青柴垣 (2)

 狭霧のもとを去ると、安曇は大路をいって穴持のそばを目指した。


 その晩、大国主がひらいた宴に招かれていたのは、石見国の首長、石玖王。

 

 石玖王は、大神事に反対する者の筆頭で、御子、石土王を連れて石見国に戻ったものの、結局その長子と共にとんぼ返りで戻ってくると、着いたその日に喧嘩腰で雲宮に乗り込んできた。


「穴持が大神事の人柱になるだと!? 高比古も高比古だ。そんなことをやらせるなんぞ、正気の沙汰か!」


「まあ、酒でも飲んで話そう、石玖」


「ああ、雲宮中の酒を飲み干してやる。納得のいく説明をしろ!」


 宴席の上座を陣取った二人は、二人だけの話を始めたので、安曇は席を外そうと狭霧のところへ出かけていたのだが、様子をうかがいに本宮に戻ると、奥にいた大国主と石玖王は下座に席を移していて、それどころか、宴席には人が増えていた。


 いつのまに呼ばれたのか、先に杵築に着いていた意宇の出雲王、彦名もいて、彦名の従者や、ほかにも何人か姿があった。そして、そのまま一晩中語り明かすことになった。


 翌朝の明け方、目を赤くして本宮の外に出た頃、石玖王は高比古を守る側に回っていた。


「穴持の跡取りを悪くいう奴は、この俺が許さねえ。大神事に意味などなく、大国主が高比古と神野に踊らされているとかいう奴は、どこのどいつだ!」


 あくびを噛み殺しながら、彦名は石玖王をからかった。


「高比古と大神事を信用していなかったのは、石玖、おぬしではないのか? 高比古は、出雲一の事代だ。あいつに任せておけば、間違いはなかろう」


 彦名は、大国主のこともからかった。


「本当におぬしは、最後までわがままな奴だなあ――。まあ、おぬしが決めたんだ。間違いはなかろう。好きにしろ」


 杵築と意宇、西と東に位置する離れた都で共に出雲を守ってきた武王と出雲王は、互いに文句は多かったが、決して対立することはなかった。


 暴れ牛が群れへ戻るようにのっしのっしと大路を遠ざかっていく石玖王とは裏腹に、彦名は、去り際にほんの小さなそよ風を起こすふうに小さく笑った。


「それもまた、よし。もしものことが起きれば、おぬしがいなくなってできた穴は私と高比古で埋めよう。安堵しろ」


 長年共に王位に立ち続ける相棒に、大国主は軽口で返した。


「気を遣っている気か? 悪いが、後のことは露ほども心配していない」


「勝手だな」


「まあな」


「おぬしらしいな。――では、私は仮宿へ戻る」


「おれも寝る。じゃあな」


 朝焼けの中、側近をともなって去っていく彦名を大国主の隣で見送って、安曇は苦笑した。


「あっさりしていますね」


「彦名とは、いつもこうだ。おれも寝る。石玖の相手が疲れた……」


「そんなことをいって――。石玖王は、あなたを心配しておられるのですよ」


「心配? 違うな。あいつは、武王を途中で退くおれが気に食わないんだ。中途半端が嫌いな堅物だから」


「そうかもしれません。でも、わかってくださいました」


 安曇が従順にうなずいていると、大国主はふと動きを止めて、そばに慎ましく立つ部下を振り返った。


 朝焼けの刺すような光を浴びながら、ぼんやりとして、大国主は安曇に尋ねた。


「おまえは?」


「はい?」


「おまえは、おれになにかいうことはないのか」


「文句なら真っ先にいいましたよ」


「あれで気が済んだのか」


「はい、済みました。もっと文句をいったほうがいいですか」


「いや、いい」


 大国主は笑って、「じゃあな」と背を向けて、自分の寝所がある西の宮へと去っていく。


 強烈なまでの光の源になった東の方角とは違って、大国主が向かう西の方角の空は、寒そうな闇の色をしていた。その後ろ姿が館の太柱の陰に消えるまで、安曇はその場で立ちつくした。






 それから一日が経ち、二日が経ち――。


 日を追うごとに、雲宮は人で溢れていく。


 雲宮を訪れた客人の中には物見遊山を楽しむように闊歩する者もいたし、もてなす側の杵築の下女たちも慌ただしく立ち回った。


 大神事の日になると、宍道の湖を渡った先にある島に住まう小王や、その向こうにある異国の使者までが、雲宮へ辿りつこうとやってくる。


 杵築と意宇をつなぐ大路には人の列が続き、宍道の湖には西の岸へ向かう船がひしめき合い、出雲の西の海門、神戸かんどの港は、訪れる船の案内で忙しなくなった。


 王や使者だけでなく、民も大移動を始めた。


 山側の地に暮らす民たちは総出で里を出て、海が見える平地へと下り始めた。


「海へ向かえ――。大神事の折、降臨する大地の神は海と陸のはざまに現れる――」


 かつて須佐乃男が王になった頃におこなわれた大神事を知る爺や婆は、そういって里の者を導き、海岸を目指したのだ。






 大神事がおこなわれるのは、一年の中でもっとも夜が長くなる日、夏至の夜だ。始まりは、日没。


 その時を見越して、昼過ぎになると、大国主のもとに、神野の大巫女が訪れた。


「そろそろ支度をせい。向かうぞ」


 大国主は、まだ宴を続けていた。宴は幾晩も続き、昼も夜も広間からは宴席が片づけられることがなく、本宮の広間には酒壺や酒の肴が乗る高杯たかつきが並んでいた。



 神野の大巫女が本宮に現れた時も、大国主は上座で肘をついて寝転んでいて、入口に現れた高貴な女人の人影を上座から見上げて、わざわざ芝居がかったふうに声を大きくした。


「ああ、あなたか。あなたがおれを、人柱となる場所へ案内してくれるのか」


 本宮の前には、白木を組み合わせてつくられた御輿みこしが用意されていた。担ぎ棒のそばには白い衣装に身を包んだ男が膝をつき、頭を垂れている。


 迎えに現れた大巫女に従って本宮から出た大国主は、それを目にすると大笑いした。


「これに乗れというのか? 冗談じゃない。おれは馬に乗っていく」


 いうなり、きざはしを下りていこうとするので、大巫女はその足を止めようとした。


「それ以上降りてはならん。どこへいく気だ」


「どこへ? 兵舎に決まっておろうが。馬に乗るんだから」


「だめだ。大神事で形代になる娘は――いや、そなたは男だが……とにかく、形代になる者は、儀式の場へいくまで土を踏んではいけない決まりだ。この、真白き御輿を見よ。これは、木々からよけいなものを削り取って清められた、そなたのための神具で――」


「おれは武王だぞ? 武王の乗り物といえば戦馬だろうが。――安曇、兵舎へ人を向かわせて支度をさせろ。馬は黒毛の黒雷がいい」


「はっ――」


 背後に控える安曇に命じる声を聞きつけると、大巫女は、目尻にさした赤の化粧を震わせて激昂した。


「黒だと――? 形代になる者は、白以外のものを身につけてはいけない決まりだ。ましてや、馬にまたがって獣の香りを染みつかせるなど――。そのくせ、そなたは……宴などをひらいていたのか? 酒を身体に入れたのか――なんと……」


「なぜだ? それのなにが悪いのだ」


「そういう決まりだ。形代になる者の聖なる気配が失われて、大神事の効き目が薄れるから。人柱として、使い物にならないからだ。今日に備えて、三日前から身を浄めておくようにと伝えた使者は辿りついていただろう――?」


「知るか」


 大国主はせせら笑って、横を向いた。


「なにが決まりだ。娘ではなく男の形代を使う神事も、その神事を巫女でなく事代がおこなうのも、こたびが初めてのはずだ。神野に伝わる決まりにたとえ意味があろうが、それが新しいものに都合よく噛み合うと考えるほうがおかしくないか?」


「高比古は、事代としてではなく禰宜としておこなうのだ。であれば、巫女がするのと同じく――」


「それでもだ。巫女以上に神事に関わる禰宜が、これまで出雲にいたか? しかも、あなたたちの先視がいうには、この大神事では効き目も千年に渡るほど長いという。すべてが初めて、これまでとは桁違いだ。――だから、これでうまくいけば、すべてが明らかになる。形代になる者は誰でもよく、儀式を操る奴も誰でもいい。できる奴がうまくやればいいということになり、『力あるものが上に立つ』という力の掟が、ここでも通用するようになる。あなたたちの決まりは幻であると、このおれが思い知らせてやる」


 大国主のいい方は、宣戦布告をするようだった。


 大巫女は朱で彩られた唇を噛んで、口惜しそうに眉根をひそめた。


「そなた、もしや……」


「ん? なんだ? おっしゃりたいことがあるなら、いえばいい」


 大国主がけしかけると、大巫女の目は我に返ったようにまたたくまに冷えていく。


「特別いいたいことなどない。杵築の武王とはこうも乱暴者なのかと、そう思ったのだ」


「その乱暴者の親の顔が見たいとは思わないのか?」


 大国主は、ははは、と声を上げて笑う。それを見つめる大巫女の表情は色を失っていき、一切の感情が立ち消えた真顔になった。


「忠告する。無駄口は慎んだほうがよい。御輿に乗っているあいだ、形代は唇を閉じる決まりだ。――いっても、そなたは聞かないのだろうが」


「よくわかっているじゃないか?」


 大国主は冷笑した。


「ああ、そうだ。おれは、あなたたちの決まりを守ってやる気はない。おれは健気な乙女ではないし、これまで神野の教えに従った覚えもないし、これから従ってやるつもりもない。あなたがいうとおりのことをして、あいつに協力してやる気もない」


「あいつとは――?」


「高比古だ。あいつが、本当に千年に渡って出雲に守護を生んでみせる男なら、出雲の化け物と同時に、このおれを封じてみせるがいいのだ」


 本宮の入口に用意された御輿の屋根の、さらに向こう側――。本宮から雲宮の門までまっすぐに続く大路に、砂埃が舞い始めた。次いで、駆けてくる馬の群れの影もおぼろげに見えてくる。


 大国主の背後から、安曇が進み出ていく。それを合図に、ほかの側近たちも一人、また一人と階を下りて、御輿とそれの担ぎ手たちを別の場所に追い払うと、階の下を広く空けさせた。そこが、主が馬にまたがる馬場になるからだ。


「黒雷がまいりました、穴持様」


 安曇から声がかかると、大国主は低い声で唸るように応えた。


「いくぞ」



  ◇  ◇              ◇  ◇



 狭霧が、大神事がおこなわれる場所、日御崎ひのみさきへ向かったのは、大国主が出発した時よりずっと早い明け方だった。


 岬の灯台へいこうと狭霧を迎えに来たのは、日女。日女が狭霧のもとを訪れたのは、夜が明けてすぐの、地面に夜の湿り気がうっすらと残っているうちだった。


「私は高比古様のところへいく。おまえもいくか?」


「――どうして、わたしを誘ってくれるの」


 狭霧は、奇妙に思った。


 日女はかつて、狭霧を毛嫌いしていた。自分こそが高比古のそばへいくのだといって、狭霧を追い払うことに熱心だった。おまえの血は王者を誘う。おまえの母も祖母も王者のもとへいって、巫女として最期を迎えたのだから、と――。


 尋ねると、日女は少し黙ってから、日女自身もふしぎがって答えた。


「さあ? なぜだろう。 おまえがいたほうが、高比古様が落ち着くから? わからないが……理由をいちいち考えることがそんなに大切か? おまえといくほうが面白そうだから。これでいいか?」


 日女は問い詰められるのを嫌がって、答えたものの、適当に思いついたことを口にしただけという雰囲気だった。


「いいから、いこう。おまえがいかないなら、私だけでいく」


「……ううん、いく。支度をするから、すこしだけ待って」


 寝ているあいだに着ていたゆったりとした衣を脱いで、昨晩から用意しておいた衣装に着替える。


 袖に腕を通して、胸の合わせの襟紐を結んだり、帯を締めたりしているあいだ、狭霧の頭の中はもやもやとして重苦しかった。紐を結わえる手はいつもどおりに動くのだが、なぜそんなふうに器用に指が動くのか、頭と心はふしぎがる――そういう気分だ。


(面白そうって――遊びじゃないのに……。あなたがわたしを誘っている場所は、とうさまが捧げられる大神事の場所よ。高比古が、とうさまを人柱にした神事をおこなうのよ。とうさまが殺されてしまうのよ。とうさまを殺してしまうのは……もういい、やめよう)


 きゅっ。きつく結び目をつくると、狭霧は、頭の中に立ちこめるもやを消してしまおうと頭を振った。


 父、大国主が自分に代わって形代になったと聞かされた日から、狭霧はうまく寝つけなくなっていた。


 わたしのせいだ。わたしの――。


 はじめに思っていたとおりに、自分が大和の若王に嫁いで和睦の使者になっておけば、今日という日が来ることはなかった。


 どこで道を誤ったのか――。そう考えれば、岐路はまちがいなくあの初夏の夕べ――狭霧が寝所にしていた東宮の庭で、黄昏時に夏の花の甘い香りを嗅いでしまった時だ。


 あの時、あの庭にやってきた高比古を追いかけなければ――。


 手をつないで、甘い香りが立ち込めた夕暮れの庭を横切ってしまわなければ――。


(やめよう、いけない)


 狭霧は慌てて、さらに強く頭を振った。


 結局、頭の中のもやは晴れていなかった。


 安曇から、「そんなことを考えてはいけない」といわれようが、いくら理解していても、ふとした時に不安と後悔は頭をよぎってしまう。そして、とうさまの命を脅かしているのは自分だと思うたびに、雷の刃でぐさりと胸を貫かれるように気が遠くなった。


「まだか、狭霧」


「いまいく、ごめん――」


 日女の不機嫌な声を聞きつけて我に返ると、ふらふらと壁を伝って歩いて、薦の隙間をくぐり、外へ――。


 日女は、朝もやの残る早朝の庭を背にして立っている。庭に下りて、真正面に並ぶとそれに気づくが、日女は狭霧よりも背が低かった。細い首の上に、目鼻立ちが整った小さな顔が乗っている。でも、日女の背は実際よりも高く見える。それは日女の目つきが鋭くて、強くて大きな存在に見えるせいだ。

 

 今も、日女は笑っていたが、目が合うと狭霧は視線に射抜かれるようだと思った。


「いこう」


「うん――」


 




 夜が明けたばかりだというのに、兵舎にはすでに大勢の武人や兵たちがいて、気難しい顔をしたり、肩を落としたりして歩いていた。


 馬屋にも馬番が大勢揃っていて、あやかしにとり憑かれでもしたように自分の役目に没頭して、馬の毛を撫でたり、たてがみを梳いたりしていた。


 しかし――狭霧が現れると、馬番たちはすぐさま手を止め、狭霧のほうを気にした。


 父王を失うなんて――と同情されている気もしたが、責められている気にもなった。


(わたしのせいだ、わたしの――)


 苦しくて、苦しくて。


 馬番から手綱を渡されると、狭霧は、逃げるように鞍に飛び乗って手綱を操った。


 雲宮の大路を抜け、王門を出て、日御崎へ続く一本道を駆けながら、狭霧は、朝の風の中で喚いた。


「わたし……わたしが嫌い。わたしは前となんにも変わっていないわ。とうさまの娘っていうことが苦しくて、血筋だけは立派なくせになんにもできなくて、みんなのお荷物になって――!」


 日女はちらりと狭霧を見やると笑って、疾風の中で応えた。


「すっきりしそうだな、私もやろう。――巫女の頂きを目指した私の十年と、高比古様に捧げた二年を返せぇ! 宗像の姫のくそ野郎。大国主のばか野郎。その娘の、おたんこなす!」


 二人が駆ける道は、稲田の中を貫いていた。広々とした平地を抜けると、次は、海との間に横たわる森の中に入る。


 ぴいぴい、ちち――。けん、けん。朝の森は、鳥や虫、獣の声で騒がしく、そこに、どど、どど――と湿った土を蹴る蹄の音が加わり、響いている。


 日女の大声は、早朝の森の喧騒に吸い込まれて、人の気配のしない緑のしじまに消えていった。


 厚く生い茂る緑の陰になった薄暗い道で、隣り合って早駆けをしながら、狭霧はむっと眉根を寄せて日女の横顔を覗き見た。


「あのね……」


「なんだ」


「――真似しないでよ」


「なぜだ。叫んで気を晴らすのは、おまえだけの手法か」


「そういうわけじゃないけど――」


「なら、私の勝手だ。さっきから、なにをぶつぶつ怒っているんだ。憂鬱なのは自分だけとでも思っているのか? そんなことはない、私もだ」


 狭霧は、それ以上の文句をぐっと飲み込んだ。


「それは、そうだけど……」


 日女はふんと鼻を鳴らした。


「不満があったところで、それをどうするというんだ。今日が始まったのだから、今日をうまく終わらせるほかないだろう? 私は高比古様を助ける。おまえはなにをする? だいたい、いやなら、おまえはなぜ私と来たんだ?」


「なぜ、あなたと来たか? あなたに呼ばれたからよ。朝っぱらから――」


「それだけか? ふうん。付き合いがいいんだな」


 日女は、そこで口を閉じてしまった。


 二人の間で交わされていた言葉が途切れて、どど、ど――と獣の足音が響くだけになる。


 沈黙の中、勇ましく響き渡る蹄の音に耳を傾けながら、狭霧は唇に力を込めて黙り込んだ。


 日女は、決して狭霧を責めたわけではなかった。でも、いやにむしゃくしゃとしてたまらなくなった。


(わかってるわよ。どうせ、今さら昔には戻れないわよ。し損なったことはたくさんあったけれど、いつもわたしは真剣だった――だから、悔んでいるわけじゃないわ。少なくとも、その時のわたしはできる限りのことをしたつもりだったもの。だけど……)


 でも――。これまでのことを思うと、どうして――と、胸が締め付けられる。


 父の軍について遠賀へいった時、どうして自分は一人で森にでかけてしまったのだろう? 安曇は、そんなことをしてはいけないといっていたのに。


(わたしはあの時、輝矢の面影を探していたんだっけ。輝矢が死んでしまったことが、どうしても信じきれなくて――)


 こっそり一人で出かけた遠賀の森で、狭霧は大和の若王、邇々芸に出会った。そして、その森で浚われて、大和の陣営に連れ去られた。


 でも、あの場所であの人に出会わなかったら、自分は果たして、今の自分になっていただろうか?


 そう考えると――狭霧はきゅっと唇を噛みしめた。


(あのことがなかったら、たぶん、わたしは国々のことを学ぼうとは思わなかった。邇々芸様に浚われたあの時に、知らなかったら終わるってあんなに焦らなかったら――。それで、高比古から教わろうとしなかったら、あんなに毎日は、高比古と一緒に過ごさなかった。彼の近くにいるとほっとするっていうことに、気づかずに済んだ。そうしたら、今頃わたしは、阿多の火悉海様や、邇々芸様のところにいっていたかな。――それは、ないな。高比古に出雲の外のことを教えてもらわなかったら、わたしはきっと一生出雲から出ようとしなかったもの。――じゃあ、もしも、高比古に抱きしめられた後に、彼を追いかけていなかったら? わたしは大和へ嫁いで、みんなが丸く収まっていたのかな……)


 もし、彼と今のような仲にならなければ――。そう思うと――狭霧のまぶたの裏には、くすぐったそうに微笑む高比古の顔がじわりと浮かんだ。


 高比古が、小声で照れくさそうに頼んだ時の言葉も、耳が思い出した。


『なあ――おれの子供を、産んでくれるか』


『え?』


『子供が欲しい。なんていうか、そういうのをやってみたくなった。……あんたなら、いい母親になりそうだし』


 その時、高比古は狭霧の髪に顔を押しつけて、狭霧から表情が見えないように顔を隠していた。


 あの時の彼は、いったいどんな顔をしていたんだろう――?


『狭霧を娶ってから、あいつは幸せそうだったよ。あいつにああいう顔をさせたのは、狭霧だろう? それをなかったことにしたいのか? あいつの幸せが、なかったほうがいいというのか? それは、あいつがかわいそうだ』


 そういって高比古を想ったのは、安曇だった。


 疾風が吹き荒れる馬上で、狭霧は、手綱を握り締めた。


「う……」


 ひくりと喉が鳴って、目の前がだんだんぼやけていく。涙が溢れて止まらなくなって、そのうえ、大声で喚きたくてたまらなくなった。


 ど、ど……。土をえぐりながら駆けていく馬の上で、振動に身を任せてぐらぐらと揺れながら鞍にしがみついた。身体は、姿勢を正そうと力を込めなければ今にも振り落とされてしまいそうに揺れている。目の前に映る茶色のたてがみも、ぐらりぐらりと上下に大きく揺れていた。


 揺れに翻弄されているうちに、狭霧は子供のように泣きじゃくった。


「う、うわあああん、ひっく、ひっく、わああああ……」


 嗚咽も震えも、こみ上げてくるなにもかもを拒もうとせずに、震えるだけ震えて、出せるだけ声を出して、滴るだけ涙を流した。


 隣を駆けていた日女が、ぎょっと目を丸くして狭霧を向いた。


「えっ……?」


「ふっ、わああん、うえっ、ええん、ひくっ、わああん」


 頬に垂れていく涙をぬぐおうともせず、狭霧は風を浴びて泣き続けた。


 日女は呆れたように唇を閉じて、狭霧の手元――ほとんど力なく手を添えられているだけの手綱をちらりと見た。


「――鞍から落ちるなよ? おまえの馬が、操られなくても自分で道を選べるほど賢いことを祈っておくよ」


 日女は狭霧を心配したが、止めようとはしなかった。


 べつに、たいしたことじゃない。


 そのまま続ければどうだ?


 日女の態度は狭霧にとって、無言の許しだった。だから、ほっとして、その後も思う存分泣きじゃくった。


「うええん、えっ、えっ――」


 胸では、稲妻が天のほうぼうから落ちてくるように、強い思いがあちこちで悲鳴をあげ始めた。




 とうさま、ごめんなさい。


 かあさま、ごめんなさい。


 わたしのせいで、こんな日が来てしまった。


 結局わたしは、あなたたちの血を引く立派な娘にはなれなかった――。


 だけど――、でもね――。


 少しずついろいろなことを覚えて、絶対に手放したくない大切な思い出を、この腕にたくさん抱えることができた。


 たとえば――耳たぶに落ちてくる優しい声や――。


 寄せ合った身が感じた温かさや、恥ずかしそうに離れていく気難しい顔も――。


 それから。内緒で〈形代の契り〉を交わした後に、自分を思い切り罵倒した怖い顔も。


『いつか、おれの子を産んでくれるっていったろ? おれをこの世に繋ぎとめるのは、あんただけなんだよ。どうして――』


『幸せ? たった一年の幸せが、いったいなんだ! おれに生きる欲をもたせたのは、あんただろう!』


 ずき、と軋んだ胸の痛さも――。


 そうか、夫婦になったっていうことは、わたしの人生を高比古にあげたっていうことなんだな――。


 わたしはあの時、高比古に内緒で、高比古の人生の一部を勝手に決めてしまったんだ。だから、高比古はあんなに怒ったんだ。


 そして、わたしも、高比古の人生をもうもらっているんだな――。




 その時の胸の痛さを思い出すと、狭霧の涙は、ちらちらと落ちるものに変わった。


 号泣するのではなくて、静かに泣き咽ぶように――。しとしとと降る五月雨のように染みていく涙越しに朝の森の景色を見ながら、狭霧はぼんやり思った。


(そっか――。涙にまで、子供の涙と大人の涙があるんだな……)


 それから、そっとまぶたを閉じた。


 館の木戸を閉じて外の光をいったん遮るように、目尻に溜まった涙を、すべて頬へと落としてしまいたかった。






 日御崎は、ごつごつとした岩場ばかりの荒々しい景観の中にあり、その岬から見渡せば、聖なる島と呼ばれる岩島が波の上に頭を突き出しているのが見える。


 日御崎の灯台は、岩場に寄り掛かるようにして建てられた五層建ての高殿たかどので、大神事を控えたその日の灯台は、建てられた本来の目的を無にするようにさまざまな神具で飾りつけられていた。


 入口となる場所には童の胴くらいの太さがある巨大な蛇縄が据えられ、その周りも、真っ白な布が聖なる壁をつくるように垂れてひらひらと風になびいていた。


 狭霧と日女が辿りついた時、ちょうど高比古は、灯台の前でぽつんと立っていた。


 出雲風の白い上衣を着て、袴をはき、白い帯で留めている。帯に重ねて結わえた剣帯に朝日の色に輝く剣を提げていたが、その銀色が、高比古が身につけた中で白ではない唯一の色だった。


 狭霧と日女が駆る馬の蹄の音には気づいているだろうに、高比古はそこで微動だにしなかった。ぼんやりと上を向いて、灯台の頂きあたりをじっと見上げている。


 狭霧と日女がかなりそばまで近づいてから、ようやくゆっくりと背後を振り返る。


 二人が来るのを出迎えた高比古は、静かな笑顔を浮かべていた。


「どう、どう」


 手綱を引き、鞍から降りると、高比古は狭霧と日女に笑顔を向けた。


「――おはよう」


「おはよう。高比古」


 地面に降り立って、久方ぶりの挨拶を交わした。


 狭霧は、そうやって二人で距離を保って立っているのが気味悪くて仕方なかった。小さな歩幅でふらりと進み出て、狭霧が一歩一歩近づいていくと、高比古はそっと腕を広げて胸をあける。


「高比古……」


「うん」


 笹の葉を彷彿とさせる涼しげな目は、狭霧を気遣って細められていた。その瞳は、「おいで」と狭霧を呼ぶようだった。吸い寄せられるようにもう一歩進んで、空けられた胸元に頬を寄せると、高比古の腕は待ち構えていたように狭霧の背中を囲って、自分のもとに包み込んだ。


「迎えにいけなくて悪かった」


「ううん、日女が連れてきてくれたの。助かった……。一人だったら、怖くてここに来られなかったかもしれないから――」


「――しばらく、一人で平気だったか?」


「うん、平気だよ。ただ、高比古に会えたらほっとして……ああ、一人だったんだなあっていうことを、思い出しちゃった」


「うん……」


 高比古が狭霧を抱き寄せたのは、それほど長いあいだではなかった。狭霧の肩に手を置いて自分のもとから離すと、高比古は頭上から狭霧の真顔を見下ろして、微笑んだ。


「あんたは今夜、大国主の無事を祈れ。おれの代わりに――」


 高比古が口を使って話をできなかった頃に心と心でやり取りをした時のように、狭霧には、高比古の強い思いがなだれ込んできた気がした。




 そう願いたくても、おれにはできないから。


 ――だって、おれは神事を進めなくてはならない。あの人を殺すつもりで臨まなくてはいけない。


 だから、おれの代わりに、おれの分まで、親父の無事を祈ってくれ。頼む――。




「うん……」


 狭霧は、微笑もうとした。でも、苦しくて笑い切れずに、少し眉が歪んでしまった。

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