番外1、種火の揺らぎ
終わりに近づくのをためらうようで、足は地についているものの、やけに心もとなかった。
過ぎていく景色は、古い山宮の奥端へ向かうにつれて、しだいに緑に包まれていく。そこは外との出入りを禁じられた場所だったので、笠沙の山宮を訪れる客人から隠すような奥まった地につくられていた。
高比古にその場所を知らせた本人のくせに、火悉海は、まさかと驚いていた。
「おい、巫女に訊いたら、本当におまえのいった通りだったぞ。なんであの子が……おまえの女が、笠沙にいるんだ?」
「おれも知らないよ。ただ、そう聞いたんだ」
高比古にそれを教えたのは、出雲の御使い、
自分に代わって彼女を見守ると約束をした言葉の通りに、矢雲は彼女の行方を気にかけてくれたらしい。
火悉海と落ち合った先は山宮の回廊だったが、目を丸くした火悉海はしばらくそこを動きそうになかった。だから、急かすことにした。
「歩きながら話してもいいか。狭霧を一人で残してきているんだ」
「あぁ、高比古が彼女の守り人なんだっけ? でも、ここは笠沙の山宮だぞ? ここに剣を持って押し入るような無礼者は、隼人の地には……」
「悪いが、それでも気は抜けない。おれは隼人じゃなくて、出雲の奴だから」
「出雲人だから、ここが笠沙でも信用ならないって? 異国の奴じゃなきゃぶん殴ってる返答だが、まあ、仕方ねえな」
渋々とうなずいた火悉海は、高比古に連れだって回廊を歩み始めた。
「そういや、これまで、あの子のことを話す機会がなかったな。おまえは気にしてたよな。気がきかなくて悪かった」
「いや、いいよ。それで、あいつは――」
火悉海は、彼女を託した相手だ。その火悉海からも、矢雲からも、これまでとくに話がなかったので、きっと彼女は無事なのだろうと思っていた。
だから、高比古が気にしていたのは一つだけだった。
「なあ、あいつはおまえになんて名乗った?」
火悉海は、なんでそんなことを聞くんだというふうに首を傾げた。
「なんてって……桐瑚だろ?」
「……そうか」
胸が、ほっと温まったのを感じた。
そうか、あいつはもとの名に戻ったのだ。リコという仮の姿に甘んじて、帰る場所などないと悔しそうに泣いていた桐瑚は、もういないのだ。
(よかった、あいつを救うことができた――)
胸の中の曇り空に晴れ間が見えた気分だった。だから、狭霧を火悉海に託してから、一人で教えられた場所へ向かうのは、億劫ではなかった。
でも、近づいていくにつれて、足は怖がり始める。
早く近づきたいと逸る気持ちや、いってしまえば一つが終わると焦る気持ちや、もっと別の想いが入り乱れて、胸にも身体にも、ちぐはぐな想いが溢れていた。
火悉海から聞いた場所へいくには、道を逸れた先にある林を横切っていかなくてはならなかった。やがて、木々の奥に大きな庭のある庵が見えてくるが、その庵のある庭は、背の高い垣根でぐるりと囲まれていた。
この先は許しなくば入ることあたわずと知らしめているが、垣根は竹を格子状に束ねたものなので、人の顔がくぐり抜けられそうな隙間はいたるところにある。
「中には入れないが、覗くことはできるよ。でも、悪いことはいわないから、見つかるな。あとあと面倒だから」
火悉海からそのように聞いていたので、門をくぐるのはやめて、林の木々に隠れながら垣根に沿って進みつつ、立ち止まることのできる場所を探した。
垣根の中には炊ぎ屋や井戸、畑がつくられていて、隼人風の衣装を身につけた若い娘たちが数人働いている。
(桐瑚は……)
姿を見られないように気をつけながら、注意深く中を覗いていると、ある時、はっと身を強張らせた娘がいたのを見つけた。
身なりは変わっているものの、桐瑚だった。
高比古を見るなり錯覚を疑うように目を凝らしたが、やがて彼女は頬を引きつらせて、周りにいる娘たちに気づかれないように、ひそかに指で奥をさした。合図にうなずくと、いわれるままに緑の森を進んで、彼女が示した場所を目指した。
桐瑚が高比古を呼び寄せたのは、古い井戸のある奥庭だった。
小さな庭だが、人の気配はない。背後を気にしながら垣根に走り寄った桐瑚は、そこで待っていた高比古と目を合わせると、月の色をした淡い色の瞳を涙で潤ませた。
「さっき、火悉海様と出雲の若王と姫が山宮においでになっているという噂を聞いて、きっとおまえのことだと思った。けれど――まさか、会えるなんて」
きゅっと垣根を掴んで、庭の端に立った桐瑚は、ぽろぽろと涙をこぼした。
その涙を見下ろしたが、ふしぎと胸は苦しくならなかった。
娘の泣き顔にいつのまにか慣れていたのか、それとも、桐瑚がこぼしたのが哀しい涙ではなかったせいか。
「ものものしい場所だな。垣根で囲まれているなんて」
「あぁ、この奥は、大巫女の候補を育てるところだから」
「大巫女の……」
「ええ。実は――」
桐瑚が話して聞かせたのは、阿多に来てから彼女がたどった道筋だった。
火悉海とともに阿多へたどり着いた桐瑚は、はじめ、阿多の神殿に身を寄せていたらしい。それは火悉海へ、かつて巫女だったことを告げたからという話だ。
「巫女だったなら、また巫女になるか?」
そうすすめられて阿多で修練に励んでいたが、筋がよく、次の大巫女の候補にと見込まれたのだとか。それで笠沙へ渡り、隼人の大巫女の候補となった娘たちに混じって、さらなる修練に励むことになったらしい。
話を聞いているあいだ、高比古はずっとはにかんでいた。
「おまえが、隼人の大巫女になるのか」
「まさか、ならないよ。異国の出だもの。うまくいっても、なれるのはせいぜい大巫女の下の下の位だろうな。でも、居場所があるのはいいわ。巫女の修練なんて、慣れてしまえば全然厳しくないもの。宗像で、誇りを切り売りしていた頃よりはよっぽどまし」
桐瑚は強い口調でいって、苦笑いをした。
それから、二人を隔てる垣根越しに、高比古をじっと見つめた。
「それで、おまえはここへ、なにをしに来たんだ」
「……なにも」
「なにもって……来ただけ?」
「おまえの無事な姿を、この目で見たかった」
「……それだけ?」
「ああ、それだけ」
淡々というと、高比古の唇は閉じてしまった。
再び出会っても、もうなにも起きようがないことはわかっていた。それはきっと桐瑚のほうも同じだった。
桐瑚も唇を閉じて、しばらく口をつぐんだ。
それから、森を吹く涼風がいくつも二人の耳元を撫でていき――。しばらくすると、桐瑚がぎこちなく微笑んだ。
「……宗像で、奥様を娶ったそうだな。おめでとう」
「ありがとう――」
「かわいい子? ちゃんと大事にしてる?」
「大事にか……なかなか難しいよ。そうしたいとは思うが」
「そう――」
桐瑚は唇を閉じてうつむき、なにかを思い悩むような振りをした。
そして――。ゆらりと細腕を浮かせると、指先で懐を探った。指で大事そうにつままれて現れたのは、出雲風の髪飾りだった。前に高比古が渡しておいたものだ。
こうなるとはわかっていたし、この髪飾りをどうにかすべきだとは、自分でも思っていた。でも――桐瑚の手に乗ったそれを目にするなり、胸が震えた。
「じゃあ、これは、返すわ」
大切そうに髪飾りを手に乗せた桐瑚は、垣根越しにじっと高比古を見つめる。淡い色の目は潤んで、寂しげに揺れていた。
「……もう、いらないから」
泣き顔でいわれるような言葉ではないと思った。
だから、高比古は受け取るのをためらってしまった。
桐瑚がその胸にもっていてくれれば、思い出として、高比古も想いを抱いていけるのに――。
それを、彼女は拒んだ。いや、たぶん自分も、ただの思い出なら要らないと思っていた。そして、決断をした彼女に、弱みになるようなものを残していきたくないと思っているのも間違いなかった。
「わかった」
でも、いざ高比古が手のひらを差し出すと、すでに手の上に乗せているくせに、桐瑚は躊躇した。でも、苦しそうに唇を噛むと指で髪飾りをつまんで、差し出された高比古の手のひらの上にそっと乗せる。
高比古の手の上に髪飾りを落としてから、そのまま、桐瑚の指はそこを離れなかった。
まだ肌と肌は触れなかったが、二人の手と指のあいだには、髪飾り越しに温かな揺らぎのようなものがあって、すでにその部分では触れ合っていた。
一度触れてしまえば、離れるのが惜しくなるものだ。
いつのまにか垣根の隙間で指と手のひらは繋がって、ぎゅっと握り合っていた。かたく握り合った手のひらにもう片方の手も添わせて、両手でしがみつきながら、桐瑚は深くうつむいて肩を小刻みに震わせはじめた。
これを受け取ったら、本当に終わるのだろうな――。
目を逸らすこともできずに、高比古はじっと泣き咽ぶ桐瑚を見つめた。
華奢な肩が小さく震えるたびに、嗚咽がもれる。
さっき見た、再会を喜ぶ涙には感じなかった苦しい痛みが胸を突いた。
この涙は、おれのせいだ――。
そう思うなり、手を伸ばして抱き寄せたくなった。でも、二人のあいだには壁のようにせり立つ竹の垣根がある。
もう、どうにもできない――。
手を伸ばすのをためらいながらぼんやりとしていると、ある時、桐瑚がゆらりと顔をあげて怒った。
「こんなに泣いているのに、すこしは頬を撫でるとか涙を拭うとか、なにかしないのか。奥様をもらったくせに、相変わらず女の扱いが下手なんだから――」
「……そんなにすぐには、変われない」
相変わらずといわれようが、桐瑚だってそうだ。
身なりも住まいも変わっていても、態度もいい方も、彼女自身はさほど前と変わらない。
でも、とても変わったことがある。二人のあいだには背の高い垣根があって、それ以上近づいてはいけないことは、お互いがよくわかっていた。
抱き寄せることはできそうになかったので、垣根の隙間から手のひらを差し入れると、涙に濡れた頬を撫でた。すると、頬は手のひらに添って傾いて、じっと手のひらに頬をうずめてくる。仕草はいとおしげで、前と同じように彼女を抱けないことを、心が苦しがった。
桐瑚は、高い澄んだ声でつぶやいた。
「最後に、思い出がほしい」
「思い出?」
「ああ、そうだ。別れの証が欲しい。唇に」
意味はわかった。
だから、桐瑚の頬を包んでいた手のひらに力を込めて、そっと垣根の隙間へ近づけさせると、自分もその隙間に顔を近づけていった。
間近で見た桐瑚の赤い唇は、雨上がりの雫が乗った花びらのようで、とても可憐だった。そこに唇を重ねてからは、彼女を見下ろすのに、眉に力を込めていないと穏やかな顔を保てなかった。
「じゃあ、元気で」
「おまえも――」
そっけない別れが自分たちらしいとは思いつつも、寂しくなった。
「最後くらい、名前で呼べよ」
そういえば、高比古は彼女から名で呼ばれたことがほとんどなかった。いつも彼女は自分のことを「へんな策士」やら「出雲の策士」やら、役の名で呼んでいたから。
苦笑してみせると、桐瑚は眉根をひそめたまま、吹き出すように笑った。
「高比古。おまえに会えて、よかった――」
「おれも、おまえに会えてよかった。元気で、桐瑚――」
それは、本当に別れだった。
彼女の頬から手のひらを離して、一歩後ろへ下がると、二人の間に風が吹き抜ける。桐瑚の吐息に包まれていた温かさが消えたものの、唇はまだ火照っていた。誰かに触れた違和感が残る唇が、やけに奇妙だった。
じり、と
少し歩んでから振り返ると、垣根越しに桐瑚の背中が見えた。彼女も、みずから踵を返して高比古に背を向けていた。
そうか、これで終わったんだ。
大切なものが消え去った不気味さは、まだ胸にくすぶっていた。でも、そこには安堵もあった。
よかった、あいつは無事だった。前と変わらずふんぞり返っていた。あいつなら大丈夫、一人でも生きていける――。
信頼する気持ちは、彼女への敬意になった。
不安がひとつ消えると、ふいに自分のことが心配になった。
(おれは平気か? 一人でいけるか)
平気だとは思ったが、こんなふうに恋を終わらせたことなどなかった。
(恋? これは恋だったのか?)
恋というのは、もっと厄介な想いだと思っていた。たとえば、自分では制御しきれないような魔物じみたものだと。
でもいま、高比古は桐瑚への想いを噛み殺すことができている。桐瑚のために取り乱したことがこれまでにないわけではないが、知識として知っている恋心というものと比べると、いくらか淡白な気がした。
結局、終わったということのほかはよくわからないままだった。だから、思った。
(よくわからないものが、恋なのかな)
ただ、これまで経験のない奇妙なものには違いなかった。そこはかとない不安を感じると、手渡された髪飾りを握り締めながら、それを消し去ることばかり考えてしまった。
(すぐに、焼こう。この世から消し去ろう)
相容れない奇妙なものは、今のうちに摘んでしまうべきだ。
感傷にふけって胸が脅え出す前に。この先に苦しいことが起きた時に、あそこに戻れる、自分を待つ場所が残っていると、心が揺れてしまわないように――。
自然と早足になったが、足はここへ来る時と同じく宙を掻くようで、やはり妙に心もとなかった。
この世から、消えてなくなれ。二度とおれに、不安や迷いを与えるな――。
視線で焼き切るようにしながら髪飾りを火で炙っていると、背後から狭霧の声がした。
「その髪飾り、高比古の? どうしたの。燃やしちゃうの?」
もう要らないといわれたから捨てているんだと答えると、狭霧はいたわるように見つめてきた。
「苦しい? ……リコさんに二度と会えなくなるのが、寂しいから?」
思わず、首を横に振っていた。苦しいのは哀しいせいではなかった。別れ別れになる哀しさなら、桐瑚を手放す時に宗像ですでに蹴りをつけていた。
狭霧は、圧倒されたようにぼんやりとした。
「強いね……」
(強い?)
自分のことを、そんなふうに思ったことはなかった。
不幸慣れしていて、そのうえ臆病だから、どちらかといえば、傷つく前にさっさと不安の芽を摘んでしまおうと必死なのだ。
(おれは、あんたのほうが強いと……頑丈だと思う。どうして苦しいものを捨てないで、抱きこんでいられるんだろう)
狭霧の胸には、いま高比古が焼き捨てた髪飾りと似たものが大事に抱かれているはずだ。
(過去の苦しみや悲しみを大事にもっていたら、つらくないか。それでも守っていきたいのか?)
そう考えると、狭霧がとても危なっかしいものに映った。
幼馴染への想いなんか忘れ果てて、早く誰かに嫁げばいいのに。
あんたは、目に見えて苦労しそうなんだから。早く誰か、守ってくれる奴に頼ればいいんだ。火悉海なら、たぶん、命を賭けてもあんたを守るぞ――。
そんな髪飾りなんか、とっとと捨てろ。
そういってしまいたかったが、どうしてもその言葉は喉の底から出ようとしなかった。
代わりに出ていったのは、こんな言葉だ。
「あんたはそれを大事にしてやれよ。まだ胸に持ってるんだろう?」
本意に違いなかったが、胸にあった大声ではなくて、かすかなつぶやき声のほうだった。
すると、狭霧は優しい色の花がふわりと花びらをひろげたように笑った。
「うん――」
時たま自分に見せる、安堵しきった笑みだ。その笑顔の狭霧と目が合うと胸がほっとして、思わず笑みがこぼれて、真顔に苦笑が漏れてしまうような。
いまのでよかったんだ。だって、こいつにこんな顔をさせることができたんだから。
ふいに褒められた幼い童のように胸が弾んだ。それは幸せとも呼べるような想いで、狭霧といる時にだけこみ上げる奇妙なものでもあった。
(本当に、妙な関係だな)
手に入れたいという衝動がこみ上げるわけではないが、なにも話さなくてもそばにいるだけでほっとする。兄妹って、こんななのかな。そんなふうに感じることも、何度かあった。
でも、狭霧と高比古が兄妹でないことはよくわかっていた。そんなものではないといいきかせるたびに、安堵とも呼べるこの感覚が、同時に怖くもなった。
この安堵は、いったいなんなんだろう。これは、いつまで続くんだろうか。
こいつは、このままおれを信じていくのかな。
裏切られたり、信じてもらえなくなったりする日が、いつか来るのかな。
桐瑚とのことが終わったみたいに――。
それに、もし――もしも、こいつに触れたら? 手に入れたいと思うようになったら? いま感じている些細な幸せは、膨らむのかな。それとも、すべて消えるのかな。
(手に入れる? まさか。こいつはそんな奴じゃない。そんな想いもない)
理由を探すうちに、妙なたとえに行き着いた自分を嗤った。
振り切るように火皿の明かりを吹き消すと、そばを離れた。狭霧が横たわる寝床の隣に用意された自分の寝床へ腰を下ろすと、掛け布を広げて寝入る支度をした。
「もう寝ろよ。まだ調子が悪いだろ?」
「うん――そうする」
照れ臭そうに微笑んで、寝床に横になった狭霧は掛け布で自分の身体をくるんだ。
高比古も、掛け布にくるまって背を向けた。
そして、火が消えた闇の中で夜の挨拶をした。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
他人とくつろぐのは苦手だが、隣にいるのが狭霧だと思うと、なぜか寝入るのは早かった。
隣に人がいる。安心できる人が――。
大丈夫だ。桐瑚の腕は失ったが、今晩もきっと、怖い夢は見ない――。
のどかなまどろみに揺られるうちに意識はしだいに遠ざかり、いつか高比古は眠りに落ちた。
..........end
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