智慧を継ぐ者 (2)
安曇を叱りつけた須佐乃男は、いいたいことをいってしまうと、さっさと安曇のいた舘を後にした。おそらく次に向かうのは大国主のもとで、その男のことも、じきじきに叱りつける気だ。いったいおまえは、いつまで隠居爺に甘える気でいるのか、と。
遠ざかっていく老王の後姿を、安曇は舘の階段を下りて見送った。
頭を下げて、礼を尽くして老王を見送っていたが、足音が聴こえなくなるほど遠ざかってから頭をあげ、すこし小さくなった須佐乃男の背中を見つめると、しばらく呆然とした。
(
安曇にあった須佐乃男への想いは、身体の内側に巣くった膿に似ていた。
でも今、それはいとも簡単に消えゆこうとしている。
(あの人の言葉には、強い想いがあるな。それが出雲でいうところの、王の言葉には
須佐乃男は、安曇の胸の内に気づいていたはずだ。
その原因は彼自身にあるし、彼を拒み続けた安曇の想いなどは、たやすく見抜いたに違いなかった。
それでも、須佐乃男は安曇を大国主の
安曇はそれを、気づいた上で渋々無視しているのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
(あの男にとっては、出雲で暮らすすべての者があの男の子供なのだ。大小にかかわらず、なんらかの力がある者なら、民すべてが子。自分を憎む奴であろうが、隙あらば仇を討とうとしている奴だろうが、すべては大国出雲を動かすための重要な子らであり、駒。あの男は、果てしなく広い世界を見ているのだ。――これが、力の掟か)
安曇の胸に生まれたのは、老王に対する敬慕の想いだった。
そんなものは抱きたくなかったし、抱けば、あの男に里を焼かれた故郷の者に対する罪になると胸が脅えたが、抑えようがなかった。
(須佐乃男か――)
老王が去った兵舎の広々とした庭をぼんやりと眺めつつ、安曇は懐かしい光景を思い出した。
それは、雲宮の西側にあった小さな舘での出来事だ。
その小さな舘は、武王が愛した王妃が御子たちと暮らした場所だったが、王妃が死んだとき、死を悲しんだ武王の手で焼かれてしまったので、いまはもうない。
その王妃、
舘の隣には柿の木が立つ小さな庭があり、柿の木の下には大岩が置かれていた。そして、その大岩は、ときおり須佐乃男の腰かけになった。
「おじいさまの場所はこちらだよ。どうぞ!」
「ありがとう、狭霧」
狭霧は須佐乃男に慣れていて、須佐乃男がやってくると無邪気に手を引いて大岩へ案内したが、安曇はそれを見るのがあまり好きではなかった。
自分が父代わりとして育てた狭霧と須佐乃男が仲良く話す姿を見るのが苦手だったので、須佐乃男が来ているときは声をかけようとせず、見て見ぬふりをして通り過ぎた。
そのときも、狭霧のそばに須佐乃男の姿を見つけるなり、安曇は舘の影に身を潜めた。見なかったことにして立ち去ろうと思ったが、須佐乃男と幼い狭霧の会話を聴きつけると、つい影から、耳をそばだててしまった。
狭霧を自分の膝に乗せた須佐乃男は、小さな子供がすっぽりと隠れるような太い腕で抱いて、子供をあやすには奇妙な話をしていた。
「狭霧や、目に見えているものは、たいてい嘘だよ」
「嘘? 嘘ってなあに、おじいさま」
「嘘というのは、飾り文句だよ。目に見えているものなど、飾りでしかない。姿形ではなく真髄を大切にして、時と人に合わせて、つねに造り変えていかねばならないのだよ。それが
「政?」
「ああ、政。この爺がやっていることだよ」
大岩の上で、みずからの身体で狭霧のための揺りかごをつくるようにゆっくりと揺れながら、須佐乃男はわらべ歌を口ずさむようにして、狭霧に話した。
「いくつか大事なことがあってね、一つ目は、つねに問うことだ。誰がそれを信じていても、問い続けなくてはならんのだ。二つ目に、信頼できる人をつくること。その者に、問う役を任せられるからだ。すべてを独りでやってはいけないよ。掌握するには、一人でやるよりも、ひとくくりに繋げた端から見るほうが都合がいいんだ。三つ目は、自分を疑うこと。そうしないと、新しい方法を編み出すすべを失うからね。己で編み出したことにも、『なぜか』と問い続けなければいけないよ」
「なぜか?」
「ああ、『なぜか』。狭霧や、今日のおまえの『なぜか』はなんだ。今日、ふしぎだと思ったことは、なにかあるかね?」
それは、なぜそんな話を子供にするのだと、安曇が割って入って止めたくなるような話だった。のんびりと話してはいるが、難しい言葉だらけで、子供には理解できまいとも思った。でも、幼い子供に、難しい言葉を正しく理解する必要はなかった。幼い狭霧は、老王との話を続けた。
「ううんとね、今日の『なぜか』はね、どうしておじいさまがそんなお話をするのかなあってこと。なぜかなあ。本当は誰か、べつの人に話したいけれど、その人が忙しくて話せないから狭霧にしているのかなあ。でも、どうしてその人は忙しいのかなあ。なぜかなあ。なにかお役目をしているのかなあ。じゃあ、どうしてその人はそのお役目をしているのかなあ。なぜかなあ。……ねえ、おじいさま。『なぜか』の遊びって、こんな感じ?」
話に乗ってみせた幼い孫娘に、須佐乃男は目を細めて笑った。
「ああ、そうだよ。狭霧は賢いね。それで、その人はどうしてそのお役目をしているんだい。それに、どんなお役目をしているんだい、狭霧や。教えてくれよ」
「ううーん、狭霧、途中で間違えちゃったかも」
「間違えた?」
「うん。おじいさまが狭霧とお話しているのは、誰かが忙しいせいじゃなくて、もしかしたら、そんな人がいないからかもしれないもの」
「いないのか! それは困る」
ははっと、須佐乃男は愉快そうに笑った。
でも、物影で聞いていた安曇は、背筋が寒くなった。
狭霧と須佐乃男の会話は、よく聞けば恐ろしい内容だったからだ。
須佐乃男が孫娘に話して聞かせたのは、政を司る者の心得だった。
そんなことを須佐乃男が狭霧に話したのは、なぜか。須佐乃男は、本当はべつの人と話したいが、その人はとても忙しくて、須佐乃男は話ができない。でも、実はそうではなくて、そのような人が存在しないから、須佐乃男は狭霧に話すしかないのだ――と。
ふいにそのときのことを思い出した安曇は、気が急いて仕方なくなった。
(ちがう。いないのではない。いないのでは――)
さきほど須佐乃男からあれほど叱りつけられたのは、それだけ期待をかけられていたからだ。雲宮に乗り込んできて、真っ先にやってきた場所も、自分の居場所だった。
いてもたってもいられず、安曇は兵舎を出て、本宮へ向かって大路をいった。
ここを出た須佐乃男が向かった先は、大国主の居場所、本宮のはずだ。
過去を恨んで、かたくなに心を開こうとしなかった二十年間を、安曇の胸は悔やみはじめていた。恨んで仕方のないことだとは今でも思うが、そのときすでに、老王は恨まれることすら許していたというのに――。
「振り返るな」、「先を見ろ」と安曇を勇気づけ続けた主の少年の言葉を、憧れるだけで、結局役立てていなかったことも、いまさら痛感した。
(須佐乃男様と話をしなくては。あの男は、私がかなう相手ではない。今さら抗って拒んでも、いいことはなにも起きない。それどころか、大事なものを落としてしまう)
走るような速さで、安曇の足は大路を進んだ。しかし、そのうち足は止まる。
大路の向こうから駆けてくる館衆の男と目があった。その男は、安曇を探していた。
「あぁ、安曇様。ちょうどよかった。賢王から、あなたへことづけが。近々、意宇で話をする場を設けるので、そこに参ぜよとのことです」
あの老王は、なにかを始める気でいるのだ。さっきはうなだれていたのに、すぐさま次の手を思いつくなど、本当にしたたかな爺様だ。
感嘆するように、安曇はゆっくりうなずいた。
「わかった。それで、須佐乃男様は、いまどこに」
「雲宮を出られました」
「出られた? もう?」
「はい、ついさっき。これから
「意宇へ――」
老王が次に向かった先は彦名のもとだろう。安曇と大国主を叱りつけたように、これから老王は、彦名やその従者に檄を飛ばしにいくのだ。
(忙しい方だ)
ため息を吐くと同時に、悟った。
須佐乃男が急いでいるのは、焦っているからだと。
耳が思い出した老王の言葉は、ぎくりとして背が震えるほどおぞましかった。
『わしは生まれてはじめて、老いることが苦しくてかなわなくなったぞ。……安曇、満足か? おまえはわしを、これ以上はないほど苦しめた』
あの男にそこまでの言葉を吐かせるほど、自分の力は及ばなかったのか。そう思うと――。
(満足? いいえ。あなたを苦しめたら満足できるかと、心のどこかではきっと思ってきました。でも、あなたがうなだれる姿を見ても、満足などしませんでした。それよりも――)
永遠に奇怪な化け物であり続けてほしかった男が、ただの老齢の爺にしか見えなくなった瞬間があった。それからというもの、安曇も老王と同じように焦り始めた。
(我々も急がなくては。時は止まらない。子供も老人も、人はみんな老いていく)
「穴持様は?」
尋ねると、館衆は答えた。
「本宮におられますが」
「わかった」
返事を聞くなり、安曇の足は再び早足を得て、大路を進みはじめた。主のもとへ話しにいくつもりだった。
その十日後。意宇の王宮に、王の名や役を負った者たちを集めた須佐乃男は、王間で円座を為すすべての男たちへ命じた。
「急務を与える。出雲を滅ぼしたくなければ、知恵を集める体制をつくれ。力の掟のほかにも、掟をまとめる必要がある。彦名や大国主たち若者は、それぞれ自分の役目で忙しい。掟の土台となるものをつくるのは、わしら、一線を退いた者でおこなおう。どうすれば後世に渡って、いまと同じように国の力を保っていけるのかを、考え抜くべき時が来た」
須佐乃男は、自分が中心になったその集まりを、「長老会」とひとまず名づけた。
敷島の西端、引島の砦にいた高比古のもとへ出雲からの使者が着いたのは、それから十日後。高比古が引島に来てから、ひと月後のことだった。
「高比古様、帰還命令です!」
大きく手を振りながらいそいそと小舟を降りて、自分のもとにやってくる使者を見る高比古の目は、見る見るうちにぽかんとひらかれていった。
「帰還? もう?」
安曇が自分に引島行きを命じたのは、軍の規律を守るためだ。
和を乱した者への見せしめの制裁で、なにもしなければ面目が保てないからという事情があるとも察していた。いってしまえば、体面を繕うだけの制裁なので、一年といいつつ半年くらいしたら呼び戻されるかもしれないとは考えたが、まさか、ひと月とは――。
「まだひと月だぞ? 本当にか?」
喜ぶどころか訝しがる高比古に、使者はおずおずといった。
「私に伝言を命じたのは安曇様ですが、安曇様がおっしゃるには、ここの海を目で覚えたならそれでいいと。ほかにもやるべきことがあるから、すぐに戻れとのことです」
「やるべきこと? 出雲で? なら、おれの後任は誰だ」
「
「ふうん、豪傑だな――」
石玖王の御子、石土王は、父仕込みの戦上手だ。安心してこの砦を託せる相手で、申し分ない。それでも、高比古は腑に落ちなかった。
「それにしても、急すぎないか。出雲でなにか起きたのか」
すると、使者はじわじわと唇をひらいた。
「実は、意宇で、長老会というのができたんです」
「長老会? 意宇で?」
「須佐乃男様が中心となってできた集まりなのですが、意宇と杵築、二つの王都だけでは間に合わない問題について、先に考えておく場なのだとか」
「須佐乃男? なんだ、長老会って……隠居爺さんたちの集まりか?」
「あ、駄目ですよ。悪くいっちゃ。告げ口しちゃいますよ?」
「したければすればいいよ。おれは気にしない」
「いっちゃいますよ。いいんですね?」
じとーっと睨んでくる使者を無視しつつ、高比古は次を尋ねた。
「で、長老会ができて、なんでおれまで戻されるんだ? おれも意宇にいって、爺さんたちの集まりに入るのか」
「いえ、あなたには、
「杵築?」
「はい。安曇様がいうには、杵築に本格的に居をかまえる支度をせよと。変わるべき時にはその場に居合わせよ、とのことです」
「居合わせよ?」
やはり、意味がよくわからなかった。
役目を済ませた使者がそばを去り、一人になると、高比古は砦を出て砂浜を歩いた。波打ち際までいって、ざざ、ざ……という潮騒にひたりながら、彼方の波を見つめた。
その日、空には雲が多く、まだ夕時には早いというのに、天を厚く覆った雲のせいですでにあたりはうす暗くなっていた。
海から来る風はいつもより湿り気を帯びていて、風に身を晒しているだけで、衣は水気を含んで重みを増していく。風が来る方角のどこかでは雨が降っているようで、出雲の砦があるこの島にも、いまに雨を降らす黒雲が訪れそうだった。
(居合わせよ? 須佐乃男がなにかをはじめようとしているいま、その騒動の中にいておけってことか? でも、杵築で?)
使者の話によると、長老会というものが発足したのは意宇の都であって、杵築ではない。
変わり始めているのは杵築ではなく、意宇ではないのか。それなのに、杵築で暮らせとは――?
(杵築に、本格的に居をかまえる支度をせよ?)
もともと、高比古が暮らしていたのは意宇の都だった。
それは、高比古の主、彦名が意宇の王だったからだが、彦名に気に入られて、王の次席ともいわれる策士という役に就いた高比古は、彦名を継ぐ最有力候補と噂されていた。
だが、一年近く前から、意宇を出て杵築に移り住むようにいわれていた。
そのように助言したのは、須佐乃男だという。今回、意宇の都で長老会という名のなにかをつくった人物だ。
一年前、高比古が杵築に移ったばかりの頃、奇妙な噂がまとこしやかに囁かれた。須佐乃男は高比古を、杵築の大国主の後継に据える気でいる。彦名の後継ではなく――と。
でも、それが真実かどうかは誰にもわからない。だから高比古は何もいわずに、噂も聞かないふりを通してきた。でも、杵築で暮らせという命令が二度も続くと、先のことを考えずにはいられなかった。
(もしかして、武王になるための支度をしろということか。結局おれは、杵築側になるのか)
杵築で、武王を継ぐ――。
それは、高比古がこれまで思い描いたうちの最上の夢だった。
いまの武王は、大国主。高比古が憧れてやまない男だ。その男の後継者となれば、直系の養子になるようなもので、一番親に欲しかった男を、とうとう父親にできるようなものだ。ぶるりと、高比古は背筋が震えるのを感じた。
(出雲最高位の座が、とうとう見えてきた。うそみたいだ。おれみたいな、出雲の血が一滴すら流れていない奴が……)
魂ごと揺れるような奇妙な震えが、全身を駆け抜けた。
豪快な笑顔で高比古を励ました巨体の豪傑の声も、耳元でこだました。
『そのまま偉くなれ。それで、一番上までのぼりつめろ。おまえが一番上までいけば、穴持や彦名以上の成り上がりだ。下っ端の兵どもの希望になってやれ!』
興奮におされて、胃の腑から吐き気に似た笑いがこみ上げた。
(ああ、のぼりつめてやるよ。もうすぐだ)
でも、同時に、興奮をしゅうと冷やしていく気味の悪いものも感じた。それは、前にふと感じた疑問だ。
一番上にのぼりつめて、兵の希望になって――それから、おれはどうするんだろう?
(おれ、びびってるのか?)
だから、湿った海風に歯向かうふうに立った。
砂浜を踏む足に力を入れて、腕組みをして風に身を晒し、迷いを振り払うようにじっと見つめた先は、彼方の陸地。分厚い雲のせいで、天も陸も海も、どれもが同じような濁った灰色に見えていた。
薄暗い夕景を眺めながら深呼吸をして、乱れた胸を落ち着かせた。
(ばかばかしい。おれが武王を継ぐとか、そんなことは後の後だ。それより今は、筑紫だよ。おれだろうが、
でも、胸に湧いた疑念は、隅へ追いやられるものの消えることはなかった。
力の掟って、なんなんだろう。
どうしておれなんだろう。
おれなんかが……出雲の血が一滴すら流れていないおれが王になって、本当にこの先やっていけるんだろうか? 王になるのが終わりではない。その先は、遥か遠い先まで続いているというのに。
頭にふっと浮かんだのは、狭霧の顔だった。力の掟が通用しない、極上の血をもつ娘だ。
狭霧という大きな例外をもつこの掟が、かつて例のない大出世を認めることができるのか。あの掟は、本当に高比古を王の座まで押し上げることができるのだろうか?
高比古は、信じ続けた力の掟に、はじめて不安を感じた。
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