黒穢の誓い (2)


「夜のうちになにか起きたの? わたし、日女を呼んでくる。少し待ってて……」


 呼びかけてから、狭霧は言葉を止めた。高比古の目がぴくりとも動かず、狭霧の声が聞こえているふうではなかったからだ。


「やっぱり、声も聞こえてないのかな……どうしよう。いい? 高比古、すぐに帰ってくるから――日女を呼んでくるからね?」


 言葉ではなく手つきで会話をするように、狭霧は高比古の肩を丁寧になでて、耳元で囁いた。


 高比古の肩は寝具からしばらく出ていたせいか、冷えていた。ひんやりとした衣の布地の上から手のひらを放してそばを離れゆこうとするが、その手を、高比古の手が探し当てて、捕まえた。


「高比古――?」


 高比古の目は開いていた。でも、狭霧を見てはいなかった。正面を向いたまま、やり切れないというふうに笑っている。


 狭霧は、声を震わせた。


「目が、視えないの?」


 とても近い場所で話しているというのに、高比古の耳はぴくりとも動かない。


 意識はしっかりとしているようだ。それなのに、なぜだか目と耳と口が使えなくなっていた。


 しかし、高比古の表情は奇妙なほど穏やかだった。昨日、狭霧にしがみついた時の彼にあったような、錯乱混じりの危うげな気配は消えている。


 高比古の胸の上下に合わせて聴こえる、呼吸の響きも落ち着いていた。


 狭霧の手首を捕まえた高比古は、それを自分の胸元に寄せる。それから、唇を動かした。


 く、ま、の――。


 声は出なかったが、高比古の唇は、言葉を発するように動いた。


 神野に連れていってくれ――。そういう意味だと、狭霧は察した。


「高比古……」


 狭霧は、きゅっと眉根に力を入れた。


 高比古は、狭霧を捕まえていないほうの腕を浮かせて、狭霧を探した。そして、虚空を掻いていた指先が狭霧の髪に触れると、頭の丸みをおさえて、自分の胸元に寄せてしまった。


 そばへ引き寄せようとする腕に身を任せながら、狭霧は頭上を振り仰いで高比古の表情を探した。高比古は切ない笑みを浮かべていて、ちょうどまぶたを閉じていくところだった。


 すると――狭霧の耳もとに、静かな声が響き始めた。


 耳の奥に直接響いてくるふしぎな声で、たしかに高比古の声だった。


 いい方はゆっくりで、落ち着いていた。


『夜のあいだに、身体の半分を失う神事を自分で自分におこなったみたいなんだ。もうなにもしたくないと思っていたからか、無意識のうちだった。阿伊にいった時もこうだったのかな。あの時も、おれは今みたいに、こういうもろもろから逃げたがっていたのかな』


 震え声で、狭霧はつぶやいた。


「高比古……」

  

 狭霧の目尻に、じわりと涙が浮かんだ。それから、やはりこの人を好きだと思った。この人の腕に「そばへ来い」と引き寄せられて、その胸に頬を添わせて、そばにいられる娘でよかった……と。


 狭霧の頭の丸みに手のひらを添わせて、高比古はぼんやりと唇を閉じた。そして、口ではないところから発せられるふしぎな声で、話を続けた。


『最近、変だと感じていたんだが――阿伊にいってからというもの、おれに巫女の力が宿りかけているみたいなんだ。前に日女が〈力の契り〉をしろといっていたが、これがそれのことなのかな。おれはいつの間にかそれをしていたみたいで、そのせいで、黒い水に呼ばれたのかもしれない。わからないが……』


「高比古、わたしの声、聞こえる? 高比古の声は聴こえてるよ。わたしの声も聞こえてる?」


 高比古の胸元で、狭霧は話しかけた。すると、頭の後ろにあった高比古の手が、狭霧の喉あたりに回った。


『なにか、喋ってるな。息がかかったし、喉が動いた。でも、聞こえないよ。目も視えないし、耳も聞こえない。真っ暗で、恐ろしいくらい静かだ。あんたの身体のあったかさと、息がかかるのだけが、そばに人がいるんだとわかる』


「わたしの声は聴こえないんだ……高比古」


 青ざめて、狭霧が頬を衣の布地に押しつけると、高比古はくすりと笑った。


『いま、悲しんだろ? 声は聞こえないけど、わかったよ』


 狭霧を胸元に囲って、高比古はゆっくりと息を吐いた。それから、長い沈黙の後に、再び狭霧の耳の奥に語りかけた。


『おれを神野に連れていってくれ。この力の操り方を、大巫女から習わなければいけない。そうしないとこの縛りは解けないし、自分のことを操れなければ、永遠を司る大神事はおこなえない――そんな気がする。――いやなものはいやだ。でも、立ち止まるのは、よくないよな……あんたは、進んだのに。なあ、狭霧――おれは、決めた。あんたを殺す気で神事をおこなう。あんたを信じて、あんたに賭ける。――おれも、進む。もう戻れないかもしれないけど、進む――。こんなふうにいちいち逃げないで済む呪いか神事があるなら、自分にかけたい。今後、どんな苦しいことが起きても、こうならないように』


「高比古……」


 高比古の胴にしがみついて、狭霧は、胸元でぽろぽろと涙をこぼした。


 寝着の白い布地が濡れていくと、高比古は狭霧をさらに抱き寄せて、頭の丸みをなでた。


『――まだ、泣いてるな。涙があったかいよ。よかった、あんたがそばにいるんだな――。あんたが泣いていても、そばにいると思うと、それだけでほっとする……』






 目が視えなくなり、耳が聞こえなくなった高比古を神野まで連れていくために、狭霧は馬番をかき集めた。高比古が一人で馬を操ることができなくなった今、手綱を誰かに引いてもらわなければ、遠路をいくことはできないからだ。


「ゆっくりいくから、神野に着くまで三日はかかるかもしれない。でも、絶対に連れていくから」


 声でのやり取りができなくなった今、二人の言葉の代わりになったのは手のひらだった。


 出発前に高比古の腕をなでると、高比古は、その手を取って微笑んだ。


 目は合わなかったが、笑顔は、ありがとう――と、そういった。






「じゃあ、支度ができしだい出発するから、お願いします。昼には雲宮を出よう」


 威勢良く狭霧がいって、神野へ発つ一行が兵舎の大庭で支度を整えているのを、武王、大国主は遠目から眺めていた。


 高比古の身に起きた異変は大国主のもとにも伝えられたので、すでに耳に入っている。


 兵舎の大庭を陣取って、遠出に備える娘と娘婿の一行を見つめて、大国主は、そばにいた側近、安曇にぼやいた。


「狭霧を燃やす大神事だの、それを嫌がった高比古に身体の半分を失う呪いがかかるだの――面倒なことが続くものだな? 高比古も高比古だ。いやなら信じずに無視すればいいのに、信じてしまうからこのようなことが起きるのだろうが」


「高比古は事代です。そう思いたくともそうはできない才というか、宿命のようなものがあるのでしょう――」


 安曇は、ため息をついた。それから、大国主へ一行への同行を願い出た。


「穴持様、私を、狭霧と共にいかせてください。私も神野にいってみたい。大神事とかいう妙なものが本当に必要なのかどうか、神野の大巫女に問いただしてきます。それに、今の狭霧と高比古だけに任せるのは、少々不安です――」


「ああ、いいぞ。高比古を支えてやれ。おれも、おまえがいないうちに自分の用を済ませておく」


 大国主は快く承諾した。


 大国主の目は、糧を積んだり馬に飼葉を食わせたりと、支度に励む一行の姿から逸れることがなかった。大国主の目はそれを、諸悪の根源を憎むように睨みつけた。


「なあ、安曇、おれはつくづく思うが、神野や高比古がいっている出雲の母神というのは、守り神ではなく疫神ではないのか。――そもそも、なぜ神は女なのだ? 男でも女でもそのどちらでも構わんが、神というものが女で、それで今のこれが引き起こされているとしたら、女のさがとはどうしてこう、鬱陶しいのだろうなぁ?」


「女の性、ですか――」


「ああ。兵法や、ことこまかなあれこれなど多くに精通しているおまえが、唯一おれに劣るところだろう。女を、おまえは何人知っている?」


「――いったい、なんのことで……」


 怪訝顔をして口ごもった安曇へ、大国主は冷笑を浮かべた。


「おれは大勢知っているが、女というのは鬱陶しいものだぞ? ことに嫉妬する女は執念深くて、一度へそを曲げたら、永久に機嫌を直さないものだ」






「馬を」


「はい、大国主。どちらへおいでですか」


「遠出だ。脚の強い馬を選べ」


「かしこまりました」


 兵舎の馬番に鞍をつけさせると、大国主は馬にまたがり、兵舎の門を出た。


 兵舎の大庭では、神野に向かう一行がまだ端のほうに集まっている。大所帯での移動になるので、糧の荷造りが遅れているようだ。出発の時を待つのに館に戻ったのか、狭霧の姿も、高比古の姿も、安曇の姿もそこにはなかった。


 たった一人の従者もつけずに、大国主は馬に乗って大路を駆け、雲宮の門を飛び出していく。向かった先は、大国主が生まれ育った場所――故郷と呼ぶべきところだった。


 意宇と杵築をつなぐ道に点々と造られた駅屋うまやで仮眠と休息をとりつつ、意宇の都へ向かう道との分かれ道となった辻にいきあたると、宍道しんじの湖に背を向けて内陸へ向かい、森の奥へ続く一本道をたった一騎で駆けていく。


 大国主は、自分の生まれた場所を心底嫌っていた。


 六つの齢の頃、その地を訪れていた須佐乃男に武才を見出されて、その男が統治する都、意宇へ移り住むことが決まったが、その時も、ようやくこの場所から出ることができると、走り去って振り返りもしなかった。


 懐かしいとか、もう一度戻りたいと思ったことは、童の頃から今まで一度たりともなく、そこへいくようにと用事をいいつけられても、理由をつけたり、誰かに代わりを任せたりして、足を踏み入れたことはほとんどない。杵築の主、武王という地位を得るとそうもいかないことが増え、数度は戻ることもあったが、その時も渋々、いやいやで、儀礼やら寄り合いの話やらに顔を出すものの、自分が生まれ育った館には、よほどのことがない限り近づこうとしなかった。


 杵築を出てから二日目の昼過ぎになると、故郷の地が近づいてきて、その地を囲む神木の林や、道に沿って続く清流、それから、山影と丘の稜線や、その上に広がる真っ青な空が見えてくる。


 うっかり空を見上げると、これは、あの時見た景色だ、懐かしい――と、胸のどこかが感じた。しかし、そうするや否や、吐き気がこみあげる。それほど、大国主は故郷のことが嫌いだった。


 そこは、神領地。出雲の一の宮、神野の宮だ。


 大国主はそこで生まれて、そこで育った。






 大国主がその宮を出てから、三十三年が経っている。


 武王となった男が、かつてそこで暮らしていたことを知っている巫女は、今はほとんど残っていなかった。たとえ知っている者がいても、むやみに口外されることはなく、それはいまや禁忌として、堅く口止めされていた。


 宮の神門をくぐり、馬屋に寄ると、宮仕えの馬番は手綱を預かろうと駆け寄るが、馬上にいる大国主の顔を見上げるなり、すぐさま仲間に目配せを送った。


「あなたさまは、杵築の武王様……ここへは、お一人で? 誰か、奥の宮へ報せを――」


「お、おう!」


 目での合図を受けた馬番の男は、一礼をするなり背を向けて馬屋から飛び出していく。


 初夏の真昼とはいえ、雨よけの屋根がついた馬屋の庭は日陰になっていたので、中に入るとひんやりしている。馬草の清涼な香りと混じると、いいようもないすがすがしい気配が漂っていた。そこで鞍から降り、馬番に手綱を手渡すなり庭を離れようとすると、馬番は慌てて先駆さきの役目を買って出た。


「外宮に、すぐさまお休み処をご用意いたします。案内いたしますので、謁見の支度が整うまで、そちらで――」


「謁見の支度? 大巫女のか?」


 隆々としたししに覆われた肩をそびやかせて、大国主は馬番を振り返る。見つめると、目が合っただけで男は震えあがり、がちがちと歯を鳴らした。


「は、はい、そうでございますが……。大巫女様は、先ほどまで奥庭に出ておいででしたので、すぐにはお会いできないかと存じます……」


「主想いだな、結構。だが、おれは、支度を整えて待ち構えた後のあいつと話がしたいわけではないのだ。――おれを誰だと思っている? 神野の大巫女の地位と、杵築の武王の地位はどちらが上だ? すぐさま通せ」


 




 通りを塞ぐ者を蹴散らかす勢いで、大国主はまっすぐに奥の宮へ向かった。


「奥の宮へ、すぐさまお伝えを――大国主が……!」


 通りの端を、巫女や下男がわらわらと駆けていく。脇目もふらずに奥を目指す大国主を制止しようと、細腕を伸ばす巫女もいた。


「お、大国主――いくらあなたさまといえど、ここは神領地、神の庭でございます。大巫女様にお会いになるのであれば、相応の筋は通していただかないと――。お待ちください、意宇へ直訴いたしますよ!」


「大国主、――武王様……!」


 肩で風を切って歩く大国主を止めようと、両腕を高く掲げた巫女が通りに群がった。腕を伸ばしたところで制することができないと悟ると、巫女たちは奥の宮の門前に並んで、己の身で垣根をつくってみせた。


「ここは神の庭。剣の王とて、無礼は――」


 小さな蟻が群がるように巫女たちは門の入口を塞ぐが、大国主が一喝すると、その垣根はいとも簡単に崩れ落ちた。


「どかんか! 直訴だと? やれるものならやってみろ。おれを誰だと思っている?」


 奥の宮を守ろうとする巫女には、老齢の婆も若い娘もいた。行く手を阻もうとするすべての女に罵声を浴びせて制すると、大国主は、奥の宮――神野の主、大巫女の居場所へと足を踏み入れた。


 そこは、神の林に包まれた静謐な宮。宮を囲むほとんどは背の高い杉の老木だったので、頭上を見上げると、高い場所まで反り立つ杉の木の頂は、青天を刺そうと伸びる針の切っ先にも見える。


 聖なる庭と呼ばれる場所で、癖のように空を見上げると、大国主は目が眩んだと思った。


 ここは、広い青空であってしかるべきところに、わざわざ手を入れて神木の林をつくり、黒い影で囲んでしまうえげつない場所だ――腹立たしい。遠い昔、童の頃に思ったのとそっくり同じ苛立ちが胸にこみ上げると、急に過去に戻るようで、気が遠くなった。しかし――。


 ふん、と鼻で笑うと、目の前を向き、前方を睨みつける。


 そこには、神の林の影が落ちる小さな館があった。奥の宮の真奥の館――そこは、神野の女主、大巫女と呼ばれる女が暮らす場所だった。






「杵築の穴持だ。入る」


 薦の外で名乗ってから、入口を閉ざす薦をばさりと開ける。


 急の来訪騒ぎを聞きつけていたのか、大巫女は薄暗い館の奥で正座をして、入口の方角――大国主が立ちそびえるあたりを睨みつけて待ち受けた。


「荒々しい到着だな。戦を司る杵築の主は、こうも乱暴者なのか――」


 大巫女が身にまとうのは、純白の衣に、朱の裳。顔には、神野の巫女独特の化粧がある。眉は大陸の女官のように濃く描かれて、目尻には朱色の点彩があり、唇は赤く塗られている。大巫女の齢は五十半ばで、顔には相応の皺があったが、その皺を隠すためか、頬や目尻には白粉がはたかれている。


 大国主には、苦笑が浮かんだ。そして、苦言を呈した大巫女の声を遮って、来訪の挨拶をした。


「久しぶりにお目にかかる、母上――と呼んでは、不機嫌になられるかな」


 大巫女は、白と赤茶で織られた綾布の敷物の上に正座をしている。低い場所から大国主を見上げて、大巫女は、微笑した。


「妙なことをいう。巫女とは、神に嫁いだ女のこと。巫女の私に、子などいない」


「そうだろうとも。おれがそばにいては神威が薄れると、母と名乗ることもなければ、おれを見るのもいやがった。周りにいた女どもが、揃っておれがあなたの子だと認めていたにもかかわらず、だ。あいつらも、禁忌だといって表立っては口にしなかったがな。――入る」


 一歩進み、手で束ねていた薦を落とす。ひらりと足元まで垂れる薦が、再び館の入口を閉ざした。その薦に背が触れるほど外に近い場所で、大国主は腰を落として床に手を付き、あぐらをかいた。


「今日は、本音の話をしに来た。――用は他にあるが、話のついでに知りたい。おれの父親は誰なんだ? おれも、もうじき四十になる。四十年前のことだ。そろそろ口にしてもいいのではないか」


 大巫女は、土面のような微笑を崩さなかった。


「そなたの父親? さあ、私には知るよしもない。武王と勇名高きそなたの父なら、ますら神ではないのか」


「おれは、神の子か。巫女が不貞を隠すには、体のいい告げだな」


「不貞――? 侮辱は、杵築の武王とて許さぬぞ」


「おれも、いまさらあなたとやり合う気などない。あなたとの諍いなどは幼い頃にやりつくしたし、もう飽きた。それに、ここ神野では、あなたがおれを神の子だといえば神の子になり、それを口にすることが禁忌だといえば禁忌になる。そういう馬鹿げた言葉の呪縛がおれは大嫌いだが、ここでやり合ったところでおれに勝ち目がないことも、よくわかっている。なにしろここは巫女の国で、巫女の掟によってのみ動く、出雲一馬鹿げた場所だからな」


「――暴言は、杵築の武王とて許さぬぞ。それなら、その信用ならぬ場所に、なぜ来た」


 大巫女の笑顔が冷えていく。


 目を逸らすことなく、大国主はいった。


「救いを求めに来た」


「救いを? そなたが、私にか?」


「ああ。嬉しかろう? おれが、とうとうあなたを――神野の神威を信じるしかなくなったのだ。おれは神も霊も信じないが、妻に続いて娘までが、その得体の知れないものに命を脅かされるかと思うと、腹が立って仕方がないのだ。腹が立ち、娘も、亡き妻と同じになるかもしれないと思うと、脅えた。信じないものに脅えることはない。つまり、おれは、神野を信じずにはいられなくなったのだ」


 そこまでいうと、大国主は一度唇を閉じ、真顔になってうつむいた。


「ここに狭霧が来た時、なぜあなたは、狭霧を止めなかった」


「なぜ? そなたの娘が望んだからだ」


「あなたの血が混じった孫娘だぞ?」


「異なことを。私に、血のつながった末裔はいない」


「――だが、狭霧はおれの子だ」


 大国主は正面に座す大巫女から目を逸らして、小さく息を吐いた。


「おれがあなたの子だとは、生涯認めるつもりはないのだな。……わかった、もうそれはいい。おれにとっても済んだ話だ。――それで、高比古がいっているあれは本当なのか。大神事というのをひらかないと、本当にいずれ出雲が滅びるのか」


「そなたを御津へ連れていこうか? 私も足を運んだが、あれほど強い狭間なら、巫女でなくとも死の闇をその目で見られるだろう。そこに捕らわれた、そなたの娘のようにな。あの淵に一晩も浸かれば、母神がみせる先視も視えよう。――それに、そなたは〈命〉と呼ばれる男王で、母神の夫の一人だ。そなたがあの場所にいけば、喜んで母神はそなたを迎え入れ、死の国の御饗みあえでもてなすだろう」


「見知らぬ女から勝手に夫呼ばわりされるのは、心外だ。おれも、女なら誰でもいいというわけではないが?」


「――母神に〈命〉と選ばれたことを、幸運と思うべきだ。母神に見初められたからこそ、そなたは大地に守られ、王として君臨している」


「いいや、違う。おれが出雲の武王でいるのは、おれ自身の力のためだ」


 大巫女の顔を見据えて、大国主は冷笑した。


「百歩譲って、あなたたちが崇めるものの存在を認めたとしても、そいつの正体は、母神やら女神やら、崇高な名がついているだけの化け物だ。少なくとも、そいつには王者の器がない。あなたが過去としきたりを信じてその化け物に従おうが、同じように従う気は、おれにはさらさら起きない」


 軽く息を吸い、吐き――。大国主は、話を続けた。


「つじつまが合わないと、ふしぎに思うことがある。なぜ、その神事のたびに女が死ぬ必要があるんだ?」


「女には、子を産む力があるから――」


「それは知っている。神野では古来、女子供が贄にふさわしいとされていたという話だろう? 神事を取り仕切る巫女の女が、贄の女を、女の神に捧げるのかと、子供心にもおぞましいと呆れた覚えがある。母神という女に踊らされるのは、巫女連中が上役の女に媚びへつらうのと同じで、女の集まりによくある奇妙な呪縛の一種と同じ。見ようによっては女同士の共喰いだ。おれにはさっぱり理解できん。――いや、おれがいいたいのはこのことではない。神野の教えでは、贄にふさわしいのは女と子供だろうが? 大神事で捧げられるのがなぜ女で、子供ではないのだ」


「母神が、男王のそばにいる女を欲するから――」


「そうだ。女子供が生きる力に溢れているからというのは建前で、大神事で女を捧げる理由は、つまりそれだろう? 男王に惚れて、そのそばにいる女に嫉妬するからと、そう聞いた。しかし、なぜそうなんだ? 遠回りじゃないか。それほど男王に惚れたなら、なぜその化け物は男を贄に欲しないんだ。そいつ本人を殺して連れていけばいいのに」


「母神は、男王の安泰を望むからだ。男王は出雲を守り、ひいては母神も守るから――」


「それで、嫉妬に狂う? 急場しのぎの快楽だけを貪る、なんとも浅はかな女だ」


 大国主の笑顔は、しだいに薄暗い影を帯びていく。


 それを見つめて、大巫女は化粧に彩られた目を細めた。


「――なにがいいたい? さっぱりわからないのだが」


 尋ねられると、大国主は少し背中を丸めてあぐらをかいた片膝に頬杖をつき、まばたきをほとんどしない大巫女の目を見つめた。


「では、ここに来たわけを率直にいう。狭霧から、形代の役をおれが代わりたい」


「なんと――」


「神託だのなんだのがえらく人じみていたから、これまでおれは、おまえたちの頭が思いつく程度の、いもしない崇高な女をつくりあげて、さも存在するかのように演じているのではと思っていた。だが、そうではなく、化け物がいることはおれも認めよう。しかし、たとえ神と呼ばれはしても、これまでのおこないを見ていたら、そいつは化け物と呼んでやるにも浅ましい、ただの愚かな女だ。形代の順序が高比古との近さによって決まると聞いたが――それも、どれもこれもが女々しく、馬鹿馬鹿しい。おれにいわせれば、死の神を名乗るなら、形代がどれだけいようが、順序など付けずにすべてもっていけばいいのだ。死とは、順序などなくなにより平等に訪れるものだ。そうではないのか」


 少し身を乗り出して顔を近づけ、大国主はにやりと笑った。


「嫉妬に狂った女を慰めるのに、そいつの勝手をすんなり聞いて、女々しく小手先のことばかり続けているから、百年も二百年も妙なことが続くのだ。おれが、その女のもとに出向いてやる。それで、永遠に夫になってやる。それでよかろう?」




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