月の娘 (1)
死霊に憑依されて死の苦しみを置いていかれるのは苦しいが、いまはそれを待ち望んだ。それらは、死にぎわの叫びと一緒に、記憶のすべてを高比古に残していくからだ。
特別な技をもって人の傷を癒す医師や
ただ時を過ごしているだけでは得にくいものを、どれも高比古は一晩で覚える。
とくに、高比古をいまの地位へ押し上げたのは、敵国の将の記憶だった。そうそう足を踏み入れることのできない敵国の地の利や国の成り立ちを、その国の者の目でつぶさに見ることができる。
高比古という策士を得た出雲軍は、固く閉ざされた敵国の内幕を、ひも解いて見ることができた。
(敵国?)
ふと、高比古は足を止めた。
須佐乃男の仮宿を追い出された帰りの、真昼だった。一日のうちでもっとも強い日差しが、真上から降り注ぐ時間だ。
でも、光の眩しささえ、高比古の目にはもう映らなかった。
(敵国ってどこだ? 須佐乃男が操っている国って?)
たかが模擬戦だ。北筑紫のどこかにある架空の国か? そうも考えたが、すぐに、ありえない、と唇を噛んだ。
(どうして、いままで気づかなかったんだろう。おれが動かす出雲も、おれと須佐乃男が守る宗像も実在するのに――)
須佐乃男は、模擬戦という遊びを用いてなにかをやろうとしている。現実のなにかをだ。それに、気づいていながら――。
(北筑紫の国といえば、まずは
須佐乃男の意図にたどり着きたい。できるならあの、人を食ったような笑みを笑い返してやりたい。頭には、それしかなかった。
考えるのに夢中で立つのも面倒になり、通りの隅へふらふらと寄って、土の上に腰を下ろしたところだった。
突然、声をかけられた。そう思ったら、そばに
「やっほー。また悩んでるのか? ハゲるの早そうだな、きみ」
からかい文句よりなにより、邪魔されたことに腹が立った。
むっとして、自分の顔に影を落とす真浪を睨み上げるが、真浪はひょうひょうとした笑顔を崩さない。
「ちょうどいいところで会った。きみを探してたんだ。知らせておかなくちゃと思って」
「知らせる? なにを」
「いまから、狭霧ちゃんと遊びにいくんだ。小舟で、海の上を散策してくるよ。きれいな入り江があるんだ」
真浪は浮かれ口調でいうと高比古の反応を待って黙り、すぐににやけた。
「そんな顔するなよ。彼女を慰めろっておれにいったのは、きみだったろ?」
「そんな顔?」
いわれるまで、高比古は、自分が仏頂面をしているのに気づかなかった。
「悪いが、もともとこういう顔だ」
「あっそう。まあ、いいけど」
真浪は狭霧の兄ぶっているといいがかりをつけて、高比古をからかっていた。
だが、高比古はいま、それどころではなかった。
「真浪、そんなことより、訊きたいことがある」
「えっ、妹のことより大事な話!?」
真浪は大げさに驚いてみせた。高比古は小さく舌打ちしておく。
「だから、おれはあいつの兄じゃ……。それはいいから。北筑紫に、どんな国があるか知ってるか? 狗那、倭奴くらいしか、思いつかないんだが――」
真浪は、大陸から北方までを行き来する商国の、身分ある青年だ。諸国の好みを知りつくす彼なら、北筑紫の情勢にもきっと自分より詳しい。そう信じた。
「北筑紫ぃ? 突然いわれてもなあ」
真浪は真昼の陽光を避けるようにうつむき、腕組みをした。
「それなりに大きいのは、狗那、倭奴の二国だと思うけど。あとは、北筑紫には入り江や島が多いからさ、海民の小さな村が、たくさんあるよ。でも、海民は横で繋がってる場合が多いから、小さな一族っていっても、宗像か倭奴か、
海の民は横で繋がる場合が多いから、宗像などと関わっている。それは、重要な事実だった。でも、求めた話とはすこし違った。
欲しい答えを得るためには、どう問えばいい? 自問自答するうちに、高比古はひとつを見つけた。
模擬戦で、高比古と須佐乃男は宗像を守り合っている。と、いうことは――?
「なら、その中で、宗像と敵対している国はあるか?」
「宗像と?」
真浪は首を傾げたが、即答した。
「ないだろ。宗像は大事な場所だ」
「でも、ここが海の要地なら、なおさら、欲しがる奴はいるんじゃないのか」
「そりゃ、いるだろうけど。この島だけ奪ったってどうしようもないだろ」
「どういうことだ?」
食い下がる高比古に首を傾げながらも、真浪は話を続けた。
「遠方への航海なんかね、すぐにできるもんじゃないよ。積み上げた知恵と経験と、道具がなくちゃね。宗像には、大陸との行き来に慣れた船乗りが大勢いる。というより、宗像にしかいないといっていい。この島を手に入れたくても、船乗りもろとも滅ぼしてしまっては、元も子もないんだ。だから、宗像は別邑なんだよ。誰も手を出せない――」
「……そうか」
本当に、敵国らしい敵国はなさそうだ。
(須佐乃男の国を探る手がかりが、また消えた……)
落胆していると、真浪はちらちらと周囲の様子を窺い始めた。誰もそばにいないことをたしかめると、彼は小声で付け加えた。
「でも……宗像のことを気に食わないと思ってる連中はいるよ。たとえば、倭奴とか」
「倭奴が?」
「知ってるだろ? 倭奴は、
大和というのは、古くからの出雲の敵国、
「大和の女王……大和」
大事な話のような気がする――。唇の内側で小さく反芻すると、真浪はうなずいた。
「あそこの王家は、もともと海民の一族で、大陸への航路を独占する宗像を昔からよく思っていなかった。でもまあ、気に食わなくても宗像を滅ぼすわけにはいかないし、いまは倭奴も……ね」
宗像を滅ぼすという
(それはそうだよな。おれたちが仮住まいしているのは、その宗像の王の宮殿なのに)
周囲を注意深く気遣う真浪の仕草を見ていると、安心した。信用おける奴だとも、改めて思った。
「ありがとう、助かった」
「いえいえ。じゃあ、今日のことは許してくれるね?」
「今日のこと?」
「狭霧ちゃんとの舟遊びだよ。もしも狭霧ちゃんがおれに惚れても、後で怒るなよ?」
「はあ?」
「じゃあ! いってきますね、兄上!」
真浪はやはり調子がいい。しかめっ面をした高比古を面白がるように笑って、軽く手をあげた彼は、逃げるようにしてそばを離れていった。
(狭霧が真浪に惚れる? ――まさか。それに、どうしておれが、怒らなくちゃならないんだ。だいいち、おれはあいつの兄貴じゃないっつうの)
だが、苛立ちはすうっと冷めていく。
いまの自分は、狭霧のことをとやかくいえる立場にはないことを、この数日で思い知っていた。いくら策士という地位を得ていようが、素質を試し続ける須佐乃男に、高比古はしばらく負けっぱなしだ。須佐乃男に勝てない限り、須佐乃男は、高比古を策士の素質ありと認めないだろう。兄妹などという、対等な関係であるはずがなかった。
(なんなんだよ。なにがしたいんだ)
目を閉じると、目の裏には、たちまち須佐乃男の嘲笑が浮かぶ。
真昼の強烈な陽光の底で地面にしゃがみ込んで、立てた膝と膝の隙間に額を埋めた。
――夜。まだ
「なぜまた来た」という言い合いをいちいちすることはなくなり、二人で寝そべるのにも慣れて、高比古が寝床にごろりと横になると、問いかけることもなく、桐瑚はそばに身を横たえる。
二人でいることに慣れると、高比古が、わざわざ桐瑚に触れるようなことはもうなかった。
桐瑚の隣で寝転ぶと、頭の下で腕組みをして枕をつくり、静かにまぶたを閉じる。とはいえ、目を閉じていても、高比古に休む気配はなかった。高比古はぴりぴりとしていて、小屋の中には、緊張を帯びた静寂があった。
桐瑚は、心配げに気づかった。
「苛立ってる? なにかあったのか?」
「そういうわけじゃないが、いろいろあって――」
自分から桐瑚に触れようとはしはなかったが、高比古が桐瑚を拒むことはなかった。頭の下で組まれた青年の腕に額を添わせると、桐瑚はすぐそばで静かに瞳を閉じた。
「じゃあ、いい。聞かない。わたしは寝る」
「ああ、寝ろ。おやすみ」
眠気のない声で、高比古は応えた。でも、はっとすると目を開けて、隣で寝転ぶ桐瑚を向いた。
「なあ、桐瑚」
「ん?」
桐瑚は、目をしばたかせて高比古を見つめた。ただ名を呼んだだけなのに、桐瑚の表情が、ぱっと明るく華やいだ――そんな気がして、高比古も目をしばたかせる。
奇妙に思うものの、高比古はひとまず尋ねた。
「なあ、桐瑚。おまえ、ここへ来る前はどこにいたんだ? 対岸の、北筑紫のどこかか?」
薄闇に浮かびあがる桐瑚の顔から、血の気が引いていった。さっき急に生まれたと感じた華やかさも、一気に消え失せる。
でも、こういう反応が返ってくることは、予想していた。
尋ねたのは、桐瑚の過去だ。初めに会った晩にも似た問いをしたが、その時も桐瑚は、高比古を睨みつけただけで、問いに答えなかった。
「いいたくないなら、答えなくていい。なら、宗像を嫌いな奴を知ってるか? 宗像を敵とみなしてる国や、誰か……」
「宗像を嫌いな奴?」
桐瑚の真顔は、亡霊のように冷え切っていた。桐瑚は、唇を憎々しげに歪めた。
「……わたしだよ」
「え?」
「なにをいわせたいんだ? わたしは宗像が嫌いだ。わたしの身を賊から買い受け、物のように扱っている宗像が、大嫌いだ」
高比古の肘を撫でるように添えられていた指先は、いまや怒りで震えていた。
「
「……悪かった」
謝罪を告げるように、桐瑚の背中を手のひらで撫でた。
(そうだよな。宗像が、憎いよな。――気が利かなくて、悪かった)
出来うる限り謝罪の気持ちを込めて抱きしめても、腕の中の桐瑚の身体は怒りで震えていた。
(賊に……ということは、こいつは、人買いに浚われたのか。浚われる前は、きっとなに不自由なく暮らしていたんだろう。血筋のいい娘だったんだろう)
奴婢らしからぬ高慢な物言いといい、人にへりくだることに慣れていない仕草といい――。桐瑚の素性は、なんとなく気づいていた。
でも、そう考えると、しばらく自分を責めていた血筋や身の上というものが、頼りないものにも感じた。
(いい血筋に生まれた奴は、生まれた場所でしか生きられないのかな。なら――)
「ここから逃げないのか。国に戻れば、もとの暮らしに……」
その瞬間。びくりと桐瑚の背中が大きく震えて、動きを止めた。
腕の中では、桐瑚の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと落ちていく。ひときわ澄んだ月の色をする瞳が、本当に夜の泉に代わったようだった。
「いまさら……帰る場所などない」
「いまさら?」
訊き返したものの、桐瑚はそれ以上答えない。高比古も問い詰める気は起きなかった。
言葉のかわりに、そっと身を寄せてくる華奢な身体を丁寧に抱きしめた。
(おれも同じだ。……帰る場所なんかない)
こらえていなければ、唇は桐瑚を慰めようと、自分のみすぼらしい過去を暴露してしまいそうだった。
桐瑚を腕に抱いたまま眠りについた、夜半。真夜中に、はっと目を覚ました。
(……来た)
耳は、地鳴りのような呻き声を聞きつけていた。
宗像の岩場を凶暴に吹き殴る海風に似ているが、海風にはないはずの、暗い意思が複雑に蠢いて、声にまとわりついている。それはまるで、恨みの的を探すように、宗像の都を目指してゆっくりと近づいてくる。死してなお、宗像を憎み、呪う、魂だった。
宗像の敵を探していた高比古には、待ち焦がれた客だ。どんな想いでさ迷っているのかはわからないが、手がかりがない今は、どんな些細なことでも知りたい。
(逃がすか)
高比古は、がばっと身を起こした。
掛け布が腿のあたりまでめくれて、その寝床を使っているのが自分だけではなかったことを思い出した。
隣で寝そべっていた桐瑚が、ぼんやりとまぶたを開けた。
「……どうした?」
目つきが鋭くなった。前に、図らずして、狭霧についてこられた時のことを思い出した。
「いっておきたいことがある。おれは、外に出てくる。おまえは絶対に後を追うな」
「……いったいなんだ?」
「なんでもいい。とにかく、おまえは朝までここを動くな。いいな?」
「それは、命令か?」
「ああ、そうだ。命令だ」
凄みを効かせて念を押すと、桐瑚は、暗がりの中でふふっと笑った。高比古の胴に添えていた手のひらをみずから引っ込めて、離れた。目を閉じた桐瑚の顔は、なぜか楽しそうだった。
「命令なら、聞くしかない。歯向かうのは、そうでない時にする」
「どういうことだ?」
「ほかの時は歯向かっていい、という許しと解いた」
「都合がいい解釈だ」
苦笑が浮かんだ。
こいつは、変わった奴だな――。そう思うと、すぐそこで寝そべる桐瑚が、他に二つとない贅沢な宝に感じた。無性に触れたくなって、手のひらで温かな頬に触れ、滑らかな丸みを包むと、閉じていたまぶたに、そっとくちづけた。
「おやすみ、桐瑚」
「……おやすみ」
桐瑚は満足そうに目を細めて笑って、再びまぶたをつむった。
(たぶん、平気だ)
桐瑚は、まるで動じなかった。高比古は背を伸ばして、土間に転がっていた
目指すは、海と陸のまじわる場所。霊たちが集う、真夜中の浜辺だ。
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