黒穢の誓い (1)

 意宇で大喧嘩をしてからというもの、狭霧と高比古は、どこかよそよそしくなった。


 その時にした乱暴な言い合いは、そこで終わり。同じ言い合いを二人のあいだで繰り返すことはなかったし、いくら居心地が悪くても、決してそばを離れようとはしなかった。


 軍議に出かけたり薬倉にいったり、それぞれの役目を果たしに出かけた後は必ず互いの姿を探したし、姿を見つけるとそばに寄った。


 それでも狭霧は、意宇での喧嘩の後から、二人でいる時に違和感を覚えるようになった。手をつないでいればなぜだか知らない人の手に触れている気がするし、つないだ手をほどくと、すぐそばにいるのに遠ざかった気がする。


 しっかりと絡まっていた糸が、ほどけてしまった気分だった。


 心と心が離れてしまった気がして怖くなると、夜に眠るあいだ、狭霧は高比古の胴にぎゅっとしがみつくようになった。


 狭霧が手を伸ばせば、高比古の手も応える。そうやって互いに身を寄せているあいだだけ、「これで、やっと元通り――」とほっとした。


 でも、朝が来て、二人で朝餉を済ませ、高比古が館を出ていく頃になると、やはり狭霧は高比古が遠ざかる気がしてたまらなかった。


「じゃあ、いくよ」


 その日の朝、高比古の顔は無理に笑っているふうだった。その笑顔で別れを告げられると、狭霧は、高比古がこのまま知らない場所にいってしまいそうな気がした。


「今日はどこにいくの?」


「兵舎だっていわなかったっけ? 大国主と安曇から呼ばれてる。大神事を取りやめるにはどうすればいいかって――」


「大神事をやめられるの?」


「やめればいい」


「――それで、出雲は大丈夫?」


「そうしなければ、おれにはいずれ滅んでいく姿が視えている――さあ。出雲はもともと戦の国だ。剣と矢に頼ればどうにかなるだろう?」


 高比古の肌はもともと色が白かったが、狭霧が一人で神野くまのにいき、そこで〈形代の契り〉を交わしてからは、血の気が感じられないほど白く澄みきっていって、生きている人に見えない時があるほどだった。


 出掛けに、高比古は、館を出ていこうとした足を止めて戸口にたたずみ、弱々しい声でつぶやいた。


「――おれ、大国主の後継ぎをおりようかな……」


「えっ――」


「……いってみただけだよ。でも、本音をいえば、例え追手がかかっても、おれは、あんたを連れてここから遠ざかりたいんだ。正直なところ、出雲なんかおれにはどうでもいい――そういうふうにしか、思えなくなった。なあ――そんなふうに思っている奴が、いったいどうやって大国主を継いで、この国を守るんだろう……。そんなに軽いものじゃないことはわかっているし、中途半端な気持ちで居座っていいものではないこともわかっている――。いや、そうじゃないな。もう、よくわからないんだ……」


 そういって、高比古は笹の葉を彷彿とさせる目をそっとひそめる。


 高比古は、憔悴していった。


 日に日に顔色は悪くなり、目も、どこを見ているのかわからないふうにうつろになった。


 それでも、「いってくるよ」とぎこちなく笑って、その日も狭霧を残して館を後にした。


 高比古が向かう先は兵舎で、今日そこでは、軍議がおこなわれるらしい。


 そこへ向かうということはすでに聞いて知っているのに、高比古の後ろ姿を見送っていると、狭霧は血の気が引いていく気がした。高比古が消えていく気が――いや、彼が変わっていく気がしてたまらなかった。


 狭霧のもとから遠ざかっていく高比古の背中は不安げで、足取りはおぼつかなく、後ろ姿は、朝のまばゆい日差しに溶けてしまいそうにおぼろげに見えた。


 もともと高比古にあった刃の切っ先のような気配は、すっかり消えてなくなっていた。刃の切っ先どころか、雲や靄や影のような、幻の気配を帯びていた。






 高比古が出かけているあいだに薬倉に出かけると、狭霧はそこで日女に出会った。


 薬倉のある庭には大勢の薬師が務めていたが、二人のあいだにまだ大勢の人の姿があるうちから日女は狭霧を見つけて、目が合うなりむっと顔をしかめた。


 朱で彩られた唇を尖らせて、日女は目に角を立てた。


「この、いきあたりばったりのボケ娘が――。おまえまで……」


 日女がいっているのは、狭霧が〈形代の契り〉を交わしたことについてだ。


「ごめんなさい、でも、どうしてもわたしは――」


 経緯をわかってほしくて、狭霧は、日女のもとに歩み寄った。


 近づいて話をしようとするものの、日女は狭霧の口をひらかせる隙を与えなかった。狭霧が話しかけるより先に小さな頬をぶすっと膨らませて、文句をいった。


「最後に私の前に立ちはだかったのは、やっぱりおまえだったじゃないか。いっただろう? おまえの血は王者を誘うんだ」


 日女の視線は鋭い棘のようで狭霧には痛かったし、責め文句も、耳にすると胸がぴりっとした痛みを思い出す。


 でも、ふしぎと狭霧は平気だった。罵られても素直に聞き入れることができたし、むしろ、日女から責められるとほっとした。


「ほうら。私が心配していたとおりになった。なあにが、自分は違うだの、人柱を使うなんて祟りか呪いみたいだの、さも自分はやらないみたいなことをいっておいて――」


「うん、ごめん――」


「ごめんで済むもんか。高比古様に捧げた私の二年を返せ!」


 日女はついと横顔を向けて、そのまますたすたと歩き出す。


 日女の足が向かった先は薬倉の奥で、そこには、薬倉をぐるりと囲む石垣が並んでいる。周りを囲む桃林の影が落ちたその岩垣は、腰かけにちょうどいい高さだった。滑らかな岩棚の上に腰を下ろすと、日女は裳の下で脚を組み、腿の上に頬杖をつく。


 狭霧が隣に腰かけるのを待って、日女は文句の続きをいった。


「まったく――おまえ一人の命でおさまりきらないほどの混乱が起きればいいんだ。そうすれば、次は私の出番になる――いや、私の前には、まだあの宗像の小娘がいるのか……」


 男のようにちっと舌打ちをして、日女は人差し指でいらいらと白い顎を掻いた。


「高比古様の魂との近さを考えるなら、順番は一番目がおまえ、二番目があの宗像の巫女、三番目が私か。落ちたものだな……忌々しい。死んだ後の順序を決めるものがこの世の順序とは、ねじれている。おかしい、不都合だ。この世とあの世は別物だというのに――。ああっ、もう! 三人の女の命が必要なほど、出雲が窮地に陥ればいいんだ。できることなら、腕によりをかけて災いを呼んでやるのに――くそ」


 日女は怒っていた。でも、狭霧はこういう日女に慣れていた。出会うたびに日女はこうして狭霧を罵ったし、親しみやすい態度をとることももともとなかった。日女の接し方は、狭霧が〈形代の契り〉を交わす前も後もそう変わりなかったのだ。


 そういえば――と狭霧は思った。日女は、心依姫に対しても前から態度を変えなかった。心依姫が形代になった後、日女は激怒して心依姫を馬鹿にしたが、思い返してみれば、神野で初めて会った時から同じように心依姫をけなしていた。


 狭霧に、やるせない微笑みがこみ上げた。奇妙な清涼さがすうっと身体の芯に染み込んでいく気分だった。


(変わらないっていうことは、優しいかもしれない。変わるっていうことは、悲しいかもしれない――)


 狭霧の目の裏に、心依姫の冷笑が蘇った。悲しい――そう思うと、狭霧は幻をかき消すように小さく首を横に振った。


(心依姫をあんなふうに変えちゃったのは、わたしだ……)


 黙り込んだ狭霧を気遣うことなく、日女は小言を続けた。


「だいたい、おまえもあの姫も、ころころと気を変えすぎなんだ。おまえはかつて、形代にこだわった私を奇妙な目で見ていただろう? そのくせ、今は手のひら返しやがって――! かつての私と、今の私に謝れ。おまえに手柄を奪われて意気消沈する、これからの私にもだ。謝れ!」


「――ごめんなさい」


「そうだそうだ。悔んで、せめて私に申し訳ないと思って死んでいけ。ふん」


 不機嫌に鼻を鳴らして、日女は狭霧を責め続ける。狭霧は、微笑んだ。


「でも――悪いけれど、死ぬ気はないのよ。大神事で人柱になっても、生き残るつもりでいるし……」


「はっ! まぁた、頭がおめでたいことだな? 今はそう思っているかもしれないが、おまえはどうせころころと気を変えるんだ。大神事の最中にはやっぱり逃げられないと思って、おまえはそこで命を落とすよ」


「そうかもしれないね――でも、本当に死ぬ気はないの。わたしは高比古と生きたいから。高比古はわかってくれないけれど――ううん、わかってくれないわけじゃない。とても難しいことをさせてしまっているというか……。本当に、どうしよう――」


 狭霧が大きく肩を落とすと、日女はそれを馬鹿にする。


「それは、高比古様がまともだからだ。おまえは、大神事のことも御津の女神のこともよく知らないから、簡単に考えすぎているだけだ」


「でも――御津の女神に捕まえられそうになったことがあるけれど、逃げられたよ? 逃げられるっていうことはもう知っているもの。だから平気。わたしは高比古と生きたいもの」


「同じことをいって、おまえの母親は死んだわけだが?」


 日女はちくりといって、狭霧へ鋭い目配せを送った。


「いっておくが、高比古様がおこなう大神事は、須佐乃男の代に櫛奈田がおこなったものと比べても大きいものになるぞ? 大神事をおこなわなかった大国主を守るために、出雲を襲った呪いを急きょその身に引き受けた須勢理様のものとは比べ物にならない。――高比古様が受けた先視を覚えているか? 『この先千年のあいだ出雲を守る巫王になる』、だ。つまり、ひらかれるのは、この先千年に渡って出雲を守る大神事。おまえは、神事のなんたるかすらわかっていまい? 巫女のする神事というのは、暴れ水を操るようなものだ。なにもかもを押し流す暴れ水の中で最後まで立っている力がないと、神事を司ることはできないのだ。大神事では、生と死、水と陸にあるすべての精霊、それから、人と地霊、火、風――出雲にあるすべてのものがまじわり、ひとつの混沌になる。その混沌の渦の中でも、高比古様なら最後まで正気を保って祭主を務めることもできようが、おまえごときでは、最後まで正気を保つことはおろか、命を差し出すのが精一杯だろうよ」


「水――? 神威っていうのは、暴れ水なの?」


「例えるならだ。同じように例えるなら、高比古様がひらく大神事は、大高波を操るようなものになる。事代の霊威にも巫女の神威にも慣れていないおまえが、そんな高波をかぶって自力で立っていられると思うか? 無理だ、無理。すぐに気を失って、いいように魂を喰われるよ」


「魂を喰われる? そういうものなの?」


「喰われると思うかそうでないかは人によるが、私は喰われると思っている。別々の身体をもつものが混じるには、喰われてそいつの腹なりなにかなりの中に入るからだろう」


「あなたがいうならそうかもしれないね。でも――それでも、平気だと思うの」


「その自信はどこから来るんだ? 須勢理様もだが、私には、なんの修練もしていない者が、知らないからこその軽口をいっているとしか聞こえないんだが」


「そうかもしれないけれど――でも、うん……わたしは大丈夫」


 折れようとしない狭霧に日女は呆れて、やれやれと息をした。


「好きにしろ。どうせ、私にはもう関わりのない話だ。あぁあ、おまえとあの小娘のせいで私は用済みだ。女童めわらわの頃から〈みこと〉の形代になることを夢見て修練を積んできたのに――私の十年を返せ」


「――ごめんなさい」


「ふん」


 純白の袖に包まれた細腕を頭の後ろに組んで、日女は、ゆっくりと後ろに倒れていく。


 腕枕をつくって岩の上に寝転ぶ日女の顔は、ふてくされていた。小さな顔に浮かぶ不機嫌な表情を目で追って、狭霧は話しかけた。


「ねえ、訊いてもいい?」


「訊くだけならおまえの勝手だ。いちいち私に訊かずとも、好きにすればいいだろう」


「そうだけど……。ねえ、あなたはどうして形代になりたかったの? そのために十年も費やしたっていうことは、最後に命を落とすために長いあいだ修練を続けてきたっていうことでしょう? なんていうか……終わるために生きてきたの?」


 狭霧が口にしたのは、胸に浮かんだ素朴な疑問だった。


 尋ねられると、日女は半分閉じていたまぶたを億劫そうにあけて、見上げた。


「おまえは、なにかをする時にいちいち理由を突き詰めるのか?」


「え?」


「そんなに理由が大事か? 私は巫女だ。巫女になったからには、出雲の巫女として最上を極めたいと思う。それが不思議か? おまえは違うのか? おまえは王の血筋に生まれたから、武王の軍についていったりまつりごとの真似事をしたり、その血を極めているんだろうが? 今も、高比古様の妻として最上を極めたいと思ったんだろう?」


「最上を極める? そんなふうに思ったことはないけれど――うん、まあ……そうなのかな」


 狭霧は、言葉を濁した。


「それって、里に生まれた人が畑の世話を極めたり、漁師の里に生まれた人が漁を極めたりするのと同じなのかな」


「それっぽくやっていれば、ふつうそうなるだろう? ほかにどうする?」


「でも――巫女にとっては、形代になることが最上なの? 大巫女になることじゃないの?」


 狭霧が首を傾げると、日女は、おえっと胃の腑の中のものを吐くような仕草をした。


「大巫女? あんなものは飾りだ。どれだけ偉そうに人をこき使っていようが、人の上に立って人を支配したがるなど、大巫女になりたがるような女は、人の業を捨てきれぬもっとも人間臭い巫女だ。最上の巫女は、女神に混じって内側から荒神を鎮める形代だ。それがわからない奴は、形だけの巫女だ」


「そうなんだ……」


「形代に選ばれることこそが、最上の巫女の証。自分が選ばれたことを私は誇りに思っている。おまえと宗像の小娘のせいで、その誇りは無に帰したがな」


「それは――割り込んじゃってごめんね。本当に、あなたに任せればよかったね……」


 狭霧がぼんやりとうつむくと、日女はがばっと身を起こして唇を大きくひらいた。


「今さら……おまえは馬鹿か! だから、私に任せろとはじめからいっていただろう! そうしていたら、誰も彼もが幸せだった。私は女神に混じれて幸せ、高比古様はおまえと生きられて幸せ、出雲はうまく守られて幸せ。それを、あの宗像の小娘がめちゃくちゃにしたんだ。あの、考えなしのいきあたりばったりが――!」


 わなわなと指を震わせつつ、日女は「あああっ、くそ女!」と唸る。


 日女を見ていると、狭霧には苦笑がこみ上げた。


 日女は怒りたい時に怒り、罵りたい時に罵る。しかも、態度や考え方は、出会った頃からほとんどぶれていない。そのせいか――狭霧は日女から罵られても平気だったし、むしろ、妙に爽快だった。


「本当に、ごめんね」


「謝って済むか。死に際には、私の十年に敬意を払ってから逝け」


「わたしは大神事で人柱になっても、終わる気はないの。だから、それはできないの」


「頭がおめでたいやつだな。それは無理だといっているだろう?」


「でも、わたしも絶対に死なない気でいるの。あなたには伝わらないかもしれないけれど、死なない自信があるの」


「ああ、伝わらないね。私は大神事でなにが起こるかがわかっているから、おまえは混沌の渦に巻かれて、女神のもくろみ通りに命を落とすと思うよ。私と同じく、高比古様も信じないだろう」


「うん――」


 狭霧は、ふうと息を吐いた。


「あなたに相談したかったの。どうすれば高比古に伝わるかなあって。今のままじゃ、高比古は大神事をおこなわないかもしれない。でも、大神事をおこなわないっていうことは、高比古にとっては出雲の滅びを願うっていうことになるの。うまくいえないけれど……大神事をおこなえば、高比古はわたしを犠牲にする覚悟をするっていうことで、大神事をおこなわなかったら、出雲の滅びを覚悟するっていうことになるの。どうしようもないことを選ばせることになっちゃったの……。わたしも、どうするのがいいのかもうわからない。高比古、苦しんでる……」


「おまえが余計なことをするからだろう? 宗像の姫に人柱の座を譲っておけば、すくなくとも高比古様は苦しまなかった」


 日女は、鼻で笑った。


「初めて出会った時から、私は、高比古様が次の〈命〉だと気づいた。武人に剣を操る強靭な身体が必要なように、事代や巫女には、目に視えず耳に聴こえないもの――つまり、人の決まりが通用しないものとまじわっても己を崩さずに堪えることのできる強靭な心が要る。高比古様にはそれが備わっていて、しかも、私がこれまで出会った誰よりそれが強かった」 


 日女は慎重な面持ちをつくって一度唇を閉じ、おもむろに息を吸った。


「兵の夢が武人の才に恵まれた大国主であるように、あの方は、巫女と事代の希望だ。あの方は、大神事をひらくべきとわかっているはずだ。おまえにはわからないだろうが――」


 日女は小さな顎を上げていき、自分の頬に木漏れ日を落とす頭上の枝葉を見上げた。


 薬倉の周囲には、桃の木の林があった。青々と茂る桃の葉は、杵築の宮を通り抜けるそよ風に吹かれて重みのある堅い葉をゆったりと揺らしている。耳を澄ませば、かさりと鳴る葉擦れの音の向こうに、小鳥の鳴き声が重なって聴こえている。薬倉に努める薬師たちの話し声や足音、遠くに建つ鳥小屋で飼われている鳥の声や、馬屋から時おり聞こえる馬のいななき――。


 日女は天を向いて目を閉じ、長い息をはいた。


「出雲の大地に棲む精霊たちが、大神事の始まりを待っている。自分たちもともに出雲を救うのだと、高比古様に呼ばれる時を待っている。御津にひそむ地霊も――。次の〈命〉は高比古様だと、出雲の地霊は決めている。たとえ高比古様が出雲を去ってどこに逃げようが、地面があれば、あれはどこまでも追っていくはずだ。そうなった後のことも、高比古様はわかっているだろうよ。そのうえで、迷っていらっしゃるのだろう。……本当におまえは、余計なことをしたよ。いずれ失うとわかっているのに、人の世の幸福を櫛奈田に見せた須佐乃男と同じ真似を、おまえは高比古様にしたんだ」


 そこまでいうと、日女は狭霧と目を合わせて真顔をした。それから、赤い唇を丁寧に動かした。


「高比古様を、潰すな。困ったことがあれば私を頼れ。助力するから」


「うん――」


 狭霧は、笑顔を歪めてうなずいた。


 巫女として高比古を想う日女の心が視えた気がして嬉しかったし、今はそれが、この上なくありがたかった。






 杵築の雲宮は、日に日に慌ただしくなっていく。


 日女と話をした翌朝、館の前の大路がいつもより賑わっていたので、高比古を送り出す支度をしながら、なにがあるのかと狭霧は尋ねた。


 答えた高比古の顔は、青ざめていた。


「昨日、彦名様が着いたんだ。意宇の館衆も一緒に着いたから――」


「それで、人が大勢いるんだ」


「十日後には神野の大巫女も来ると聞いた。大神事をひらくかひらかないかの最後の寄り合いをするとか」


 高比古の表情は暗かった。しかも、目は狭霧を見ない。仕草や手つきは妙におどおどとしていて、いつもの彼とは違った。青白い頬はひきつっていて、唇はなにかをいいたげにすこし開いたまま閉じなかった。


 狭霧は、心配になって眉根をひそめた。


「あの……平気――?」


「――胸が苦しい。まぶたもなんだか重いし」


「……調子が悪いの? 無理をしないで休んだら――」


「理由はわかっているんだ。しばらく、迷っていたせいだ。彦名様に会ったら、大神事をやめたい、おれはできないといおうと思うが、どうしようかと……」


「あのね、高比古、わたしは……」


 大神事をやめるのは、高比古にとっては出雲を滅ぼす覚悟をするのと同じだ。そんなことをさせるわけにはいかないと、狭霧は「大丈夫だよ」と伝えようとした。 


「昨日、日女に会ってね、大神事について少し教えてもらったの。でも、話を聞けば聞くほど、やっぱり大丈夫な気がするの。たぶんだけど、高比古や日女が先視をするみたいに、わたしも先視みたいなものを感じているの。わたしはずっと生きていく気でいるし、そうなると信じているの。だからね……」


 館を出ていく高比古のために衣を整えようと、狭霧は彼の背後にいた。


 衣のしわをのばしたり、腰に玉剣を佩かせたりと、妻らしくせっせと手仕事に励んでいたが、ふと視線を感じて顔をあげる。見れば、高比古が振りかえっていた。


 高比古はぎこちなく笑っていた。妙に薄気味の悪い笑みで、暗い顔をして塞ぎ込んでいる時より、よほど狭霧は不安になった。


「高比古……平気?」


「――たぶん」


 不安げな薄笑いを浮かべて、高比古は狭霧の背中に手を回し、自分の胸元に引き寄せる。


「高比古――?」


 狭霧を抱く高比古の腕は、引くと簡単に揺れるほど力が通っていなかった。心配になって呼びかけると、狭霧の耳元で、高比古の声が震えた。


「ずっと、考えていた。大神事をひらくべきか、やめるべきか……。ひらかなかったら、どうするべきか。どうすれば、あんたを守れるのか――」


 ひくりと喉を鳴らすと、高比古はかすれ声を出した。


「――狭霧。大和へ、嫁ぐか」


 狭霧は、素っ頓狂な声をあげて高比古の顔を見上げた。


「――え?」


 狭霧の頭上で、高比古は微笑んだ。目は、遠い先の狭霧の幸せを喜ぶように穏やかだった。でも、その笑顔はしだいに歪んでいく。


「おれに殺されるより、大和に嫁いで生き残ったほうが、あんたにとってはいいんじゃないのか。あんたが大和にいけば、邇々芸は満足する。あんたならそいつを説き伏せるだろうし、出雲と大和の仲は繋がっていく。そうすれば――おれと……おれといて、おれに殺されるより……」


 高比古の声は震えていた。目のふちに涙の粒が浮かび、白い頬にしたたり落ちようと、じわりじわりと膨れていく。顔を隠すようにうつむいて狭霧の髪に額をつけると、高比古は吐息を震わせた。


「――おれを消してくれ。もう、いやだ――」


 たちまち、狭霧の胸が軋んだ。とんでもなく酷い言葉をいわせてしまった――と。


 火柱が噴きあがるように唐突にこみ上げた苦しさのせいで、身体が芯まで燃えて、一気に焼け落ちた錯覚すらした。


 はじめて狭霧は、高比古に黙って〈形代の契り〉を結んだことを悔んだ。


 たとえ心依姫の未来を守るためであれ、絶対の自信があるといえ、高比古をここまで追い詰めることだったと、ようやく気づいた。


 狭霧を形代にした大神事をひらくことは、高比古にとっては狭霧を殺すのと同じことだ。


 避けたいが、ただ嫌だからと避けることは彼には難しい。特別な目や耳をもち、祭主として土地神から選ばれた高比古は、大神事が相応に意味のあることだということを理解している。


 そのうえ、高比古は、出雲王の座を継いでいく若者。出雲を守っていくことは、彼に託された大切な役目だった。


 狭霧も出雲も、どちらも守るにはどうすればいいのか――。


 考え抜いた高比古は、自分の身を切るべきだという結論を出したのだ。


 自分が妻を失うことを望んで、説得役を務めれば、大神事をおこなう理由となったそもそもの災い、出雲と大和の不和をなくすことができるのだから――。


 狭霧は、気が触れたように夢中で高比古の背中を抱きしめた。


「ごめん――わたしが、馬鹿だった。ごめん、高比古、ごめん……!」


 めちゃくちゃに殴って欲しい気分だった。力なく狭霧を包む高比古の背中を精一杯抱きしめて、狭霧は泣きじゃくった。


 静かに声を震わせながら、高比古は何度も繰り返しつぶやいた。


「狭霧……あんたを、守りたいんだ。守りたくて――」


「ごめん、ごめん――!」


 狭霧は、高比古の背中を抱きしめ続けた。


 胸では、泣き喚くように神事をおこなってしまった過去を呪った。


(幸せにしたい人をこんなに泣かせて、苦しませて。わたしは、なんて馬鹿なことをしたんだろう。戻りたい――)


 でも、脳裏には大巫女の声が蘇える。




『我らの神事は時と同じで、やり直しはきかない。そなた以上に高比古が求める娘が、大神事までの間に現れない限り、今後、何があっても贄はそなただ。よいのか?』




 時と同じで、やり直しがきかない――。


 過ぎ去っていくだけの時を、こんなに恨んだのは生まれて初めてのことだった。


 それに、母のことも想った。狭霧は今、母、須勢理と同じ道を歩もうとしている。同じ道を通っていった母の苦しみを想わずにはいられなかった。


(かあさまは、つらかったろうな。あんなにとうさまが泣いていたら――)


 母がこの世を去った晩、狭霧は父が泣き叫ぶ声を聞いた。死ぬなと懇願する父の涙声も。


 母の最期の言葉を、狭霧はよく覚えていた。それは、別れを悲しむ父を慰めるものだった。




『穴持、愛してるわ。あなたと生きて、たのしかった』




(そうだね、かあさま。別れるのは、悲しいよね。いとしい人を残していくっていうのは、つらいことなんだ。――でも、絶対にわたしはそうさせないから)


 こみ上げる涙と嗚咽を飲みこみながら、狭霧は、高比古を抱きしめて叫ぶようにいった。


「本当に平気なの。お願い、信じて――。必ず高比古のところに帰ってくるから」


 高比古も、首を横に振った。


「どうやっておれがそれを信じる? それに、いずれあんたを取り返す気でいたら、どうやって大神事を終えられる? ――おれにはできない。出雲とあんたを守るには、その方法ではだめだ。――むりだ」


 




 その日の晩も、お互いをそばにつなぎとめるように、狭霧と高比古はしっかりと寄り添って眠った。


 高比古の身に異変が起きたのは、翌朝のことだった。


 ぎりぎりまでそばにいたくて、狭霧は、夜中に目を覚ますたびに高比古の胴に腕をくるませた。その甲斐あって、ひと晩が経っても、狭霧と高比古は糸が絡まるようにしがみつき合ったまま寝転んでいた。


 二人しかそばにいない夜は静かで、幸せだった。でも、平穏な夜はいつか明けて、次の朝がやって来る。


 ちち……という鳥の声と、小窓の隙間から差し込む朝の光。朝の到来を伝える光やさえずりが、狭霧は恨めしくてたまらなかった。


(もう朝か。また始まるんだ――)


 今日という日が始まって、周りにいる人たちや出雲のこと、これからのこと、さまざまな厄介ごとを考えなければいけないと思うと、気が滅入った。


 しかし――。はっとまどろみから覚めると、狭霧は目をしばたかせた。隣で寝転ぶ高比古の様子が、いつもと違っていたからだ。


「高比古……?」


 高比古は、狭霧より先に目を覚ましていた。寝転んではいるが目をあけていて、茫然と宙を見つめている。


 でも、表情がおかしかった。狭霧の腕枕をするのに横に置いた腕も指も、凍りついたように固まっていた。


「どうしたの、高比古。なにかあった?」


 声をかけても、返事はかえらなかった。


 呼びかけても反応がないので、高比古の頬を包み込もうと手を伸ばすと、ようやく高比古の顔が狭霧のほうを向いた。でも――目が合うことはない。狭霧を探そうと高比古は首を動かしているが、彼の目が狭霧を見つめることはなかった。


 高比古は、何度か唇を震わせた。声を出そうとして唇は動くのだが、口から洩れるのは「あ……」とか「う……」とかの、うめき声だけ。


 狭霧は、がばっと身を起こす。そして、真上から高比古の顔を見下ろした。


「高比古? 高比古――! 喉が痛いの? 目、見えてる? わたしだよ。見えてる?」


 慌てて喋りかけても、反応はない。


「わたしの声、聞こえてる? 耳が聞こえないの?」


 いったい、なぜこんなことになってしまったのか。


 狭霧は、愕然とした。


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