青柴垣 (1)

 自分が大神事の髄、人柱となることが決まると、大国主は、誰よりもその大祭を心待ちにして、周りを煽った。


「出雲の武王、大国主みずからが、炎で燃え盛る灯台の中で出雲の守護を願う大祭だぞ。もっと騒げよ。盛り上げろ。宗像や越、それから南の端の阿多にまで噂が届くようにな。おれが炎に包まれていく様をご覧あれと、友国から見物客を招けよ。――そうだ、大和にも伝えてやれ。一世一代の大神事がおこなわれるから、見に来いとな。高比古がつくる出雲の守護をその目で見て、二度と出雲を下そうと思わなくなればよいのだ」


 そういって豪快に笑い、本当に異国へ使者を向かわせるので、側近たちが武王、大国主を見る目は怪訝なものを見るように変わっていった。


「しかし、大国主……あなたは武王なのですよ? 先日は事なきを得ましたが、大和の船団はすぐにまたやってくるでしょう。その時にあなたが不在では、いったいどうすれば……」


「大神事、大神事とおっしゃりますが、結局のところ大神事とはいったいなんなのです? それに、もしもその大神事が意味を為さなかったら――? 出雲は、あなたを無駄に失うことに――!」


「大神事がなにかだと? そんなものをおれが知っていると思うか? 大神事というのは、そのことをよく知っている連中が、やらなければ心底まずいと冷や汗をかいているが、それ以外の奴にはよく意味のわからん重大事だ。しかし、わからん以上、わかっている奴に任せるほかあるまい? ましてや、その連中の中には次の武王がいるのだぞ? ――大神事が意味を為さなかったら? まあ、ありえない話ではない。おれも、みすみす殺されてやる気はないしな」


 大国主がそういうと、側近たちは目を丸くする。


「みすみす殺されてやる気がないと申しますと……。その、あなたさまは大神事の人柱になるのですよね?」


「ああ、そうだ。灯台に籠められて火を放たれ、高比古がおれにはようわからんなにかをして、おれの命と引き換えに出雲の守護を仕上げるそうだ」


「あっ、わかりましたぞ。あなたさまは、その……生き残る気でいらっしゃるのですね? 狭霧様がそういっていらっしゃったように――そうか、なるほど、必ず戻って来られると信じておられるのだ。それでお引き受けなさったのですね……!」


「いいや、そういうつもりではない」


「では、いったいどういうおつもりで……」


 側近たちはかえって慌てることになったが、大国主は相手にしなかった。


「そのうちわかる。まあ見ていろ」






 雲宮の大宮や、庭や大路の植え込みの陰では、しきりに陰口がたたかれるようになった。


「狭霧様の次は、大国主を人柱として捧げるだと――? お后の次は、その父上であらせられる方を捧げるなど、大神事というのは、少々狂っているのではないか」


「そのような神事の祭主をつとめるなど――。ご自分の館に引きこもっていたと思えば、今は――見ろ、みずからせっせと支度をなさっている。高比古様は、いったいなにをお考えなのだ……」


 都の主、大国主を慕う者が多い杵築の宮では、その大国主を贄として祀りをひらく祭主、高比古への不満が募った。


 なぜ、我らが主、大国主を――。出雲の軍神に手をかけようとするのだ――。


 高比古をよく思わない人々は、人目も気にせずに噂をして、姿を見かければ睨みつけ、責め文句を口にした。


「弱ったな。これでは、高比古のほうが人柱だ。どうにかしないと――」


 雲宮に満ちる不和を察して、安曇が事態の収拾に乗り出すほどで、大神事がおこなわれる日が迫るにつれて、たしかに高比古は、雲宮中の不満の矢面に立たされていった。


 しかし、高比古に動じた様子はなかった。


 いつも通り――いや、笹の葉を思わせる目には凛とした輝きが宿り、誰彼かまわずに切りつけていくような、刃の切っ先に似た気配を取り戻していて、なにを聞こうが、どんな視線を浴びようが、まるでかまおうとしなかった。


「高比古、平気……?」


 狭霧が気になって声をかけても、答えは静かだ。


「なにも」


「――でも、あの……」


 高比古を気遣う気持ちはあるものの、狭霧は、それ以上高比古を庇う側に回れなかった。


 口にはしなかったが、狭霧も、大国主を屠ろうとしているくせに顔色一つ変えない高比古のことは、少なからずふしぎに思ったからだ。


 狭霧が贄になると思っていた時などは、やりたくないと館に閉じ籠って、人が変わったように泣いていたのに――。



 ――いま、どういう気持ちでいるの?


 とうさまは、本当に人柱になってしまうの?


 ――わたしからとうさまを、奪ってしまうの?



「その……」


 訊いてみたかったが、高比古の心中を考えると口に出せるはずもなかった。


 それに、大国主を形代にさせてしまうことになったのは、元をただせば狭霧自身のせいだ。


 でも、高比古はそれについて狭霧に話すことも、責めることもしなかった。


 あんたのせいでこうなったんだ、どうしてくれる――と、酷い責め文句でなじってくれればいいのに、それもない。


 胸の中がこんがらがって、どうすればいいのかわからず、思わず黙り込んでしまっても、高比古の口から大神事をやめようとか、嫌だ、やりたくないという言葉が出ることも、一度もなかった。


「人柱になるのが誰でも、おれに対する不満は起きたよ。人柱になるのがあんただったら『よくもまあ妻を』とか、『大国主と須勢理様の娘姫を――』といわれただろうし、心依だったら、哀れだと嘆かれただろうし、日女でも、なにかあった。おれは生粋の出雲の民ではないし、そういう奴が、出雲に関わる大きなことをやろうとすれば、こういう反発は必ず起きる。――今回だけじゃなくて、これからもきっと起きるよ」


「そうかもしれないけど……」


「もう決まったんだ。なにより、大国主が決めている以上、おれにできるのは、あの人が見る先視に向かって一緒に動くことだけだ」


「とうさまが見る、先視――?」


「そうだろう? 大国主は先を読んで、こうなることが一番いいと決めて動き始めたんだ。御津がどれだけ先視をおれに見せても、結局は、あの人が読んだ先視が選ばれて、おれはそれを実行していく。――あの人は、おれに、あの人の在り方を見せてるんだ。自分で決めろと、おれに教えてるんだ。――おれは、目を逸らしてはだめだ。大神事では、あの人を殺す気で闘う。あの人も、おれに殺されてなるかと拒むはずだ」


「とうさまを殺、す……」


 わかっていたことでも、たしかな言葉を聞いてしまうと、狭霧は気が遠くなっていく。


 それでも、高比古は表情を変えなかった。


「悪いけど、謝らないよ。おれは、あんたのとうさまと二人で戦にいくと思ってくれ。おれも死ぬ気で臨むし、大国主も運がよければ帰って来るが、命の約束はできない。おれは、あの人を殺す気でいるから」


 大神事がおこなわれる三日前になると、高比古は館を出て、先に日御崎ひのみさきに向かうことになった。


 色のあるものは一切身に着けず、高位の若者が好んでつける玉の御統みすまるで首や腕を飾ることもなく、真っ白の衣服に一振りの剣を佩いただけで、高比古は狭霧に別れを告げた。


「大神事の日に、終わったら会おう」


 かすかに笑って、簡単な別れの言葉を残して――。


 高比古があっさりと背を向けて出ていくと、狭霧は、涙が溢れて止まらなくなった。


 胸にはいろいろな想いが溢れて、渦を巻いた。


(三日後の大神事で、高比古は、とうさまを殺してしまうんだ。とうさまは、炎に包まれてしまうんだ。――わたしがなるはずだったのに、わたしはとうさままで巻き込んだ。長いあいだ出雲を守ってきた偉大な武王を、みんなの希望を――わたしが<形代の契り>をしなかったら、こうはならなかったのに。わたしは、とんでもないことをした……)


 こみ上げるものは、後悔だけだった。


 高比古がいなくなってしまえば、二人の館は静かだ。自分しかいないこの場所なら、どれだけ泣いても誰にも気づかれない――。そう思うと、ひくっ、ひっくと嗚咽がこみ上げた。そして、しゃくりあげながら、薄暗い館で、狭霧は泣いた。


(わたしだったらよかったのに。とうさまの軍旗なだけで、なにもできないわたしなら――。とうさまも、わたしみたいな娘に情をかけてくれなくてよかったのに――)


「かあさま……どうしよう」


 床に伏して泣きじゃくって、思わず助けを求めたのは、亡き母だった。


「かあさまだったら、どうする? わたしがもっとうまくやれば……かあさまみたいに、形代になったことを最後まで高比古に気づかれなかったら――ううん、それでもだめだ。自分が手にかけたと、わかった後に高比古が悲しむもの。わたしが形代になったのが、間違いだった? でも、そうしなかったら心依姫が死んでしまった……。はじめから大和に嫁いでいればよかった? あの夕べに、高比古がわたしのところに来てくれた時に、自分の身をわきまえて、きちんと拒んでおけばよかった? ……どうしよう、かあさま――」


 泣きじゃくっているうちに思い出したのは、幻のようになった高比古の姿だった。


 狭霧が形代になったとわかってからの彼は、身体の半分が骸か亡霊になったかのように塞ぎ込んで、暗い顔をしていた。


 いろんなことがあったが、今、一番強く思うのは、もう二度と高比古をああいうふうにはさせたくないということ。彼を支えたいということだ。


 でも、父を守りたいとか、父を慕う人たちの望みを潰えさせたくないとか、もちろんほかにも想いはたくさんある。


 涙が垂れて、狭霧の顔の下になったあたりの木床はびっしょりと濡れていた。自分の涙が染みた木目の上で、狭霧は拳を握りしめた。


(全部は選べないんだ。選べるのは一つだけなんだ。でも……選んでも、選べなくても、苦しいよ――)


 床に、耳をつけて寝転んでいたせいか。


 しばらくすると、遠くから、たん、たん、たん――と、軽い地響きが聞こえてきた。床を踏んだり、きざはしを上がっているようでもなく、もっとじんわりと闇に広がる足音だった。


 足音が聞こえてくる方角を考えると、館の外庭あたりだ。まだ遠い場所だが、あたりがとても静かで人がいないせいか、その人が近づいてくる足音は、狭霧の耳にしっかりと伝わってくる。


(誰だろう――)


 誰かに会うことになるなら――と、涙を拭こうかどうしようか、迷った。


 でも、そのままでいることにした。なぜか、やってくる人が誰かがわかったからだ。


 たん、たん――足音が響く間隔や、地面の踏み方を感じれば感じるほど、足音の主が誰かを思い当たった。その人の足音を意識して聞いた覚えはなかったが、幼い頃からそばにいたせいで、覚えようとしなくても、耳がいつのまにかその人の足音を覚えていたのかもしれない。


 それに、その人の足音が近づいてくるたびにほっとした。だから、絶対にその人に違いないと思った。


 きっとその人は、幼い頃から父のように接してくれた青年、安曇だ。


 ゆっくりと身を起こして立ちあがり、館の外へ出て出迎えることにした。


 入口を閉ざす薦を掻き上げて道をつくり、庭が見える場所まで移動した。すると、淡い月の光に照らされた暗い庭には、思ったとおりの人の姿があった。


 その人は、百戦錬磨の立派な武人の身体をしているくせに、齢のわりに幼く見える童顔をしている。武王、大国主のそばにいつも控えているくせに、なぜか出雲風の姿をしたがらず、狭霧は、その人が出雲風の角髪みづらに結ったところを見たことがなかった。今も彼は、黒髪を首の後ろで結っている。


 やってきた安曇は、高床につくられた館の上で待つ狭霧を見上げて、微笑んだ。


「狭霧――」


 目が合うと、狭霧も微笑んだ。


 同じ想いを抱えている人が来てくれた――と、そう想いもした。






 夜空には雲がかかり、月の前を雲が通り過ぎるたびに光は弱くなったり、強くなったりする。庭を射す光はまだらに、ぼやけているように見えた。


 ゆらゆらと照らしては陰る月光のもと、二人で館の回廊に腰かけて並ぶと、夜の庭を眺めた。


「今ね、本館は大騒ぎなんだ。大国主が、出雲中すべての小王を雲宮に呼び寄せていて、人が来るたびに宴を開いているから」


「宴?」


「ああ。あの人は、一度決めたらとことん進んでいくところがあってね、今も、思うとおりにしていらっしゃるよ」


 暗い庭を見つめる安曇の横顔は、微笑んでいるものの、気が抜けたようにぼんやりとしていた。


「だから、私もあの人を助けたいと思う。これまでずっとそうしてきたしね。これからも、ずっとそうなると思っていたんだけれど――」


 安曇の声は、いつもとちがった。力を失ったように静かだった。


「前にね、須佐乃男様からいわれたことがあるんだ。いつになったら一人立ちをするんだと――。私が穴持様を甘やかすから、そのせいで穴持様も私を頼りすぎていると。でも、結局、先に一人立ちをしたのは、あの人のほうだった。――あの人は、そうと決めたら後ろを見ない。誰かを待たない。だから、置いていかれる前に追いつけと、私はこれまであの人を追いかけて来たんだと思う。でも、今回限りは追いかけていけない。追いかけたところで、追いかけるのは私の役目ではないと、あの人は私を見限るだろう」


 そこまでいうと、安曇はくすりと笑って狭霧を向いた。


「おかしいだろう? こんなに大きくなっても、子供みたいな弱音を吐くなんて。しかも、狭霧のところに弱音を吐きに来るなんて――」


 狭霧は、首を横に振った。


「ううん。来てくれてよかった。わたしも安曇に会いたいと思っていたもの。――本当はかあさまに会いたかったけれど……でも、かあさまの代わりは、やっぱり安曇しかいないんだって、今、すごく思うの。ねえ、安曇。わたしの話も聞いてくれる?」


「もちろん」


 安曇は肩をすくめて吹き出した。だから、狭霧は尋ねた。


「どうして笑うの?」


「狭霧の話を聞くより先に自分の話をするなんてと、自分が馬鹿だと思ったんだ。狭霧が苦しい思いをしているのは、考えなくてもわかるはずなのに。ここへ来たのは、自分が苦しかったからだった。――父親役、か。血のつながりというのは、やはり強固なんだなあ。穴持様は、間違いなく狭霧の父だよ。あの人は、誰よりあなたの行く末の無事を祈っている。いくらそばにいようが、父親役は父にはなれないんだと、そう思うよ……」


「そんなことない。安曇は大事な家族よ」


 幼い頃から、困ったことがあるたびに狭霧が駆けこんだ先は安曇のもとだった。


 安曇は、狭霧に物心がついた時から、母と一緒に狭霧のそばにいた。それは、安曇が大国主から狭霧の父役になるよう命じられていたせいだったが、安曇はその命令を守って、母が亡くなった後は、父代わりだけでなく母の代わりまでもを務めて、狭霧を守ってきたのだ。


 狭霧が泣いていれば実の父親のように抱きしめて慰めたし、どうしても心細い時は、隣で眠ることもあった。


 でも、今――。隣に座る安曇の腕や胸は、狭霧にとって、むかし見た時よりも近寄りがたいものに感じた。


「……へんなの。むかしは抱きつくのになにも思わなかったのに、今はためらってしまった」


「それでいいんだよ。私は狭霧の実の父ではない、ただの男だよ。狭霧は、若い男に恋心を抱かせるほどの乙女に育ったんだ。気にしたほうがいいよ。それに、私が狭霧に触れたら、高比古がすねる」


 安曇は笑い話をするようにいうので、狭霧ははにかんだ。


 親しい人とこぼす笑い声は、狭霧の唇を軽くした。ぽつりぽつりと、狭霧は胸にあることを告げた。


「あのね、安曇――。わたしを怒ってない? わたしが馬鹿な真似をして、高比古の形代にならなかったら、とうさまはわたしを庇って形代になったりしなかった。わたしは、とうさまをみんなから奪うような真似をしちゃった――」


「怒るわけがない。狭霧が決めたことだ。決めた時は、必死だったんだろう?」


「うん、そうだけど……でも、つらくて――。形代になろうと思ったのは、そんな真似を心依姫にさせられないと思ったからだけど、わたしが高比古のそばにいかなかったら、心依姫は今ほど高比古から離れることがなかったし、形代にもなることもなかったの。わたしがはじめから大和に嫁いでいれば、出雲は引島の砦を襲われることもなく、長門と争うことも、滅ぼすこともなく、大和とも友国になれた。大神事が必要といわれることもなく、とうさまが形代になることもなかった。わたしが、大和へいこうとしなかったから……」


 声に涙が混じって言葉が途切れると、安曇は狭霧の背中に手のひらでぽんと触れた。


「そんなことを考えていたのか? 高比古にいうなよ。あいつが困るから」


「――高比古が?」


「狭霧を娶ってから、あいつは幸せそうだったよ。あいつにああいう顔をさせたのは、狭霧だろう? それをなかったことにしたいのか? あいつの幸せが、なかったほうがいいというのか? それは、あいつがかわいそうだ」


「――うん……」


「あいつのそばにいることを誇ってやりなさい。今、高比古は跡取りの顔を覚えた。あいつを煽ったのは穴持様だが、穴持様に、あいつは全身全霊で応えようとしている。――やろうと思ってできることじゃない。あいつの心は、まるではがねだよ。たいしたものだ……」


「とうさまが、高比古を煽った?」


「そうだろう。三日後の大神事は、神野から見れば神聖な神事なのだろうが、穴持様はそう考えていないよ。穴持様は、杵築の王位を継承する儀式だと思っている」


「杵築の王位の、継承――」


「あの人が形代になったのは、もちろんはじめは狭霧を守ろうとして始まったのだろうが、その後はそうじゃないよ。狭霧の夫になった高比古に自分のすべてを継がせるのが、今のあの人の狙いだ。今も、諸王と宴をひらいて高比古が王になった後のことを話している。だから、あの人には嘆きも悲しみもない。王位継承は、いずれおこなわれるべきことだ。それにもっともふさわしい時を見つけたから、あの方は迷わず向かったんだ。あの人らしいよ――」


 ふうと安曇は息をついて、寂しそうに笑った。


「だから、私も止めるべきこととは思わない。高比古本人がそれを理解しているし、二人のあいだのことだから、口をはさむべきじゃないと思う。このことに関して、私は関わりのないやじ馬だ。ただ、見守るだけだよ」


 安曇の丸みを帯びた目を見つめて、狭霧はつぶやいた。


「……そうだよね――、とうさまは力の掟を信じているもの。出雲に血の色は無用で、力こそがすべて。とうさまの子は、わたしじゃなくて高比古よ……」


 狭霧は、胸が苦しくなった。でも、胸のつかえもとれる気がした。でも、結局、息苦しくなった。


「わたしも、そうだね――わたしも、やじ馬なんだ。とうさまとは血のつながった親子だけど、とうさまの最期に、わたしは関わりがないんだ。とうさまは出雲の武王だから、実の娘よりも、後継ぎの高比古が大事だから――」


 そこまで思うと、たちまち狭霧には、昔の光景がよみがえった。


 もともと大国主は自分の子にかまうほうではなく、狭霧に、父と一緒に過ごした覚えはほとんどなかった。


 代わりに、大国主が息子のように扱って目をかけていたのは高比古だった。父が、出雲の血が一滴も混じっていない異国から来た少年ばかりをかまうのが、その頃の狭霧はたまらなく嫌だった。だから、高比古のことが大嫌いだった。同じように、高比古も狭霧のことを目の敵にしていた。力の掟の上では血のつながりなど無意味なのに、そんなこともわからないのか――と、その頃の高比古は狭霧をよく馬鹿にした。


 いくら狭霧が大国主の最愛の妻の忘れ形見で、ほかに大勢いる子らのなかでも「大国主が溺愛する唯一の娘」だと周りからいわれようとも、狭霧がそれを実感したことはなかった。


 父にとっての最愛の娘は、大切な宝であり、物だったから。愛情を注ぐのではなく、傷をつけたりなくしたりしてはいけない唯一無二の「物」であって、「娘」ではなかったからだ。


 そんなものは「娘」ではないと、狭霧は心のどこかでずっと思っていた。だから、噂と本当のあいだで宙ぶらりんになっている奇妙な感じを、いつも苦しく思っていたのだ。


 わたしはそんな娘じゃない――。


 大国主の娘とは名ばかりの、なにもできないただの娘だ――と。


「思い出した、わたし――。思い出したところで、どうしてあんなふうに思っていたのかはもう思い出せないけど――つらかったことは思い出した。でも……今は、とうさまが、わたしを無視してくれて嬉しい――。わたしよりも高比古を自分の子だと思ってくれて、嬉しい――。とうさまが、高比古の父として終わろうとしているなら、高比古もきっと嬉しいと思う。よかったねって思うし、高比古を愛してくれてありがとうって心から思う。でも……苦しい。それに、ほんの少しだけ、悔しい――」


「狭霧は、強くなったね」


 安曇は笑って、子供を宥めるようにぽんぽんと狭霧の背中で手のひらを弾ませた。


「――覚えているかい? むかし、狭霧は高比古を毛嫌いしていたんだよ? 大嫌いだと私に泣きついたこともあったね。――でも、あいつの存在を認められるようになって、ついにはあいつに嫁いだ。大人になったんだなあと、しみじみ思うよ。だから、大人の狭霧を相手にしていると思って、子供騙しの建前ではない、本音の言葉で話すよ」


 雲が通り過ぎるたびに、生き物のように揺らぐ月光のもと。狭霧を向いて、安曇は微笑んだ。


「穴持様が形代になることは悲しまなくていいし、自分のせいだと悔まなくてもいい。穴持様は今、自分の後継ぎの高比古を育てたい一心でいるのだからね。出雲の掟を信じて、力が似通った親子と互いに認める同士が、二人で決めたことだ。ほかの誰も口を出すことはできない。――ただ、穴持様が形代になろうと決めたもともとの原因は、間違いなく狭霧だよ。あの人は、狭霧の身代わりになることができて喜んでいる。とうとう狭霧の父親になれたと安堵したから、次の順……高比古を育てるほうに心が移れたんだ。あの人は、二人も子をもつことができたんだ。羨ましいよ……」


 最後に安曇は、主をたたえるように唇の端を吊り上げる。


 安曇の笑顔は幸せそうだったが、どこか物悲しかった。狭霧は、その笑顔をじっと見つめた。


「なら、安曇の子は、わたしでしょう?」


 安曇は、ぽかんと唇をひらいて狭霧を見つめ返した。


「うん?」


「力の掟の上では、安曇の子はわたしよ。わたしにとって一番長い時を一緒に過ごした家族は、安曇だもの。だから、もしわたしに子供が生まれたら、安曇にしてもらったようにその子と過ごして、安曇みたいに話を聞いてあげたり、安曇にしてもらったことを子供にしてあげたりして、その子に、家族っていうのはこういうことだよって伝えていくんだと思う。力の掟って、そういうことだよね? 意思を継ぐ者が子――そうよね?」


「そんなことをいってはだめだよ。穴持様が――」


「事実よ」


 狭霧は唇を尖らせる。


 安曇はくすりと笑った。


「事実。――事実、か」


 小さく反芻して、安曇は夜空を見上げた。


 安曇は、狭霧の背中に置いていた手のひらを放して、自分の膝の上まで遠ざけてしまった。


 薄雲がかかったその日の夜空は、きらきらと光をため込むもやに覆われている。月光に輝いて浮かび上がる澄んだ黒雲は、とどまることなく風に運ばれて、するすると流れていく。


 すん、と一陣の風が通り過ぎ、庭を覆う草木がそよぎ、ざっと音を立てた。


 静かな夜景をじっと視界にとどめて、安曇は、星の光を思わせる清貧な笑みを浮かべた。


「事実は、後からわかることもあるよ。はじめは意味を成さないと思ったり近寄りがたいと感じるものも、後で意味がわかったり、いとしいと感じることがある。――しかし、それがどれくらい後になるかは誰にもわからない。ということはつまり、事実は、誰にも理解できないのだろうね。絶対に正しいことはこの世に存在しないと私は思うし、どうすべきか迷った時にするべきは、付いてくる不都合を厭わない覚悟だと思うよ」


 月明かりに包まれた静かな夜。安曇の目をじっと見つめて聞き入る狭霧に、安曇はふふっと笑みをこぼした。


「だから、なるべく悔まないようにしなさい。穴持様と同じ風を浴びて、同じ光の下にいられるのは、あと三日かもしれないのだよ? 穴持様を誇りに思いなさい。あの方は狭霧の唯一の父で、長年出雲を守り、なおかつこれから先も守ろうとする強い強い男だよ。その人の血が流れた娘だということを一瞬たりとも忘れずに、誇りなさい」


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