越の若王 (2)


「港でこしの船を見たよ。立派な造りだな」


「だろ、だろ? うちの宝玉の産地が近場の島ってこともあって、越は、昔から船を造るのが盛んなんだ。おかげで、館を建てるのも得意だよ。越の山には丈夫な木がたくさんあるしね」


「船を造るのが盛んだと、館を建てるのも得意なのか?」


「そりゃあ。木を使うんだから、もとは同じだろ? 木のたくみにいわせれば、館を建てるほうが、船を造るよりよっぽど楽らしいけどね。船は、木組みをわずかでもしくじると船乗りを死なせてしまうから。出雲にも、越の木の匠は大勢移り住んでいるはずだよ」


「――そういえば、出雲には越の名がついた里があったな」


「それだよ。須佐乃男すさのお様の代に造られたはずだよ」


 海風に吹かれながら、岩場に腰掛けてしばらく話しこんだが、真浪まなみの口から須佐乃男の名が出ると、高比古は内心びくりとして、身構えた。


「あの里って、須佐乃男が造ったのか?」


「そのはずだよ。すごいよねえ、あの方は」


「――そうなのか?」


 教えを請うように問いかける高比古を不思議そうに見やって、真浪は首を傾げた。


「そうなのかって、須佐乃男様は自分の国の英雄だろう? おとといの宴も、賑やかだったよなあ。須佐乃男様がいると宴は必ず盛り上がるって、本当だな」


「……は?」


 真浪が話すのは、宗像へ辿り着いた日に筒乃雄つつのおの王間で開かれた宴のことだ。


 でも、いくら記憶をたどっても、下手な歌を遠慮もなく披露していた老王たちの姿しか思い出せなかった。


「盛り上がるっていうか、爺様たちが歌合戦に興じていただけだぞ? しかも、女の尻がどうだの妻問いがどうだのの、どうしようもない歌だ」


 その時の困惑を思い出して、品性を疑うね、とぼやきかけた高比古を、真浪の吐息が遮った。


「そりゃあ、おれたちがそれをやったら単なる馬鹿だけど。須佐乃男様は、宴の主……筒乃雄様も巻き込むだろう? 宴は大盛り上がり。相手国の主にも姫にも侍従にも、ここに出雲ありと思い知らせる。……すごいよ。おれには、とてもそんな真似は……」


 真浪は、異国の老王に陶酔するような目をしていた。


「実は、うちの大君おおきみから、須佐乃男様を目指せってよくいわれてる」


「須佐乃男を?」


 顔をしかめて訊ね返した高比古に、真浪はゆっくりとうなずいた。


「そうだよ。国と国を繋げる者は、あああるべきだって。ほら、越っていろんな国と関わることが多いから。だからほら、いい笑顔は大事です」


 最後に真浪は、冗談めいてわざとらしくにっこり笑って見せる。


「……そう」


 真浪からいま、これまで気づかなかった重要なことを聞いた気がした。


 でも、いまいちうまく飲みこめなかったし、すんなり認めたくなかった。


 口数が少なくなった高比古に、真浪はあれこれと話題を振ったが、すぐそばで肩を並べて座っているというのに、もはや高比古は、相槌も打たなくなった。


「おーい、聞いてる?」


 真浪は芝居調子で呼びかけたが、高比古はろくな返事ができない。


「悪かった。ぼうっとしてて……。おれ、帰るよ」


 さすがに申し訳なく思って、高比古は別れを告げた。


 早速岩場から腰を上げたが、真浪も高比古の仕草を真似るように立ち上がり、歩き始めた高比古と肩を並べて、にこにことしながら話を続ける。


「なあ、きみの仮宿ってどこ? たぶん、同じところじゃないかな。せっかくだから一緒に帰らない?」


(おまえから離れたくて立ち上がったんだが?)


 胸の中で嫌味をいったせいか、答え口調もとげとげしくなった。


「なぜ、わざわざ。おまえは海を眺めに来たんだろう? ゆっくりしていけばいいじゃないか」


「えー、せっかく出会ってしまったんだしさ、いいじゃないかよ」


 真浪は、有無をいわせなかった。


 仕方なく一緒に海に背を向け、岩の小道を隣り合って歩くが、高比古は、へらへらと笑ってお喋りを続ける真浪を、奇妙としか思えなかった。


(なんだこいつ? 人懐っこいというか……鬱陶しい)


 高比古がこれまで出かけた場所のほとんどは、戦場だ。周りにいたのは武人ばかりで、豪快だが、素っ気ない性格の男たちばかりだった。真浪や、もっといえば須佐乃男のような、やたらと口のうまい男には、これまでほとんど縁がなかった。


 背後から吹く海風に煽られて、真浪の裾丈の長い越服は、ばさばさと波打っている。それを器用におさえながら、真浪は文句をいった。


「この服、風にも弱いんだよ。 舘の中用の衣装にすればいいのに、船の上もこれなんだよな。うちの国って、現場のことを考えてない見た目重視の決まりが多くてさぁ!」


 気難しい真顔を貫く高比古に、真浪は臆することがなかった。それどころか、ますますにこやかに笑って、高比古を宴に誘った。


「せっかくだし、今晩どう? 酒でも。お近づきのしるしに」


「いや、その――」


 真浪は出雲にとって重要な友国である越の、三の王という位をもつ身分ある青年だ。それだけでなく、真浪は相応しい知恵ももっている――と、それはわかる。


 真浪がする話は自分にとって新鮮だし、興味もある。それも事実だが。


(こいつと酒? 夜通しこんなふうに奇妙な構われ方をするのは、勘弁)


 酒に付き合えといったのが出雲の武人だったら、迷いなく高比古は、「一人になりたいので遠慮します」と即答していた。しかし、真浪は出雲の武人ではなく、友国の実力者。同じようにすれば、きっと無礼になる。とはいえ――。


 うまい断り方が見つからずに言葉を濁したまま黙っていると、ある時突然、真浪は顔をにやけさせて、隣から高比古の顔を覗き込んだ。


「あ、もしかして……! わかった。誘わない!」


 結局真浪は、みずから話を終わらせてしまった。


 勝手に満足したらしい真浪と一緒に、来た道を戻っていくと、すこし先に別の二人連れの後姿が見えた。


 一人は背が低く、足首まである裳を可憐にはためかせて歩いている。娘だ。娘にあった雰囲気で、高比古はそれが誰だか悟った。


 狭霧だろう。隣にいるのは、矢雲だ。二人は、須佐乃男からいわれた通りに、宗像の山を散策していたのだ。そして、きっと自分たちと同じく、筒乃雄の宮殿へ戻ろうとしているところだ。


 前方に見えるまだ小さな後姿を指差して、高比古は真浪へ話しかけた。


「よかったら、あいつを誘ってやってくれないか?」


 すると、たちまち真浪は顔を輝かせた。


「あっ、もしかしてあれが? きみの恋人?」


「はあ?」


 高比古は素っ頓狂な声を出して、顔をしかめた。


「違う。あれは、大国主おおくにぬしの娘だ」


「え? てことは、須佐乃男の孫? 一緒に宗像むなかたに来てるっていう……」


「……本当に詳しいな、おまえ」


 まだ、なにも話していないのに。それも噂で聞きつけたのか、真浪は事情通だった。


「ふうん――年頃なんだね」


 真浪は、岩場の細道の先で裳をはためかせる狭霧の後姿を、興味ありげにまじまじと見つめた。それから、つぶやいた。


「……欲しいな」


「はあ?」


 微笑を浮かべて高比古と目を合わせた真浪の顔は、平然としていた。


「そんなに驚くこと? あの姫は大国主の娘で、須佐乃男の孫だろ? 妻に欲しがる男はそこら中にいるさ。……あの姫は、まるで出雲の象徴だよ。彼女の夫になる男は、出雲の縮図を手に入れるようなものだ」


「……おい」


 思わず、低い声で咎めた。


 歩幅がこちらのほうが大きい分だけ、しだいに二人は、狭霧と矢雲の後姿に近づきゆく。その間、真浪の目線が、狭霧の細い背中や黒髪から逸れることはなかった。


 狭霧は、これまでのように黒髪を背中に垂らしていなかった。先日の宴で宗像の娘たちから手ほどきをされたのを覚えたのか、黒髪は結いあげられ、細く白い首が、襟の上に覗いていた。結いあげられた髪の根元には、異国風のかんざしがある。簪には糸がついていて、糸の先には、小さな玉飾りが垂れている。それは狭霧が歩くたびに揺れ、岩場の小道に降り注ぐ日差しを浴びると、きらきらと輝いた。


 繊細な髪飾りも、狭霧が身に着ける花の色の上衣も、控えめな足さばきに波打つ長い裳も、どれも、年若い娘の可憐な気配によく馴染んだ。


 真浪は、近づきゆく狭霧の後姿に小さく口笛を吹いた。


「清楚な感じでいいね。……越の三の王じゃ、相手に不足かな。相手があの子なら、おれ、他の妃なんか娶らないし、浮気もしないよ? ねえ、おれって彼女の好みかな?」


「知るか!」


 口悪く高比古が拒んでも、真浪は態度を変えなかった。


「最悪、おれじゃなくてもいいや。越の大君の妻になってくれないかな」


「はあ? 越の主はもういい年だろう?」


「いい年っていっても、大国主と同じくらいだ。大国主に娘を嫁がせたがる奴は、いまでも多いだろう?」


 先をいく小さな後姿を真浪から守るように、高比古も見つめた。


「でも、いまのあいつは、誰かに嫁ぐなんて無理だ。想い人が亡くなったばかりで……」


「想い人が……ふうん? さっききみがいった『誘ってくれ』って、そういうこと? じゃあ、海釣りにでも誘ってみようかな。気晴らしになればいいよね。おれもあの子と仲良くなりたいし」


「……仲良くって?」


 真浪を睨む高比古の目つきが、暗く凄味のあるものに変わった。


 睨まれると、真浪は目をしばたかせた。それから、小さく吹き出した。


「きみって、彼女の兄貴か?」


「はあ?」


「だって、大事にしているようだから。違うよな?」


 真浪はくすくすと笑い続ける。それから、不機嫌に黙る高比古を説得するように、軽快に笑った。


「仲良くなりたいっていっても、顔を繋いでおきたいっていう話だよ。宗像にまでわざわざ連れて来られるような娘なら、この先も越と関わることになるだろう? ――きみみたいに。おれ、なにか変なことをきみにいったっけ?」


「いや……悪い」


 我に返った風に高比古は居心地悪く唇を結んだ。真浪は苦笑した。


「出雲って、きまじめな奴が多いのか? きみは変わった男だな」


 そんなふうにいわれると、高比古の中の負けん気が滾った。


「その言葉、そっくり返してやるよ。おまえは大らか過ぎる」


「大らかか、そうか、そうだな……!」


 真浪は息を詰まらせるようにして笑った。それから、幼い雰囲気の残る童顔で高比古を向いた。その時、丸みを帯びた真浪の目には、品格と呼ぶべき深みがあった。


「いいさ。今日はきみと出会えてよかった。今後ともよろしく。おれの子ときみの子を、いつか夫婦にさせる日が来るように祈る。その時も、越と出雲がよい関係を保って、お互いが第一線にいられるように」


 それは、別れの挨拶だ。


 真浪は高比古をじっと見つめて祈念し、軽く手のひらを上げると、歩幅を大きくして先をいき、狭霧を追いかけていった。


 足音に気づいた狭霧と矢雲は、少し先で足を止めて振り返る。真浪は早足で二人のもとに向かいながら、調子よく呼びかけた。


「すみませーん。こんにちは!」


 高比古からは、真浪の後姿しか見えなかった。でも、声は、彼が屈託なく笑っているのがわかる明るい声だった。


 少し先で立ち止まった狭霧は、自分へ向かってまっすぐに駆け寄ってくる真浪を見つめて、ぽかんとした。すぐに、真浪の背後にいる高比古にも気づいて、さらにきょとんとした。


 高比古をぼんやりと見つめる狭霧の目に、問いかけられた気がした。


 だから、その目を見つめ返して、軽くうなずいて見せた。


(そいつは大丈夫だ。……たぶん)


 真浪は、きっとあんたを傷つけるような真似はしないだろう。


 いい奴だ。だから安心していい。


 ……胸元にあんたのお守りを忍ばせたままでいい。


 そう伝えようとしているうちに、狭霧は意味を解したらしい。


 安堵したように口元をほころばせると、小さくうなずいた。


 それから狭霧は、すでに狭霧のそばまで追いついていた真浪へと、その笑顔を向けた。


 近づくやいなや、さっそく真浪は狭霧に話しかけた。狭霧たちが立ち止まった場所と、高比古が歩いている場所は少し距離があったので、真浪が狭霧へなにを喋っているのかは聞き取れなかった。


 そのうち狭霧は、可笑しそうに吹き出した。真浪が冗談でもいったのか、楽しそうに笑って、口元を華奢な指先でそっと隠した。


 歩幅を崩すことなく歩き続けていると、高比古も、やがては狭霧たちのそばまで行きつく。でも、彼らの話の輪に入る気は起きなかった。


「おれは先にいく」


 すれ違いざまに声をかけると、真浪は笑顔で応えた。


「はいはい。じゃあ、狭霧ちゃんをちょっと借りるよ」


「狭霧ちゃん、だあ?」


 いま会ったばかりだというのに。なんて馴れ馴れしい奴なんだ。


 鬱陶しいものを見るように睨みつけた高比古を、真浪はからかった。


「まあまあ、落ち着いて。なにも悪いことはしませんから、兄上。ちょっと姫君を、眺めのよい浜辺へご案内しようと」


(わざとだ)


 高比古は舌打ちをした。そして、無視することで、からかい返した。





 ひと睨みした後でするりとそばを通り過ぎた高比古の背中を、真浪はくすくすと笑って見送った。


 高比古の後姿が遠ざかり、高比古の残した怒気が岩場の小道から薄らぐと、真浪は、早速高比古とのやり取りを暴露した。


「彼は、狭霧ちゃんの兄上みたいな奴だね。さっきも、おれが狭霧ちゃんを誘おうとしたら、ものすごく怒ってさ」


 狭霧はまだ、岩場の向こうで小さくなる高比古の背中を見つめていた。でも、声を掛けられると、きょとんと真浪を振り仰いだ。


「兄上? ……たしかに。お兄さんみたいな人かもしれません。わたしと違って、出来がいいけれど」


 恥ずかしがるように苦笑した狭霧に、真浪は微笑んだ。


「仲がいいんだね?」


「仲がいい? まさか! そんなことをいったら、高比古は激怒します。仲はよくないけれど、なんとなく――。困った時には、なぜか一番近くにいる人です」


 狭霧も、思い出し笑いをするように微笑んだ。





 自分をからかう目線というのは、どこにいようが感じるものだ。遠ざかってしまった背後を気にしつつ、高比古は苛々と唇を噛んだ。


(なんだよ。人の噂しやがって)


 早足で岩場を歩きつつ、道を逸れた。居場所を探して岩山を上ると、高比古の足は、海を見渡せる小さな崖の端にいき当たった。行き着いた岩場は、そこら中に崩れ落ちた岩の破片が散乱していて、思い切り倒れこめば身体中傷だらけになりそうな、少々危なっかしい場所だ。


 しかし、腰を下ろして服の布地越しに痛みを感じるくらいのほうが、いまの自分の気分に合っていた。


 海原から吹きつける強い海風は、頬や耳をまたたくまに塩気でからからにしていく。


 片膝を抱え込んで、高比古は青い海をじっと見つめた。


(酒なんか……! あのお喋り好きに付き合って、夜通し世間話をする余裕なんかない。おれは、須佐乃男に勝たなきゃ)


 真浪といる間に遠のいた緊張を取り戻そうと、必死になった。


 だが、胸には、さきほどの苛立ちがまだ居座っている。


(おれが狭霧の兄貴だと? ばかばかしい。――冗談じゃない。あんな、のうのうとしてる奴と一緒にされてたまるか!)


 舌打ちをした。――が、高比古の胸の苛立ちはにわかに冷めていった。


(そうじゃない――。あいつとおれが、並べるわけがないか。生まれも血筋もまるで違うんだ)


 大国主と須佐乃男の血を引く狭霧は、そこにいるだけですでに宝だ。出雲の縮図と称えて真浪が妻に欲しがったように、欲しがる男は大勢いるだろう。


(なら、おれは……?)


 親からも疎まれて育ち、すでに故郷の村は皆殺しの目に合っていて、戻る場所などない。あったところで、威張れるような生まれではない。せいぜい身の上は、宗像へ来る手伝いをした海民の村の青年、凪咲なぎさと同じだ。


 急に、恐ろしい落とし穴に気づいてしまった気分だった。


 それはもともと高比古の足元にあり、暗い口を広げて足をすくおうと待ち受けていたが、そんなものはないといい張って、少しくらい足をとられようが、知らないふりをしてやり過ごしてきたはずだった。


 鋭い岩のかけらが散らばる岩場に拳をぎりぎりと押しつけて、わざと痛みを味わった。


 高比古にこみ上げていたのは、苛立ちに伴って生まれた負けん気だった。


(冗談じゃない。のし上がってやる。出雲はそれができる国なんだ)


 それはすぐに、須佐乃男に勝ちたいという焦燥に代わって身体中に溢れた。


(どうすればいい? おれを、狭霧と並ぶ位置まで……策士にまで上りつめさせたものはなんだ? ……それは、力だ)


 脳裏で、力の掟の文言が、鳴りやまぬ鐘の音か呪詛のように響きまわった。



『強いものが上に立つ。出雲に血の色は無用』



(知る力。人には見えないものを視て、聴いて、身につける力。……おれの力は、それだ)


 その力のことを考えると、すでに何度も味わっているとはいえ、高比古には震えがこみ上げた。その力を得るには、他人の死を味わうのと引き換えだからだ。


 これまで高比古が味わった最期の記憶には、こんなものがあった。たとえば、息を引き取る間際の断末魔の叫び声や、額を射抜こうと狙いを定める矢に竦み上がる瞬間の極度の緊張や、ついに弦が引き絞られ、強靭なやじりが骨を砕くのを感じて、訪れる混乱。無我夢中で振り回される剣の刃へ恐怖で脅えながら切り刻まれる最期もあったし、信じていた相手から崖の底へ突き落とされる最期もあった。裏切られた胸の苦しみや、無念さや、残していく家族を想う口惜しさも――。


 死の苦しみは、普通の人間であれば、死の間際にたった一度だけ迎えればそれで済むが、高比古はそうではなかった。


 精霊から子か孫のように愛される高比古は、死霊からも、人とは別のものとして見えるらしい。


 哀れな最期を遂げた死霊たちは、高比古を見つけると助けを請いすがってくる。我が死の苦しみを肩代わりしてくれ。忘れさせて、天へ向かわせてくれ、と――。


 そのたびに、高比古は夜ごとに死霊に憑依され、無理やり死を味わう羽目になった。それは頻繁にやってきたし、逃れるすべを知らなかったので、物心ついた時から、高比古はそれを手の施しようのない死の病に似た、逃れられないものだと諦めていた。


 他人の死を味わうのは恐ろしいが、高比古にとって一番恐ろしいことではなかった。


 それ以上に高比古を苦しめたのは、死霊が与える幻の死ではなく、生きた人だったからだ。


 遠い昔――。まだ物を食べるのもおぼつかない小さな口が、死霊の代わりに今わの際の苦しみを吐き、呻き、力尽きて地面にぐったりとなるのを見るたびに、高比古の母親は、顔をひきつらせて絶叫した。


『……呪われた子だ、私の子じゃない! 私の子じゃ……!』


『落ち着け、大丈夫だ、おまえの子じゃない。あれは悪霊が置いていったんだ』


 父も母も、死人のように地面に倒れ伏す幼いわが子を、子としては見なかった。


(そんな、とうさん。……じゃあ、おれはなに?)


 母の嘆きを聞きつけた村人たちも、同じだ。


『可哀そうに。美しい娘だから、化け物に悪さされたんだな』


『この子はどうする? ……殺すか?』


『殺して化け物に祟られたらどうするんだ? この子は、村の守り神に。村の外れの岩室に繋いで、生かさぬよう殺さぬように。……魔除けだよ』


 特別な品物を見るような、村人たちの淡々とした目。それはいつも、倒れ伏す高比古よりずっと高い場所にあったので、幼い記憶にある壁は、繋がれ続けた岩室の壁ではなくて、人外のものに怯える人の目線だった。


(魔除け? 化け物? おれはなに? 人じゃ……かあさんととうさんの子じゃなかったの? ……人ってなに?)


 冷たい岩場で涙を流すのは、いつも、幼い高比古を一人残して遠ざかる村人たちの背中を見ながらだった。


 その岩室に人が訪れることはあまりなく、いつも静かだったが、決して独りではなかった。


 泣き方も、涙の意味もよく知らないまま、あどけない頬の丸みを伝った温かい涙がぽとりと地面に触れると、岩はよく驚いて見せた。


『おや? どうした? わしに涙で穴を穿って、川でもつくるかえ? それはいい、それはいい。……つらいことがあったのかえ? 抱いてやるから、身を横たえて寝そべりなさい。わしには、人のように抱いてやれる腕がないから……』


 岩も風も土も花も、みんな高比古に優しかった。


 いわれるがままに、老齢の家族に抱きつくように地面に身を投げ出すと、幼い高比古は胸で語りかけた。


(ありがとう。……ねえ、おれって人なの? 精霊なの? それとも、死霊?)


『おかしなことを。――そなたは人だよ。とくべつな人だ。さあおいで。泣いて、涙の川でもつくってやるといい。あの村に住む連中を驚かせてやれ』


 優しい冗談をいって高比古をあやした岩の精は、母よりも父よりも、高比古にとっては家族だった。





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