月の娘 (2)


 高比古が訪れた夜の浜辺は、肌をがんじがらめに包み込むような奇妙な湿り気で包まれていた。


 なにか悪しきものがいるという気配があり、姿が見えずとも音を聞けずとも、人は知らずのうちに足を止め、決してそれ以上は近づかないだろう。


 じゃ、しゃ……。夜風に吹かれて湿った砂地を踏みしめて、ゆっくりと波打ち際を目指した。昼間は爽快な潮騒を響かせていた浜辺だが、いまはその音すら鈍くて、そのうえ、足元よりずっと低い場所によどんでいるように聞こえる。


 しゃ……。砂に足跡をつけて、立ち止まる。


 見渡せば、どこからが夜空で、どこからが海面なのかわからない暗い闇が広がっている。しかし、高比古の目に、そこには小さな嵐が見えた。


 それは、暗い海の上すれすれを漂っていて、ちらちらと蠢く小蛇に似たいかづちをまとわりつかせた黒雲に見えた。いや、ちらちらと閃く小蛇じみたものはいかづちではないし、雲に見える黒いもやも、雲ではない。それは、雲だのいかづちだのという、人の目が知っているものではなかった。


 危うげな閃光をまとわりつかせた真っ黒な靄は、ただ人の目には見えないものだ。靄の近くでよどんでいる奇妙なこえも、人の耳には聴こえないものだった。


 ギョオオオオオ……!


 凶暴な風に似ているが、同じではない。死霊の呻き声は、そういう音をしていた。


 浜辺で待ち受ける高比古に、死霊が気づいた。閃光をはためかせて、死霊の黒靄が進む方向を変えた。宗像の都を目指してはるばる海を渡ってきたはずなのに、我を忘れたように靄は高比古を向き、一刻も早く高比古の頭上へ辿りつこうと、靄の端を、自在に伸ばすことのできる指先のように蠢かせた。


 高比古のそばにやってくると、死霊はきまってこういうふうに助けを求める。


『光よ、清きものよ……我を清めよ……』


 だから高比古は、どうやら自分は彼らにとって、無我夢中に進むしかない闇の中に浮かび上がる、たった一つの明かりじみたものに見えるらしいと、そう思っていた。


 その靄は、吹き荒れる海風を食らってふらつくのも厭わずに、高比古のもとへ向かって滑りくる。まるで、そうしか動けないのだとばかりで、蛾が光にふらふらと吸い寄せられるのに似ていた。


 高比古の頭上に達すると、黒靄は、安堵の息に似た聲を漏らした。


『……助けて』


 死霊が死霊となったのは、地上から離れることを許さなかった恨みの想いがあったせいだ。しかし、死霊を死霊となした憎しみすら、それらは高比古を見つけると忘れてしまうようだ。


 だから、哀れに思った。助けを請いにやってくる死霊が、いずれ身を焼き滅ぼす炎へ向かっていく蛾や虫に重なって、仕方なかった。


(助かるよ。おれも、あんたの記憶が欲しいんだ。あんたが呪いたくて仕方ないはずの宗像を滅ぼすためじゃなくて、守るために。……悪いな)


 哀れだ――。


 しかし、いざ死霊を受け入れる時、高比古の胸にはなにも残らない。


 癖のように、思惑も恐れもなにもかもを捨てて頭の中をからっぽにすると、天を仰ぐ。


 高比古の頭上で、黒靄は、高比古の身体を呆気なく丸呑みできそうなほど、円く大きく広がった。しかし、姿は大きいくせに、びくびくと震えているような気配がある。高比古から許しをもらえますように――と。


 高比古の顔に、清らかな笑みが浮かんだ。そして両腕は、巨大な物を抱きとめるように天へ向かって広げられた。


「おれはここだよ。――おいで。生への未練など、すべておれに置いていけ」


 そうして――。死霊は、寛容な神にすがるようにして、高比古へ向かって身を投げ出す。高比古に意識が戻ったのは、そのすぐ後だった。


「……う!」


 額に靄の一部が触れただけで、身体が痺れる。いや、すでに自分の肉体の在りかを思い出せなくなり、これがいったい誰の身体なのかもわからなくなった。


 死霊に憑依される時、たいていはじめに高比古を襲うのは最期の記憶だ。


 今、高比古が視たのは、目の前で振りかぶられる剣――。それは、首を狙っていた。


「……あ!」


 首が千切れた。そうかと思えば、額に無数の矢が突き刺さる。高比古に憑依したその死霊は、弓矢で狙われた後に、首を斬り落とされて死んだのだ。


 彼の死を悼む絶叫が聞こえる。誰かが、そばで泣きじゃくっていた。


圭亥けい……!』


 彼の名は、そのようにいうらしい。叫んでいるのは、若い娘だ。


 首だけになった後も、彼は転がった先の地べたから、懸命に上方を見つめていた。自分の死を絶叫で悼んだ若い娘の姿を、探すためだ。


『離せ……! なにをする!』


 彼が行方を追うその娘は、もう彼を見ようとしなかった。死を悼む隙を与えられることもなく、娘はいくつもの野太い腕にはがいじめにされていて、いつしか、男達の身体の影にうずもれるようにして、姿が見えなくなった。


 ……やめろ、その方をお放ししろ……その方は……


 圭亥と呼ばれた男はまだ胸で叫んでいたが、首から上だけになった顔では、唇が痙攣するだけだった。


 見開かれた目は、男の屈強な肩に担がれていく娘の身体を、執念に動かされるように執拗に追っていた。


 ……やめろ、その方は……倭奴わぬの姫……桐瑚さ、ま……


 抗うよりも、身をゆだねるほうが楽だと知っていたので、高比古は、圭亥という男の最期の記憶に翻弄されるがままになっていた。――が、我に返った。


(はあ、桐瑚?)


 圭亥は、末期の血走らせた目で娘の行方を追う。高比古も、ことの結末を見届けようと圭亥と同じものを見ようとした。だが、もう遅い。とうとうそこで光が途絶えた圭亥の目は、その続きの光景を見せてはくれなかった。耳の力も、いつのまにか遠のいている。あるのは、静寂のみ――。ただし、静かなのは、ほんの束の間だ。


 死者を死者と成した、もっとも強烈な最期の苦しみを伝えると、憑依された高比古を次に襲うのは、死者が生きた時間分すべての記憶だ。


 死を「無に還る」と語る者がたまにいるが、そんなものではないと、高比古は思っていた。むしろ、混乱だ。「無」だとかいう、いかにも静かそうなものでは決してなかった。


 命の緒が断ち切られると、記憶は、時という糸を断ち切られた玉飾りのように、古いものも新しいものもばらばらに散らばって、あれはこうだった、あれはつらかったと、一緒くたに騒ぎはじめる。


 興味のあったこと、好きな女への想い――。膨大な記憶は、最期の恐怖と一緒に解き放たれるが、一人歩きできるものでもなく、同じ場所で、次から次へと弾け続ける。


 他人の人生という記憶の大津波に襲われるようなもので、流されるままに高比古は男の記憶の波に飲まれて、渦があれば渦に巻かれ、一緒に流された大きな岩じみた苦しみがあれば、抗うことなくぶつかって跳ねる。



 ……わかったよ、つらいんだろ? 

 いい女だったんだろ? 苦しいんだろ?

 わかったから、静かにしてくれよ。……早く、忘れてしまえよ。



 記憶の大波が引いた後は、砂の上に大の字になっていた。


 頭上では、すべてを受け渡した死霊が光の霧に姿を変えていて、苦しみを肩代わりした高比古を癒すようにも、光色をした粉を降り注がせる。


『ありがとう、ありがとう……』


 でも、その光が弱った身体を癒すことはなかったし、感謝を告げられたところで、散々殴られた後のような気分でしかない今は、単にありがた迷惑だ。


(わかったよ。いけよ。もういいから)


 追い払うようにいって、天の世界へと遠ざかる光の霧を、力尽きた目で見送った。


 身体も頭も、くたびれ果てていた。それなのに、頭は休もうとしなかった。


(桐瑚……倭奴の姫? 倭奴……)


 倭奴というのは、北筑紫にある小国の名だ。領土は大きくないが、隆盛を誇る宗像の陰に隠れつつ、海民を従えて韓国からくにや大陸へ渡る船を出す。


 ふいに、誰かの声が蘇った。


『でも……宗像のことを気に食わないと思ってる連中はいるよ。たとえば、倭奴とか』


『知ってるだろ? 倭奴は、大和の女王の第二の故郷だ』


 しかし、急なめまいに襲われた気分だった。


(これは、誰のいった話だ? おれの記憶か。それとも、圭亥って奴の記憶か?)


 頭の中には今、圭亥という男の記憶が氾濫している。


 最近たしか、誰かと、倭奴という名の国の話をした。だが、その時に聞いた話とは比べ物にならない量の倭奴という地に関わる話が、頭の中で膨れている。


(これは、誰の記憶だ……。死霊が残した記憶か)


 いつもなら、それが他人の記憶だと完全に理解するまでは、あえて覗こうとはしない。だが、桐瑚という名を聞いてしまったせいか、高比古の頭は休もうとしなかった。


 頭の中には、見たことがないはずの倭奴の風景が溢れていて、会ったこともない人の顔が行きかい、記憶の中の話し声がさざめく。


 しばらく時が経ち、ひととおり倭奴のことを知り終えると――。力なく閉じられたまぶたの下で、目の奥がぎらついた。


(繋がった、ぜんぶ……)


 老王の嘲笑に笑い返すすべを、とうとう見つけた。須佐乃男との模擬戦の意味も、勝負の付け方も、だ。


 胸の奥底でほくそ笑んだ。だが、どこかでは笑い切れず、胸はその矛盾に苦しがった。


(桐瑚が、倭奴の姫? 倭奴の姫ってことは、あの女……大和の女王の? まさか――)


 同じ名の別人であればいい――そう願ったが、高比古が受け入れた圭亥の記憶は、桐瑚という名の守るべき姫の顔を、はっきりと覚えていた。その顔は――高比古が知る桐瑚と、同じ顔だった。





 くたびれた身体を引きずって仮宿へ戻ったのは、朝が来る間際だった。


 出かけた時と変わらず、薄暗い小屋の奥では桐瑚が寝息を立てている。


(倭奴の姫、か――)


 身分ある娘だとはもともと気づいていたし、倭奴という国の娘だからといって、どうするつもりもない。高比古が知っている桐瑚は、人買いに浚われた末に宗像に奴婢として買われた娘、それだけだ。だが――。ゆっくりと寝床に近づいていき、桐瑚の寝顔が目に入るなり、目は気味悪がった。


 ……申し訳ございません! 

 ……あなたをお守りすることができず……!


 胸の奥で、自分ではないものが騒ぎ始める。目が潤むような錯覚まで覚えると、思い切りまぶたをつむった。


(しっかりしろ! おれはおれだ、これはおれの目だ) 


 圭亥という男は、おそらく、桐瑚の守り人だったのだ。その男が残した幻を振りきろうと、何度も深く息を吸った。


(いちいち振り回されてどうする。桐瑚は宗像の奴婢だ。それだけだ)


 胸を宥めて、寝床に近づき、桐瑚のそばに膝をつく。


 癖のように腕を伸ばして、頬の丸みに触れようとしたが、指先が触れるか触れないかというところで、指が怖気づいた。主に触れてはいけないと、ためらった。


(くそ……)


 桐瑚に背を向けて転がると、そのまま目を閉じた。


(もういい。考えたくない……)


 記憶に蓋をするようにみずから思考を閉ざして、眠りについた。





 翌朝、須佐乃男の館に向かった高比古を、老王は苦笑を浮かべて出迎えた。


 絵地図の上でおこなう模擬戦は、すでに四日目。互いが腰を下ろす位置はおのずと定まり、駒や骨石を用意する所作も、手慣れてきている。


 この日、高比古の仕草に、無駄はいっさいなかった。


 高比古と須佐乃男は順々に骨石を振り、出た目の運に任せて駒を操るが、どの目が出ても、高比古は表情をぴくりとも変えなかった。ここへ来る前から、出る目の組み合わせすべてに対する策を持っていたからだ。


 高比古は、出雲の戦船をかたどった駒をほとんど動かさなかった。


 動かしたほとんどの駒は、剣を携えた武人ではなく、兵糧やそのほかの供給品を運ぶ船をかたどったもの。そのうえ、向かわせる先は須佐乃男が守る北筑紫の国ではなく、周囲を取り囲む異国。


 宗像や越や、須佐乃男の駒の本拠地と想定した領域の背後にある国々へ、戦うことを目的としない出雲の船を向かわせ、須佐乃男の領地を囲んでしまうと、勝負がつく前から終わりを宣言した。


「……ここまでです。これ以上は、この駒と絵地図ではできません」


 須佐乃男は、大きな背中を壁にもたれさせてあぐらをかいていた。表情は穏やかだ。


「おまえの出雲軍は、まだわしに勝っておらんぞ?」


「はい。勝ちは必要ないと判断しました」


 須佐乃男の微笑を見つめる高比古の目にも、迷いはなかった。


 ふ……と、須佐乃男は唇から息を吐く。


「理由を聞こうか。なぜだ?」


「戦は、人、物、時間、さまざまなものを多く浪費します。する意味のない戦は、かえって国を弱らせます。――あなたの国に、おれはそこまで魅力を感じませんでした」


「――なぜ?」


「北筑紫の国に戦で勝ち、自在に軍や人を送り込んだとして、なにを得られましょうか。そこは大陸へ向かう海の要地に近く、交易をする者にとってはありがたい地です。しかし、大陸や韓国からくにとやり取りがしたいだけなら、出雲には越という友国があるのだから、頼ればいいのです。あなたの国は、出雲にとって益の少ない地です。戦の犠牲は単なる無駄と、判断しました」


「して、どうする? 宗像はどうやって守る」


「その地が必要なものに守らせればいいのです。たとえば、南方の国。それから、越。あなたの国が宗像の敵なら、宗像もその地を欲しがるでしょう」


「いや、宗像は別邑べつゆう。この一族は戦をしない」


「表向きの話です。海を挟んだ対岸に敵意を持っている相手がいるのは、宗像にとっても恐ろしいはず。あなたの地を滅ぼす手助けはするでしょう」


「手助けとは?」


「兵糧を出雲から運んでやる必要もないということです」


 高比古は腕を伸ばして、絵地図の上、須佐乃男の軍の本拠地の周りに配した兵糧船の駒をつまんで、海の上へと戻してしまった。


「出雲は、手を出す必要がない。あなたの国の周りの国を、あなたと争うように説得すればそれでいい。――敵の敵は、味方です」


 いい方は淡々としていて、声には、震えも、言葉のよどみもなかった。今の高比古には、先を見通した守り神から言葉を託された呪術者が言霊ことだまを伝えているような、不可思議で神秘的な気配すらあった。


 須佐乃男は姿勢を崩して、微笑んだ。


「訊こうか。わしの守る国を、おまえはどの国とした」


 高比古は、すっと背筋を伸ばしてあぐらをかいていた。表情と同じく、姿勢もぴくりとも崩さなかった。


「倭奴です」


「倭奴? この旅のあいだで、おまえの口からはじめて聞いた名だぞ? おまえは倭奴のことを、いったいどれほど知っている?」


 こんなふうにわざと惑わせるような質問をされることも、予想はついていた。


 高比古の心は静かで、須佐乃男が攻めに転じたことに対しても、自分の考えが間違っていなかったと、かえって安堵が込み上げる。


「旅に出る前は、ただ、大和と繋がりのある国だと」


「大和? 伊邪那いさなではなく?」


「はい、大和です。倭奴は、伊邪那に攻め込んだ大和の女王に軍を貸した国。そして、宗像と、海の道の権限を争っている同士です」


「旅に出た後は……今は、どんな国だと?」


 須佐乃男の微笑の奥の気配が、少し変わった。


(つまり、正答に近づいているということだ)


 高比古の頭は、ますます澄んでいった。


「昨日、おれは倭奴の霊を呼び、記憶を受け取りました。今、倭奴は、滅びかけているようです。大和の女王にそそのかされて軍を出したものの、そのまま軍は戻らず、戻ってくる気配もない。物も足りない。そのうえ、周囲には、隙を狙って入り込もうとする異国の目が光っている。おれたちのような――」


「その、異国とは?」


「――そこまでは。南方の国に怯えていたので、おれはその地図の、背後にある国かと」


 絵地図へ目を戻すと、高比古は筑紫の南に描かれた都を指で示した。


「ほかには?」


「ほかに?」


 高比古は眉をひそめて、昨晩、高比古が癒した死霊が置いていった記憶を探った。


(宮殿の在りか、王族の系譜、そういったものはわかるが、そういうことか?)


 思わず、意思を問うように須佐乃男の目の色を窺う。老王は、相変わらず穏やかな表情を浮かべているが、笑顔の奥では笑っていない。高比古は、ほっと安堵した。


(よかった。ここまでは間違っていない)


 手ごたえを感じると、緊張はわずかに緩んだ。


「地形や、今力を持っている人物ならわかりますが。それから……」


 自分のそばに今、倭奴の姫かもしれない娘がいます。あなたが遣わした、あの娘です。


 眼差しにつられて桐瑚の話をしようとして、はっと口をつぐんだ。


「それから、なんだ?」


「いえ、その……」


 いってはいけない。知らないかもしれないなら、わざわざ教えてはならない。


 そう胸が怯えるので、言葉を取り繕った。


「国の中でもめているようです。王族も、それほど力をもっていないようで……」


 倭奴の姫だと呼んだ圭亥の手から、桐瑚が何者かに浚われて、宗像に奴婢として流れ着いているのなら、情勢はそうだろう。間違いは口にしていない――戸惑う胸を宥めていると、須佐乃男が、ふと視線を逸らした。


「王族も……。そうか、なら、分裂しているという噂は本当だな」


 話が逸れた。今のうちだ、と高比古は老王の話に乗った。


「分裂とは?」


「さっきおまえがいったとおり、倭奴は、大和の女王と縁の深い国でな。実は、かの女王は、伊邪那から倭奴の王のもとへ嫁いだ后だった」


 須佐乃男は、これまでの高比古の言葉を補うように、ゆっくりと話した。


「二十年近く前の話だ。女王は巫女で、月読つくよみと呼ばれていたらしい」


「月読?」


「月を読む……月の神の巫女という意味だろうが、真名かどうかは定かではない。それに、今名乗っている天照あまてらすという名も、あれはもともと、倭奴の王の名だ」


「え?」


 驚く高比古をかわいがるように、老王はじわりと微笑んだ。


「天照は、夫の名だ。二年前、大軍を引き連れて、ともに倭奴を出て伊邪那を目指したものの、夫のほうは旅の途中で息絶えたらしい。名を継いだのは、夫の意思を継いだのか、それとも、成り変わるべく取って食ったのか――それは、わしらにはわからん」


 高比古は、息をするのを忘れた。


 須佐乃男がにこやかに話すそれは、少々背筋が凍える話だ。もし、老王がいったように、王として成り変わるべく取って代わったのなら、戦の旅の途中で死んだという男王を殺したのは、おそらく女王本人だろう。


 須佐乃男は肩を揺らして、くっくっと笑った。


「さあ、わしらには知る由もない。とにかく倭奴は、伊邪那を攻めるべく、軍とともに男王を連れ出した女王を憎む一派と、伊邪那を取って食い、今や大国の主となった女王がきっと戻ってくると忠義を尽くそうとする一派に分かれているらしい」


(分かれてるって……じゃあ、あいつはどっちの? 女王を恨む反大和の一派なら……)


 桐瑚を浚った相手は誰だ? 理由は?


 倭奴の王族というのがいくつもあるなら、互いにいがみ合う同士の報復かなにかか?


 だが、須佐乃男との模擬戦に決着がつきかけたいま、圭亥という男の記憶をこれ以上探るのはいやだと、高比古は脅えた。ふとした隙に、目も頭も乗っ取られてしまいそうで、それは恐怖に近かった。


(あいつは、内乱に巻き込まれたのか……)


 ぼんやりとして口をつぐんだ高比古を、須佐乃男の声が現実に突き戻した。


「どうした、高比古? ぼうっとして」


「いえ……なんでも」


(桐瑚の身の上がばれたらまずい――)


 胸が焦った。だが、須佐乃男はそれ以上の追及をしなかった。


「ひとつ教えよう、高比古。かつて、彦名がわしの従者だった頃、あいつにもよくいった言葉だ」


 彦名は、今の出雲王であり、高比古の主だ。自分に出雲の策士という位を与えた主のことを、配下や教え子として話されるのが、高比古にはいまいちぴんとこなかった。


「彦名様が、あなたの……」


 須佐乃男は笑っていた。でも、過去を懐かしがるふうではなかった。


「戦う前に、先に土台をつくれ。戦の勝ち負けは、戦う前からある程度決まるものだ」


 須佐乃男が見ているのは、遠い記憶の中の若い弟子ではなかった。今目の前にいる、高比古だけだ。


 それに気づくと、高比古は我に返ったように須佐乃男を見据えた。


 この男の目も声も、まるで神託のようだと、怯えた。


(しっかり気張っていないと、あっという間に流される)


「倭奴に、土台はすでにできておる。今は好機といえるわけだ」


「しかし、倭奴を滅ぼす意味は? 敵の敵は味方だとして、倭奴が滅びて笑うのは出雲ではないのに、なぜ、そこまで世話を焼く必要が――?」


 目を逸らすことなく見返す高比古を、須佐乃男は微笑みで称えた。


「その調子だ。たとえ誰が相手だろうが、ただうなずくなよ? おまえが目指すのは、そういう男ではない」


 抵抗すら、あっさりと宥められた。


「倭奴は、我々の敵である伊邪那、もしくは、大和の足場だ。――かの国の足場を、崩してやろうぞ。倭奴を滅ぼせ、高比古。幸い、今、それはとてももろい」


 老王が見ているのは西の小国ではなく、東の大敵、大和だ。


 異を唱えられる言葉は、高比古には浮かばなかった。


 老王が話すそれは彦名の意思であり、武王である大国主の意思。ひいては、出雲という国の意思なのだろう。


 ついに老王の眼差しから目を逸らした時、床の上に敷かれた絵地図と、二人でしばらく興じた駒や骨石が目に入った。そこには、高比古と須佐乃男が争っていた時のままに駒が残っている。高比古はそれに見入って、唇を噛んだ。


(これは、模擬戦じゃない。今にこの地に敷かれることになる、布陣だ――)


 それから、はじめから須佐乃男の手の内にあったのだと悟ると、高比古は絵地図からも目を逸らして、ついにはまぶたも閉じた。


 目を洗うように、ゆっくりとまばたきをする。それから、再び老王を見据えた。


 老王は目が合うのを待ち構えていたように、にやりと笑った。


「理解したか? では、いこう」


「いく? どこへ……」


「南方へ、話をしに」


「南方へ?」


「ここは、宗像。ほうぼうから人が集まる、海の要地だぞ?」


 高比古を見下ろして、須佐乃男は笑っていた。その笑顔は、やはり雲か霞かというようで、掴みどころがない。


(……古狸)


 胸の中で舌打ちをするのが、精一杯だった。




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