番外2、黄昏時の家

 その時、狭霧は二歳。


 大きな口をあけて、母の脚にしがみついていた。


「かあさまぁ。とうさまって、偉い人なんだよね。だから狭霧は、とうさまに会っちゃいけないんだよね」


 身重の腹を庇いながらゆっくりと腰をおろして、我が子と目の高さを合わせた須勢理すせりは、苦笑した。


「そうね。毎日会うことはできないの。……偉い人だからね」


「じゃあ、狭霧は大きくなったら、とうさまのお手伝いをしなくちゃいけないね」


「まあ、おまえが? とうさまのお手伝いって、どんなことをする気なの」


「あのねえ、安曇と一緒に、とうさまにお仕えするの」


「――え、お仕え?」


 須勢理は、無垢な笑顔を振りまく我が子を覗きこんだ。


「狭霧はね、安曇みたいになって、とうさまのお手伝いをするの。かあさまも、とうさまのお手伝いをしているんでしょ?」


 須勢理はきょとんとして、しばらく声を出すことができなかった。


 それから、眉をひそめて、大笑いするような嘆くような、奇妙な顔をした。


「狭霧、とうさまって、なんのことか知っている?」


「とうさまは、とうさまでしょう? 時々会う、偉い人」


「……では、安曇は?」


「お父さん」


「……あぁ」






 狭霧にとって「父親」という位置にいたのは実の父ではなく、その人に仕える青年、安曇だった。そのせいで、ややこしい勘違いをしているらしい。


 我が子との会話でそれに気づいた須勢理は、安曇にそのことを話した。


「狭霧ったら、あなたのことを父親だと思っていて、穴持なもちのことを『とうさま』っていう名前の、あたしたちの主だと思っているみたいなの」


 安曇は驚いて、せっかく畳んだ着物から手を放した。はらりと崩れて床に落ちた布を慌てて拾いながら、ぎこちなく笑った。


「……それは、また」


「すこし、自信をなくしたわ。あの子には、近くに父親がいないぶん穴持の話をしていたつもりだったんだけど……。ううん、子供は正直よ。いくら話を聞いたって、父親らしい存在かどうかなんて見抜いてしまうんだわ。それだけあなたが、あの子にうまく接してくれているのよ。あの子は、あなたを父親だと思ってるわ」


「やめてくれよ、須勢理様。穴持様の耳に入ったら、機嫌が……」


 童用の小さな着物を畳む手仕事を続けながら、安曇はぶるっと身震いをした。


 須勢理は怒った。


「機嫌くらい悪くなればいいのよ。悪いのは、自分の子供に寄ろうともしないあいつなんだから」


「でも、須勢理様。あれでもあの人は、狭霧には父親らしく振舞っているつもりなんですよ。狭霧にはちゃんと会いに来るでしょう?」


「会いにって……月に二度か三度、ちょっと顔を見るだけよ。それも、ほんのみじかなあいだよ? すぐに飽きて、顔を見てすこししたら『もういい、狭霧を下げろ』って遠ざけさせるんだから……!」


 いらいらと目を細めて床を睨む須勢理を、安曇は宥めた。


「でも穴持様は、ほかの御子にはわざわざ会わないよ。一の姫の御子の葦男あしお様には目をかけていらっしゃるけど、子というよりは、将来の部下という見方をしているし」


 安曇は、ふうとため息をついた。


「須勢理様、おれ、狭霧から離れたほうがいいかな――。父親は穴持様だけって思わせてあげたほうが、狭霧は混乱しなくて済むかな」


「それは……」


 須勢理は一度いいよどんでから、続けた。


「あたしも考えたのよ。これを機に、狭霧をあなたから離してしまおうかって。だって、そうしないと、あなたまで老けこんでしまうわよ」


「おれが?」


「そうよ。もともとあなたは子供の世話を焼くのがうまいけれど、まだ奥様ももらってないくせに、こんなに所帯じみてしまってどうするのよ」


「所帯じみてしまって? そうかな」


「そうかなって……子供の衣を畳むのにこんなに慣れちゃって、どうするのよ」


 安曇のそばには、狭霧の小さな衣が器用に畳まれて置かれている。


 洗い物をしたのは侍女だったが、須勢理と狭霧が暮らす舘を訪れた安曇は、どこかの土間に置かれていた衣籠を見つけたようで、慣れているから自分がするよと、わざわざ手にして現れた。


 安曇が得意なのは、洗い物の仕上げだけではなかった。


「狭霧にごはんを食べさせるのも、遊ばせるのもあなたは上手で、祝言前の若い武人には、とても見えないわよ」


「はあ」


「はあ、じゃないわよ。忙しいくせに、時間があけば狭霧のところに来てかまってくれて――。あたしは助かるけれど、あなたには申し訳がないわ。こんな暇があるなら、すこしくらい遊んできなさいよ」


「遊んでこいといわれても、おれは……」


 安曇は断るが、須勢理の耳には入らなかった。


「そうよ。あなたのぶんまで穴持が遊んでどうするのよ……! あいつの女遊びにいまさら口を出す気はないけれど、あなたに自分の子供の面倒を見させているくせに、自分はそこらの女を口説いているんだから――、ああ、腹が立つ!」


「す、須勢理様……」


「そうよ。昨日は帰ってこなかったの。一の姫や離宮のお妃のところにいっていたならともかく、新しい女だったら、絶対に許さないわ。這いつくばって土下座するまで口きかないんだから――。安曇、あなた、なにか聞いてない? 昨晩穴持がどこかへ出かけたとか、どこかであいつ好みの色っぽい娘を見つけたとか!」


「し、知りません。本当です、須勢理様……!」


 安曇は懸命に手を振って無関係を訴えるが、憤慨した須勢理の勢いがおさまることはなかった。


「そりゃあ、あたしはいま身重だから、好きなように過ごしたらとはいったわよ。だからって、ほんとにあの男は気遣いって言葉を知らないんだから! 夫なんだから、見舞いにくらい来いっていうのよ。妊婦を気遣えっていうの!」


「す、須勢理様……! そんなにりきんでは、御子が生まれてしまいます。どうか落ちついて!」


 それで、須勢理もみずから胸を宥めて、荒くなった息を整えた。


 結局安曇は、自分の心配より、臨月の大きな腹をものともせずに握り拳をつくって顔を赤くする須勢理の身を心配するほうに回った。彼の身を案じるはずが、結局案じられることになったのだから。


「とにかく――。すこし考えたほうがいいわ。あなたは自分の子を育てるべきよ。狭霧じゃなく――」


 安曇は苦笑した。


「おれは、このままがいいです」


「このままって、誰とも添い遂げないつもり?」


「だって、一緒にいたい娘なんか、ほかにいないんです」


 その言葉はなにげなくつぶやかれたが、聞くなり、須勢理の胸はぎくりとして震えた。


 ずっと前のことだが、安曇は須勢理へ恋心を打ち明けていた。


 でも安曇は、須勢理への恋より、須勢理の夫であり彼の主、穴持への敬慕の想いを貫くほうを選んだ。叶いようのない邪な想いだからと、気持ちを告げると同時に、終わらせると宣言した。その後の彼は宣言通りに振る舞ったので、須勢理が彼に負い目を感じることはなく、友人同士の関係が崩れることもなかった。でも――。


 一緒にいたい娘なんか、ほかにいないんです。


 言葉の意味を探ろうとして、須勢理が慎重に唇を閉じると、安曇はすぐにいいなおした。


「いえ、その――。とりあえず、しばらくはいいです。妻はいませんが、手のかかる伴侶なら、もういますから」


「手のかかる伴侶? それって――」


「穴持様ですよ。あの人の世話で、おれは手一杯です。とても、ほかの娘を見る余裕なんかないです」


 あっさりといってのけた安曇の顔には、須勢理が危惧したような秘すべき恋の苦しみは見えなかった。


「あの人のそばで世話を焼いて、あの人の代わりにあなたの隣にいて、あの人とあなたの御子を腕に抱いて、父親役になって――。おれは、満足しています。穴持様には申し訳ないですが、狭霧がおれを父親だと思っていると聞いた時、実は喜んでしまいました」


「……」


「子供って、なぜいるんでしょうね。穴持様と須勢理様だって、子が欲しくて夫婦になったわけではないでしょう? お互いが惹かれあった結果、御子が誕生したんです。血の繋がった子が残っていく意味は、なんなのでしょうね。いまは、狭霧が血の関わりのないおれを慕ってくれていますが、時が過ぎて、おれが死にゆく時に、血のつながった存在をこの世に残していなければ、おれは寂しくなるんでしょうか――。そう考えると、可笑しくなりませんか? ここは出雲なのに。血の色は無用という掟どおりに、意思を継ぐ者こそが子なら、血のつながった子なんて、はじめから要らないじゃないですか」


 安曇は、困ったように笑っていた。


「すべて、矛盾しています。血のつながりのあるなしと意思のつながりにはなんの関わりもないと出雲の掟はいっていますが、その反面、親子の絆というものは必ず存在している。いえ――、考えるときりがないのでこれでやめますが、もし須勢理様がいやでなかったら、このままおれに、狭霧の父役をさせてもらえませんか? あなたと穴持様の……おれが一緒にいたいと思うお二人の御子のそばにいられることを、おれは喜んでいるんです」


 それで、須勢理はため息をついた。


「安曇って……穴持の半分、ううん、ほんのちょっとでも、わがままなところを分けてもらえばいいのに」


 渋々ながら、諦めるふうに須勢理はうなずいた。


「あなたがいいなら、いいわよ。父親役を奪われるのは、穴持が悪いのよ」


「奪うなんて、おれは――」


 安曇ははっと真顔になって、はじめて表情を曇らせた。


「おれはあの方から、なにも奪う気はありません。でも――奪ってることに、なりますよね……」


 ぽつりとつぶやいた安曇は、しばらく黙りこんでしまった。






 舘の前門のあたりに、賑やかなざわつきや人の気配が漂い始めた。


 須勢理の侍女、恵那えなと散歩に出かけていた狭霧が戻ってきたのだ。


「かあさま、ただいまぁ!」


 嬉々とした大声が聞こえたかと思うと、小さな歩幅で回廊を駆ける足音がとたとたと近づいてくる。広間でくつろぐ須勢理と、そばで坐す安曇の姿を見つけるなり、狭霧の笑顔はぱっと明るくなった。


「安曇、おかえりぃ!」


 まるで安曇が、この舘の住人であるかのような挨拶だった。


 飛びこむように駆け寄ってくる小さな身体を抱きとめながら、安曇は苦笑してつぶやいた。


「……ただいま」


 狭霧をあやしながら、彼は深刻な悩み事を告げるふうに声を低くした。


「……あの方は、どうしてこの喜びをわかろうとなさらないのか。ほかとは比べようのない幸せの一つだろうに、どうしてあのようにあっさりと、おれに与えてしまうのか――」


 彼が気にしたのはやはり、彼の主のことだった。


 須勢理は首を横に振った。


「もういいわよ、安曇。あなたがいいなら、穴持のことなんか放っておけばいいわ」


「いえ――」


 父親に抱きつくようにじゃれつく狭霧を抱き返しながら、安曇は苦しげにつぶやいた。


「もしかしたら、あの方はおれに、わざわざこの幸せを……あなたのそばにいる幸せを与えているのかもしれません。……いえ、なんでもないです。考え過ぎですね」


 安曇はすぐに、告げてしまった言葉を取り消した。


 彼は覚悟をつけるふうに微苦笑して、須勢理と目を合わせた。


「もともとおれに、出雲で家族をもつ気はありませんでした。狭霧の父役を任されなければ、おれは子を育てる喜びなど知らずに生きたでしょう。だからいまは、ふって湧いた幸運を喜んでおきます」




 


 狭霧は、安曇になついていた。


「安曇、高い高い、立って、だっこ」


「はいはい」


 せがまれると、安曇は狭霧の小さな脇の下に大きな手のひらを差し入れて、ふわりと頭上まで持ち上げてみせる。


 きゃっきゃっと声をあげてはしゃぐ狭霧に微笑みながら何度か繰り返すと、満足したのか、狭霧は安曇の指を引っ張って外へ連れ出そうとした。


「あのね、教えてあげる。すっごく大きな木の子があってね、蟻さんと毛虫さんのおうちなの。こっちだよ。恵那と狭霧が見つけたの」


 散歩の途中で見つけた宝物を見せようと、しきりに腕を引っ張る狭霧に笑ってから、安曇は須勢理を見下ろした。


「というわけで、じゃあ、いってくるよ。剣をここに置いていっていいですか」


「いいわよ。……いってらっしゃい」


 おかえり。

 ただいま。

 いってくるよ。

 いってらっしゃい。


 どれも、家族がするような会話だ。須勢理と狭霧と安曇は、決してそういう関係ではないのに。





 手をつないで舘を出ていった安曇と狭霧を見送りながら、須勢理はぼんやりとした。


 本当に、ふしぎな関係だ。


 須勢理が恋しい相手は間違いなく夫の穴持だが、なぜか二人のそばには、友人や部下というには親密すぎる仲の青年がいる。


 だから、須勢理は二人の夫を得ている気分だった。


 恋心が絡む場合の夫は穴持で、幼な子のいる温かな場、家族としての繋がりが絡む場合の夫は、安曇だった。


 早く、彼の妻にふさわしいいい人を見つけてあげたい。その想いは変わらないし、いつか彼がいとしい娘を見つけて、須勢理と狭霧のそばを離れても、まったく寂しくなどならないはずだ。寂しい以上に、安堵と喜びが勝る。


 でも、いまのこの関わりが崩れることは、しばらくなさそうだ。


(安曇がいいなら、いいんだけど。安曇って頑固だしなあ――)


 そもそもの問題は穴持にある。


 彼がすこしくらい父親らしい顔を見せてくれれば。安曇のためにも、どうにか――。


 きつく詰め寄りたいのはやまやまだが、その前に諦めてしまう部分も須勢理の胸にはあった。


 きっと穴持は、父親になったら彼でなくなってしまうのだろう。彼は武王で、配下の男たちを大勢従えて女を渡り歩く、獣の群れの長のような男だ。奔放に過ごすべきで、彼の牙は鋭く研がれたままのほうがいい。思いやりも安堵も、穴持には要らないのだ。それを須勢理はよくわかっていて、それが途絶えないように無意識のうちに心がけているのかもしれない。もしかしたら、安曇も――。


(でも、それじゃあ安曇が――)


 茜色の光が滲み始めた広間でため息をつく須勢理へ、恵那が声をかけた。


「須勢理様、御用がなければ、私、縫い物をはじめますね」


 恵那は、広間の壁際を陣取って、生成り色の布と針を手にしている。


 彼女は須勢理に代わって繕い物を引き受けていたので、手が空けばいつでもいまのように、須勢理が身に宿した御子のための産着うぶぎを仕立ててくれていた。


「ああ、ありがとう。ごめんね、全部任せちゃって」


 そういうと、恵那はここぞとばかりに笑った。


「いいんですよ。縫い物をあなたに任せる気なんかないです。せっかくの産着がめちゃくちゃになってもいやですし、針で指をついて血まみれにされても困りますから」


「どういう意味よ、それ。――へたくそで悪かったわね」


 たしかに須勢理は、縫い物が苦手だった。


 縫い物どころか、娘らしいことはすべて苦手だ。穴持の一の后のように優しく微笑んで品のいい気配りをするのも、そこらの娘がするように恋に浮かれるのも、花摘みに興じたり、着飾ったりすることも、すべて。


 とはいえ、我が子の世話も、腹子のための縫い物すら人に任せてしまうと、手持無沙汰になるというものだ。することがなくなったので、せめてと、安曇が置いていった剣へ手を伸ばした。


(彼が帰ってくるまでに、剣の手入れをしておこう)


 男のように床にあぐらをかいて、手慣れた手つきで鞘から剣を抜くと、美しい刃が現れる。


 さすがは武王のそえの持ち物で、刃は鋭く、鈍く輝いている。刃は少し黒味を帯びていたが、それは、この武具をより堅固にするために焼きしめられているせいだと須勢理は知っていた。


(きれい――)


 安曇みたいな剣だと思った。


 華美な飾りのない大人し目の鞘から抜くまでは、こんなに鋭く、冷徹なまでに人を殺すための手間をかけたものが中にあるとは、きっと思わせないだろうに。


(安曇は、影の武王だものね)


 ひと目で幾千人を威圧する王者の華をもち、本能的な才覚で正誤を見破る穴持と、穴持がぶれないようにそばでじっと見張りながら、穴持の目の行き届かない部分へ目を光らせる、安曇。二人の印象は動と静というふうに真逆だが、二人が揃っての「出雲の武王」だということは、須勢理も、おそらく一緒に戦に出る大勢の武人たちもよくわかっているはずだ。


 その二人の青年のそばで、奇妙なことに須勢理は、妻の役割をしている。


 刃のどの部分に触れると指を切ってしまって、どこなら平気かということを、須勢理は戦場に慣れるにしたがって熟知していった。


 年頃の娘が針箱や機織り道具を仕舞う籠をもつように、須勢理は、飾り籠に仕舞われた研ぎ石をもっていた。それで器用に剣の刃を磨いていると、そのうちにぷっと笑ってしまった。


 それにしても、剣の手入れか――。縫い物も給仕もろくにできないくせに、できることが刃の世話だけとは、なんとも勇ましい妻だ。


(二人の武王か――)


 ふしぎな状況になるのは、仕方ないかもしれない。あたしはこういう女だし、こうしかできないし。


 乳飲み子の産着を縫う恵那の手つきをぼんやりと見た後で、須勢理は休ませていた手を動かした。


 剣を磨く手つきは、自分でも納得がいくほど慣れていた。

 







..........end



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