした。


 でも、怖くなる部分もある。


 誰かに頼って安堵を得ようとしている自分が、たまらなく幼稚に思えて、許せなくなった。


 狭霧は、もう一度涼しい風が吹き通るのを感じた。それが心を通りぬけたと感じると、静かになった胸に誓った。


(これでもう、おしまいにしよう……)


 そして、高比古を見上げて笑った。


「ねえ、お願いがあるんだけど」


「……おれに?」


 高比古がうなずくと、狭霧は彼の手もとを見下ろした。


「すこし、手をさわってもいい?」


「手を?」


「うん。すこしだけ」


「……いいよ」


 高比古は答えたが、顔に表情はなかった。


 狭霧は、高比古のそばにいるのが好きだった。なにかを迷ったりしているときはとくにそうで、彼といるとふしぎと胸が落ちついて、心の中が整っていく気がする。


 これまでも、そういえば、困ったことがあるとなぜか高比古がそばにいた。彼のそばにいる居心地のよさを心のどこかで覚えた後は、自分から彼の居所を探すこともあった。


 出来のいい兄のように感じているとはいえ、頼り切っていたんだなあ。そう思うと、まぶたの裏に、出雲で高比古の帰りを待つ幼い姫の顔が浮かんで、謝りたくなった。


(ごめんね、心依姫。へんな想いがないからって、困ったことがあるたびにそばにいてもらって、わたしがほっとしたりしていたら……いやだよね、ごめんね。これでもう終わりにするから、自分一人で決められるようになるから――だから、最後にほっとするのだけ、許してね……)


 一歩踏み出して距離をつめると、両手でそっと高比古の手を取る。


 高比古の手は、狭霧より一回り大きい。剣や弓を扱う武人ならではのまめが、指や指の付け根にあるものの、肌の色は白くて、手触りも優しい。


 手をつなぐなり、胸が奥のほうからすうっと静かになっていく気がして、唇にうっすらと微笑みが浮かんだ。


(やっぱり、落ちつく)


 ぼんやりと風に吹かれていると、遠賀にいる時に、いまの狭霧と同じように彼に手をつなぐようにねだった日女のことを思い出した。


 あの時、高比古の手をとった日女はまぶたを閉じて、力がこみ上げるとつぶやいていた。


(あの子はこんなふうに、力を得たのかな。そうだ、やるしかない、やるんだって、高比古からいわれたようになったのかな)


 こみ上げた想いと過去の光景を混ぜ合わせていると、ふと、胸の奥に堅い芯が仕上がった気がした。まだそれは小さな棘のようなものでしかなくて、幼稚でひ弱だ。でも、それをうまく育てていけば、きっといまに必ず強固なものになる。


 その芯の誕生と予感は、狭霧を勇気づけた。


 すると、胸に忍ばせた髪飾りが思い浮かんだ。それは狭霧の大切な幼馴染の魂の残り香だが、いまの狭霧には、新たな決意というべき別のものに感じた。


輝矢かぐや――)


 愛らしい二重の目、細い顎、真珠しらたまのように白い肌。あどけない顔をしているくせに、普段からどこか凛とした振る舞いをする輝矢は、雲宮で見かける少年たちとは比べものにならない大人びた表情を浮かべた。それは、彼が幼いときから自分の身の上を理解していたからだ。彼は、彼が人質としての価値を失った十歳の頃から、彼の行く手に広がるはずの膨大な人生をすべて諦めていた。


 狭霧は、そういうところも含めて、輝矢のことが好きだった。


 懐かしい笑顔を思い出すと、唇の端をあげて強く笑った。


(輝矢、わたし、あなたと同じ道をいくかもしれない。……それでもいいよね? だって、いくら考えても、とうさまの娘として一番やるべきことは、それしか考えられないの。わたしみたいな人がいたら、彦名様やおじいさまが和睦の使者をお願いしたいって考えるのは当然だって、すごくよくわかるもの。その道はあまり幸せになれないかと思っていたけれど、これからもあなたと一緒にいられるなら、ちゃんと幸せかもしれないね)


 目を閉じたまま、狭霧は胸の奥底の深い場所でつぶやいた。 


(そうだ、やるしかない。やるなら、急がなくちゃ。もしかしたら、時間がないかもしれないもの)


 これ以上先へ進んでも、行く手にあるのは闇だと、胸のどこかでは薄々気づいていた。

 

 その闇の正体に気づき始めて、いま、とうとうその闇を面と向かって見据えると、改めてその闇が不気味と感じた。


(わたしは、とうさまの娘って呼ばれるのが苦手だった。そんなにすごい人にはなれないって。でも――)


 狭霧の身を包んでいる上等の衣服も、幼い頃から暮らした王宮の寝所も、いま阿多で過ごしている時間もすべて、父の娘として生まれたからこそ得られたものだ。高比古に触れている指先も、脈を打つ胸も、顔も、美しく結いあげられた黒髪も、いま頭の中にある知識も思い出も、すべてはそこに端を発している。


 それに気づかせてくれたのは、高比古だった。


(贅沢な暮らしなんていらないっていえることが、もうすでに贅沢だったってことに、わたしは気づいていなかった)


 世の中には戦が溢れていて、怪我や病に苦しむ人は大勢いるし、食べるものに困る暮らしをしている人も少なくない。いくら出雲が血筋による身分の継承を認めない国で、狭霧の暮らしが最上の贅沢ではなかったとはいえ、生きのびることに苦労をしない暮らしを特別と感じないほど、狭霧は優雅な暮らしをしていたはずだ。


(気がついていなかっただけで、甘い汁は、もう吸った。こうやって育ったからには、ちゃんと「とうさまの娘」として生きなくちゃ)


 でも、なぜか――。「王族」らしく生きようと決意した狭霧の前にあるのは、人の気配のしない闇だった。


 それは、高比古を救おうと毒の世界へ足を踏み入れた時の感覚と似ていて、その闇には人の気配や温かみがなく、話声もせず、恐ろしいほど静かだった。そのうえ、その闇の向こうへいける人は、限られている。そこにいけるのは、「王族」と呼ばれる人のはずだ。


 戸惑うたびにまぶたの裏に浮かびあがるのは、輝矢の凛とした微笑みだった。彼の微笑は夕空の星のように綺麗で、美しくて、ちぐはぐな感情や揺れのようなものが少なく、生きている人の気配が薄いと感じさせる。それはきっと彼が、幼い頃から長く生きることを――行く手に広がるはずの膨大な一生を思い描くことすら、諦めていたせいだ。


(「王族」って、半分死んでいる人みたい。生と死が混じり合った暮らしをしているみたい)


 そうか。この先にあるのは、捕われの生か――。


 ぽつりとそう思うと、急に寒くなった気がした。そして、思わずきゅっと唇を噛んだとき、手のひらが強く握られた。


 顔をあげると、高比古の顔があった。高比古は不安げに眉をひそめて、じっと狭霧を見下ろしていた。


「いったい、なにを考えている」


「……なにも考えてないよ」


 嘘ではなかった。やるべきことが見えた――と、ほっとしていたが、そのためにどうすればいいのかは、まだ決められていなかった。


 高比古は指に力を入れて、ぎゅっと狭霧の手を握り返した。そして、珍しく泣きごとじみたことをいった。


「あんたと一緒にいるのは、妙に落ちつく。でも、落ちつくのが怖くなる。いまは特にそうだ。怖くて――」


 意味はよくわからなかったけれど、狭霧は、胸の奥でそれを理解した。なんとなく、自分と同じだったからだ。


「うん、そうだね――」


「うんじゃなくて――。あんたは……」


 彼はそのまま言葉を濁したが、結局、その続きをいうことはなかった。


 遠くのほうから、狭霧を探す声を聞きつけたのだ。


「あ、姫様。安曇様が……」


 やって来るのは出雲の武人で、その人は、安曇からの伝言を引き受けたらしい。


 人が来た。他人の気配に気づいた瞬間に、狭霧と高比古の真ん中で触れ合っていた指と指は、さっとほどけて離れた。


 高比古はそのまま幹に隠れるようにたたずみ、狭霧は彼から離れて木陰を抜けて、陽光のもとに出た。そして――。


「わたしはここよ。安曇がなに?」


 やって来た武人へ向かって、笑った。狭霧の顔には、ふいに瞬き始めた夕空の一番星のような、綺麗な微笑みが浮かんでいた。





.........5話に続く

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