土牢 (2)


 意宇おうから帰途につき、杵築きつきで暮らし始めて数日も経たないうちに、高比古はそこでも狭霧の噂を耳にした。


 大和の勢いが増していくにつれて、和睦という言葉は頻繁に囁かれるようになったが、遠賀で起きた戦のいきさつを知っている者であれば、兵は当然のように狭霧の名を出した。


「和睦の交渉に入るのであれば、使者を務めるのは武王の娘姫だろうな……」


 それはそうだと高比古も思った。向こうにへりくだるなら、狭霧が要る。遠賀で戦が起こりかけたのは、狭霧が大和の若王に浚われたせいだ。それほどその若王は、狭霧を欲しがっていた。敵の象徴として――。


 それに憤る連中もいた。


「瀬戸の海民が相手だろうが、出雲とて、海の戦ならお手のものだ。長門の砦に、いますぐ陣を敷くべきだ。狭霧姫を貢物のように敵へ差し出すなど、論外。そんなことが起きれば、亡き母君、須勢理すせり様に立つ瀬がない」


「そうだそうだ。俺たちは須勢理様に何度も命を助けていただいた。いまこそ刃の女神のご恩に報いねば」


(どうすんだよ。こんなんじゃ、ほんとに杵築は二分するぞ)


 用向きから雲宮へ戻り、乗って来た馬を休ませに兵舎の奥へ向かっていると、ちょうど馬屋の方角から、鼻息荒くのっしのっしと歩いてくる巨体の王を見つけた。


 出雲随一の豪傑との異名をもつその男は、石見国の長、石玖王いしくおう。獣のごとき荒れた雰囲気をたずさえて兵舎の庭を突っ切る石玖王は、高比古の姿に気づかないほど頭に血をのぼせていた。


穴持なもちはいるか。どこだ、本宮か!」


「石玖王、いったいどうなさったのです!」


「どうしたもこうしたも……! 噂を聞いたのよ。あいつと須勢理のお嬢ちゃんを大和に嫁がせるって噂は、いったいなんなんだ。ぽっと出の乗っ取り女に、出雲はおめおめと服従するっていうのか……!」


 石玖王を宥めようと周りには黒山のように兵が集まったが、それを聞きつけるなり、彼らは揃って顔を青くした。


「しーっ、しーっ! 石玖王様、声が大きい。そんなことはありえません!」


「だが、現に、俺は杵築の奴が噂しているのを……」


「ありえません、ありえないのです。まずは声を小さくなさって! そんなことが武王の耳に入ってしまえば、どんな恐ろしいことが起きるか――! お察しください、石玖王!」


「……ちっ」


 群がった兵たちに行く手を阻まれながら、石玖王はふんと大きく鼻を鳴らした。


「なんなんだよ、それは。娘を戦の道具にするのが、あいつの意思じゃねえってことかよ。しかも、みんなしてあいつの顔色をうかがって、口を閉ざすようなことが起きてんのか? 出雲はいったいどうなっちまったんだ。下の奴も上の奴も、誰であれ、いいたいことをいいあうのが力の掟じゃねえのか。出雲は、一度上にのぼっちまった奴が、死ぬまでそこにいられる国なのかよ? そうじゃねえだろう? 力を示し続けなかったら、引きずり降ろされる国だろうが!?」


 強風が森の葉をいっせいに揺らすようなだみ声だった。


 結局、石玖王は兵たちの制止を振り切って、大国主の居場所を目指した。それを、大勢の兵が追っていく。


「石玖王様、どうか穏便に。実は、大国主の耳にもその噂が入り、いま虫の居所が悪いのです。どうか……!」


 小さな黒嵐がぴゅっと吹き抜けたように、それまで人でごった返していた兵舎の庭からは人の気配が遠ざかりゆく。


 喧騒とともに遠のいていく黒山の人だかりを目で追いつつ、高比古は舌打ちをした。


(まずいな――)


 このままでは杵築が二分する。それに対する脅えは強くなったが、それよりも胸を貫く痛みがあった。


(なにかがおかしい。うまくいえないが、なにかが崩れて、狂いかけている。須佐乃男が意宇で長老会というのを始めたのは、これを察して……?)


 まずいぞ、なにか手を打たなくては。そのためにも、なにが起きているのかを理解しなくては。


 焦りは高比古を責め立てるが、いまにかぎって、なぜか胸が痺れたようになって、ほとんどものを考えられなかった。


 鞍にまたがったまま、すでに人の姿が消え去った兵舎の門のあたりを向いてぼんやりとしていると、高比古に気づいた馬飼うまかいの男が寄ってきた。


「おや、高比古様。つい数日前に意宇にいかれたと思ったのに、お早いお帰りですね」


「……ああ、二日前に戻った」


「二日前? ということは、意宇には三晩だけ? それは、まあ」


 下男は驚いたが、呆けるような高比古の顔を見上げると、小首を傾げた。


「どうしました、お疲れですか」


「疲れた? ああ、たぶん。すこし」


「それはそうですよ。長門から戻って来たと思えば意宇へいき、たった三晩過ごして戻って来るなど――。あなたは働きすぎなんですよ。すこし休まれたらどうです」


「休む?」


 高比古は、下男の顔をまじまじと見つめた。


 それから、苦笑いをしつつ首を横に振った。


「休む、か。わからない」


「え?」


「休もうとしたことがないから、休み方がわからない」


 それは、本当だった。これまで休もうと思うときには、たいてい理由があった。疲れを取らないと身体がうまく動かなくなるからとか、頭の冴えがよくなくて気味悪いからとか、することがないから体力を温存するため、とか。


 そういえば高比古は、疲れを感じたことがなかった。身体の疲れではなくて、いまのような、理由のよくわからない頭の疲れは。


 下男は、ぷっと吹き出した。


「休み方がわからない? なにを、まあ。あなたには新妻がいらっしゃるじゃないですか」


「新妻?」


「離宮にお住まいの心依姫ここよりひめですよ。実は私、あちらの馬の世話にと時々行き来させていただいていて、今日もいってきたところなんです。心依姫様は、あなたが訪れるのをお待ちですよ。あなたが出雲に戻られたと話すと、それはもう嬉しそうに――」


「おれが着いたと、知らせたのか?」


 余計なことを――。思わずその下男を睨みつけると、男は口をぱくぱくとさせた。


「え、ええ。いけませんでしたか?」


 その男が、世間話としてまず自分の話をするのは当然だ。男が出入りしているというその離宮の主は、高比古の妻と呼ばれる娘なのだから。


「いや。いいよ」


 高比古は、長いため息をついた。


(あいつのことをすっかり忘れてた。戻ってきたんだもんな。心配してるだろうし、会いにいかないと)


 でも、胸は、いやだといってうなずこうとしなかった。


(いきたくない……。あいつのことはまだなにも考えていないのに、会いにいったら……。逃げてるのかな、おれ。逃げてるよな。なんていうか、妻をもつって、こんなにたいへんなんだなあ――)


 もともと高比古は、誰かがそばにいるのが苦手だった。


 でも、そういえばとある娘のことを思い出すと、奇妙な気分になった。


(狭霧のそばは楽だったな。なんていうか、日が暮れていくとほっとした。いつもと同じ場所に戻るときがきたと思うと――。どうしてだろう。あいつのことは、妹みたいに思っているから?)


 妹、と思うと、それもふしぎに思った。


(どうして心依のことは、妹みたいに思えないんだろう。あいつからは、兄様という呼ばれ方までしているのに。せめて、家族として大切にしてやれれば……)


 虚空を見つめてぼんやりとする高比古を見上げて、下男はますます首を傾げた。


「大丈夫ですか? やはりお疲れなのでは――。今日はお休みされることにして、このまま離宮にいかれたらどうです?」


「離宮へ? そうしたら、落ち着くかな」


 力が抜けた高比古の顔は、なかば下男にすがるようだった。下男は満面の笑みを浮かべて、何度も大きくうなずいた。


「それはそうですよ。お妃に疲れを癒してもらってください。あの姫君も、どれだけ喜ぶか。安曇あずみ様か誰かをお見かけしたら、私がそのように伝えておきますから……」


(それで、いいのかな――)


 下男の言葉に折れて、高比古がうなずきかけたときだった。


 背後から近づいてきた男がいた。その男は、命令口調でそれを拒んだ。


「悪いが、それはできない。おまえをいま休ませるわけにはいかない」


 安曇だった。


 武王のそえで、齢は三十四。ひとたび戦に出れば武王の影となって先陣を駆ける猛者で、石玖王のような巨体をしているわけではないが、目で見てすぐに武芸に長けているとわかるほど、身体はよく締まっている。だが、顔の輪郭が丸く童顔をしているのと、穏やかな気性のせいで、普段の彼は武人というよりは農夫か海民に見えた。


 でもいま、高比古を探して近づいてきた彼の顔に、農夫や海民のような朗らかさは皆無。目の奥は暗く、大勢の兵を従える高位の武人らしい鋭い気配を、安曇は身にまとっていた。


「高比古。戻ったなり悪いが、来い。おまえの力がいる」


 安曇がこういう顔をするときは、あまり多くない。


(なにか起きたか?)


 現実に戻ったようにまばたきをしつつ、ひらりと鞍から下りると、高比古は下男へ手綱を預けることにした。


「馬を頼む」



 


 高比古を連れた安曇が向かった先は、兵舎の奥だった。それも、武人のほかは入ることを禁じられた林。そこが、無防備なままで近づくには、少々危険な場所だからだ。


 そこには土牢が掘られていた。主に、とくに重要な捕虜か、異国の窺見を捕えたときに閉じ込めておくための場所だ。


(ということは……)


 自分が呼ばれた理由を悟ると、高比古は尋ねた。


「誰を捕えた」


 安曇は足を止めて、振り向いた。


「瀬戸の民だ」


 安曇の目は、冷たかった。それは、いまその土牢で起きていることを高比古に気づかせた。


(瀬戸の……。尋問中ってわけか)


 再び、安曇は湿った草地を大股で進み始める。


 彼の背中を追い、高比古の足も夏草の地面を踏み分けていく。


 前へ進めた足をあげるたびに、むっとした湿り気が立ち上る。そうやってしばらく進むと、やがて、林の奥に土の壁が見えてくる。その土牢は、雲宮の端が接する丘の斜面を利用して掘られた手掘りの洞窟で、入り口には柵があり、そばには矛を構える番兵が立ち、出入り口を守っている。


 入り口を塞ぐ柵をあけて暗い穴を進んでいくと、穴は二股に分かれて、さらに奥へいくとすこしだけ広くなる場所がある。


 そこへたどりつくと、高比古は自分の想像が間違っていたことに気づいた。


 泥の匂いの強い湿り気に包まれたその暗い穴倉は、尋問がおこなわれているにしては人の声がすることもなく、とても静かだった。


 尋問は、すでに終わっていたのだ。


 通路となった穴の土壁には、松明が灯っていた。その、かすかな火明かりのなかでぼんやりと浮かび上がる最奥の土壁の手前には、番兵が一人いた。そして、番兵の足元には、男が一人倒れていた。


(死んだのか――)


 案内するように先を進んでいた安曇は、そこで立ち止まると、振り返る。


 そのとき、彼の童顔には表情と呼べるものがなかった。


「捕えたのは二人で、先にこの男を尋問することにしたが、さっき舌を噛んで死んだ」


 そういってちらりと安曇が見下ろしたのは、倒れ伏した男の顔あたりだった。


 地面に突っ伏していたので男の顔は見えないが、薄闇のなかでも、男の口もとがぬらりと鈍く光っているのがわかる。血だ。そして、そこでおこなわれたことを示すように、男の腕や背中には、青あざがつくほどきつく巻かれた縄の痕や、縄と擦れてできた傷や血の痕が、生々しく残っている。


「もう一人はどこだ」


「左の穴の奥だ。勝手に死なないように、縄を噛ませにいかせたところだ」


 安曇は小さく肩を落としていた。それから、高比古と地面に倒れ伏した異国の窺見を代わる代わる見て、尋ねた。


「おまえは、死霊の記憶を意のままに探れるんだよな」


(ああ、なるほど……)


 ここへ自分が連れてこられた理由を悟った。


 安曇は、死んだ男のことが知りたいのだ。


「やってみないと、できるかどうかはわからない」


「じゃあ、やってみろ」


「――ああ」


 静かにうなずくと、高比古は腰を落として、息絶えた異国の男のそばに膝をついた。


 顔を地面に向けているので背後からしかわからないが、男は若くて、せいぜい高比古と同じか、すこし上くらいの齢にしか見えなかった。


(……だよな。窺見だのなんだの、やばいことをやらされるのは、たいてい若い奴だ。もしくは、貧しい奴か)


 なぜこいつは、単身敵地に忍び込む窺見という役に就こうとしたんだろう。命じられたのだとしたら、佩羽矢ははやのように家族を殺すと脅されたりしたとか、断れない状況にあったのだろうか?


(かわいそうに――)


 死を悼み、それから。すうっと息を吐いて心を静めると、胸の中を空っぽにした。そうしないと、望むように霊威が示せないからだ。


 笹の葉を彷彿させる高比古の目は、いまや、ただ人には見えない暗い輝きを宿した。まばたきをすることはなくなり、見ひらかれた目で、死に絶えた男の頭あたりをじっと射抜く。


 でも、普通の人には視えないものを視る高比古の目でも、そこにふしぎな気配――死霊が漂っているのは見えなかった。


(去ったか)


 普通、人が死んで魂と身体を繋いでいたものが消え去り、二つがばらばらになると、魂は手の中から逃げ出した魚が水に飛び込むようにして、さっと天を向いて身体から飛び出てしまう。高比古が探したのは、男の身体から離れた魂だった。


(まだ、そのへんにいないか――)


 目を閉じて、気配を探ってみる。でも、高比古の気配に気づけばまっしぐらに救いを求めてやってくるはずの哀れな魂は近くにいなかった。


 湿った土から膝を浮かして、立ち上がる。


 安曇を見上げると、高比古はゆっくりと首を横に振った。


「駄目だ。こいつの身体に魂は残っていない。こいつは、自分の死に満足していたらしい」


 安曇の顔に、得もいえぬ寂しい苦笑がにじんだ。足もとの骸を見下ろして、彼はぽつりとつぶやいた。


「自分の死に、満足か――。自害して、安堵したのか」


 さりげなく吐かれた吐息のような言葉だった。でも、それは高比古の耳もとでやけに疼く。


(満足? 死は、安堵なのか。なぜだ。考えなくても済むからか。それ以上なにも生むことがないが、永遠に変わることのない不動の世界だからか。……永遠の世界? ばかばかしい。いったいおれは、なにを考えてる?)


 知らぬ間にはじまった妙な問答に自分で腹が立って、やめろと命じるが、頭のなかが朦朧としてうまく働かなかった。


(こんな場所にいるせいだ。ここは、死の匂いが強い――)


 高比古は、骸に背を向けた。


「おれは先に出るよ。外の風が吸いたい」


「私もだ」


 安曇は、苦笑した。


「彼の弔いをしてやろう。おまえも外へ出て、人手を集めろ」


 安曇は骸を見張っていた番兵も促したので、結局三人で土牢を出ることになった。


 小さな入り口を抜けて夏の日差しのもとにいきつき、夏草が茂る小さな野原を横切って大庭へ戻ると、そこで高比古と安曇は、弔いを任された番兵と別れた。


 兵の集い場へ向かった番兵の後姿を見送ると、安曇は高比古を井戸へ誘った。


「顔を洗おうか。何度見ても、目の前で人が死ぬのを見るのは、いい気分じゃない」


 安曇は微笑していたが、それは見ていると悲しくなる笑顔だ。


 大庭の端にある、兵たちの癒しの場として整えられた井戸へ向かい、そこで冷たい水をくみ上げると、手と顔を洗い、口をすすいだ。


 井戸のそばに立つ樫の木陰で、夏の風に吹かれた。安曇から話しかけられたのは、土と血の匂いが気味悪く混じったものを鼻が忘れるほど、風が通り過ぎた後だった。


「しかし、皮肉なものだな。死者が己の死に満足していては、私たちは満足のいく知らせを得られないのか。痛めつけて出雲を呪わせたほうが、こっちの役に立つかもしれんのか」


 安曇がいったのは、高比古が、自害した男の記憶を探れなかったことについてだ。


 高比古は軽くうなずいた。


「ああ、不毛だな」


「不毛だよ。でも、まあ。戦というのは、もともと不毛なものだろう。戦とは、なにか大きなものを生むように見えて、いっさいのものが生まれない場所だよ。永遠に混沌としたままの、奇妙なところだ」


 どこか遠くを見るように、安曇の丸い目が切なく細められた。


 彼がいった言葉には、長く戦に関わっている者らしい重みがあった。


 すると、高比古はどうしても尋ねたくなった。実のところ、いまの言葉をすべて咀嚼できたわけではなかったが、安曇が、なんの疑いもなく戦に身を置いてきたわけではなさそうだと感じた。


「なら、なぜあんたは戦に関わる?」


「うん?」


「戦は不毛で、なにも生まないんだろう? なら、なぜあんたは、何十年ものあいだ、第一線で兵を従え続けているんだ。なぜ――」


 素朴な問いをするふうにじっと見つめた高比古を、安曇は一笑に付した。ははっと軽快な笑い声をあげてから、彼は答えた。


「ややこしいことを聞くなぁ。私が、なぜ戦に関わるか? それなら、私がここにいたいからだよ。それだけだ。それ以外の理由があるか?」


 いい切って、唇を閉じたとき。安曇はいつも通りの穏やかな気配を取り戻していた。さきほどまでの陰鬱な憂いも、土牢で見せた武人らしい鋭さも、すでになりを潜めている。


 それが、高比古には憎らしく思えた。


(あんたは器用だよな。どうやったらそんな真似ができる? どうやったらそんなふうに、あっさり踏ん切りがつけられるんだ)


 高比古は、安曇から目を逸らした。それから、自分の身に奇妙な異変を感じた。


(どうしたんだろう。吐き気がする――。吐き気? いや、吐きたくはないが、なにか)


 それから、唐突に疑問がこみ上げた。


(おれは、なにをしているんだろう。……「出雲の高比古」ってどんな奴だっけ。おれは、どんなふうに振る舞っていたっけ)


 ふいに脳裏に生まれたのは、混乱と呼ぶべきものに似ていた。


 迷いの文句を吐いたのは自分なのに、まるで他人の声を聞くようで、はっと我に返ると、自分で自分に驚いた。


(いま、おれはなにを思った?)


 でも、胸に湧いた疑念は、それまでなかった場所に生まれた気味の悪い水たまりのように、ひたひたと広がりゆく。白昼夢を見たような、気が遠くなるような――。


(なんだ、これ)


 唇を噛んで目を閉じると、胸にいい聞かせた。いまそこに湧いた迷いは、不要なものだ。不要なものなら捨てるべきだ。要らないものに時間を割くほど、おれは暇じゃない――。


「安曇、おれの用は済んだな? なら、おれは寝所にいく。疲れたから、寝るよ」


「わかったよ。ゆっくり休め」


 いうが早いかさっさと踵を返した高比古を、安曇は苦笑して見送った。


 しかし、その言葉を聞くなりかっとなって、高比古は足を止めて振り向いた。


「休め? 寝るのが、休むってことか?」


 安曇は胸の前で腕を組んで、やれやれといったふうに笑った。


「どうした。なにが気に食わない? なら、おやすみといおうか?」


「――悪い。なんでもない」


 一蹴されると、高比古はぼんやりとして再び安曇へ背を向けた。


(おれ、どうした。苛々してる)


 自分でもわからないうちに、高比古は怒りっぽくなっていた。


 なぜこんなに苛立っているのか。なぜ、いまなのか。


 死者を目の前にして、心のどこかが脅えたせいか。それとも――。


 理由を考えてみるが、それもいまはうまく解けない。


(なんだか、おかしい)


 頭には分厚い雲のような霞がかかって、これまでくっきりと見えていたはずのものまでがぼやけ始めて、見えにくくなっていた。


 そう思うと、高比古は一刻も早く安曇のそばを離れたくなった。


(早く、去ろう。気づかれないうちに――)


 腕組みをして木陰から自分を見送っているのは、杵築一聡明な男だ。


 彼のそばで悩んで、弱っているのに気づかれるのも、いらない心配をされるのも、弱みを握られるのも、どれもいやだった。






 兵舎の井戸は、門から続く広い庭の端にある。庭は大きく、簡単な陣形の稽古ができるようにつくられていて、武器庫や軍議用の館や、兵の集い場となる奥の庭など、区分けされたいくつもの場所へ行き来できる辻の役目も果たしていた。


 その庭を一望できる井戸のそばから、安曇は、遠ざかっていく高比古の背中を眺めていた。


「なぜ私は戦に関わる、か――」


 陽が傾きはじめたばかりで、兵舎に務めている兵は、それぞれの持ち場についている頃合いだ。


 兵舎の庭にある人影はまばらで、そこを横切る高比古の後姿は、誰かの影に隠れることなく最後まで見届けることができた。


 高比古が向かったのは、彼の寝床が用意された宿直兵のための棟だ。


 小屋の入り口を目指して角を曲がると、高比古の背中はようやく見えなくなる。


 庭から高比古の姿が消えると、安曇は井戸を囲う石組みに腰掛けて、ふうと息を吐いた。


(須佐乃男様の見立てのとおりなのかもしれない。あいつはまだ揺れているが、揺れは、前と同じものに感じる。これが思考錯誤の途中ということか。――後継者の育て方、か)


 高比古の様子がおかしい。それは安曇も、大国主も彦名も、去年から気づいていた。


 はじめにそのやり取りがされたのは、彼の宗像むなかた行きが決まる前。かねてから、御使の八雲やくもを通して妻問いをしていた筒乃雄つつのおの孫娘の婿に、彼を選ぶかどうかの話がされた場だった。


 はたして、高比古は本当に出雲を背負って立つ若者なのか。


 宗像の姫の婿になるとあれば、今後長年にわたって、出雲での地位を約束するようなものだ。その男を彼に決めてよいのか、と。


 上座であぐらをかいた彦名は、やれやれとため息をついた。


「半年前なら、こんな場を設けずにあやつを推したろうが……。まあ、いずれあらわれるしるしなら、早めに出てよかったというべきか。それにしても、あやつはそうとう暗い場所にいたようだよ。ほんの少々目が開いただけで、あんなにまぶしそうにしているんだから」


 そういいつつ、彦名が高比古の才覚を否定することはなかった。すこし印象が変わったと不安がる声を聞いても、その王は鼻で笑って相手にしなかった。


「だいたい、いままでのほうがおかしかったのだ。高比古は、いっさいといっていいほど揺れることがなかった。それはあやつを王者の器がある稀有な存在と周りに思い込ませたが、それがこうして消えかけると、そう信じた者に不安を与える。神童が、ただの凡人に代わってしまう日が来るのではないかと」


 くつくつと笑う彦名は、高比古を宗像にいかせることに大いに賛成した。


 宗像へ最後の妻問いにいく御使の役目に就くのは、老王須佐乃男と、もとから決まっていたからだ。


「あやつの見極めは、須佐乃男様にお任せすればいい。須佐乃男様ならきっと――」


 大国主は、高比古が変わり始めたことをさりとて気にしなかった。


「それくらい、どうにかなるだろう。どうにかならなかったら、そのときに考えればいい」


 彦名はそれを咎めたが。


「また、おぬしは。興味のないことは、すべて人任せにする」


 そのときもいまも、安曇は安曇なりに、高比古が変わり始めた理由に思い当たった。


(あいつが変わったのは……たまに躊躇するようになったのは、自分がいる場所が思ったより高いところにあると、下の景色に気づいてしまったせいだ。自分の居場所をたしかめることは決して悪いことじゃないし、むしろ知っておくべきことだ。きっとあいつは、最後の決断の間際にいるんだろう。いったい自分は何者で、なぜわざわざ出雲という異国に一生を捧げるのかと)


 それは、安曇にも覚えがある迷いだった。


 なんの縁もないこの国に、なぜ自分はすべてを捧げるのか。それは、異国から出雲にやってきた者なら、誰しもが一度は考えることだろう。


 安曇の場合は、その決断はそれほど難しくなかった。


 自分はなぜ出雲に生きるのか。それは、命を賭けたいと願ってやまない主がいたからだ。


(おまえもそうじゃなかったのか。自分こそが大国主を継ぐんだと、これまで声高にいっていたから、私は、てっきり――いや。まったく同じ考え方をする人が、二人といるわけがないか。高比古には高比古の、私には私の決め方がある。穴持様には穴持様の、彦名様には彦名様の――)


 安曇は、ひそかに肩を落とした。


(あいつに、いったい私はどう接してやればいいんだろう。肩を抱いてやって話を聞く? ちがう――。それは、狭霧のための方法だ。同じ武王の候補になったとはいえ、穴持様とあいつはまったく別の気性をもっているから、穴持様と同じに扱うわけにもいかないし――)


 そういえば、高比古をどう育てていくかということには、まだ決着がついていなかった。


 高比古を宗像へいかせる前、意宇の宮でひそかに相談の場がもたれたときも、彼の主である彦名すら手を焼いていた。


「あやつは私とも穴持ともちがう。須佐乃男様が穴持を育てようとしたとき、あの方は穴持を無視し続けた。そのほうがいいと須佐乃男様が判断したからだが、須佐乃男様に無視されることで、かえって穴持は力を誇示しようとした。だから、それは功を奏したといえよう。逆に、私は懇切丁寧に手ほどきを受けた。あの方がそのように判断したからで、おそらくこちらも、うまく働いたはずだ。さて、我々は、あやつをどうすべきだろうか。あの、亡霊が偶然人に変化したような、奇妙な子を」


(須佐乃男様か……)


 身体中の息を吐いた、そのとき。安曇はとうとう決意をした。


 井戸の囲み石の上から腰をあげると、馬屋を目指すことにした。老王の離宮へ向かうためだ。


(須佐乃男様のもとに出向いて、頭を下げよう。いまは心から教えを享受できる気がするし、あの男も、知恵を残す相手を探しているはずだ)


 そして、自分へ最後の問いをした。


(力の掟……意思を継ぐ者が子、か。私はいま、あの男の意思を継ぐ子になろうとしているのか。故郷を滅ぼしたあの男の)


 安曇は、もう一度息を吐く。庭の向こうに見えている馬屋の屋根を見据えると、念じて足を動かした。腿のそばに垂らした拳は一度強く握られて、力が入って指はかたく結ばれた。


(いこう、あの男のところへ。力の掟とは、些細な確執を捨て去って、大勢たいせいを見ろとの教えだ。私は、これまで生きた出雲から逃げたくはない――)






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