神野 (1)



 杵築の都に近い日御崎ひのみさきという岬には、大海原を見張るための、そして、船に陸地の在りかを知らせるための灯台が建つ。


 やぐらの高さは出雲でも随一を誇り、五層建てに組まれている。海の道を行き来して、方々に出かける越の者に訊いても、ほかの国で、これほど背の高い高殿は見たことがないという話だった。


 しかし、そのやぐらは、ひと月後の大神事で、炎で焼かれることに決まった。


 そのことを話し始めたのは、高比古だった。


 諦めたのか、混乱に慣れたのか――。「ぜひとも話を!」と毎日のように群がる館衆や巫女、禰宜ねぎたちに根負けしたように、高比古は、ぽつりぽつりと御津で彼が聴いたという託宣のことを、語り始めた。


「場所は、日御崎だ……。海と陸、天と地のはざま。それぞれが交わるところは、すべての軸。そこがいいと、聴いた――」


「守りの灯台を、焼けと? まさか――。それに、炎を使うとはつまり、大神事で人柱となる娘は――」


 杵築には渋面をする者が多かったが、その後押しをしたのは、神野くまのの大巫女だ。


「我らも、一の宮で同じ託宣を得た。大神事をひらくべき場所は、日御崎。海と陸、天と地、そして、炎と水、生と死――出雲におけるすべてのはざまであるその場所に形代の娘を捧げ、みことみずから祈りを捧げよとのことだ。するべきことは、すでに命に伝えたと――」


 形代というのは、人柱――つまり、生贄のことだ。神野の神威になじみの少ない杵築の者たちは、化け物の噂をするように顔を青くした。


「人柱と炎を使う大神事ということは、つまり――その人柱は、生きたまま炎に入るのか……?」


「噂では、その大神事の形代は、杵築の神殿にいらっしゃる巫女様だとか……。なんでも、高比古様と魂をつなぐ神事を終えられているそうだ」


「それにしても、杵築の武王になられるその方が、大神事の祭主になるとは――。さすがは、事代の主でありながら、杵築の武王を継ぐお方だ。いずれ、出雲の二つの都、意宇と杵築をおまとめになるのだろうか――」


 神託のことを話すようになったとはいえ、高比古は、あまり多くを語ろうとしなかった。


 大神事の支度を任された意宇と杵築の館衆は、毎日のように高比古のもとに訪れた。


「それで、高比古様、大神事の日取りはいかがいたしましょう。いつ、どのようにいたしましょう」


「さあ。なるようになる」


 頼りない返事を聞き続けて、業を煮やした意宇の館衆は、日を決めてしまった。


「意宇の書庫をくまなく調べましたところ、須佐乃男様の代の大神事のことを記した木板を見つけました。それによると、夏の良き日とのこと。つまり、昼間が一年のうちで一番長くなる特別な日――夏至です。夏至の日におこないますからね? あとひと月ですよ。いいですね!」


 大神事がおこなわれる日が決まり、そのための支度の任が大勢の手に渡ると、高比古は、諦めたふうにぼんやりとすることが多くなった。


 でも、仕草は落ち着いていった。


 苦笑を浮かべて「いってくるよ」と狭霧に別れを告げ、館を出て兵舎へ向かい、軍議に出向くようにもなった。


 狭霧も、高比古が館を留守にしている間は、杵築の薬倉や、雲宮の外の草園に出かけるようになった。


「ただいま、狭霧」


「おかえり、高比古」


 館で狭霧が出迎える時、高比古の表情は穏やかだった。入口にかかる薦をあける時も、床の敷物に腰を下ろす時も仕草はゆっくりで、のんびりとしていた。


 夕餉を食べる時も、淡々としていた。狭霧が、水壺をもって妻らしく給仕をしようとすれば、高比古はゆっくりと腕を上げて、狭霧が注ぎやすい高さまで盃を上げた。


「どうぞ」


「ありがとう」


「――今日は、どうだった? 大神事って、どんなことをするの?」


「――火を使う」


「火を使って、それで――? その大神事を済ませたら、出雲は守られるの?」


「守られるはずだよ。あいつはそういっていたし、守られる光景も、少し視た」


「あいつって、御津?」


「……うん」


「――元気、ないね?」


「元気? ――おれって、いつもこんな感じじゃなかったか?」


 盃が水でいっぱいになると、高比古は笑みを浮かべて狭霧を見上げる。


 御津から戻ってからというもの、高比古は、柔和な笑顔を浮かべるようになった。


 狭霧は、高比古がむかし、笑うのがそれほど得意ではなかったことをよく覚えていた。一緒に過ごすうちに高比古がいろいろな笑顔を覚えていくのを、自分の目で見てきたのだ。


 今、高比古の顔にある笑みは、例えるなら、風がいっさい吹いていない時の湖面のようだった。


 風のない時の湖面は波が立たないので、水面は巨大な水鏡になり、周りの景色をすべて写し込み、それを見る人がため息を漏らす壮麗な景観をつくり上げる。


 でも、水鏡のような湖面が美しいと感じるのは、それが珍しい光景だからだ。普通、風は吹いているものなのに、吹いていないからだ――。


「――高比古が元気だと思うなら、いいんだ。水、もっと飲む?」


「いや、もういいよ」


 この人が、こんな笑顔を浮かべるのはどうしてだろう――?


 そう思って、狭霧が「どうして?」と尋ねても、返ってくるのは、「いつも通りだよ」というそっけない答えだった。大神事のことを尋ねても、それは同じだ。


(高比古は、あまり触れて欲しくないみたい。大神事のことを尋ねても、軍議のことを尋ねても、そのほかのことを尋ねても――。どうしてだろう。高比古は、ちゃんと答えてくれているのに。それは答えじゃないっていう気がしてたまらない――。高比古が、わたしに何かを隠している気がしてたまらない……)


 狭霧は、水壺を抱えてぼんやりとした。


「――ねえ。手を、つなごう」


「――いいよ」


 抱えていた水壺を木床の上に置くと、手のひらを高比古の手のひらに重ねた。手と手を重ねると癖のように身を寄せて、狭霧は、高比古の肩に頭をもたれた。高比古も自然な動きで片腕をあげて、狭霧の肩を軽く抱き寄せた。


 狭霧は、高比古の肩の上で目を閉じた。


「言葉って、難しいね。今は、なにも思わないのに」


「今は、思わない? さっきはなにかを思ってたのか?」


「――どうなんだろう。わからないけれど……さっきはなんだか不安で、話していると、頼りなく感じたの。でも、今は感じない。ただ、あったかいなあ、落ち着くなあ――って」


「おれもそうだ。言葉なんか、ないほうが楽だな」


 高比古のいい方は、まるで、もう喋りたくないという風だった。それには、不安になった。


「そんなふうにいわないで。話ができるから、人と人はわかりあえるものよ」


「そうか? 今は、これだけで十分だ。いちいち話さなくてもいい気がするし――」


「――でも……」


 狭霧は、高比古の衣にうずもれるようにそばに寄って、重ねた手で高比古の手をきゅっと握った。


「ねえ、高比古――。事代って、人の心を読めたりするの?」


「そんなこと、できないよ」


「じゃあ、巫女は? 代をたくさん用意して神威を使ったら、人の心を読める?」


「そんな話は聞かないな」


「そっか。――なら、やっぱり話すしかないんだね。言葉って、要るんだ……」


 高比古は苦笑した。


「妙なことをいって――どうしたんだ?」


「わからないけど……。ね? 高比古もわからない? じゃあ、気持ちを伝えるには、やっぱり言葉は大事なんだね」


「どうしたんだ? ――あんたのほうこそ、元気がないよ?」


 高比古が狭霧の肩を抱く仕草は自然だったし、優しかった。


 恋しい人の近くにいって優しくされると、思わず狭霧の唇には笑みがこぼれた。


 でも、妙な胸騒ぎはぬぐえなかった。


(こんな上澄みみたいな話じゃなくて、もっと深い話がしたい。高比古には、わたしに話したくないことがあるみたい。御津のことか、大神事のことかはわからないけれど――。それに、わたしも話せないでいることがある。――へんだな。前は、本気で怒鳴り合っても平気だったのに――)


 何日も何日も、狭霧には、高比古に話したいことがあった。


(いおう。いわなくちゃ――。高比古は、知らないかもしれないもの)


 高比古の腕に包まれながら、狭霧は、唇を結んだ。


(ねえ、高比古。大神事の形代は、たぶん、日女じゃないよ。心依姫だよ。――そういいたいのに。それを知ったら、高比古、どうする? ……また、前みたいに塞ぎこんじゃうかな――)


 ようやく立ち直った風に見える高比古を、前と同じところまで落としてしまうのは、怖かった。


 それで結局、唇から出ていくのはため息だけで、狭霧は、それを口にすることができなかった。






(日は、過ぎていく。早くしなくちゃ、その日が来ちゃう) 


 一日が過ぎるごとに、大神事の日は近づいてくる。


 とうとう心を決めた日の朝、狭霧は、兵舎へ向かおうとする高比古に相談をした。


「迷っていたんだけど――どうしても、一度、意宇にいきたいの。阿伊にいってから一度も戻っていないし、学び舎の童たちのこととか、長老会のこととか、心配だから――」


「意宇?」


 高比古は、ついと眉根を寄せた。狭霧は、心配させまいと笑顔になった。


「日が長い時期だし、今出れば暗くなる前に着くわ。夜の間に用事を済ませて、明日の晩にはここに戻るから」


 狭霧がいうと、高比古はますます眉をひそめて、気色ばんだ。


「それは、おれのため? ――慌てなくていいよ。明日用事をして、あさって戻ればいい」


「あさって? いいの? 三日も留守にしても平気? それならゆっくりできそう。ありがとう」


「いいよ。――そうだよな。今まで、あんたにはおれの子守をさせていたようなものだったよな。……悪かった。前は、半月おきに行き来してたのに、三日でいって戻ってこさせるなんて――せわしない旅程だよ。――結局は、おれの子守か」


 高比古は、居心地悪そうにうつむいた。


「でも……それ以上長くあんたと離れるのは、怖い――。三日じゃ、忙しいだろう。おれも意宇へ一緒にいこうか。それなら――」


 狭霧と高比古は、半月おきにしか会えない暮らしをしばらくのあいだ続けてきた。それが普通と思っていたのに、今の高比古は、狭霧がそばを離れるというと、ひどく脅える。


 狭霧は、笑い話をするように陽気に答えた。


「心配性ねえ。まったく、今の心配性は、いつまで続くんだろうね? 前は、一緒にいこうなんていってくれたことなんかなかったのに。――大丈夫よ。あさってにはちゃんと帰るから」


 




 とくに足の速い馬を選んで鞍にまたがり、雲宮の門を出ると、狭霧は、守り人役を任された武人たちをせっついた。


「急ごう。夜までには着きたいの」


 野道に出るなり、蹄の音を豪快に響かせて早駆けをする。武人たちは、共に風を切って駆けながら苦笑した。


「そんなに飛ばしては、すべての駅屋うまやに寄らなければいけませんよ。それでは、有事を報せる伝令の兵と同じ速さです」


「だって、急ぎたいの」


「陽が沈むのが遅くなっていますから、もう少しゆっくりいっても明るいうちに意宇にたどりつけますよ」


「違うの。意宇にはいかないの」


 初夏の朝の地面は、少し湿っていた。蹄が土をえぐるたびに泥の粒が舞い上がり、狭霧の脚を包む白い袴に散るので、駆ける速さを示すように袴は汚れていく。泥の粒は、時に肩より高い場所まで舞いあがり、狭霧の頬の肌の白さも濁らせていった。


 汚れをものともせずに、狭霧は駆け続けた。


「意宇にはいかない。わたしは、神野にいきたいの」


「神野――?」


「そうよ。神野は、意宇より遠い場所にあるでしょう?」


「し、しかし――」


「話は、次の駅屋で鞍を付け替えている時にするわ。とにかく、急いで!」


 それ以上は従者の口を閉ざしてしまうと、狭霧は、手綱を握ってまっすぐに前を向いた。


 朝の野道には、初夏のすがすがしい光が天高い場所から降り注いでいる。ちち、と鳴く小鳥の声が響き、ひらりと舞うつがいの蝶が、木陰から飛び出てくる。

 

 しかし、狭霧たちの一行が近づくと、前方で遊んでいた小鳥や蝶は、すぐさま逃げていく。それほど、一行は、豪快な蹄の音を響かせた。






「狭霧様、少し休みましょう。この速さを保って馬を走らせる伝令の兵は、馬術の達人なのですよ? 早駆けの名手でも、これだけ駆け続ければくたびれます。脚も目も、お疲れでしょう――」


 駅屋に着くたびに、従者たちは狭霧の身を案じたが、狭霧は、駅屋の外につくられた水場で思い切り水を飲んで喉を潤すと、すぐに出発を促した。


「いいの。どうしても今日中に神野にいかなくちゃいけないの」


「なぜです。意宇と神野は近いのですから、今日は意宇に泊って、明日神野へいけばいいではありませんか」


「それじゃ駄目なの。一日経ったら、わたしが神野にいこうとしていることに高比古が気づくかもしれないもの」


「高比古様が――?」


「高比古が気づいたら、きっと先回りをするもの」


「――先回り? 高比古様は、今、杵築にいらっしゃるんですよね……? その方が、どうやって――」


 男盛りの武人たちは、日に焼けた顔をしかめて狭霧の顔を覗き込む。狭霧は、うつむいて首を横に振った。


「わからないけれど――。最近の高比古は、前と違う気がするから――。それに、神野の大巫女様と同じことができないとしても、高比古なら、やろうと思えば、いつでもわたしの足を止めると思うの」


「でも――高比古様は、杵築にいるのですよ?」


「高比古は事代よ。意宇にいる事代とは、自在に話ができるわ。それで、わたしの足を止めるような何かを命じれば、事代は従うと思うもの」


「あなたの足を止める? あなたは大国主の娘姫、そして、高比古様の奥方なのですよ? そのような方を相手に、事代が強く出られましょうか」


「高比古は策士よ? どうにでもできるわよ。たとえば、意宇の王門の外にわたしを狙う妖しい気配があるとか――そんなふうにうそぶかれたら、事代は、武人を動かしてでもわたしを館の中に籠めるわよ」


 従者の男は、ぽんと手を打った。


「なるほど――言葉巧みに……」


「でも、どうしてもわたしは神野にいきたいの。さあ、いきましょう? 早くしなくちゃ――」


 急きたてられるような狭霧を見て、従者の武人たちは、不思議そうに首を傾げた。


「どうして、そう逃げるような真似をなさるのです。高比古様と仲たがいでもなさったのですか?」


「そういうわけじゃないんだけど――内緒にしておきたいの。今の高比古なら、わたしが神野に関わろうとすれば、どうしても止めると思うの。今、高比古は、神野が苦手みたいだし――。本当は、わたしも高比古に相談したいけれど、たぶん、聞いてくれない気がするの――」


 狭霧は、ため息をついた。






 杵築から意宇の都へ向かう道は、途中で二つに分かれていた。その道を、宍道しんじの湖とは逆方向に曲がり、一行は海の方角に背を向けた。むっとした夏の湿気を帯びた野をしばらく進み、坂道を登り、下り――。道中にある駅屋のすべてに寄って馬を替えつつ、狭霧は、速さを落とすことなく早駆けを続けた。


 狭霧が神野に辿りついたのは、陽が西に沈みはじめ、空が赤くなった頃。


 早駆けをする時は、鞍から振り落とされないように両腿に力を入れて、馬の背を挟み込まなければいけない。また、ゆっくり進む時よりもずっと慎重に前方を見つめて、一時も気を抜くことなく手綱を操らなければいけない。


 出雲の一の宮へ続く神道を駆け、宮の門前にある広場で馬から降りると、狭霧の脚は、地面にうまく立てないほど痺れていた。


 一緒に道を進んできた武人たちもだ。彼らは、風を受けてからからに乾いた前髪を耳にかけながら、狭霧を向いて呆れてみせた。


「いやぁ、まいった――。脚はふらふら、腰もがくがくですよ。早駆けをして風ばっかり食ってたせいかなあ、喉も乾いた。水が飲みたいです。――それにしても、狭霧様は、よくぞここまで走り抜きましたね。馬の扱い方は、武人並みですよ」


「ありがとう。――みなさんは、ここでゆっくりしていてください。わたし、早々に大巫女様に会えるように話してきます」


 馬の背に寄り掛かって一呼吸つくなり、狭霧は、地面に敷き詰められた白砂利を踏んで、奥へ向かって歩き始めた。よろよろと進む狭霧の後ろ姿を見送りながら、武人たちはやれやれと肩で息をした。


「私は今、失礼なことをいいましたね。馬の扱い方も、疲れ知らずなところも、武人以上ですよ。へばっているのは我々のほう、我々の負けです」


 狭霧は、振り返って苦笑した。でも、冗談に答えはしなかった。


「急ぐので、ごめんなさい。いってきます」


 ひと息でも早く、宮門をくぐってしまいたかった。


 その門の向こう側は、神野の敷地。その門をくぐって、その先に身を忍ばせてしまわないかぎり、高比古からは逃げきれないと思った。



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