神野 (3)


「日女がいっていたんですが、心依姫は、ここで〈形代の契り〉を――」


「したよ。あの姫、たっての願いだった」


「――お願いです、それを、なかったことにしてください。この前会った時、心依姫は少しおかしかったんです。おかしいっていうか、いつもの心依姫じゃなかった。一年前の心依姫だったら、そんなことを願わなかったと思うんです。命を落とすかもしれない役をになうのを、たった一年の心変わりで決めるなんて、おかしいです」


 真正面から見つめる狭霧に、大巫女は細い肩をすくめて見せた。


「たった一年で? なぜ」


「なぜって――」


「時の長い短いに、なんの意味があろうか。ある者にとっては、百年のように長く感じる一年もあるだろうし、一年に感じる一日もあるだろう。逆に、一日と感じる一年もあろう。あの姫の一年は、百年と感じる一年だったのかもしれないよ?」


「そうですが、でも……。心依姫が〈形代の契り〉を交わさなければ、大神事で人柱になるのは日女だったんですよね? 日女はずっと前からそれを望んでいましたが、心依姫は、心を乱して望んだだけかもしれないんです。お願いです、任を解いてあげてください」


「無理だ。我らのおこなう神事は時と同じ。進むことはできても、戻ることはできない」


「でも――じゃあ、大神事をおこなうのをやめてください。もしくは、人柱を必要としない大神事にしてください」


 大巫女は目を細めて、いかにも可笑しいとばかりに手のひらで腹を抱えた。


「そなたは、面白いことをいうね。人柱を捧げるのには、わけがあるのだよ? 大神事を終わらせるために必要な贄だからだ。その贄なしに、どうやって高比古が出雲を守ろう?」


「高比古は事代です。事代は周りにあるものを利用して術をおこなうから、贄を使わないんだって、前に高比古から聞きました。贄を使うのは巫女だけだと――」


「ああ、そうだ。そして、大神事は本来巫女がおこなうものだ。事代としての高比古がおこなうのではなく、男の巫女、つまり、巫覡ふげきとしての高比古がおこなうものだ」


「でも、高比古は事代で、巫覡ではありません」


「それは――」


「それに、本来は巫女がおこなうものなら、どうして今回は高比古がおこなうんですか。ずっと不思議だと思っていました。どうして、急に高比古が大神事をおこなうことに決まったのかって――」


「急では、ないのだよ」


 大巫女の顔から、笑顔が消えていった。大巫女は白い顎を下げてうつむき、朱色の裳で包まれた腿の上に手のひらを戻した。


「母神は、二年前からすでにあの子を次の〈みこと〉と決めていたし、大神事をひらくべきとも、その頃から私に伝えていた。あの子にも伝えたはずだよ。『御津を探せ』とな」


「それは……」


 狭霧は、唇を閉じた。


 たしかに高比古は、かなり前から御津を探すようにいわれていた。でも、「いやなことが起きそうな気がする」と、高比古は〈御津〉から遠ざかろうとしていて、最近になってようやく重い腰をあげたのだ。




『そなたの夫は……いまに必ず事代主ことしろぬしとなる。巫王の呼び名として、事代主の名を大八嶋おおやしまに知らしめるだろう。大国主おおくにぬしという呼び名が、武王の意味をもって知れ渡ったようにね』


『その決め手となる場所は、御津』




 しかも、高比古にそれを告げたのは、神野の巫女だけではなかった。


 阿多に出かけた折、隼人の聖地、笠沙の大巫女からも、高比古はほとんど同じ託宣を得ている。はるか遠く離れた地で同じ託宣を告げられるなんて――と、その時、狭霧は背筋が凍るような思いを味わったのだ。


「『御津を探せ』という母神の声を聞いたものの、神野に、御津というものがいったいなにかを知っている者はいなかった。つまり、高比古が初めて御津に呼ばれたのだ。高比古が見つけた御津とは、生と死の世をつなぐ水辺――つまり、死の世に続く穴であり、この世で母神とつながる唯一の場所だった。そこへ高比古は呼ばれて、母神に触れた。高比古は事代だが、そこで巫覡にもなったのだよ。高比古は、母神を祭る巫女と同じになったのだ」


「――巫覡に? そうなんですか? わたしには、事代と巫覡の違いもよくわかりませんが――でも、どうして高比古なんですか」


「それは、母神が未来を読むからだ」


「未来を読む?」


「母神が危惧しているのは、出雲が出雲でなくなる日のことだ。出雲を守るため、高比古を夫にすることに決めた」


「出雲を守るために、高比古を……?」


「母神は出雲そのもので、みずからをもっとも強く守る男を〈命〉にして、共に手を携えて、みずからと、みずからの土地に住まうすべての子らを守る。出雲には、人が守るべき〈力の掟〉があるが、母神にもそれがあり、しかも、人よりよほど粛然とその掟は守られているのだ。遠い先に渡ってもっとも出雲を守ることができる男だけが、〈命〉に選ばれる」


「共に手を携えて、子らを守る……。なんだか、大神事って婚儀みたいです」


「うまいこというね。その通り。大神事は婚儀だよ。母神と〈命〉の、聖なる婚儀だ」


 そこまで話が進むと、狭霧は眉をひそめてつむじを曲げた。


「――やっぱり、いやです。納得いきません。だって、高比古は〈命〉になりたいと思っていないと思います。とうさまも、そんなものになりたくなかったから、母神の存在を認めようとしなかったはずです。母神は、ずるいです。勝手に相手を決めて、婚儀を押しつけているだけじゃないですか。しかも、その婚儀には人柱が必要だなんて……そんなことを勝手に決められて、高比古がいやがるのも無理ないです」


 大巫女は口元を指先で押さえて、くく、ふふっと声を上げて笑った。


「母神はずるい、か。しかし、母神とは出雲の土地神なのだよ? その土地神をそこらの女のように扱うとは、そなたは本当に面白い子だね」


「どうして笑うんですか? 当たり前のことをいったんです」


 大巫女は、狭霧を相手にしなかった。


 真剣に訴えているのに、話を聞くそぶりも見せずに拒まれると、狭霧の心はよけいに静かになっていく。


 狭霧はふうっと息を吐いた。それから、きゅっと唇を結んで姿勢を正すと、真正面に座る大巫女を見据えた。


「わかりました。では、わたしにも〈形代の契り〉をさせてください。わたしが、その大神事の人柱になります」


 大巫女はおや、と片眉を上げ、神妙に黙る狭霧の真顔を覗きこんだ。それから、満面の笑みをたたえた。


「ほうら、やはりこうなった。喜んで、そなたに形代の神事をおこなおう。そなたを欲しいと、我らが母神は御所望だ。男王になる男が一番愛する娘――高比古にとってのそなたが形代になれば、母神は誰が人柱になるよりも満足して、今後、出雲は強く守られる。そなたを守りたがっていた須佐乃男には悪いが、あいつは諦めがうまい男だ。仕方ないと、納得するだろう」


「いいえ、申し訳ありませんが、あなたがいうように母神に混じる気はないんです」


 薄暗い部屋の中で、大巫女の目がついと狭霧を向いた。


「母神に混じる気はない?」


「はい。母神って、御津の奥にいた黒い水のことですよね? あそこに引きずり込まれた時、たしかに怖くて、もう逃げられないと思ったんです。でも、逃げられた。だから、強く願えば、次も逃げられると思うんです。やりたくないことなら、拒めばいいと思います。おかしいと思うことなら、立ち向かえばいいと思います。わたしは、心依姫を人柱にしたくないんです。だから、わたしがそこにいく役を代わって、そこで、拒みます」


「拒んでどうするんだい? 贄の人柱が命を捧げなければ、大神事は進みようがないよ」


「はい。正直、大神事なんかひらかなくてもいいと思っています。でも、必要なんですよね?」


「次にひらかれる大神事は、この先千年に渡って出雲を守るものだ。避けることはできない」


「――高比古も、ひらくべきだといっていました。だから、ひらくなとはいいません。でも、ただ土地神が決めたからといって、いわれるままに人柱の娘を捧げるのは、納得がいきません。わたしがそれになって、そこで母神に尋ねます」


「尋ねて、どうするんだい? そなたがわけを知る時には、そなたは命を落として母神に混じっているよ?」


「――それは、いやです。拒みます」


「拒めないと思うよ。死の力は強い」


「でも、わたしはいやです。信じたり願ったりすれば、何もない場所にも新しいものが生まれることがあります。逆に、信じなければ、幻にできるはずです。その時が来ても、わたしは信じません」


「――伝え聞いたが……大和の国の霊威というのは、まやかしをつくる技らしいね。我々の技が、そういうものと同じと考えているのかい? 残念ながら、それは違うよ。出雲の女神を介する神事は、代償を必要とする。だから、たとえもとが霧や光や、手ごたえがないものでも、神威として働く時には、代償の贄として捧げられた魂や血、時や髪など、必ず何かが混ざって仕上がる。その点でいえば、母神が関わる神威はただの幻ではないのだよ?」


 大巫女のまばたきをしない目から、狭霧は目を逸らさなかった。


 大巫女は朱の化粧で彩られた唇に笑みをこぼして、腿の上に置いていた手を動かし、少し離れた場所にあった白の皿や、玉の入った器を手元に引き寄せはじめた。


「まあいい。母神はそなたをご所望だ。――最後にいっておくが、我らの神事は時と同じで、やり直しはきかない。そなた以上に高比古が求める娘が大神事までのあいだに現れない限り、今後、何があっても贄はそなただ。よいのか?」


「はい。わたしは大神事を信じませんから、跳ねのけてみせます」


「母親と同じことをいうんだね。――だが、結果も、母親と同じだと思うよ? そなたは、死の力を拒みきれまい」


 大巫女は、憐れむように目を細めた。


 しかし、すぐに手を動かし、〈形代の契り〉をおこなう支度を進めた。






(あっ――)


 薄暗い部屋で神事をおこなっているうちに、狭霧は、驚いた。


 遠く離れた場所にいるはずの高比古が、とても近くなった気がした。呼びかければ声が返ってきそうで、これまでとまるで違うふうに彼を感じる感覚が怖くなるほどだった。


 だから、焦った。


(わたしがわかるくらいだから、高比古もわかるだろうな。わたしが〈形代の契り〉を済ませたこと、ばれちゃったかな――)


 できるものなら、大神事の間際まで内緒にしておこうと思ったが、そうもいかないようだった。


 大巫女のもとで神事を済ませて、意宇から迎えに来ていた武人たちと一緒に都へ戻りながら、狭霧は、高比古を説得する言葉を考えた。


(ちゃんと話せば、わかってくれるわよ。だって、わたしはそんなものでは絶対に死なない気がするもの。大神事を信じていないせいかな)


 夜道の早駆けは危ないと、一行は、人が歩く速さでゆっくりと進んでいた。狭霧の馬も、意宇からやってきた馬番に手綱をひかれることになったので、狭霧は手綱を操る必要がなく、ただ鞍にまたがっていればよかった。


 のんびりとした蹄の音と、人の足が道の砂じゃりを踏む乾いた音が、夜空のもとに響いていた。


 意宇へ続く道の両隣には田が広がり、初夏前の稲が青々と茂っていた。その青さがわかるほど月は明るく、田と田のあいだを流れてさやと音を立てる水路の水は、月の光をきらきらと跳ね返していた。


 天を見上げれば、月が真上に来ていた。月は、澄んだ光で煌々と大地を照らしている。周りの星々の光を隠してしまうほど、その晩の月は明るかった。


(高比古、まだ起きてるよね。同じ月の下にいるかな。――それにしても、〈形代の契り〉っていうのを済ませても、高比古の心は見えないんだな。こういう特別なことををしても、何もいわなくてもわかりあえるようにはならないんだ。伝え合うためには、言葉が要るんだ。……高比古、怒るかなあ)


 ゆっくりと上下する馬のたてがみをぼんやりと眺めつつ、夜の野道で、狭霧はため息をついた。






 意宇の宮に着いたのは、真夜中だった。


 館に着いてすぐに狭霧は寝床に入ったが、早朝から夕刻まで、杵築から神野までの道のりを早駆けで走り抜いたせいで身体は疲れていて、寝床に横になると、考え事を終えることもなくすぐに寝入った。


 夢も見ずに眠って、気づいたら翌昼になっていた。


 狭霧を起こしたのは、高比古の声だった。


「狭霧、いるのか、狭霧……!」


 館の前庭を横切る乱暴な足音と一緒に、高比古の声はどんどん近づいてくる。寝床の中でそれを聞いた狭霧は身体をびくりとさせて、すぐさま身を起こした。


 しだいに大きくなる高比古の声は激昂していて、思わず狭霧が怖くなって身をすくめるほどだった。


 寝床の上から動くこともできずに掛け布を握り締めていると、高比古の足音は館のきざはしにさしかかり、どんどんと音を立ててあがってきて、入口を閉ざす掛け布に手がかけられる。


 勢いよく薦が開け放たれると、暗がりだった部屋には突然日の光が射し込むので、狭霧は目を庇って眉の上に手でひさしをつくった。


 目が眩しさに慣れる前に、光は薄れていった。部屋の中に入ってしまうと、すぐに高比古は薦を閉じてしまった。


 再び部屋に薄暗さが戻った後も、狭霧は、掛け布を握り締めた手から力を抜くことができなかった。同じ部屋に二人きりでいるのが怖くなるほど、高比古が怒っていたからだ。


 高比古を怒らせるだろうということは、彼に黙って神野にいこうと決めた時から覚悟していた。


 でも、まさか、杵築から意宇まで怒鳴りに駆けつけるとは思わなかったし、それに――我を忘れて、ここまで高比古が激怒するとも想像しなかった。


 薦を閉じてしまうと、高比古はその場に立ちつくした。それ以上狭霧に近づくこともなく、部屋の中で寝床から一番遠い場所――館の入口に立ったままで、拳と肩を小刻みに震わせた。


「あんたは……おれをどうしたいんだ?」


「その、ごめん……」


「ごめんで済むかよ?」


 高比古は、声も震えていた。


 そのまま力なく膝を折り、高比古はその場にしゃがみこんだ。そのあいだずっと、怒りで息がままならないというふうに、せわしない息継ぎを続けた。背中を丸めていき、うなだれた額を指で押さえて、高比古は震え声を絞り出すようにつぶやいた。


「……話せよ。聞くから」


 怒りで震える高比古を目にするのも、当然のように理由を訊かれるのも、狭霧には初めてのことだった。


 寝起きのままの姿で掛け布を握り締めながら、狭霧は戸惑いを抑えつつ息を吸って、胸を静めた。


「う、うん――その……やっぱり、わかったよね。わたしが、〈形代の契り〉をしちゃったってこと――」


「――」


「わたしね、神野に、大神事と母神のことを聞きにいっていたの。でも、話を聞けば聞くほど、大神事のことも母神のことも、大巫女様がいうような聖なるものには感じなくなったの。だから、形代になろうと思ったの。大神事のことも母神のことも、どこかがおかしいって思うから、御津でわたしを引きずり込もうとした出雲の母神、かな? あの黒い水がまたわたしのほうに来て、わたしを取り込もうとしても、跳ね除けられると思うの。大神事の人柱になっても、死んでしまうとは思えないの。だから――」


「……大神事はやらない」


「でも――」


「やらなかったら出雲が滅びるとあいつは予言しているが、取りやめる。あいつなしで出雲を守る方法を考える」


「でも――高比古だって大神事をひらくべきだって……。御津の先視は、たぶん真実だって――」


「だからといって、あんたと引き換えに出雲を守る神事を、どうやっておれがおこなうんだ? そんなもの、できるか?」


 高比古は、胃の腑の中身を吐き出すような苦しげな言い方をした。狭霧は、手の中の掛け布をきゅっと握り締めた。


「でも……わたしは、平気だよ? 本当に死なない気がしているの。御津に襲われても、ちゃんと次は拒める気がするし、追い払える気がするの。だって、あの御津、何かおかしいもの。正しいとは思えないから、わたしは信じられない――」


 高比古は、勢いよく顔を上げて狭霧を凝視した。


「おれはどうなるんだ!? 大神事をひらくなら、おれはあいつを信じなきゃだめだろうが? 信じない術を、おれがどうかけられるんだ!? おれは、あんたを殺す気でいなきゃならないだろうが!」


 狭霧の顔から、さっと血の気が引いていった。


「あ……」


 高比古の目が、小刻みにまばたきをした。目まいをなだめるように、高比古は額を押さえて深くうつむいた。


「あんたはおれに、いったいなにをさせる気なんだ? いつか、おれの子を産んでくれるっていったろ? おれをこの世に繋ぎとめるのは、あんただけなんだよ。どうして――。あんたと引き換えに出雲を守る神事をおこなって、その後、おれはいったいどうすればいいんだ? あんたが欲しくて、おれは死ぬ気で大国主に逆らったんだ。策士の位も出雲の王の位も、あんたと代えられるならと一度はなげうった。それなのに、あんたを失ったら、おれにはもう何も残らないじゃないかよ。死んでいるのと同じじゃないか」


 狭霧の目に、じわりと涙が浮かんだ。


「でも……。人柱になっても、わたしはちゃんと帰ってくるから。高比古は、わたしを信じて大神事をひらいて? わたしを信じて――」


「だから、信じない術を、おれがどうかけられるんだ?」


「でも――」


 狭霧は、きゅっと唇に力を込めた。


「でもね、高比古。わたしが〈形代の契り〉をしなかったら、人柱になるのが、心……」


 そこまでつぶやいて、狭霧ははっと言葉を飲み込んだ。目を大きくひらいて、狭霧は、高比古を見つめた。


「高比古、もしかして、知ってた? わたしが高比古の形代になったことがわかったんだもの。もしかして、心依姫が形代になっていたことも、知ってた?」


 高比古は唇を閉じ、しばらく答えなかった。


 目元を手で覆ったまま沈黙を続けた後で、目元を隠していた手のひらをよけていく。ゆっくりと顔をあげていき、高比古の顔が狭霧を向いた。その時の高比古の目は、冬の朝に凍りついた笹の葉を思わせるように、ひどく冷淡だった。


「ああ、気づいていた。御津がおれに見せる先視の中でも、人柱があいつに変わった。御津は、自分のもとに来る女が日女から心依に代わって満足していた。あんたを執拗に追うこともなくなった。だからおれは、大神事を進める手伝いをはじめた」


「御津の先視――? ううん、そうじゃない、そうじゃなくて……」


 狭霧は高比古を見つめて顔を歪め、首を思い切り横に振った。


「心依姫がわたしの代わりに人柱になるとわかったから、大神事の手伝いを始めたの? 心依姫なら人柱になっても……炎に包まれちゃっても、いいの?」


 弱々しい小声で尋ねた狭霧に、高比古はいらいらと答えた。「それがなんだ?」と、高比古の冷たい表情はいいたげだった。


「あいつがそう望んだなら、それでいいだろうが? おれは、あいつを妻とは思えない。この世とは別のところでおれとつながるのがあいつの満足なら、それでいいだろうが? でも、あんたはそうじゃないだろ?」


「でも――高比古、それじゃ、心依姫が……。今はつらい思いをしているだろうけれど、もう何年か経って何かが変わったら、心依姫も幸せになると思うの。人は変わるものだし、考え方も変わるものよ。いつか高比古への気持ちが薄れて、今よりずっと楽しい暮らしができるかもしれない。そういう日が来るかもしれないのに、奪うわけにはいかないよ。わたしは心依姫を止めてあげたかったし、もう少し待ってっていいたかった。――それに、もし、もしもね、万が一、わたしが人柱になって本当に御津に混じることになっても、わたしは、幸せだったから……。高比古と一年一緒にいて、毎日、ずっと幸せだったから――」


 心のどこかにあった弱気な部分を口にすると、狭霧の目の裏には、ふいに心依姫の嘲笑が蘇った。偶然野道で出会ったその時に、その姫がみずからを嘲っていった言葉も、耳が思い出した。


『――狭霧様は、いいですね。兄様と、いつも一緒にいられるのですもの。――兄様は、私を見てくださらない。時折会いに訪れてはくださいますが、私に情けをかけて、言葉少なに慰めて、帰っていかれるだけです。この口惜しさが、寂しさが、おわかりになりますか? ――あのやや子さえいたら、耐えられたのに――』


 その時の心依姫の顔は、死を望んでいる顔だった――それを、狭霧は胸が痛いほど感じた。


 あんなに寂しそうな顔をしたまま、途方もない賭けに出て欲しくなかった。


 その時の心依姫と同じように、生き残る望みをわずかたりとももたずに、そうするべきこととしてそこへいってしまった少年を、狭霧の胸は忘れることができなかったからだ。


(輝矢……)


 大好きな幼馴染だった。本心からの望みではなかったくせに、輝矢が宿命を受け入れたのは、そうすることが彼にとって唯一の逃げ道だったからだ。


 彼は、闇雲に生にしがみつかなかった。無様に生きていく欲望よりも、周りから求められた通りの死に方をするほうを選んだのだ。


 狭霧にとって心依姫の今の姿は、その時の輝矢に重なって仕方なかった。


(だめ、心依姫――。そんな顔をしていたら、本当に死んじゃう。たとえどれだけ生き続ける機会があったとしても、あなたがそんな顔をしていたら、わたし、あなたを救えない――)


 自分の身を投げうつような狭霧を、高比古は罵倒した。


「毎日ずっと、幸せだった? たった一年の幸せが、いったいなんだ! おれに生きる欲をもたせたのは、あんただろうが?」


 ずき、と狭霧の胸が軋んだ。


 高比古にいわれた一言で、狭霧は急に理解した。


(そうか、わたしも輝矢と同じことをしているんだ――。高比古を傷つけてまで……)


 目の縁が泉になったように、熱い涙が湧いた。


 しかし狭霧は、「でも――」と続けたくてたまらなかった。


「でもね、高比古。お願い、信じて。わたしは、そこで死んでしまうつもりはないの。絶対に生きて戻ってくる気でいるし、高比古とずっと暮らしていくつもりでいるの。だから――」


 高比古は身体中に力をほとばしらせて、全身を使って叫んだ。


「だから、それをどうやっておれが信じる! どうしてだ、どうして――」


 怒りに翻弄されて小刻みに息を吐き、額を押さえて、その場にうなだれた。


「……いやだ、逃げたい」


 高比古のため息を耳にすると、狭霧は首を横に振った。目元にこみあげた熱いものは、次から次へと頬に流れ落ちていった。


「だめ、逃げちゃだめ。逃げないっていったじゃない。そんなことは口が裂けてもいわないって――」


「あんたのせいだろうが?」


 高比古は低い声で文句をいった。それから、片膝を引き寄せて膝頭に額を押しつけると、背中を丸めて身体を小さくした。


「――もう、逃げられない。あぁ……」


 そのままの姿勢で、高比古は声を殺して泣いた。




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