土牢 (1)


 高比古に代わって、引島の砦の長となりにやってきた石土王を送り届けた船に乗り、出雲へ。


 高比古がまず足をつけた場所は、出雲一の軍港、神戸かんど。ひとたび海の戦が起これば、出雲の戦船のほとんどが、ここから出航する。そのため、港となった潟には、おびただしい数の船が係留されていた。


 神戸の港は、戦を司る都、杵築きつきの西にある。


 上陸した高比古は、ひとまず杵築へ赴き、大国主のもとへ出向いて帰還の挨拶をしたが、それも済むと、次は意宇おうへ向かう。


 杵築に住むように命じられたとはいえ、いまも高比古の主は彦名だ。主に帰還の報告をするのはもちろん必須だった。


 杵築から意宇へいくには陸路をとる。馬に乗って街道を進む途中、高比古の頭は休まることがなかった。


(会ったら、北筑紫のことを話さないと。彦名様のお考えも聞かなければいけないし、大和のことも、新たにわかったことがあるなら――)


 頭をめぐったのは、出雲を敵視している異国のことだ。


 それから、意宇が近づくにつれて、気になることが一つ増えた。


 杵築から意宇へ移り住んだ娘のことだった。


(狭霧……。元気にしてるかな)


 ついふた月前まで、高比古は狭霧の守り人をいいつけられていた。昼も夜も目を放すなという命令のとおり、狭霧とは、数か月に渡って寝食を共にした。


 友人というには関わりが浅いような、関わり方が異なるような。


 腹を割って話す相手ではないが、なにも話さなくてもわかり合えるような。


 まるで、血のつながった妹のような――。


 そんなふうに狭霧のことを思うと、高比古は軽く唇を噛んだ。


(ちがうよ。あいつは妹じゃない。なにも話さなくてもわかり合える? くだらない。そんなことがあるかよ。あいつがなにを考えているかなんか、おれはさっぱりわからない)


 あるときまでは、高比古は狭霧のことを理解できていた。


 興奮している、脅えている、困っている、焦っている。それくらいなら、狭霧の考えていることはいつもわかった。でも、とくになにもしないまま見て見ぬふりをし続けるうちに、いつのまにか狭霧は、高比古が感じ取れないふうに変わっていた。


 意図を感じ取れないことが、こんなに苦しいものかと、そのときは苛立ちすら感じた。


『どうしたんだ。なにかあったのか』 


『おれがさっき、なにかへんなことをいったのか? そうだったら、謝るから』


『なあ、いえよ』


『いわなきゃ、わかんない――』


 なにをいっても、狭霧はきれいな笑顔を浮かべてはにかむしかしなくなったが、それは二人が阿多を発って、帰りの船旅が始まった後も変わらなかった。


 ひと月以上かかった船旅のあいだ、日が暮れて、船が浜につけられるたびに、高比古と狭霧は同じ天幕を使って休んだ。


 行きの船旅のあいだに高比古は狭霧に国々のことを教えたが、帰りの船旅では、星の読み方を教えて欲しいとせがまれた。


「ねえ、高比古。わたしが星読みを習うのは、まだ早いかなあ」


「いいんじゃないのか。絵地図は覚えたし、薬のことなら、もうおれより詳しいだろ」


「じゃあ、教えてくれる?」


 それで、雲がない晩は一晩中起きて、夜空を眺めることになった。


「星読みの知恵は、主に、海民と耕民のためのものだよ」


「海民と耕民?」


「ああ。星の動きを見ていれば、方角がわかる。星は、陸の形や灯台とちがって、どこにいってもほとんど見え方が変わらないから、方角を知るいい目印になる」


「ふうん。じゃあ、耕民のためっていうのは?」


「それは、夜の星じゃなくて、太陽と月を見る」


「太陽と月?」


「太陽と月の動きを追えば、季節の移り変わりが詳しく読み解ける。種まきの季節や、畑に流す水の量を変える時期がわかるようになるんだ。だから、それを連中に教えてやれば……」


「あ、そうか! 種をまいたり、水の量を変えるなら今だよって教えてあげれば、うまく稲が育てられて、お米が豊かに実るんだ!」


「そういうことだ。じゃあ、教えてやるから、どっちからがいい?」


「どっち――?」


「同じ星読みとはいえ、似ているようで別物だから、順番に覚えたほうがいいと思うぞ。夜の星の読み方か、太陽と月の動き方か、どっちだ? あんたは太陽と月のほうがいいかな。そっちのほうが、土いじりに役立つんじゃ……」


 狭霧は、薬草だけでなく、農地にも興味がある。それを知っていたのでそういったが、狭霧は首を横に振った。


「星のほうがいいな」


「星? どうして」


「だって、星の読み方がわかれば、どこにいても方角がわかって、出雲がどっちにあるかわかるでしょう?」


 べつに妙な答えではなかったのに、その返事にはやたらと腹が立った。


 そのときも、狭霧はきれいな笑顔をしていた。


 雲のない澄んだ夜空を見上げるのに、隣り合って寝転んだ狭霧は、朝が来たら輝きを失って消えていく星のようで、いつのまにか消えてしまいそうだった。


 そのときのことを思い出すと、いまでも高比古には苛立ちがこみ上げた。


(出雲がどっちにあるか? そうやって出雲の方角を探すとき、あんたはどこにいるつもりなんだよ)


 いつしか、高比古が駆る馬は意宇の都へ入っていた。


 王宮の門をくぐったものの、まっすぐ主の居場所へはいかずに、高比古は遠回りをした。


 大路を回って向かったのは、出雲一の薬倉のあるあたりだ。


 その倉は、周りを庭と栗の林で囲まれている。馬上から木の幹越しに倉を見やるが、つい眉を細めた。


 そこは事代ことしろも頻繁に出入りする場所なので、高比古にとっては見慣れた場所だ。でも、そこにあった風景は、覚えているものと様変わりしていた。


 古く、堅固な木組みを誇る薬倉のそばには、いつのまにか簡素な小屋が建ち、なぜだか知らないが、薬師くすしでも事代でも、王宮に仕える童でもなさそうな少年が何人もいる。


 ふと、狭霧の声が聴こえた。どこからか慌てて駆けこんだというふうで、その声は息を切らしていた。


「聞いて! 彦名様が、お許しをくださったの。ここで学ぶ童を養う手助けをするから、十人までなら増えてもかまわないって! 下男の住まいの近くに、みんなが寝泊まりできる新しい小屋もつくってくださるって!」


「本当ですか、姫様」


「いやあ、彦名様のもとへじきじきにお願いにあがるなんて、さすがですねえ!」


「十人か……。十人ずつ育てていけば、薬師はすぐに増えますね」


「でも、条件付きなの。ひとまずそれでやってみて、来年も続けるかどうかは様子を見るそうよ。……当然ね。がんばろう。皆さんの力が頼りです」


 狭霧と騒いでいる連中の背格好や声には、覚えがあった。


(医薬師の爺どもか? それに、なんだって? 彦名様? 学び舎……?)


 狭霧は、そこでおこなわれている何かの中心にいるように見えた。

 




 意宇でたった一晩過ごしただけで、狭霧の噂はそこかしこで耳にした。


 狭霧は、須佐乃男の鶴の一声で特例として医薬師の見極めを受け、及第したらしい。


 そして、医薬師になると、息をつくまもなく学び舎づくりを始めた。


 里を回って童を集め、学び舎で師となる薬師も募り、挙句の果てに、彦名に直訴してそのための人手や米まで出させた。


 でも、誰も反対しなかった。狭霧は自分の意見が通るように、うまく人を説得して回ったらしい。


 狭霧は、出雲での薬の意味を変えようとした。


 これまで出雲の薬は、秘すべき伝統や、戦で傷ついた武人のためのものだった。それに狭霧は、交易のための薬という意味を与えて、高値で取り引きされる鉄と同等なものになりうると訴えた。しかも、鉄とちがって薬は量産ができる、と。


 それだけではなく、薬の知恵が王宮から里に広がれば、出雲の民を病や怪我から守れるとも説いた。そうすれば、すこやかな働き手が増え、暮らしは良くなっていくと――。


 数か月も一緒に暮らしたというのに、高比古は、狭霧がそんなことを始めると気づかなかった。


(いったいいつから、こんなことを考えてたんだ? ずっと一緒にいたんだから、すこしくらい相談しろよ。おれはなんなんだ? 星読みだの、国々のことだの、知らないことを教わるためだけの都合のいい相手かよ)


 聞かされていなかったことには腹が立ったが、なにより苛立ったのは、狭霧が取り組みはじめたという薬師の身分制度だった。


 まだまとまっていないとのことだが、医薬師、薬師、医師の位を上、中、下に分けて、一つ上にあがるためには、上医薬師と館衆の承認がいるとして、館衆を巻き込む制度をつくろうとしているらしい。


 学び舎造りに、身分制度。たったひと月のあいだに狭霧が意宇の宮につくりあげたものは、まだいしずえの状態とはいえ、たいしたものだった。でも、じっくり見れば見るほど、高比古には苛立ちがこみあげる。未来のそこに、狭霧の姿が見えなかったからだ。


(あいつ……)


 狭霧がつくろうとしているものは、狭霧がいなくてもはたらく仕組みだ。


 狭霧は、自分がそこから消える日を、いまから覚悟しているようだった。


(来るべき日には、大和に嫁ぐ気か――)


 真相に気づくなり、胸の底がかぎ爪で引っ掻かれたようにひりと痛んだ。


(そういう思惑があると狭霧へ教えたのはおれだ。おれは、あいつを見くびっていた。大和に人質として嫁がされるぞと脅せば、いうことを聞くと思ったのに――)


 高比古は、それを止めたかっただけだった。


 敵国へ嫁ぐ姫という身の上は、とても不安定なものだ。そこでどんな扱いを受けるかはわからないし、ひとたび不和が起きれば、質の扱いなど簡単に変わる。


 たとえ狭霧が大和へ向かうことでひとたび和睦を迎えたとしても、大和と出雲との争いがなくなるとは、高比古には思えなかった。大八嶋おおやしまに台頭して互いに国々を従え、倭国を方々で二分しているいま、二国の溝はますます深まりつつある。そのようにしか――。


(あんたが嫁いで事なきを得たとしても、もっても数年だ。遅かれ早かれ、あんたはいまに捕われるか、死ぬぞ。わかってないのか? ――そんなはずはないか。敵国に質として住まうことの苦しみや不自由さは、あいつが誰より知っているはずだ。あいつはずっと、そういう奴のそばにいたんだから)


 十年ほど前に、敵国から和睦の使いとして出雲に渡って来た輝矢かぐやという王子は、もともと狭霧の許婚だった。でも、時が過ぎて、その王子は捕われることになり、ついには処刑された。それを自分の目で見てきた狭霧が、なんの考えもなく動いているはずはないだろう。


(あいつだったら……もしかしたら、大和と出雲の仲を永遠につなぐのかな。そういえば、須佐乃男も宗像むなかた筒乃雄つつのおも、狭霧を一目置いていた。あの爺様たちがもくろんでいたのは、そういうことなのかも。とはいえ――)


 それでも、高比古の胸のつかえはとれなかった。





 二日に渡って彦名のもとへかよい、謁見を終えると、高比古は薬倉へ向かった。


 いつもよりも不機嫌な仏頂面をして、高比古が覚えているときより賑やかになった薬師の本拠地を覗くと、すぐに狭霧は気づいた。


「あっ、高比古!」


 高比古がそこを訪れたとき、狭霧は、仕上がったばかりの簡素な小屋の中と外を何度も出入りして、見かけない顔の男となにやら話していた。その男は、小屋を建てた木のたくみらしい。


「やっぱり、中が暗いね。陽の光がたくさん入るように、南側の壁をなくせるかな?」


「できますが、いいんですかね? 館衆の皆さんには、四方を壁で囲んだ館のほうが見栄えがよくてよいといわれているんですが」


「いくら見た目がよくたって、暗くてよく見えないんじゃどうしようもないわ。もしかしたらここを使う人が増えるかもしれないし、いいわ、壁を取って。じゃあ、お願いします!」


 木の匠に頼みごとを終えると、狭霧はぱっと彼に背を向けて、高比古のもとへ駆け寄ってくる。


「おかえり! 昨日、意宇に戻ったっていう噂は聞いたんだけど――。会えてよかった!」


 狭霧の目は、きらきらとしていた。でも、高比古にはそれすら疎ましい。


(なんだ、その楽しそうな顔は)


 眉をひそめて軽く睨むが、狭霧には効かない。そばに寄ってくるなり、目を輝かせて高比古を見上げた。


長門ながとから戻って来るの、早かったね。杵築でなにかあったの?」


「知らん。ただ、戻れといわれた」


「そうなんだ。わたしは高比古が戻って来てよかったけど……不都合がなければいいね」


 にこにこと笑われると、ますます腹が立つ。高比古はむっと顔をしかめたが、やはり狭霧に気にするそぶりはなかった。


「また杵築に住むんだってね。意宇には用事があったの?」


「ああ、彦名様に帰還の挨拶を」


「いまから?」


「もう済んだ」


「じゃあ、意宇での用事は済んじゃった? もう杵築へ戻るの?」


「明日には」


「明日? 早いね――。いまは、時間ある? 話したいことがたくさんあるんだけど」


 そこまで話が進むと狭霧の笑顔は弱々しくなって、しだいにぼんやりとした真顔になる。


 そんなふうに狭霧の表情が変わっても、高比古は不服だった。


(話したいことがたくさんある? いまさらかよ。いままで、なんにもいわなかったくせに)


 高比古のほうも、狭霧にいいたい文句がたくさんあった。


「話? いいよ。明日ここを出るまで、とくに用はないから」


(望むところだ。おれは、あんたと話しに来たんだよ)


 喧嘩を買うような渋面で承諾すると、狭霧は肩をすくめて苦笑した。


「よかった」


 その仕草も、なぜか癪に障った。


(なんなんだよ、その顔。なにがよかった、だ。あんたは、いったいなにをしてるのかわかってるのか)


 なぜか、狭霧のするなにもかもが腹立たしい。


 むっと顔をしかめてそれ以上なにもいわなくなった高比古に、狭霧は微笑んだ。


 そのうち狭霧は腕をひいて、「じゃあ、こっち」と、高比古をいざなった。






 高比古の手を引いて狭霧が向かった先は、彦名の居場所である本宮のそばに建つ、小さな舘。


「ごめん、あまり人がいないところにいきたくて」


 手をひかれるまま連れていかれた場所の景色に、高比古は目をしばたかせた。


「ここは――」


「その先にある舘をね、意宇にいるあいだの寝所にって、彦名様から借りてるの。ごめんね、こんなところで。ちょっと内緒話がしたいから」


(内緒話?)


 その言葉もそうだが、狭霧がいった言葉に高比古は目を丸くした。


「その館が、あんたの寝所?」


「うん、いまは誰も使っていないからって」


「そりゃ、誰も使ってないだろうよ。そこは、もともとおれが使っていた舘だ」


「ええっ、そうなの?」


 狭霧は、振り返って目をぱちくりとさせた。


「ここって、高比古の寝所だったんだ。じゃあ、いらっしゃいませっていうより、お邪魔させてもらってますっていわなくちゃ駄目だね」


 くしゃりと頬に丘をつくって、狭霧は愉快そうに笑う。


(そんなの、どっちでもいい)


 やはり胸では悪態をつきつつ。高比古にとっては懐かしい庭を抜け、その端に建つ小さな舘へ続く階段をのぼる。いまは狭霧の居場所だというその舘へ足を踏み入れるのは、どうしようもなく奇妙な気分だった。


「ここをほかの奴が……しかも、あんたが使ってるなんて、ものすごくへんな気分だ」


「それは、ごめん。お邪魔してます」


「あんたが謝ることじゃないだろ。おれは去年から杵築へ移ってるわけだし」


 いまは狭霧の寝所とはいえ、そこは高比古にとっても住み慣れた舘だ。


 慣れたふうに木の床を進み、木壁の懐かしい木目の流れをひととおり目で追うと、座り慣れた壁ぎわに腰を下ろした。


 狭霧も、壁に寄り掛かって膝をかかえた。絹の裳を細腕で囲いながら、彼女も楽な姿勢をとった。


「で、話ってなんだ。内緒話って?」


「うん、それ」


 暗いといって、狭霧は館の戸口にかかる薦をあけたままにしていた。


 舘の木壁には、明かり取り用の突き上げ式の窓がいくつも備わっていたが、入り口を塞ぐと、たしかに館のなかは暗くなる。


 わざわざ狭霧は外が見える位置に腰をおろし、そのうえ、話を始める前にはちらりと外を見た。


 その仕草に、高比古は勘づいた。狭霧が薦をあけたままにしたのは、閉じてしまうと、誰かがその向こうを通ったときに気づけないからだ。


「実は――」


 狭霧が話し始めたのは、ここひと月に彼女がやったことだった。


「学び舎をね、造り始めたの」


「ああ、見た」


「本当はね、すべての里から一人ずつ童を呼び寄せたかったんだけど、なかなか難しくてね、彦名様のお力を借りて、なんとか十人まで童を呼べることになったの。いまのところみんな乗り気で、もっと増やしてもいいんじゃないかっていう人もいるの」


「いいじゃないか。望みどおりなんだろ」


「うん、そうなの。でもね、よく考えると、場所がないの。薬倉のそばの庭は十人が学ぶ場所をとるのでいっぱいだし、それ以上増えると、王宮の外に場所をとらないといけないの。それで、いきづまったの」


「いきづまった?」


「うん。薬師を増やすのは大事よ。でも、王宮の外に学び舎を用意してまで増やすのは、薬師だけでいいのかなあって。木の匠や、水路をつくる技をもつ人や、船の行き来に詳しい潮見役や、大事なお役目はほかにもたくさんあるわ。それなのに、なんのために薬師だけを増やすんだろう。本当にそれは、みんなのためになるのかなって――」


 虚空を見つめつつ狭霧は話したが、そこで、狭霧の目はちらりと舘の外を覗く。午後の光が射し込む小さな庭に誰の姿もないのをたしかめると、声をひそめた。


「それから、医薬師のことも考えなくちゃ。内緒話っていうのは、医薬師のことなの。医薬師になるための見極めがあって、わたしも前に受けたんだけど――。たしかに難しいけれど、そこまで難しいものではなくて、あってないような見極めなの。ようは、長がそうと認めた人や、長に近しい人が選ばれるためのもので、なんていうか、けっこう狭い世界なの。医薬師になっているのはお爺さんたちばかりだし、役目をすべて明らかにしたら、すこし人を減らすか、役目を増やして、その役目にふさわしい若い人を加えたり、変えていけそうなの。でも、そのお爺さんたちが昔から薬師の技を守ってきたのはたしかよ。がんばってきた人たちに、そんなことをいうわけにもいかなくて――」


 そこで、狭霧はふうと息をついて高比古を見た。


「ねえ、高比古はどう思う?」


 耳を傾けていたものの、問われると、高比古は不機嫌に答えた。


「あのなあ。おれをなんだと思っているんだ? 便利屋か? そんなもの、すぐに答えられるか。明日までいるから、一晩考えさせろよ。それより、狭霧」


 次は、こっちの番だ。背を壁から放して身を乗り出すと、高比古は狭霧をじっと見つめた。


「あんた、本当にそれでいいのか」


「いいって?」


「聞いたぞ。学び舎で教える奴も、医薬師で位をもった奴も、あんたが募って選んだらしいが――。なぜ、あんたがやらないんだ。なぜ、あんたがいなくても回る仕組みにしようとしている?」


 目の奥にあるものを睨むように凝視すると、狭霧はびくりと肩を震わせて、目を逸らした。


「わたしじゃ役不足だからよ。わたしは学び始めてから一年しか経っていないし、わたしよりもっとふさわしい人がたくさんいるからよ」


 狭霧は答えたが、急にぎくしゃくとしたところといい、小さくなった声といい、いいわけをするようだと高比古は思った。


「あんたは、もう立派に薬師だろう。難しくはなかったといっても、医薬師の見極めに受かったんだろう? なのに、どうしてあんたが長にならない。そいつらが気に食わなくて、まるごと変えたいなら、爺どもから位を奪ってなり代われよ。手っ取り早いぞ」


 すると、狭霧は傾けていた白い顎を戻して、高比古と目を合わせた。


「位を奪ってなり代わるって、大和の女王みたいに?」


 狭霧は高比古がいったことを理解して、伊邪那いさなという国を乗っ取って大和を興した異国の女王に例えた。高比古はむっと顔をしかめた。


「ああ、そうだ。一番手っ取り早いだろう。たった一年で、望みどおりの国をつくれるよ」


「そして、もともとそこにいた人から恨まれる? 佩羽矢ははやさんが大和に背いたみたいに」


 狭霧は、静かに首を横に振った。


「これまでずっと出雲のために薬をつくって、みんなの病や怪我を治してきた人が大勢いるの。位や身分は、役目や務めを正しく見極めて、見合った報奨をあげるためのものよ。なら、まずはそういう人たちのことを考えるべきでしょう?」


「でも――」


「うん。そこで、もう一つの問題につながるの。どうして薬だけなんだろうって」


「はあ?」


「わたしは薬師になりたかったから、薬師のことには詳しいけれど、ほかのことに従事している人たちも大勢いるのよ。その人たちのための学び舎は要らないのかな。位や、報奨は? 考えたらきりがなくて、困っているの」


「あのなあ。さっきの話はどうなった。話が変わっているぞ」


「たとえば、星読みもそうよ。星読みは薬師の知恵だけれど、それを使うのは耕民や海民でしょう? みんなに必要なものなら、そっちも学び舎をつくったほうがいいのかな。でも、そういう技は、学び舎がなくても代々受け継がれているから、わざわざ王宮につくらなくてもいいのかな。なら、王宮につくらないと広まらないものって、薬のほかになにがあるんだろう――」


「おい、おれは……」


 責める高比古を、狭霧は頼みこむようにじっと見つめた。


「時間が、ないの」


「――」


「いまはまだ試しにつくっているところだけど、これから出てくる誤りを見極めたりして、仕組みを仕上げるには時がいるわ。これまでなかったものが広まるには、そのための時間もいる。早くしなくちゃ、わたしは――」


「あんたは、なんだ。大和へいかされるか?」


 ぐさりというと、狭霧は一度言葉につまって、黙った。でも、睨むような高比古を真顔で見返した。


「なにが起きるかはまだわからないでしょう? でも、雲行きはどちらかといえば怪しい」


「あんたは、いく気なのか」


「だって。考えたけれど、わたしに一番求められることはそれでしょう? 大国主と須佐乃男の血をひく娘……王族が存在しない国で、わたしにしかできないことは――」


「いく気なのか。それがどういう意味かわかってるのか」


「とうさまとおじいさまの血をひく娘として、甘い汁はたくさん吸ったわ。それにいまも、できるかぎり甘えさせてもらうつもりでいるの」


「いく気なのか」


「……だから、いましかないかもしれないの。自由なのは、いましか」


 じっと見つめ返す狭霧の顔は覚悟を決めているふうで、これまで何度も高比古を苛立たせた、いまにも消えそうなきれいな笑顔ではなかった。


(また、変わった……)


 あの、腹立たしいきれいな笑顔をするように変わったときも脅えじみたものを感じたが、いま目の前にいる狭霧も、まるで知らない娘のようだと思った。


 何カ月も一緒に暮らした相手から、別人と見まがうような凛とした真顔で見つめられるのは、気味が悪いものだ。とうとう高比古は黙った。でも、文句をいった。


「あんたは、へんな姫だ。はじめから……会ったときからへんだったが、いまはもっとへんになった」


 狭霧は苦笑して、それには応えなかった。


「ねえ、高比古。また意宇に来ることはある? 高比古の助けがほしいの。あなたと話していると、頭のなかで、すうっと考えがまとまっていくの」


 でも、その言葉は高比古には不愉快だ。


(おれは都合のいい道具か?)


「……気が向いたら」


 そっぽを向いて吐くと、狭霧はほっとしたように口もとをほころばせて、澄んだ黒眼でじっと高比古を見つめた。


 その笑顔は柔和で、思わず胸がぎくりとして、顔をしかめて見入ってしまうほどだった。


「高比古、話に付き合ってくれてありがとう」


 微笑みつつ、狭霧は素直に感謝を告げた。


「実はね、高比古にはずっと頼りっきりだったから、もう頼るのはやめようって思ってたんだ。でも、いまは、話していてもつらくならなかったし、大事なときを過ごしたと思った。高比古みたいに自分の意見をちゃんともっていたら、あなたと話すのも怖くならないみたい」


 昔の自分を恥ずかしがるように、狭霧はくすっと笑った。


「お願いだから、また付き合ってね。高比古が忙しくないときだけでいいから」


 それも、なんとなく癪だった。


「そんなふうに頼まれたら、断れないじゃないかよ。あんたは、本当に変わったよ」


 横顔を見せつけてそういうと、狭霧はにこりと笑った。


「断らないなんて、高比古のほうこそ変わったよ」




 それからというもの、高比古の頭の中をめぐったのは、狭霧のことばかりだった。


(あいつが大和へ嫁ぐ? ――ありえない。そんなことを大国主が許すわけがないし、下手をすれば、出雲は二分する。でも、あいつがみずから望んだといえば、うまくおさまるのか)


 そして、唇から出ていくのは、ため息ばかりになった。






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