神野 (2)
神野の宮は、さらさらと水音を立てる清流のそばに建っていた。
清流は神野の宮へ続く神道に沿って流れているので、川の水音は、ここへ来るまでの間、ずっと一行のそばで響き続けた。
陽が落ちてあたりが薄闇に包まれ始めると、水音はさらに耳につくようになる。昼も夜も絶え間なく響き続ける水音と違って、昼間のあいだは動いていたさまざまなものの音が薄れるせいだ。
神野の宮を囲む背の高い木々が黒い影になり、あたりが暗くなると、さらさらと響き続ける水音はどこから来る音かがわからなくなる。まるで四方から聞こえるようで、道を進むにつれて、狭霧は、目の前や周囲が闇と水音に覆われていく気がした。
炊ぎ舎の外庭で就寝の支度をする巫女の姿があったので、そばに寄って声をかけた。名乗り、大巫女に会いたいと願うと、出くわした若い巫女は目を丸くして、大巫女の居場所、奥の宮へ駆けていった。
「杵築の狭霧様? 大国主の――? は、はい。すぐさま大巫女様にお伝えいたします」
暗がりで待つ狭霧のもとに巫女が戻ってくるのは、早かった。
駆けていった時とは裏腹に、戻って来る時、若い巫女の歩き方はゆっくりだった。狭霧の真正面で歩みを止めると、神託を告げる前触れのような厳かさで、一礼した。
「奥の宮へ報せにまいりましたところ、大巫女様は、あなた様がいらっしゃることをご存じでした」
「――えっ?」
「母神の目が、あなたを向いておられるとのこと――。大巫女様は、奥でお待ちです。こちらへ」
そういって、若い巫女は、狭霧を奥の宮へ案内した。
神木の林の荘厳な霊気に清められたのか、宮を包む闇には、凛とした気配が立ち込めている。大巫女が住まう奥の宮は、そういう場所にあった。
奥の宮の入口には、案内役の別の巫女が待っていた。その巫女の先導で、狭霧は夜の庭を歩いた。
遠い昔に感じる記憶の中の景色と、目の前の景色は同じだった。見覚えのある
巫女の手が、館の入口を閉ざす純白の薦をかきあげる。
「こちらです。どうぞ」
手繰り寄せられた薦の向こう側には、灯かり台に照らされた小さな部屋がある。大巫女は奥にいて、綾織りの敷物の上に正座をしていた。
狭霧が現れると、大巫女はまばたきをせずににこりと笑った。
「やはり、来たね」
(やはり――?)
なぜそんなことをいうのかは、わからなかった。
大巫女の正面まで進むと、膝を折って正座をして、挨拶の礼をする。
「急のお訪ねをお許しください。どうしても、大巫女様とお話をしたくて――」
「そなたが謝ることではない。そなたがここに来るのは、すでに決まっていたことだ」
「すでに決まっていたこと? そうなのですか?」
「――さあ、どうだろう」
「さあって――」
「さあ。そなたのこととなると、先視ができぬという話は前にしただろう? そなたは、母神に守られているからな。――今は、守られると同時に、欲されているようだが――。どれ、色のあるものは身につけておらぬようだな。まあ、今は日女がそなたの身代わりを務めているし、今は、別の身代わりもいるから、そう気張らずともいいかもしれぬが……」
「別の身代わり――それって、もしかして……」
じっと息を飲んだ狭霧の問いに、大巫女は答えなかった。
「実は、そなたの来訪がはっきりとわかったのは、高比古がそなたを探していたからだ」
「高比古が――?」
狭霧は、唇を閉じてうつむいた。
(やっぱり――。思ったより早かった。急いでよかった……)
「意宇の事代たちが、そなたの行方を追っている。そなたを知らぬかとここにも報せが来たので、そなたがここに着いてから、ここにいると伝えておいた」
「わたしがここにいると、教えたんですか?」
「ああ、そうだよ。そうせねば、あの子はどこまでもそなたを探しにいかねばなるまい? 御津の話は日女から聞いたが、そなたの場合は、あそこに入った時のように、どことも知れぬ世と世の狭間に捕らわれる恐れもあるのだからな」
「どことも知れぬ世と世の狭間? それが、御津なんですか?」
「日女がそういっていた。出雲の母神は死を抱き、永遠を司る。あそこは、死の世と生の世の、つながる水辺だと」
「――そうなんですか?」
「御津でなくても、そなたの場合は、敵に浚われるという恐れもある。あの子は、そなたをとても大切に思っているから、そなたの気配を見失えば、あの子は敵陣まで探しにいくだろう。早めに居場所を報せてやるほうがよいだろう?」
「……そうですね、ありがとうございます。わたしも、高比古を心配させたくはありません」
「話が早くて助かるよ。そういうわけで、意宇の事代が、武人の群れを連れてこちらに向かったそうだ」
「――わたしを連れ戻しに、ですか?」
「そうだ。しかし、迎えのことなど気にせずに、存分に長居すればよい。事代と意宇の武人とて、許しなく神野の奥の宮には入ることはできないからな――さて」
大巫女は、鮮やかな朱に彩られた唇を閉じ、じっと狭霧を見つめた。
「用向きはなんだろう? そなたは、私に何を望む?」
「それは――」
狭霧は、言葉を濁して、いったん唇を結んだ。
神野の大巫女に尋ねたいことは、神野にいきたいと思った時から決まっていた。だからこそ、休むことなく馬を駆けさせてやってきたのだ。
しかし――。神野の大巫女は、狭霧が答える前に、胸の内をいい当てようとした。
「わかっているよ。〈形代の契り〉を交わしにきたのだろう?」
「えっ? 違います」
狭霧は、むっと唇を閉じた。しかし、神野の大巫女は土面のような笑顔を崩さない。その笑顔を狭霧に向けて、子供を宥めるように見つめた。
「私は、前にここで会った時にそなたにいっただろう? 私の勘では、そなたはいずれ女神に混じることになるだろうと」
「でも、違います」
狭霧の、正座をした腿の上に置いた手に力がこもった。
「わたしは、あなたに尋ねたかったんです。どうしても、大神事のことが知りたかったから――。人柱を捧げる大神事というのは、なんなのでしょうか。おじいさまの代にもひらかれたと聞きましたが、その神事は、本当に出雲を救うのでしょうか」
「須佐乃男の時の大神事か――私はその時、そこにいたよ」
「本当ですか? その神事を取り仕切ったのはあなたですか?」
「いいや。大神事の祭主は、
「――おばあさま? でも、おばあさまは、その大神事で人柱になったのでは……」
「
「――あなたは、そこで手伝いをなさったのでは――」
「いいや。大神事は祭主の手に委ねられる。つまびらかに知ることができるのも祭主だけだ」
狭霧は、ぽかんと口をあけた。拍子抜けしたのだ。
「そうなのですか? 神野でいちばん力をもつのはあなた――大巫女様だから、てっきり、あなたが次の大神事で何かをなさるのかと――。では、あなたも大神事のことは詳しくご存じないのですか?」
「ああ。次の祭主は高比古だと母神が決めているし、そのことも、必要なことは高比古だけが知ることになろうよ。それと、人柱になる娘が――」
(どうしよう。せっかく来たのに……)
狭霧が神野に来たのは、大巫女なら、大神事のことを何か知っていると思ったからだ。
(ううん、まだだ。知りたいことなら、たくさんある)
堅い印象のある大巫女の笑顔をまっすぐに向いて、狭霧は慎重に尋ねた。
「あの……そもそも、出雲の母神とはいったいなんなのでしょうか。出雲の女神、土地神とも呼ばれていますが、どれも同じものですよね? 話を聞く限り、とても強くて大きなものに感じます。でも――その出雲の母神が、御津で高比古を呼んでいたものなら、わたしは、少し不気味に感じます。あれが、本当に出雲の神様なんですか?」
母神と人柱。その二つは、いまや狭霧にとって不穏と感じる言葉になっていた。
大巫女はくっと吹き出して、口角のあがった唇の縁を白い指でついと押さえた。
「そなた――神というものを、どう考えているのだ?」
「神様、ですか――?」
「神とは、清らかで、人がそばに寄るべきものではなく崇高で、神聖で、高潔で正しく、無心に人を救うものとでも思っているのか? たとえほかの地にそういう神がいようが、出雲の土地神はそうではない。出雲の母神は、荒ぶる死の神だ。永遠を司り、死を抱く。だから強く、その分出雲は守られる」
外には夜が来ていて、小窓からにじむものは闇だけ。暗い部屋の中で唯一の明かりは、細い脚の上に火皿を据えた小さな灯台だった。火皿にくゆる小さな炎は、生き物のように絶えず形を変えながら、大巫女の頬や唇、首元を、ゆらめく灯かりで照らしている。
闇と共に小窓から入った夜の冷気が、壁を伝って床を這った。
狭霧は、寒気をなだめるように身をすくめた。
「死の神――? だから、強く出雲を守る……ですか?」
狭霧を凝視する大巫女は、薄暗い闇の中で、化粧に彩られた目を細めた。
「そうだよ。死は、何よりも強い。どれだけ強く賢い武人だろうが、死は人をいとも簡単に負かすだろう? 今この瞬間に生きている人と、それまでに死んだ者とでは、いったいどちらの数が多いと思う? もちろん、
「出雲の大地が『死』そのもので、出雲の大地を治める王は『死』の女神と共にある……? あの、でも、ちょっと、よくわかりません……」
「そなたがわかろうが、そうでなかろうが……」
大巫女の言葉を遮って、狭霧は首を横に振った。
「でも――。大地って、大地でしょう? 草が生えていて、人が大勢行き来する道があって、川が流れて、田畑を潤す水路があって、それから、王宮もあって、里の人たちの暮らす集落もあって、海を行き来する船が着く港があって――大地は、大地です。あの地面が、どうして死っていうものにつながるのか、わたしはさっぱりわからないんです」
大巫女は、笑うだけで相手にしなかった。
「いったろう? そなたが理解しようがそうでなかろうが、それは問題でないのだよ。要は、出雲の大地に宿る母神が死の神であり、出雲を治める王は死の神の夫であり、死の国の門を守る存在であるということだ。話に聞いたが、御津を探す時から、高比古は脅えていたそうだね?」
「はい、そうですが……」
「あの子が脅えているのは、出雲の土地神がなんたるかを理解しているからだ。若き日の須佐乃男も、出雲の土地神に魅入られて死を視たと、真っ青になっていた。母神に魅入られたくせに、そんなものはいないと見ないふりをしたのは、そなたの父王、大国主だけだ」
「とうさま……?」
「ああ。いまだにあの男は母神を信じようとしない。代々続く出雲の長の中で、もっとも母神に好かれている男のくせにだ」
「――それって?」
「大国主は諸国に名を知らしめる武王であり、戦を起こして敵の死を呼ぶ、死の国に最も近い男だ。出雲の母神は死の神で、出雲の大地は血が好きだ。だから、母神は大国主を愛している」
狭霧はぽかんと唇に隙間をつくって、呆けた。
「――あの。やっぱり、よくわかりません……」
「いいのだよ。そなたが理解する必要はないのだから」
「いいえ、そういうわけにはいかないんです。今あなたがいったことがわからなかったら、高比古が悩んでいることも、きっとわからないままなんです」
狭霧はかぶりを振ってうつむき、額に指先を当てて、考え込んだ。
「出雲の神様は、死の神。大地は死で、生きている人はそこに芽吹いた小さな苗木――」
「そなたは、不思議な子だね。そっくりそのまま、いわれたとおりに飲み込めばよいのに――」
「でも、こうしないとわからないんです。それに、なんとなくだけど、わかりかけた気もするんです。――あの……農地の土に、腐らせた枯れ葉をまくことがあるんです。そのほうが作物がうまく育つから。それに――生き物の中には、子供を残したら死んでしまうものがいます。
大巫女は、純白の上衣に包まれた細い肩をすくめた。
「そなたは面白い子だね。なるほど、須佐乃男が目をかけるのもわかる」
「おじいさまが?」
「高比古の形代の巫女を早々に決めろといったのは、須佐乃男だよ」
「えっ――?」
「何かがあって、おまえが形代の巫女になってからでは遅いと危ぶんだのだろう。あいつの妻も娘もその役目を得て、形代として命を落としたのだからな」
そこまで話が進むと、狭霧は少し身を乗り出した。
「あの――かあさまは、おばあさまや日女と同じ、形代の巫女だったんですか」
「だいたいな」
「でも、前に大神事がおこなわれたのは、おじいさまの代だって聞きました。とうさまの代にもおこなわれたんですか? それに、彦名様や、おじいさまの代のもう一人の王のためにもひらかれたんですか」
「王を二人置くと決めたのは、人だよ。母神ではない」
「それって、つまり――?」
「王はこの者だと決めるのは人だが、夫である〈
「〈命〉が、出雲王じゃない? じゃあ、命っていうのは、母神が夫に選んだ人ということですか」
「そうだ。だから、いつの世も〈命〉は一人。今でいえば、人が選んだ王は大国主と彦名だが、母神が愛した男は大国主だということ。そして、次は高比古になる。高比古は、一風変わったふうに母神から愛されているね。なにしろ、あの子は事代で、母神の居場所をつきとめる力をもった初めての〈命〉だよ。あの子が御津を見つけるまで、我々には、聖地を見つけるすべなどなかったのだからね」
「――さっきの問いにも答えてください。とうさまの代に、大神事はおこなわれたんですか?」
「いや。一度たりともおこなわれていない」
大巫女の笑顔は土面のようで、ぴくりとも動かなかった。
「だから、母神の目が大国主を新しい〈命〉と見るようになってから、出雲はしばらく守られなかった。そのあいだ、戦上手の大国主は自分の力で出雲を守ってみせたが、剣は防げても、呪いは防げなかった。だから、須勢理が形代になり、みずからを贄として差し出した。母神は呪いを阻む壁をつくり、出雲を守った」
大巫女の話を聞くあいだ、狭霧は、腿の上に置いた拳の中にじっとりとした汗を感じていた。
唇を結んで、眉をひそめ、顔をしかめた。
「――どうしよう。高比古と同じ気持ちです」
「高比古と同じとは?」
「あなたがいっていることは、真実なような気がします。でも、信じきれません。というより、なんだかすごくいやで、どうしようもなく認めたくないんです……」
「おや、まあ」
吹き出すと、ほほほと声を上げて、大巫女は笑い出した。
「おまえの血筋は、どうしてそう頑ななのだろうね。鼻から認めないと啖呵を切ったおまえの両親よりは、須佐乃男似の柔らかい頭をもっているようだが」
「わからないものはわかりません。いやなものはいやだし――。たとえば、畑に種をまく時に、その種がどんな作物の種なのかわからずに植えたら、どんな芽が出てどんな茎が伸びるのかも、夏の作物なのか秋の作物なのかもわかりません。何度も繰り返し育てて知恵を蓄えていくから、里の人はその種をまいた後にどんな育て方をすればいいのかを覚えるんです。――だから、あなたがいうことは、いま話を聞いただけでは、わかりません」
大巫女の笑顔が、こわばった。
「では、その種が、千年に一度得られるかどうかの不思議な種だったらどうする? 機を逃してしまえば、国が滅びる貴い種だったら? おそらく人は、あらゆる手を使ってその種をどうすべきか探るだろう。ある者は書や籍がないかと書庫をくまなく探るだろうし、里を訪ねて、長老に話を聞く者もあるだろう。巫女や事代のように、神威や霊威をもつ者に頼ることもあるだろう。――意宇の書庫を探して、里を回ってみるがよい。書庫には大神事のことを記したものも残っていようし、老齢の者であれば、須佐乃男の代の大神事を覚えている者もいよう。そして、神野の巫女は、大神事を語り継いでいる。――どうだ? ほかに方法は?」
「……」
「――いい子だ。そなたの両親は、私がこういっても決して認めようとはしなかった」
「認めているわけでは……」
「だが、考えている。――この話はもういい。そなたに必要なのは時であって、言葉ではないはずだ。そうだろう?」
狭霧は、ため息をついた。
「わかりました。そのことについては、帰ってからゆっくり考えます」
「実に物わかりがいい子だ。では、ほかに聞きたいことは?」
神野の大巫女の顔に、土面のような強い笑みが戻った、その時。
ふと、館の入口にかかる薦が揺れた。その向こう側で、人の手が触れたからだ。
「大巫女様。意宇から使者が着きました」
「おや、もうそんな頃合いか。――どうする、狭霧。迎えが来たようだが、意宇へ戻るか?」
狭霧は、すぐさま首を横に振って拒んだ。
「いいえ、まだ話があります」
「では、使者には外屋で待つようにいいなさい」
「はい、大巫女様」
報せに来た巫女が薦の向こう側を離れると、大巫女は再び狭霧を向き、きつく笑った。
「では、聞こう。次は?」
「どうしても、聞きたいことがあるんです。――御津を探し始めてから、高比古は変わりました。大神事を経れば、高比古は元に戻るんですか?」
「それは、高比古本人にしかわからぬだろう。あの子が変わろうと思えば変わるだろうし、さらに別のあの子に変わろうとすれば、そうなる。私に決められようか?」
「それは、そうなんですが。……じゃあ、次です。高比古が祭主としてひらく大神事で人柱になるのは、高比古と〈形代の契り〉を結んだ娘なのですか?」
「そうなるね。出雲のすべてをつなげる役目だ。祭主の高比古とも、つながっていなければなるまい」
「聞きたいことがあります。先日、心依姫がここに来ましたか?」
「ああ――なるほど、その話か」
大巫女は、くすりと笑った。
狭霧は、その顔をじっと見つめた。
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