約束の夜 (1)
数日前に意宇から杵築へ向かった武人がいたので、その日に戻るからとことづてを頼んであったせいか、雲宮の王門のそばには、今か今かと狭霧を待つ女人の姿があった。
その女人は狭霧がよく知っている人で、名を
恵那は王門の周りをうろうろとしていて、狭霧が乗る馬がやってくるのを見つけるやいなや門をくぐって迎えに出て、細い腕を大きく振った。
「狭霧様、お久しぶりです。まあ、まあまあ、立派になられて――!」
恵那は母の死後も狭霧の面倒を見ていたが、数年前から、父親の身体の具合が悪いということで故郷の里に戻っていた。
だから、狭霧が恵那と会うのは、かなり久しぶりのことだった。
「恵那! 父御の病は――」
懐かしい人を見つけて、狭霧の顔はぱっと明るくなった。
でも、鞍から飛び降りて、両腕を差し出した恵那と手と手を合わせて、いったん再会の喜びに浸ると、はっとして表情を曇らせた。
そんな顔をするなとばかりに、恵那はかえって陽気に笑った。
「ええ、父は天にのぼりましたよ。家族みんなに看取られて、私に暇を与えてくださった
「またわたしのそばにいてくれるの? でも、恵那。実はわたし、いまは意宇に移り住んでいて――」
「ええ、聞きました。意宇くらい、なんです。恵那は、姫様がいくところならどこへでもいきますよ」
そういって恵那は、いまにも折れそうな細腕で自分の胸をどんと叩いて見せた。
恵那と隣り合って大路をいきながら、狭霧が目指したのは自分の寝所だった。
狭霧の寝所は、父、大国主が住まう本宮の東に建つ舘の一角にある。
久しぶりに自分の居場所へ戻ってみるものの、狭霧は目をしばたかせた。
必要なものはすべて意宇へ運んでいたので、その寝所からは物がなくなり、殺風景になっているはずだった。それなのに、減ったはずの寝具はむしろ増えていて、髪結い道具も、ひと揃いを仕舞っておける角籠ごと増えていた。それに、見たことのない華やかな壁掛けまでが木の壁に垂れている。そこには、前よりむしろ物が溢れていた。
「ここ、誰かが使ってる?」
目を丸くする狭霧に、恵那は種明かしを喜ぶように笑った。
「恵那が整えておきました。穴持様から命じられたんですよ。意宇より居心地をよくして、あなたをここに居つかせろって」
母が生きていた頃から雲宮に仕える恵那は、ほかの侍女ほど大国主を怖がらなかった。
「ですから、私、いっておきました。いまからそんなでは、いつか狭霧様が誰かに嫁いでこの宮を出る日が訪れたら、あなたはいったいどうなさるんですかって」
いまもそんなふうに父の話をするので、狭霧のほうが心配になるほどだ。
「恵那、そんなことをいったの? とうさま、怒らなかった?」
「ええ、それはもう、大激怒。噛みつかれるかと思いましたよ。だから私は、申し訳ありません、では、もう一度お暇をいただきましょうかと謝ったんです。そうしたら穴持様は、いいから狭霧様の面倒を見ろと」
恵那は、いたずらを喜ぶふうにくすくすと笑った。
「それはもう、胸がすく想いでしたわ。いえ、けっして私は、穴持様をないがしろにしているわけではありませんの。でも、私が仕えていたのは穴持様ではなく
そういって狭霧の顔を覗きこむ恵那は、もとの乳母らしく、娘を想う母じみた顔をした。
それから恵那は、衣の合わせ目を探ると、華やかな色をしたものを取り出した。
「これは、手土産といいますか、しばらく留守をいただいた御礼といいますか。須佐の里の娘たちのあいだではやっている髪飾りなんです。雲宮の姫君に渡すといって、造り手には最高の仕事をさせてきましたから!」
差し出された手のひらに乗っていたのは、染め紐と木を組み合わせた
「さっそく髪にさしましょうね。恵那がやってさしあげますから」
いうなり、恵那が背後に回るので、狭霧はおずおずと抗った。
「い、いま? でも、それ、わたしには華やかすぎない?」
「なにをおっしゃってるんです、十六の齢の、娘盛りの姫君が! あなたも須勢理様も、本当に風変りな姫ですよ。出雲で一番の飾りも衣も手に入る身の上だというのに、剣やら土やらばかりをご覧になって。それにしても、いつのまに髪を上げて結うようになったんです? 似合いますよ。ええ、ええ。あなたはこういう、凛とした結い方が似合います。幼顔ですから、髪を下ろしていると、なおさら幼く見えますしね」
「え、恵那……だから、その――」
狭霧が拒んでも、恵那は手を止めようとしなかった。
そして、狭霧の頭の上で丸く束ねられた黒髪には、朱色の組み紐の簪が据えられた。手仕事を終えると、恵那は狭霧の顔を覗きこんで満足そうに笑った。
「ほうら、かわいい」
いい方は、馴染みのある若い娘のことならなんであれ褒めたがる身内じみている。だから、結局、狭霧は恵那の褒め文句を信じることができなかった。
「か、かわいい? 派手すぎない? わたし、飾り物にあまり慣れていないし……」
恵那と別れた後、狭霧は安曇を探しにいくことになったが、寝所を出て兵舎を目指すあいだも、頭の上ばかりが気になってしまった。
狭霧は、髪を大陸風に結いあげるようになっていた。しかも、
痛いし、真っ赤な髪飾りを髪にさすのは恥ずかしいし。とはいえ、せっかくもらった髪飾りをすぐに外してしまうわけにもいかないし――。
結局、今日だけと胸にいい聞かせることにした。
(いいか。夜になったら外そう)
狭霧が安曇を探したのは、父に従うためだ。
父、大国主は、意宇に移り住むなら月に一度は杵築へ戻り、自分か安曇と会って意宇での暮らしを伝えよといった。それが、意宇で暮らすことを認める条件だと。
とはいえ、広い雲宮のなかで、たった一人を探すのは難儀なことだ。
(安曇、忙しいかな。どこかな)
父もそうだが、安曇はそこらじゅうに役目を抱えている人だ。よく出かけている場所は知っているが、そのうちのどこにいるのかは、さっぱり見当がつかない。
しかも、それは一か所ではなく、雲宮の内外に散らばっている。父王や館衆の詰め所である本宮か、兵舎か、もしくは雲宮の外にある軍の稽古場か。
ひとまず一番いそうな場所へと、兵舎に向かうことにした。
兵舎の門をくぐると、大庭を横切って宿直の兵のための棟のそばへ寄り、奥に建ち並ぶ武器庫の角を曲がって、その奥にある安曇の居場所を目指す。
時は、すでに黄昏時。
今日の仕事を終えてねぐらへ戻るところなのか、狭霧は何人もの兵や下男とすれちがった。
「ああ、姫様。戻っていらっしゃったんですか。お久しぶりです」
知っている者、そうでない者。すれちがうたびに挨拶をされるので、会釈をしながら歩きつつ、そういえばと、ある青年の姿を探した。
(高比古は……)
彼も、ここに詰めているはずの人だ。
高比古と意宇で会ってから、半月が過ぎた。彼と話してから後も、毎日狭霧は意宇を奔走して、先日学び舎では、とうとうはじめの講義がおこなわれた。興味をもった館衆や、近くに領地をもつ豪族の使いがわざわざ見にきたため、薬師として学ぶことになった童たちの緊張はほぐれるどころかますますつのって、その日、童たちの小さな身体はがちがちにかたまってしまった。
だから狭霧は、面倒見がよさそうな下男を探して、宿舎に戻った童たちを近くの温泉に連れていくように頼んだ。それから、その後の世話も。
(宿舎をつくるっていっても、ただ場所をつくるだけじゃいけないんだなあ。そこで暮らす童の面倒を見る人もお願いしなくちゃいけないんだ。それとも、師になった薬師にそこまでお願いしてしまえばいいのかな。どっちにしろ、学び舎で生まれる問題なりなんなりを、全部まとめて引き受けてくれる人が要るんだわ)
学び舎といえば、べつに考えなくてはならないことも増えていた。
狭霧が学び舎をつくった場所は意宇だったが、それは、薬師の本拠地が意宇だからだ。
でも、出雲の里に薬の知恵を広めるためという狙いから考えると、意宇にだけ学び舎をつくるのはおかしいと思った。
(杵築にもほかの小国にも、里はたくさんあるんだから、意宇にだけ薬の知恵が広まるのはおかしいわよ。いまのままじゃ知恵が偏ってしまうわ。どうにかしないと――。高比古なら、どういうかな)
前もいまも、高比古の考え方は切れ味のいい刃のようだと、狭霧は思っていた。
狭霧が、こうしてしまうとべつの問題が、どうしよう……と迷うことでも、高比古は一刀両断する。一度そうと決めたら、小さな不都合など無視して結論をいう高比古は、狭霧にとってまたとない相談相手だった。
(高比古の寝所って、兵舎にあるんだっけ。杵築にいるあいだに会えるかな。会えるといいな)
すこしでも話ができれば――と、兵舎をいきかう武人たちの人波の奥に、彼の涼しげな目元を探し始めた矢先、狭霧ははっとして足を止め、髪に手をやってしまった。
(どうしよう、わたし、こんな格好!)
そこに、華やかな色の髪飾りがあることを思い出したのだ。
正直なところ、恵那がもってきた髪飾りは、大ぶりな上に色も派手で、あまり好きではなかった。そんなものを堂々と髪に飾って、大勢の目に触れていると思うと――。
(あぁあー、ちゃんと恵那に断っておくんだった)
簪を抜いてしまおうか、どうしようか。派手で気にいらないといっても、その簪は、娘が好みそうなかわいいものではあった。つけていてもけっしておかしいことはないだろうし、このままでもいいのか。でもなあ――。と、足踏みをしていたところだった。
向こうから、ちょうど歩いてくる高比古の姿を見つけた。いつもどおりの簡素な出雲服に身を包んでいて、布地の白さと、肌の白さや、鋭い目つきがほかの男たちとは異なるので、兵の列の奥にいても、彼の立ち姿は目立っていた。
高比古はすぐに気づいて狭霧のいるほうへ足を向けたが、目が合ったとはいえ表情はいつもどおりで、味気のない真顔をしている。
(簪に気づかれませんように!)
ぱっと髪から手を離して、狭霧は平静を取り繕った。
「い、いないのかと思った」
胸のなかで祈りつつ、挨拶代わりに声をかけると、高比古はむっとして文句をいった。
「いないほうがよかったか」
「そんなことをいったわけじゃ……」
とはいえ、つい口に出たのは、たしかにそういう意味の言葉だった。
しまった、と悔やんでいるところに、狭霧をじっと見下ろした高比古は首を傾げる。
「会うのは半月ぶりか? 久しぶりに会ったせいか、雰囲気がちがうな」
そして。高比古の目は、間違い探しでもするように狭霧の頭上へいき、すっと横に伸びた黒眉がふしぎなものを見るようにひそめられた。
「ああ、髪の……」
その瞬間、狭霧の胸は騒いでたまらなくなって、なぜかいいわけを連ねた。しかもそれは、どれもさっき恵那がいった言葉だ。
「これは、今日だけっていうか……、もう十六だし、すこしは娘らしくならなくちゃっていうか。だって、いまに誰かに嫁ぐかもしれないし」
高比古は、ぎろりと睨んだ。
「嫁ぐ?」
高比古とはそういえば、半月前に大和へ嫁ぐどうこうでいい合いをしたばかりだ。それなのにいまのようないい方をすれば、まるで当てつけか皮肉をいうようではないか。
狭霧は、慌てていい直した。
「うそうそ! 本当は、恵那にもらったの」
「恵那?」
「うん、かわいいでしょう? ……あ、そんなことない?」
答えが返る前に自分でいってしまうと、高比古はますます苛立ったふうに眉根を寄せた。
「まだなにもいっていない」
「じゃあ、どう? 似合う?」
「似合っているんじゃないか」
高比古はいったが、感情のない真顔といい、心のこもらないいい方といい。無理やり口にしてやったといわんばかりのおだて文句にしか聞こえない。
だから、狭霧はほっと肩の力を抜いた。
考えてみれば、彼はいつもこうだからだ。
「そんなに気難しい顔でいわなくたっていいじゃない。興味がないなら、ないっていえばいいのに。褒めるのが苦手……なんだものね、そういえば」
最後の言葉が、高比古は気に食わなかったらしい。
鬱陶しそうに一度睨むと、吐き捨てた。
「なら、いちいち訊くな。用がないなら、いく」
だから、狭霧ははっと我に返った。
(こんないい合いをするつもりじゃ――)
彼としたかったのはこういうやり取りではなくて、真剣な話だ。
そばをすり抜けようとした高比古の袖をつまむと、懸命に引きとめた。
「あの、高比古、忙しい? 時間があるときでいいから、また話を聞いてほしいの。その、前の続きなんだけど、わたし一人じゃ判断がつかないことがたくさんあって――」
高比古は、渋々ながらも了承した。
「またかよ。……いいけど。いつまで杵築にいるんだ?」
「明後日までのつもり」
「明後日? 杵築にはふた晩しかいないのか」
「それは、だって――。意宇に……」
意宇には、狭霧が人を集めて進めている最中の仕事がたくさんある。
杵築でのんびりと過ごすつもりはなく、父か安曇に会うという約束を果たせたら、すぐに戻るつもりだった。
狭霧が黙っているあいだ、高比古はじっと狭霧の頭上を見ていた。
「おれがあんたを助けたら、あんたの役目はいまに終わるのかよ」
唸るような声で高比古がつぶやいたとき、彼は、敵を見るかのような奇妙な目をしていた。
「え?」
「……なんでもない」
高比古は、いまいましげに目を逸らした。
そのとき、高比古の背後から狭霧を呼ぶ声があった。安曇だった。
「狭霧、戻ってたのか」
「安曇、久しぶり……」
探していた相手に出会えたことに安堵して、ほうっと微笑んだとき。高比古は、袖をつまんだ狭霧の指からすり抜けるように、そばから遠ざかろうとしていた。
「じゃあ、いくよ。明日、また。会えたら」
「あ、うん。会えたら――」
願いをくんでくれたものの、高比古がいったのは、約束と呼ぶには頼りない言葉だった。
(そうだよね、会えないかもしれないよね。忙しいものね。もし、偶然時間があいたら、かまってもらえるかな)
高比古は、兵へ指示を与える側の人だ。ほかの兵のように、ここへいけ、なにをやれと命じられているふうではなかったが、一人で舘に閉じこもって考えたり、人を集める支度をしたり、やるべきことは泉に水が湧くように次から次へと生まれるのだろう。
もう一年前のことだが、薬師のことを教えてくれと、狭霧は高比古のもとに押しかけたことがあった。あのときも高比古は忙しそうにしていて、なぜそばへ寄ってくるんだと狭霧を怒鳴った。
(あのときよりは、よっぽどましか。いまは話をしてくれるもの。高比古、変わったなあ……)
そのときのことを懐かしむと、思い出し笑いをせずにはいられなかった。変わったのは狭霧も同じだったからだ。
(わたし、子供だったな。高比古がどんなことをしているかも知らないのに、無理やり押しかけて。怒鳴られて当然だった)
淡々と遠ざかっていく白い背中を見送っていると、そばまでやって来た安曇が、同じように高比古の後姿を眺めた。
「どうしたんです? 高比古がなにか?」
いい方は、狭霧に起きたことならなんでも知りたいとばかりだ。
(安曇は、前から変わらないな)
安曇は、幼い頃からずっと狭霧の味方だった。たとえどんな馬鹿なことをしてもそれは変わらず、安曇がいいと思うほうへ、いつも導いてくれた人だ。
安曇を見上げて、ふわりと微笑んだ。帰って来たんだ――そんなふうに思えるのは、実の父より安曇のそばだとも思った。
「なんでもない。高比古に頼みごとをしたの。ただいま、安曇」
「ああ、おかえり。さっそく穴持様のところへ……といいたいところだけど、あいにく、穴持様はお出かけなんだ」
「一人で? 安曇は留守番?」
「ああ、そうだよ」
「ばらばらにいることもあるのね。とうさまがいくところには、必ず安曇がついていくと思ってた」
「そんなことはないよ。杵築にいるときはたいていこうだよ」
丸みを帯びた輪郭に、爽やかな丸い目。彼は、実の齢より五、六歳は若く見える童顔をしている。とはいえ、首は太く、肩にも腕にも逞しい肉の張りがあって丸みを帯びて見え、体格は男盛りの武人そのものだ。
肩の下あたりまで伸びた黒髪は、出雲風の
「実は、穴持様はね、
「古志?」
「ああ。一の后の、一の姫が住まわれているよ」
「一の姫って、
その離宮には、まだ母が生きていた頃に、狭霧も何度か出入りしたことがあった。盛耶の母、一の姫と呼ばれる大国主の一の后が、母と仲がよかったからだ。一の姫はとても物静かな女性で、どちらかといえば陽に焼けていた母や、侍女たちとはまるでちがう、雪のように白い肌をしていた。その后が絶世の美女と謳われていることを狭霧は最近知ったが、幼い童の目から見ても、一の姫は近寄りすぎてはいけない気すら起こさせる、たおやかで気品のある姫君だった。
安曇のいい方は慎重で、ただ父の行方を告げるふうではなかった。
「一の姫には、盛耶の下にあと二人娘姫がいらっしゃって、姉のほうがあなたより一つ年下でね、名を
「うん……?」
「行き先は、阿多だよ」
それで狭霧は、あぁと思った。なぜ安曇が、こんなに慎重にその姫君の話をしたのか。
(その姫君は、火悉海様の奥方になりにいくんだ。そっか、そうよね――)
王族らしい王族のいない出雲では、異国の若王に嫁ぐ娘を選ぶとしたら、そういえば、父、大国主につながるか、祖父、須佐乃男の血を引く娘のうち、母君がそれなりに地位をもっている娘に限られる。
意宇の主、彦名は妻をとっていないし、異国の姫という地位をもつ女性を妻にもつ男は、大国主と須佐乃男、それから、心依姫を娶った高比古しかいなかったからだ。
「一の姫の娘姫だったら、きっととてもきれいな人だろうね。とうさまと越の王につながる姫なら、きっと阿多の
「ええ」
安曇は静かにうなずいた。
「瀧木姫は、明朝に意宇へ移って、輿入れの支度を始めることになっているから、もし会ったら声をかけてあげてください」
それから、大きな手のひらで狭霧の背中を押して、兵舎の奥を目指した。
「そういうわけで今夜は、穴持様は一の姫のところにいらっしゃるんです。だから、意宇での話は私に聞かせてください。夕餉を運ばせようか。一緒に食べよう」
「うん」
夕日に照らされた道を寄り添って歩きながら、狭霧は唇を結びつつ苦笑いを浮かべた。それから。
「ねえ、安曇。瀧木姫が阿多へ向かうとき、輿入れの宝はもっていくでしょう? そのときに、越の人でも出雲の人でもいいから、水路をつくる匠に出かけてもらえないかなあ。作物がうまく育たないって、
安曇はもちろん、阿多の火照王が長子、火悉海の妻に一度は狭霧を欲しがって妻問いをしたことを知っている。阿多を出る間際まで、狭霧が火悉海から熱心に求婚されていたことも勘づいているはずだ。狭霧がなにを想って、火悉海の名をいま口にしたのかも。
安曇は、目を細めてうなずいた。
「そうだね。話しておくよ」
離れていたあいだに意宇で起きたことや、いま取り組んでいる薬師を増やす法について、狭霧は安曇へその晩のうちにたくさん話した。
でも、医薬師を本当はよく思っていないことや、ともすれば誰かを不幸にしてしまうかもしれないこと、そして、まだ不安が残ることについては、口に出せなかった。
(やっぱり、話すなら高比古がいいな)
安曇と別れて寝所へ戻り、寝つくまでそう思った。そのせいか、翌朝、目が覚めるのは早かった。
起き上がって支度を済ませるなり、狭霧は兵舎へ向かった。
(早くいって高比古を待っておかないと、たぶん本当にかまってもらえないもの)
約束っぽいものを交わしたとはいえ、それは、「もしも会えたら」というとても手ごたえのないものだった。
朝早くから兵舎の庭で待っていれば、彼の手が空いた時間を逃さなくて済む。そう思うと、朝餉を食べるのもそこそこに、駆けるようにして夏の朝もやが残る庭へ出た。
吹き抜けていく風には、朝だけに咲く花の香りが混じっていた。
その風越しに光を降らせる真夏の太陽は、きらきらとまばゆいほど輝いている。そして、流れていく風も、庭の草木も、地面の砂粒すら、あらゆるものを澄んだ白の光で満たしていた。
風すら輝いて見える早朝の光のもと、まだ人の姿のない大路を進んで、兵舎へたどり着いたとき、朝早いだけあって、広々とした大庭にすら人影はまばらだった。
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