越の若王 (1)
その日も、
昨日と同じように二人は模擬戦に興じたが、太陽が昇り切る頃になると、須佐乃男は豪快に背伸びをしてみせた。
「どうやら、またわしの勝ちだな」
いま駒を動かすのは高比古の番だったが、どう動かすべきかと考え込んだまま動かなくなった高比古に、老王は業を煮やしたのだ。
ふわあと大口を開けてあくびをした須佐乃男は、高比古の指がいじる駒や絵地図を指差しながら、諭すようにいった。
「いま、おまえの頭に何通りの方法がある? 三つか? 三つなら、たぶんどれもおまえの負けだ。もっともまずい方法で三手先で、もっともましな方法でも五回も骨石を振ればわしが勝つ」
言葉を聞くなり、高比古はぎくりとして肩を震わせた。
実のところ、須佐乃男の予言どおりのことを恐れていた。考えついた方法では、どれを試したところでいずれ負ける、と。
須佐乃男は、張りつめた空気を一掃するようにぱんと膝を打った。
「こう勝ってばかりだとつまらん。もうおしまいにしよう」
「ええっ、勝ち逃げする気です……!?」
思わず身を乗り出して大声を出したのを、高比古は懸命に抑えた。出雲の賢王と呼ばれる格上の相手を罵倒するのは、さすがにまずいだろう。
ぱっと手のひらで口元を覆った高比古に、上座で悠然とあぐらをかく須佐乃男は苦笑した。
「こうしよう。模擬戦は朝から昼まで。昼からは島を散策してこい。おまえは、放っておくと屋根の下にこもりっきりなところがある。いい若いもんが、それはよくない」
「散策くらいします。でも、先に勝負を……!」
「ほら、いったいった。すこしは頭を柔らかくして来い。勝ちにこだわるのは大人げないというものだぞ」
結局、蹴飛ばされるようにして館を追い出されてしまうので、高比古は渋々と道をいき、
その島を覆うのは、土というよりは岩。おかげで道は、ひび割れた岩の模様が並んでいて、硬い。……が、高比古は足元など目に入らなかった。
頭の中にあったのは、負け続けた模擬戦のことばかりだ。
(勝てない。どうしても勝てない。……違う。勝つのにためらうんだ。
後先のことを考えずに無理をすれば、高比古は須佐乃男に勝てたはずだった。
でも、単純にそうできない問題がいくつもあった。
(出雲が須佐乃男の国……筑紫の北にある小国を攻め取る? 兵や兵糧をそこまで運ぶだけでも、莫大な浪費だ。そこまでしてその国を得たところで、出雲にはなんの得にもならない。むしろ余計な痛手だ。苦労をするなら、相手は西より東だ。筑紫の小国より、
いつの間にか、高比古は小高い岩山をのぼっていた。
足が、青い海に突き出た岬の崖にいき当たるので、仕方なくそこに腰を下ろした。
吸い込まれそうなほど青く澄み渡る、南国の海。鼻先を撫でていく爽やかな海風。――そのいずれも、高比古は感じられなかった。
いまは、海も風も、戦船を動かす道具にしか見えなかった。
(潮の流れを最大限利用して、いや、もっと手っ取り早く友国である越の船を借りれば、もっと簡単にことは運ぶか? ……無駄だ。どう考えても、勝負を挑むべき戦じゃない)
海風に吹かれながら片膝を抱え、唇を噛みしめた。
(須佐乃男の意図は? たかが遊びだと勝ってみればそれでいいのか? でも、現実なら、おれは須佐乃男の動かす軍にわざわざ勝負を挑むか? ……戦を仕掛ける必要はない。これが、須佐乃男の待つ正しい答えか?)
熱に浮かされたように考えをめぐらすのに、没頭していた。そのせいか、すぐそばに人が近づいたことに、まるで気づかなかった。
「なあ」
ふいに、背後から声がかかる。高比古は、毛を逆立てた猫のように飛び退いた。あまり大げさに驚くので、声をかけたほうの青年が目を丸くした。
「…んなに驚いた? ごめん」
苦笑いを浮かべる青年が立っていた。顔つきは二十歳そこそこという風だが、見覚えはない。
いったい誰だ? なんの用だ?
わざわざ声をかけられたのが気味悪くて、眉をひそめて凝視していると、青年は愛想笑いをして、片手を顔のそばまで上げると、ひらひらと振って見せた。
「怪しい者じゃ――。出雲の策士ってきみだろう?」
「そうだが。あんたは?」
「えーと。おれは
真浪と名乗った青年は、冗談をいうように肩をすくめた。
が、高比古の目つきは変わらず。ひどく奇妙な相手を見るようだった。結局、真浪は、降伏するように両手を上げると、さらにひらひらと振った。自分に害はないと訴えるようだ。
「その、ごめん。取り込み中だった? こんなところで会ったのもなにかの縁かと、挨拶でもと思ったんだけど――。じゃあ、その、隣りで休んでもいいか? 海を眺めたいと思って来たところなんだ。ここ、いい景色だよな」
真浪からそういわれてはじめて、目の前の景色に気づいた。
たしかに――。
この岩場から見渡すことのできる青々とした海面には、島を成すのと同じ色をした岩が顔を出していて、しかもその岩は、外海の荒波と風に削られて、不思議な形をしていた。
目の前にあったのは、景勝地と呼んでしかるべき明媚な風景だった。そこからは、青い海と奇岩が織りなす、人の手では成しえない不可思議な大景を眺めることができた。
真浪は、高比古からわずかに離れた岩の上に腰を下ろした。
「いい風だ。なあ?」
そういって高比古を振り返る真浪は、強い海風に前髪をあおられるのを楽しんでいた。たしかに、その岬には、ほかより強く風が吹きつけていた。
「……すまなかった。考え事をしていて――。おれは、高比古だ」
「いや、いいよ。高比古だな? よろしく」
人懐っこい笑みを浮かべる真浪は、迷いもなく腕を差し出してくる。二人の間にできた隙間で軽く握手を交わすと、真浪は、爽やかな笑顔を何事もなかったように海のほうへ向けた。
「出雲に、越に――この秋の宗像は大賑わいだな。先日、大陸の国のいくつかと、
「……一度、すれ違った」
「じゃあ、連中の格好を見たか? いまや宗像は、奇妙な衣装の見本市みたいだぞ?」
くすくすと笑って話を進める真浪は、会ったばかりだというのにずいぶん親しげだ。
「出雲の服は飾り気がないから、染め具をふんだんに使った連中の衣装の中じゃ、意外に浮いて見えるよな。かくいうおれの服も、やたらと布の量が多くて、目立つんだけど。どう? 優雅だっていわれるけど、実は動きにくいんだ」
そういって彼はみずから腕を掲げて、長い袖を見せてくる。真浪が身にまとう衣装は、上衣も袖も、丈が長い形をしていた。その形は、優雅といわれれば優雅に見えるし、動きにくいといわれれば、たしかにそうだろうと思う。……が、そんなことより。
正直なところ、思った。
(なんだ、こいつ?)
人と話すのがそれほど好きではない高比古にとって、一人で喋ってくれるのは、楽といえば楽。とはいえ。
真浪は再び海を見つめたが、横顔を向けたところで、真浪の唇が閉じる気配はなかった。
「そういや、大和者を見ないな。伊邪那者も」
「大和? 連中もここを訪れるのか?」
目下の敵国の名を聞き、高比古は低い声を出すが、真浪は苦笑するだけ。彼が笑顔を絶やすことはなかった。
「そりゃあ、ここは
「別邑って?」
「敵味方なしって意味だよ。ここは倭国の入り口だ。誰のものにもならないほうがいい。誰かが独占しようとすれば、すぐさま戦になる場所だ」
「独占って……宗像は?」
その海を支配する一族のことを尋ねると、真浪は、童顔とも呼べる丸顔で屈託なく笑った。それから、いくぶん鋭い目配せを、高比古へ送った。
「別邑は、土着の民に任せろという意味だぞ? 彼らは野心を持たない。――表向きには、そういうことになっている」
真浪は愛嬌のある顔をしていたが、いまにかぎって、彼の目の奥にそれはなかった。
(こいつは、馬鹿じゃない)
それに気付くと、高比古は警戒を解いていった。
高比古のまとう気配がほんの少し緩んだのを察したのか、真浪の笑顔はますます柔和になった。
「なあ、噂で、出雲の奴が筒乃雄の孫娘を娶るって聞いたんだけど、それってきみのこと?」
(え?)
すっかり忘れていたが、そういえばそんな話もあった。
ぽかんと口を開けて、ようやく現実を思い出すやいなや、高比古の頭にはそれに伴った戸惑いも蘇る。なぜか、桐瑚のふくれっ面までが目の裏に浮かぶので、躍起になって打ち消した。
「ああ、そうだ。まだ会ってもいないが」
「そっか。じゃあ、やっぱりきみなんだな。出雲の次の棟梁として、育てられてる奴って」
真浪は、わずかに眉をひそめた。そして、いくぶん悔しそうにいった。
「実はその姫は、おれも狙ってた。宗像との繋がりは、喉から手が出るほど欲しいよ。――おめでとう」
声も出ないほど面食らった。戸惑いしか感じなかった
「うちも、
よかったな、と真浪は笑いかけてくる。
高比古はそれに、強張った笑みで応えるしかできなかった。いや……強張った笑みだろうが、笑顔を浮かべていることすら自分ではよくわからなかった。
真浪は喋り続けた。高比古が相槌を打たなくても、そばで耳を傾けていれば真浪はそれでいいようだ。
「須佐乃男様は、かなりきみを買ってるみたいだしね。噂で聞いたよ。昨日は一日中、二人で館にこもっていたって」
「……それは」
それは、ただ模擬戦という遊びに没頭していただけだ。
というより、噂になっているってどういうことだ?
……それより。婚礼話にしろ、こいつはいったいどれだけ噂好きなんだ?
いい返したいことがいくつもあって、唇が順番をためらっているうちに、真浪は次から次へと喋り続けた。
「どんな娘かなあ、筒乃雄の孫って。かわいいかな。あ、でもおれは、妻にするならこう、癒してくれるような女がいいなー。毎日おだててほしい。ほら、おれって褒められて伸びるほうだからさ?」
(そんなことは、誰も聞いていない)
「やっべー、陽が射してきた。南にくだると、秋だっていうのに暑いよな。でもさ、異国にいるうちはこの衣装を着崩せない決まりなんだよね。たまんないよなー。これでも、やせ我慢してるんだぜ? ……うわ、あっつー。きみしかいないし、すこしくらいなら腕まくってもいいかな。あ、お偉い様がたには内緒でよろしく!」
島へ辿り着いたばかりの頃に須佐乃男からされた助言が、ふいに耳に蘇る。
(そういえば、越の三の王って奴に会えば向こうから話しかけてくるとかいっていたな。越はお喋り好きだから、とかなんとか)
うまく的を射ていると感心せずには、いられなかった。
「……勝手にしろ」
調子よく喋られるのを聞き流すのも、いいかげん面倒になってきた。適当にあしらったが、真浪がへこたれることはない。
「ここまでいったら普通、どうしてわざわざやせ我慢してまで暑苦しい格好をしてるの、とか訊かない? 出雲の人ってのりが悪いよね」
彼に都合のいい問いかけをしなかったことを責められる羽目になると、嫌悪を通りこして、いくらか尊敬した。
(狭霧以上だ、こいつ。越の国って、いったいどんななんだ?)
ため息をつきつつ、真浪の望む言葉を渋々吐いてやった。
「じゃあ訊くよ。どうしてそんな服を……」
話したくて仕方ないというふうに、真浪は問いかけを遮って答えた。
「そうそう、それがな! 越が品質重視だからなんだ!」
得意顔で彼がいうのは決め台詞に近く、しょっちゅういい慣れている言葉のようだ。
「はずれの品は取引しない。それを姿で表すのがこの優雅な衣装ってわけ。というわけで、今後ともごひいきに! うちの強みは北の品。毛皮に魚に宝玉、それから塩に油。ご希望があれば、選りすぐりの奴婢も少々。船もしっかりしてるから、ご希望の場所までちゃんと運ぶよ!」
宣伝である。
高比古はやはり、頭を抱え込みたくなった。
でも耳は、真浪の言葉を気にした。真浪が早口で見事にいい連ねた、商国が取り扱う品々の目録は、高比古の耳には真新しかった。
「毛皮や食い物はともかく、宝玉って、そんなにみんなが欲しがるものなのか?」
出雲の策士として、それだけにはとくに魅力を感じなかった。
「それぞれだよ。自分の身を飾りたい奴は、なにをおいても欲しがるし」
真浪のあっさりとした喋り方は、出し惜しみをする気はないといいたげで、正直に裏事情を話しているのだと高比古に認めさせた。
「越の宝玉の質は、倭国一だからね。はずれがないという意味で、どんな品物とも換えてもらえる一級品だよ。小さくても値打ちがあるから、運ぶのも楽だしな」
「運ぶのが、楽?」
「そりゃ、そうさ。いくら人気があっても、船が沈みかけるような重い品じゃ、たくさん運べないからね。商売あがったりだよ。軽いものといえば、絹もうちのは上等と人気だ。塩は、海のない陸の国で必ず売れる。あとは、魚や貝も」
「魚や貝?」
「とくに、干し
「鮑?」
「上物の貝だよ。主に大陸向けさ。大陸の人は鮑が好きらしくて、倭国のものは珍しいと評判で、いい取り引きができる。織物や北の国の飾りも、意外に受けがいい。大陸では、珍しいものが受けるんだ」
童顔でにこにこと笑いながら、真浪は弛むこともなく知識を披露した。それから一度唇を閉じて、軽く目配せをした。
「出雲が欲しがるのは、書物だろ?」
高比古は、返す言葉に詰まった。
出雲の王宮には、大陸から持ち込んだ書物を仕舞う倉がある。それは、知っていたが――。
「ごめん、わからない」
正直に無知を伝えると、真浪はにっと笑った。馬鹿にするような真似はせず、むしろ真浪は、より丁寧に謎解きをしてみせた。
「出雲に要るのは、知恵らしいよ。大陸から持ち帰る漢籍は、出雲に受けがいい。大陸帰りの越の
さっきからそうだったが、真浪の口から流れ出ていく言葉はすらすらとしていて、自国の生業を知り尽くしているという風に、いいよどむことがなかった。
「出雲は、鉄の産地だ。この戦の世に、誰もが欲しがる鉄を、大陸や
自国の生業――いや、彼は、越が取り引きをするすべての国の好みを知り尽くしているのだ。
「……恐れ入った」
こういう一族は、仲間にすればさぞかし心強いだろう。
越が出雲の友国であることを誇りに思う――。そう気持ちを込めたのが通じたのか、真浪は嬉しそうにはにかんだ。
「どういたしまして。今後ともごひいきに」
最後まで、商魂は逞しいようだが。
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