黒穢の誓い (3)

 狭霧と高比古が意宇の都に着いたのは、杵築の雲宮を発ってから三日後の夕時だった。


 意宇の都は、戦を司る杵築の都と違って、まつりごとと祭祀を司る。


 出雲の祭祀の髄である一の宮、神野は都から近く、ゆっくりいっても半日歩けば辿りつける距離にある。最後の旅程を残した意宇での宿りは、神野へ向かうための最後の中継地となった。


 初夏の風にさらさらとなびく稲の青い葉と、青々とした農地を潤す水路、そして、農夫たちが行き来する素朴な路が、農地の隙間を縫って彼方の山際まで続いている。意宇の都は、とくに手をかけて世話をされる王領田の中心にあった。


 都の宮門をくぐると、一行はまず馬屋に向かった。


 そこで、一行のほとんどが馬を下り、総出で出迎えた馬番に手綱を託すが、高比古だけは、この先も馬に乗ったまま移動することになった。三日の旅を終えても、高比古の目はもとに戻らなかったからだ。


 意宇に辿りつくまでのあいだ、高比古のまぶたはほとんどひらくことがなかった。


 目をあけたところで物や景色を見ることができなくなったせいだが、周りの景色が見えなくなった分、ふつうは視えないものに敏くなったのか、ときおりなにかを感じたように天を仰ぐ――そういう仕草を、狭霧は旅のあいだに何度も見た。


 意宇に着いてからも、それは変わらなかった。


 意宇の大路を進むあいだ、狭霧は、高比古がまたがる馬の隣を歩いていた。


 大路の両端には、桃の林が広がっている。桃は、意宇のように大きな宮でよく見かける樹の一つだ。桃の木は育つのが早いので、新しい建物をつくることが多い王宮では、すぐに手に入る木材として重宝されたのだ。


 厚みのある桃の葉は、地面に濃い影をつくる。木陰に入ると、洞くつに紛れ込んだかのようにひんやりした風に包まれた。それは、日なたの道をずっと進んできた一行にとっては、疲れを癒す心地いい風だった。日陰に入ると、手綱を引く馬番の顔はほっとしたように緩んだが、高比古は違った。そこでも、なにかを感じたように顎を天に向けて、深呼吸をする。


 思わず、狭霧は高比古の手のひらを指で包み込んだ。


 こうやって手に触れて、話したい――と伝えれば、高比古は、狭霧の心に耳を傾けることを知っていたからだ。


「日が暮れて、やっと涼しくなってきたね」


『ああ、そうだな。風が気持ちいい』


 狭霧がいった言葉がすべてことこまかに伝わるのではなくて、高比古はもっと大まかな部分を感じ取っているふうで、話が伝わりきらないことも多かった。


 それでも、意思のやりとりができるのは、二人にとってありがたいことだった。


 高比古の顔は、まだ天の方角に向いていた。高比古の手を手で包み込んで、狭霧は見上げた。


「どうしたの? なにかあった?」


 高比古は苦笑した。


『風の精霊がな、おれを探して吹きそよいでいくんだ。心配しなくても大丈夫だって――。風だけじゃなくて、木や花や、土や石や――いろいろなものがおれを気遣って、見舞いに来ている……だから、ありがとうって伝えたんだ』


「そっか――」


 精霊と呼ばれるもののことを、狭霧はよく知らなかった。でも、そのことを話す時、高比古の顔がいつも優しくなるのは知っていた。


 茜色に色づいた夕風を白い頬に浴びつつ、高比古は、童にかえったような純粋な微笑を浮かべている。その笑顔を見上げて自分も微笑んでから、狭霧は顔を行く手に戻した。


 二人が向かっている場所は、狭霧の寝所だ。高比古が意宇で暮らしていた頃に使っていた館でもあるので、二人にとってなじみのある場所だった。


 寝所に向かうのは、狭霧と高比古の二人と、高比古の乗る馬の手綱を引く馬番の男だけで、安曇やほかの武人たちとは、意宇の兵舎の宿直の棟を仮宿にするとかで、馬屋で別れていた。


「汗をかいたから水浴びをしたいね。着いたら、湯屋の支度をお願いしようか?」


『いま、湯浴みをしたいって思ったか? ――おれは、水壺と清布があればいいや。目が視えないから、湯浴みをするには誰かの世話にならないといけないし』


 他愛のないお喋りをしつつ、狭霧と高比古はのんびりと大路を進んでいた。


 でも、ある時。狭霧の目は、前方に吸い寄せられる。


 そこはちょうど、狭霧と高比古が使う寝所へ向かう庭と、彦名の宮、本宮や、その東西に建つ別の宮へ枝分かれする辻で、そこには、背の高い男が数人集まっている。


 男たちは腰から鉄鞘の剣をさげていて、衣服には、質素ながらも番兵や伝令兵とは一線を画した風格がある。


 顔を見れば、誰がどの名前かが狭霧にもだいたいわかるほど、高位をもつ武人たちだった。


「――どうしたんだろう。わたしたちを待っているみたい」


『ん? なんていった? もう一回――』


「人がいるの。みんな、位の高い武人よ。わたしたちを待っているみたい」


『人? ……そうみたいだな。振野ふるのまでいるな。あいつは意宇の兵舎の長だよ』


「どうしてわかるの? 目が見えるようになった?」


 狭霧は、目をしばたかせて高比古の顔を振り仰いだ。でも、高比古の目はその時も閉じたままだ。高比古は、首を横に振った。


『違うよ。透視とうみをしたんだ』


「透視?」


『目の力を風に乗せる事代の技だ。少し離れた場所の様子を調べる時にたまに使うが、こういう時にも使えるみたいだ』


「透視か……。やっぱりすごいね、高比古。今の状況にもう慣れているんだもの」


『まったくすごくない。こんな体たらくで――』


「ううん、すごいよ。話はできるし、目で視る代わりの方法まで思いついて――本当に器用だね。すごいよ」


『褒めるなよ。足手まといに成り下がっているのはわかっているし、よけいに傷つくから』


 高比古は目を閉じたまま、苦笑した。


 蹄の音と共に先へ先へと進んでいくと、前方で待っていた武人たちは慎ましく頭を下げていく。


「高比古、やっぱりあの人たち、わたしたちを待っているみたい」


 高比古は答えなかったが、考え込むような真顔をした。


「どう、どう」


 馬番が手綱を引き、馬の首に手を添えて馬の足を止める。狭霧たちが辻で立ち止まると、武人たちはさらに深く頭を下げて礼をした。


「お待ち申しておりました。あなたがたの到着を待つ方がいらっしゃいます。どうぞ、こちらへ」


「わたしたちを?」


 狭霧は、高比古の横顔をちらりと覗き上げた。


「わたしたちの到着を待っている人だって? 誰だろう。彦名様かな」


『……さあ、どうだろうな』


 馬上で鞍にまたがったまま、高比古も訝しげに首を傾げた。


「こちらです」


 先導は、振野という名の武人が担った。導かれて二人が向かった場所は、意宇の宮の中でもとくに大きな館のうちのひとつ。そこは主に、遠方からやってきた一国の王や、それに準じる位をもつ御使をもてなすために使われている。


 自分と高比古の到着を待っているのは、きっと彦名だと狭霧は思っていた。彦名は出雲王で、高比古の師であり、主だから。報せなければいけないことは多々あったし、彦名のほうも聞きたいことは多いだろうから。しかし――。


「あの……いったいどなたが待っているんですか? わたしたちを呼んだのが彦名様なら、ご自分の宮へ招かれますよね?」


「彦名様ではありませんよ。彦名様からもお言葉を預かっておりますが……彦名様は、明日訪ねるようにとのことです」


「明日? ――そこの館で待っていらっしゃるのは誰なのですか? 彦名様は、その方にご遠慮なさっていませんか? なにか、へん……」


 気味悪い悪寒がこみあげて、触れ合ったままだった高比古の手をきゅっと握り締めた。


「客人の大館にいくみたいだよ? そんなところで待っている人だなんて、いったい誰だろうね。真浪様……っていう感じの出迎えじゃ、ないね。真浪様なら、ご自分でわたしたちを探しにいらっしゃると思うし――」


 武人たちに聴こえないようにと、狭霧は小声で高比古に話しかけた。


 高比古は答えなかった。まぶたを閉じたまま、息を忘れたふうに静かにしている。


 そして、ある時、こめかみをぴくりとさせて真顔を歪めた。


『なにか、おかしい――』


「おかしいって?」


『いま、さっきと同じように透視をしてみたんだ。でも……いや、それに――狭霧』


 高比古は慌てていた。狭霧を探そうとして、つなぎ合った手にしきりに力を入れている。その手を、狭霧は両手で丁寧に包みこんだ。


「わたしなら、ここだよ」


『あんたか? あんただよな。あんただよ――』


 しばらく落ち着いていたのに、高比古の物言いは数日前に戻ったかのようにたどたどしくなった。だから、狭霧も首を傾げた。


「――なにか、あった?」






 狭霧と高比古を客人用の大館へ送り届けると、案内をした振野たちは、館の前庭にすら足を踏み入れることなくその場を去っていく。


 庭を横切って館の入口へ続くきざはしを上がり、中へ――。そこで二人を待っていた男の姿をたしかめると、狭霧はあんぐりと口をあけた。そこにいたのは、大勢の部下を従えて、何度も戦を切り抜けた武人ならではの屈強な目と、体躯をもつ男――狭霧の父、大国主だった。


「とうさま、どうしてここに……」


 狭霧と高比古がやって来ると、奥の上座であぐらをかいていた大国主は、蛇が鎌首をもたげるように首を動かして二人を見やった。


 しかし、狭霧の問いには答えずに、二人の足を自分の正面まで進ませた。


「近くへ来い。顔を見せろよ、高比古」


 二人を呼び寄せるものの、大国主が見つめたのは血のつながった実の娘、狭霧ではなく、狭霧が夫とした青年、高比古だった。


 大国主には、目を合わせた者を即座に魅了する奇妙な華がある。今もそれに満ちていて、強い力をもった目や言葉は、腕を引かれたり、怒鳴られたりせずとも、おのずとそばにいる者を従わせて、狭霧たちの足を進ませた。


 二人が目の前まで進み、そこで腰を下ろそうとすると、大国主は娘に尋ねかけた。


「狭霧、高比古はどうだ。比良鳥と同じ呪いがかかったと聞いたが」


「それは、はい――。目も耳も喉も使えないままですが、高比古は、事代の技を使って話をすることができます。手と手を触れさせれば――ね、高比古?」


 目の見えない高比古が歩くのを助けるのに、狭霧は高比古の背中と腕に両腕を回して支えていた。


 二人は、大国主の正面で足を止めていたが、話が進むと、狭霧は思い直して座るのをやめた。高比古が大国主と話をするには、手で触れ合う必要がある。上座へ近づくべきだと思ったのだ。


 でも、一度足を止めると、高比古はそこから動こうとしなかった。


『ここでいいよ、狭霧』


「でも、手をとらなかったら、とうさまと話ができないんじゃ……」


 狭霧はふしぎに思って見上げたが、その時、高比古は、今に脂汗が垂れそうなほど神妙な真顔をしていた。


『いや……なぜだろう? 大国主の気配が、いつもと違うんだ……』


「とうさまの、気配――?」


 結局、そこに腰を下ろすことになった。二人が座りきるのを見計らって、大国主は話を続けた。相手は、娘ではなく高比古だ。


「高比古、おれの声が聴こえているか?」


 上座から、大国主が声をかける。高比古がうなずくと、大国主は目を細めて小さく吹き出した。


「おれの顔を見ろよ。妻にもらった女の親父を前にしているのに、目も合わせない気か」


 たしかに、二人で向きあうものの、高比古の目は大国主の目とはわずかにずれた場所を向いていた。


 話をすることができるとはいえ、高比古は今、大国主の声を耳で聞いているわけではなかったし、目も見えていなかった。目も耳も使えない高比古にとって、話し相手がいる方角を正しく見極めるのは至難の技だった。


 何度か試すようなそぶりをしたものの、ついに高比古は薄い唇を結び、無言のまま首を横に振った。


 大国主は、その仕草を嗤った。


「おいおい、なんだ今のは。おれと目を合わせるのが無理だといいたいのか? それに、ひどい顔だな。疲れているから、おれをしとめるなら今だと、周りにいいふらしているぞ? それに、武術の鍛錬をしばらく怠けただろう? 肩と背中の肉から張りが消えているぞ。おまえはもともと骨が細いんだから、無理をしてでも武人の身体をつくれと前にいっただろう? ――情けない姿だな。そのざまでおれの後を継ぐ気か? おれを侮辱してるのか」


「とうさま……」 


 高比古を気遣って、狭霧が口をはさむ。しかし、すぐさま大国主は娘に顎を向けて合図をして、その口を閉じさせた。


「黙っていろ、狭霧。おれは今、高比古と話をしているんだ」


「でも――」


「黙れ。いいな?」


 部下にするように大国主はいい、娘と目を合わせることなく、高比古のほうを見続けた。


 誰が見てもふつうの状態ではない高比古へ、大国主はちくちくとした嫌味を続ける。


 なんのために、なぜ――。狭霧は気になって、懸命に父の嘲笑を見つめた。


 高比古のほうも真顔をして、大国主の言葉にじっと意識を向けていた。大国主の言葉や態度の意味を探ろうと、眉根は力が入って堅く寄せられ、緊張からくる脂汗をこめかみに滲ませている。


 結局、高比古の目は大国主の目と合わなかった。


 高比古は、二人のあいだにある虚空を見つめていた。


 慎重に黙る高比古に目をやって大国主は吹き出し、さも可笑しいといわんばかりに顎を軽くふってうつむき、日に焼けた顎を爪の先で掻いた。


「この程度の騒ぎくらい、おまえ一人で片を付けろよ。狭霧まで巻き込んで、いつまで病人面を続ける気だ、みっともない」


 大国主は、相手を辱めるようにふんと鼻を鳴らしまでした。


 しかし――。大国主が蔑んだ相手は、高比古ではなかった。


 唇を閉じて黙り、しばらく沈黙をつくってから、大国主は、ぽつりと続きをいった。


「と、いいたいところだが……。だが――もし、おれがおまえの齢の頃に、今おまえの周りで起きているのと同じことが起きたら、おれはなにをしていたかなあ。そう考えると、たぶん、今のおまえよりおれのほうが取り乱していたと思う。――軍を引き連れて神野に乗り込んで、火を放ったかもしれん。出雲から一人残らず巫女を消したかもなあ。――今までの言葉は本心ではない。詫びるぞ、高比古。おまえは、凛々しい」


 目が合わないまま、高比古は眉をひそめた。


 大国主が、長い息を吐く。


 顔をあげて高比古を向いて、その奥に座る狭霧の顔もようやく見る。


 黒眉はきりりとして、目にはただ者ではないと知らしめる奇妙な華があり、鼻や唇にも、男盛りの武王、大国主の顔のつくりには勝気な性格が表れていた。


 しかし、今、恐れと敬意をともなって諸国に名を知らしめる武王の顔には、大国主の名に不似合いな柔和な笑みが浮かんでいた。


「高比古――おまえと、それから、狭霧に伝えておくことがある。おれは、神野にいって来た。そして、〈形代の契り〉を交わしてきた。おれは、おれの〈形代〉になった」


 <形代の契り>――その言葉が発された瞬間、高比古が息を飲み、目を見開いた。


 狭霧も、思わず高比古の袖を握り締めて、大国主を凝視した。


 大国主はゆったりとあぐらをかき、狭霧と高比古を向いて笑っている。笑顔は穏やかだった。


「高比古、次の神事では、おれを代にしろ。去りゆくおれの代わりに出雲を継ぎ、王として、この国を永遠に守れ」


 次の瞬間。高比古は背中を一気に丸めて、その場にうずくまった。そして、肩や腕を震えさせて、声を出そうとした。


「……ぁあ、あああ!」


 しかし、言葉を失った喉は声らしい声を出そうとしない。背中を丸めて身体中に力をいきわたらせ、高比古は頭がぐらぐらと揺れるほど、なにかを叫ぼうとした。


「……ぉあ、あっ、が、が――!」


 腕と拳を震えさせながら、しきりに声を出そうとする。しかし、喉から出てくるのは奇妙な唸り声ばかりだ。言葉も、大声を出せるだけの息も口元までのぼっているのに、ふしぎな力で喉を塞がれて詰まっているようで、高比古は苦しげに顔を赤くしていった。


 しかし――。それが何度も繰り返されると、高比古が発するものは、しだいに声らしくなっていく。


「があ、あ、こ、は――! 出……出た! うあぁ、があっ!」


 獣の咆哮に似た雄叫びをあげるのを最後に、高比古は喚くのをやめる。


 声を出そうと力一杯息を吐いたせいで、高比古の白い肌は赤く染まっていた。こめかみや額には汗の粒もにじんでいる。


 息を整えようと大きく肩を上下させながら、高比古はさらに怒鳴るような独り言をいった。


「目を覚ませ、どうにかしろ! うろたえている暇なんかない! 自分でかけた呪いは、自分で解け!」


 力を入れすぎたせいで血走った目を大国主に向けて、高比古は問いただした。


「今のは、いったいなんの話です、いったいなにが起きているんです!」


 大国主は、さして取り乱しもせずに笑っていた。そして、温かな微笑を浮かべて、その目で高比古の戸惑いを撫でてみせた。


「やっと、こっちを向いたな。その調子だ。やろうと思えば、おまえ一人でもどうにかなる」


 高比古の問いには答えず、大国主はそういった。


 もともと大国主は、言葉で多くを語る人ではなかった。大勢の部下をひと睨みで従わせる獣の王じみた目は、今や、守るべきものを慈しんで細められている。――それは、父親の目だ。


 その目と目が合うと、それだけで高比古の目には涙が浮かんで、つつと流れた。それを大国主に見せまいと、高比古は拳を目元に押しつける。


 大国主は、高比古の仕草を嗤った。


「おいおい。最近のおまえは泣きすぎだぞ? 男が、情けない。男だから泣くなというわけではないが、泣くと、その都度いちいち思考が止まるし、無防備になる。つまり、なにかを守る立場の奴が、守られる立場に成り下がるんだ。次に泣くのは、どうしても必要な時にとっておけ」


 大国主がいうのは嫌味と苦言だが、笑顔も視線も声も、嫌味をいっているふうではなかった。


 高比古は、拳を目に当てたまま首を横に振った。


「むりです、大国主。あなたを代にするわけにはいかない。そんな大神事をひらくわけには――」


「もう決めた。やれ」


「しかし――」


「やれよ、高比古」


 大国主の笑顔は崩れなかった。一度、あぐらを組み直して姿勢を直すが、その動きもゆっくりとしていて、落ち着いていた。男盛りの武王は、満足げに笑っていた。


「なんだろうな、この満ち足りた感じは。これで狭霧を守れるとおれは安堵しているし、これでやっと須勢理に会いにいけるとも思う。それに、おれと引き換えになる腹構えがあれば、おまえもちゃんと一人前に育つだろう。――次の神事の駆け駒はおれの命だ。し損じるなよ、高比古」


 高比古は、何度も頭を振った。


「むりです。あなたにそんな真似をさせるなんて……」


 泣き顔で拒んだ高比古の口を、大国主は微笑で閉ざしてしまった。


「馬鹿だな。長の男が、おまえならいいと腹を見せたんだ。これが獣の群れなら、こういう時、次の長になる奴は迷わず前の長の腹を食いちぎるものだぞ? 迷うより、誇れよ。おまえを育てるためならおれは終わってもいいと、そう思ったんだ。自分は、おれをそう思わせた男なんだと驕れよ。それに、もう決まったのだから、女々しく悩むのはやめて次にいけよ。誇れよ、高比古」


 

  ◇  ◇                        ◇  ◇





「大国主が、意宇へ――?」


 杵築にいるはずの主の所在を知って、大館へやってきた男がいた。安曇だ。


 慌てた様子でほとんど駆けるようにやってきた安曇は、館の中の様子を目にすると、戸口に立ちつくしたまま絶句した。中では、高比古が目元に拳をあててじっとうずくまっている。そばには狭霧がいて、あやかしに心を抜き取られたかのように放心して、ぼうっとしている。


 二人の前には主――大国主が側台に肘を置いてゆったりとあぐらをかき、狭霧と高比古のほうを向いて微笑んでいる。


 安曇は、様子を一目見るなり主を向いて、問い詰めた。


「いったいなにがあったのです」


 足早に館の木床を踏んで、そばに立ちはだかった部下の態度を、大国主はからかった。


「そんなに焦ってどうしたんだ。おれが意宇にいるのがそんなに珍しいか?」


「ごまかさないでください。いったいなにがあったのです」


 場の気配を感じただけで安曇は大それたことが起きたと悟って、追及の手をやめなかった。


 大国主は笑い話をするように、「実はな……」と、そこで高比古と狭霧にした話を繰り返した。話がわずかに進むなり、安曇は今にも卒倒しそうにぶるぶると肩や腕を震わせる。


 大国主の頭上から、安曇は責めた。


「嫌な予感はしたんです……。そんなに大事なことを、なぜお一人で――!」


「おまえに話したら、止めるからだ」


「止めますよ。万が一、あなたがここから消えでもしたら、出雲はどうなるんです! それも、この大事な時に――」


「おまえがいる」


「私が?」


「おれの代わりならおまえがいるし、高比古もいるが、高比古にとっての狭霧の代わりは、狭霧のほかにいない。惚れた女の代わりが存在しないことを、おれはよく知っているぞ? これが最良の策だ。そうだろう?」


 顔を真っ赤にして詰め寄る安曇は、大国主を威嚇して噛みつくようだった。


 対して、上座であぐらをかく大国主は、部下の顔を見上げてのんびりと微笑んでいる。


「覚えているか? 七年前――須勢理が死んだ時、おれは武王の位を退こうとしていた。武王からただの男になった暁には、須勢理の居場所を探す旅に出ようと思っていた。そうしなかったのは、狭霧のためだ。まだ終わっていないと狭霧がおれに教えたからで、おれは、狭霧のために生きたようなものだ。あれから、七年――七年分だけ、その時が延びただけだ」


「――状況が違います。それに、あの時も、あなたはそうしませんでした。狭霧がいなくても、きっとそうでした」


「そんなことはない。おれはあの時に、自分が弱い男だと思い知った。その弱い男がどうにか武王としてやって来られたのは、それなりの理由があったのだ」


 大国主は折れようとしなかった。上座であぐらをかいてくつろいで、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。


「ああ、すがすがしいいい気分だ。おれの今の気分がわかるか、安曇」


「まったくわかりません、穴持様」


 いらいらと答える部下に、上機嫌の大国主は声を大きくした。


「そういわずに、理解しろよ。おれは今、ようやく父親になった気分を味わっているんだ。父親らしいことを何一つできない男が、最後の最後に――。見てるか、須勢理。よくやったと、おれを褒めろ。それから、おれを置いて一人でさっさとそっちにいったことを悔め。おまえがおれを守ったところで、おまえなしで生きても、どうせいずれはそっちにいくんだ。おれに黙って一人でいったことを、無駄だったと悔め!」


 得意げに天を見上げて、大国主は声をあげて笑っている。


「穴持様……」


 とうとう安曇はぐらりとよろけて木床に膝をつき、ふらふらと壁際までいくと、壁にもたれて座り込んだ。



   ◇  ◇                        ◇  ◇



 それから、しばらく時が経ち――。意宇の宮には夜が訪れた。


 何事かあったのだと、大館の周りには遠巻きに人の囲いができていて、侍女や下男たちが世話をする時を窺っている。しかし、声を出す者は一人としておらず、あたりは静かだった。


 薦を開け放たれたままの戸口からは、夜風がひょうと忍び込んでいる。


 初夏の夜風はぬるく、部屋の内側に風が通ると、まるで姿のない蛇が宙をくねって、とぐろを巻いていくようだった。


 ひときわ大きな風が吹き込んだ、次の瞬間。高比古はびくりと肩を揺らして、宙を見た。館の中は暗かった。外庭の火灯かりが戸口や木戸の隙間から漏れ入るだけの闇の中で、高比古は、急に目の前で弾けた小さな星をふしぎがるようにまばたきをして、それから、つぶやいた。


「視えた……」


 応えたのは、大国主だった。


「視えたとは?」


 高比古は、しばらく答えなかった。しかし、ある時、心を決めたように正面を向く。大国主とさし向うと、まずは姿勢を正して、目と目を合わせながら慎重に告げた。


「いま――出雲の地霊の先視が変わりました。大神事の人柱は、あなた。出雲の地霊は、あなたと魂を結び合うことを決めました。――大神事をおこないます。いいんですね?」


「訊くのはこれで最後にしろよ、高比古。同じことを何度もいわされるのが、おれは嫌いだ」


 暗がりの中で高比古を向いた大国主の目には、闇の森に潜んで獲物を待つ獣を思わせる獰猛な華が戻っていた。


「一人で千人の命を奪える、千人分に値する命だ。おれをくれてやるからには、盛大に大和を……いや、この先出雲に仇なすすべてのものを呪ってやる」



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