隼人の若王 (1)
須佐乃男が向かった先は、港。港の風景が目の前に迫ると、老王の足は脇道に逸れていく。背の丈に伸びた茂みの中につくられた小道を、須佐乃男の後について通り抜けると、その先には、奇妙な集落が広がっていた。
まず目に飛び込んでくるのは、際立って大きな館だ。
大きな館とはいえ、
順序良く並んだ柱と柱にできた隙間を通って、大勢が行き来していた。屋根の下には、さまざまなものが小さな山をつくるようにして積み上げられている。
おそらくここは、この都を訪れる異邦人たちが、積み荷を取り引きする場所なのだ。出入りしているのは、その荷を携えて宗像へやってきた一族だ。
見知った顔もいた。見覚えのある荷物の山のそばに、出雲風の身なりをした男が数人いて、須佐乃男を見つけるやいなや、気のいい笑顔を浮かべて深く頭を下げた。
「須佐乃男様」
「どうだ? 取り引きは」
「まずまずですが、いいことも。ちょうど
男は、出雲の積み荷の取り引きを任されているのだ。
「隼人か? 誰が来ていた」
「
「大隅も?」
「あぁ、ですが、大隅族は取り引きを終えてすでに宗像を出ました。今いるのは阿多族の……彼です」
出雲の積み荷の山ができていたのは、館の東の隅。男が指をさしたのは西の端で、ちょうど真逆の位置だった。
そのあたりを陣取っている一行は、風変わりな格好をしていた。男たちは上半身の肌を露わにしていて、呪術じみた蛇文様でいろどられた布を片方の肩から膝のあたりまで垂らして、広帯で留めている。遠目からでもよく目立つ蛇文様は、黄色地に赤や紫など、明るい色で染められていて、白っぽく見える部分が、彼らの衣装にはなかった。
髪型も異様だ。鍛えられた肩や胸を誇らしげに晒す勇ましい身体つきをした青年ばかりだが、髪は、出雲であれば娘がするような形に結われている。むき出しの二の腕や手首には鮮やかな色の飾りがはめられ、耳もとの髪の隙間からは耳飾りが覗く。
(異様な……)
高比古はつい凝視したが、ここで取り引きをする男たちにとっては珍しい光景ではないらしい。驚く気配もなく、男はにこりと笑って説明を加えた。
「今回の長は
須佐乃男が満足げに目を細めて、高比古を見下ろし、にやりと笑った。
「なんとも都合がいい。わしが話をつけてくる。おまえはここで待て。いいな?」
(なにが『いいな?』だよ。訊きはしても、了承以外の返事は許さないくせに)
唇を結んで、視線で文句をいった。一瞥したものの、老王は高比古の不服顔を無視してあっさりと背を向ける。
高比古のそばから遠ざかった老王は、隼人の阿多族という一行のもとへ、近づいていった。
大きな館の端と端にいるので、一行のそばに寄った須佐乃男がなにを話しているのかは聞こえなかった。
人の良さそうな笑顔を浮かべて歩み寄る須佐乃男が真っ先に向かったのは、出雲の男が一行の長だと教えた火悉海という名の青年のもと。
ふいに話しかけられることになった青年は、不審げに眉をひそめている。怪訝顔をしていて、出雲の積み荷を預かる男や、積み荷の山や、高比古へちらちらと視線を送ったり、首を傾げたりしていたが、ついには須佐乃男に誘われて、館の外に出ていった。
異国の者同士の取り引きの場として整えられた舘は、崖壁のそばにひらけた平坦な野原に建っていた。須佐乃男と、火悉海という名の異国の青年が二人で向かったのは、岸壁寄りの場所に一本立っていた大樹のそばで、大勢の人で賑わう館からは、一番遠く離れたところにあった。
そこで異国の青年と話している間、須佐乃男の横顔は、終始人懐っこく笑っていた。
ふいに、高比古の耳には、越の三の王、
『国と国を繋げる者は、あああるべきだって。だからほら、いい笑顔は大事です』
真浪が芝居をするように浮かべた人懐っこい笑みも、目の裏に蘇った。
須佐乃男がなかなか戻ってこないので、老王を見送った後で、積み荷の世話を任された男たちは自分の仕事に戻ってしまった。だが、高比古は、老王から目を放す気になれなかった。
ここで待てと、そう命じられたせいか。それとも――。
須佐乃男のふとした身動きを逐一見張るように、じっと見つめた。
ある時、須佐乃男が高比古を向き、目が合った。そのうえ、高比古に向かって手招きをしている。話がひと段落したのだろうか。
(来いってことか? でも、そこにいって話に混じって、いったいなにを話せば……)
須佐乃男や真浪がするような明るい笑顔など、浮かべられる自信はなかった。
耳が、
『人からも、それだけ好かれればいいのにな』
(悪かったな。楽しくもないのに笑えるかよ。ばかばかしい)
須佐乃男の笑顔を睨み返しながら、拳をきつく握り締めていた。
それから、踏ん切りをつけるように、わざと大きく一歩を踏み出した。
結局、真浪がいういい笑顔どころか、高比古の顔にあったのはしかめっ面だ。
大きな屋根の下をくぐり抜け、草が思い思いに生える緑の地面に沓底をつけると、不機嫌にも見える真顔をして、大樹の木陰で待つ須佐乃男と異国の青年のもとへ近づいていく。
(悪いかよ。もともとこんな顔なんだ)
胸でいいわけじみた文句を繰り返したが、二人のもとへ近づくにつれて、すこしほっとした。火悉海という名の異国の青年も、にこやかな笑顔など浮かべていなかったからだ。
青年は、胡散臭いものを見るように眉をひそめていて、須佐乃男に呼ばれてやってくる高比古をじっと見定めていた。
高比古がまだ遠い場所にいる時から、須佐乃男は、齢のわりに逞しい片腕を掲げて出迎えている。その腕に招かれるように高比古がそばへ歩み寄るのを待って、老王は火悉海へ、高比古を紹介した。
「彼が、さきほど話した高比古だ。そなたと齢も近そうだな。そなた、齢は?」
火悉海は、しばらく答えなかった。奇怪なものをあらためるのが先だとばかりに、高比古の背格好をじろじろと見た。
筋肉のしなやかな曲線を見せつけるようなむき出しの腕は、胸の下あたりで組まれていた。態度もそうだが、目つきも口調も横柄だった。
「俺の齢か? 十八のはずだ」
「なら、きっと気も合うだろう。彼は十七だ」
はじめて出会った二人の仲を取り持つように、老王の口調は明るい。
火悉海の態度に、出雲の老王に対する畏怖や礼儀じみたものはなかった。
「齢が近いだけで、気が合うものか?」
「わしと話すより、良かろう? そなたはわしが嫌いなようだ」
火悉海の不遜な態度を撫でるように、須佐乃男は穏やかな笑顔を崩さなかった。
火悉海は、小憎らしいものを見るような嘲笑を浮かべた。
「ああ、嫌いだ。――やり方が汚いんだよ。大和のあの女と、いったいなにが違うのかわからんね」
火悉海のいい方は、須佐乃男と同じく、冗談なのか本気なのかよくわからない。
それよりわからないのは、高比古がここへやってくる前に、この二人がどんな話をしたかだ。
(須佐乃男のやり方が汚い? 大和のあの女よりまし? なんなんだよ。わかるように話せよ)
火悉海の関心は、やってきたばかりの高比古にはないらしい。一度目を合わせたものの、食いかかるような目線の先は、須佐乃男から逸れることがなかった。
ここでも高比古は、須佐乃男の陰に完全に隠れていた。筒乃雄にはじめて会った時に、孫娘の婿になるというのに、無視されたように。
「いいか? 俺はあんたに手を貸すと約束したわけじゃない。俺たちにも都合がいいことだから、話す機会をもつだけだ。俺たちは、あんたらや大和とは違う。そばにある国を滅ぼして取って代わるより、共に生きる道を探す一族なんだよ」
「そなたたちのように異国を行き来して富を得る者に、それは必要なことだろう。だが、脅威は脅威のはずだ。手を貸せ、傘下にくだれと大和から命じられて、のこのこと従うような間抜けな一族でもあるまい?」
(手を貸すと約束したわけではない。話す機会をもつだけだ? ということは、もうある程度話が進んでいるのか? 倭奴を滅ぼす説得っていうのは、すでに済ませたのか?)
二人のやり取りに耳をそばだてる。数日のあいだ絵地図の上で繰り広げられた模擬戦が、現実のものになっていく――それを、まざまざと感じて仕方なかった。
高比古より一つ年上だと話した火悉海という青年は、かなり勇ましい性格をしている。表情は豊かで、睨む時には睨み、怒る時は怒る。
今も、須佐乃男を睨みつけていた。
「間抜けだと? 出雲は、歯向かわなければ侵攻しない英雄のいる国だと、うちの爺様たちは信じている。大和に従うな、手を貸したのに滅びかけている倭奴を見ろと、口を酸っぱくしていってるよ。だが、俺には、あんたも大和と同じに見えるが? 腹でなにを考えているのかわからない得体の知れない感じが気味悪い。……嫌いだよ」
火悉海は、ふいと横を向く。
高比古は度肝を抜かれた。
(この爺さん、須佐乃男なんだけど。出雲の賢王で――いくらなんでも、大丈夫か、こいつ……?)
いくら異国の王とはいえ、それなりに名の知れた男を相手にここまで言いたいことを言って――。あとで彼の国の王たちから責めを受けやしないかと、関係ないところまで心配になる。
火悉海はしばらくかっかとしていたが、ある時、ひときわ凄味を効かせて須佐乃男を睨み上げた。
「……なにがおかしい、爺さん」
火悉海が苦言を呈したとおり、須佐乃男は幼い子供を見るように頭上から見下ろして、笑っていた。須佐乃男は火悉海より、頭一つ分背が高かった。
「いい若者だと、そう思って見ていたのだ」
「爺さん、そっちの気でもあるのか?」
下世話な冗談で返した火悉海に、須佐乃男も軽く返した。
「いや、孫娘の婿を探している」
「けっ! あんたの話は、片方の耳で聞くことにする。どうせ半分くらいは嘘だろう?」
須佐乃男は相変わらず。威勢のいい問いかけも軽くあしらう。
「半分で済めばいいな」
火悉海は、雄々しい印象のある太い眉を居心地悪そうにひそめた。目は、須佐乃男を訝しげに見ている。
……認めはするが、気に食わない。彼の目は、正直にそう伝えていた。
目線は険しいままだが、火悉海はおとなしくなった。
須佐乃男は、はじめから変わらない。穏やかな笑顔を浮かべて、柔らかな目線で、火悉海の苛立ちを撫でるようだった。
「倭奴の名は残ったとしても、遅かれ早かれ、あの国は今の姿ではなくなる。いまに隼人が移り住み、人が混じるからだ。そなたの一族である阿多がそうせずとも、大隅がそうする。――倭奴の地を均せ。均したら、南の祖国へ戻れ。宗像や、北筑紫で培った目を生かせ。倭奴の地を港として使い、阿多族の勢力を強めろ。そなたには、それができるはずだ」
「それであんたに、なんの得がある?」
「出雲の南に、大和が踏みこめない脅威が仕上がる。それで十分だ」
火悉海は、舌打ちをした。
「予言者みたいな爺さんだな」
だが、彼が、それ以上突っかかることはなかった。
仲間のもとへ戻る前に、火悉海は口早に告げた。
「日取りはこっちで決める。一緒にいくのはそいつだけか? ほかには?」
火悉海が見やったのは、高比古。高比古は、目をしばたかせた。
(一緒にいくって、おれが? どこに……)
高比古をよそに、須佐乃男が火悉海に答えた。
「彼一人で十分だ。さきほども話したが、こやつはうちの大事な跡取りだ。こやつがここへ戻らなければ、出雲は大和と手を組んでも阿多を滅ぼす。彼をそなたに託す。頼んだぞ?」
脅すようにも念を押す須佐乃男に、火悉海はさも面倒くさそうに返事をした。
「わぁったよ」
……が。高比古は目を白黒させていた。
(おれはわからない。全然わからない!)
そのうちにも、火悉海は高比古を向くと、腕を差し出した。
「じゃあ、よろしく。後日」
「え、ああ……」
互いににこりともしないまま目を合わせて、手と手を軽く握ると、すぐに火悉海は背を向けた。
「日取りについては、あとで知らせる。じゃあな」
軽い調子で別れの挨拶をして、火悉海は振り返ることもなく、自分の部下たちが待つ場所へと戻っていく。
火悉海の後姿が遠ざかるなり、高比古は老王の顔を振り仰いだ。
「いったい……」
訊きたいことはたくさんあったが、須佐乃男はそれを許さない。
「戻ろう、高比古」
目が「黙れ」といっていた。話すなら、ここを離れてからだ、と。
渋々と館に背を向けると、先に歩きはじめた須佐乃男の後を追い、高比古は、異国の品物の取り引きで賑わう野原を後にした。
二人が話をはじめたのは、すれ違う人がまばらになった後――王宮へ戻る一本道に差し掛かってからだった。
「なんの話です? さっきの男は? 日取りって? いったい……」
「おまえに、ひとつ頼みたいことがあってな」
「頼みたいこと? 命令でしょう?」
高比古は、嫌味を吐いた。
旅に出てからこのかた、須佐乃男の言葉で命令でなかったものなど何一つなかった。
(わざわざおだてるようないい方をせずとも、ただ「やれ」といえばいいのに)
しかめっ面をする高比古を見下ろす須佐乃男が浮かべるのは、相変わらず人を食ったようなしたたかな笑顔だ。
「おまえがそう思うなら、そうなのだろう。わしは頼んでいるつもりだ」
「そうですか?」
(よくいうよ)
冷えた口調で返しても、須佐乃男の笑顔は崩れない。老王は話を進めた。
「とにかく、やってきてほしいことがある」
「はい。なんでしょうか」
「さきほどの若者、火悉海は、筑紫島の南にある大国、隼人阿多族の王の子で、今は、
「倭奴に?」
「ああ。もともと、隼人の民にはあちこちに居住区をもつ風習があって、旅先で気に入った土地を見つけたら、集落をつくって住みついてしまうんだ。そのようにつくられた隼人の浜里の一つが倭奴にあり、彼は今、その里を取り仕切る役についている」
高比古と須佐乃男の頭上を覆うのは、豊かな緑の天蓋。鮮やかな色をした葉や枝越しに二人に降り注ぐ、柔らかい日差し。須佐乃男ののんびりとした口調は、二人のそばにある風景に馴染んでいたが、内容はそうではなかった。
「阿多隼人族は、南洋からの富を運びこむ船を従えているから、彼らの港ができることは、倭奴にとっても都合がいい。それに隼人は、争いを好まず、互いに生きる道を探すという教えを守っていて、人当たりがいい。彼らのつくった浜里はそう古くはないはずだが、すでに倭奴の者に馴染んでいるはずだ。そこで、倭奴の、反大和の一派に、顔を繋いでもらうことにした」
「……え?」
ぽかんと口を開けた。話は見えてきた気がするが、思った以上に大きな話だった。
須佐乃男は、木漏れ日に似合う風な穏やかな笑顔を崩さなかった。
「倭奴へ渡り、阿多族の連中と会ってこい。そのうえで、親大和の一派を掃討するなら背後に出雲がつくと知らせてこい。さきほど、おまえがその手で動かした駒に、自分でなってこい」
しばらく、高比古は答えられなかった。
考えろ。須佐乃男に合わせろ――。胸が
焦れば焦るほど、気になってしまうのは、硬い岩の道を歩き続ける足の動きなど、いま考えるべきこととは別のことだった。
「止まっても……?」
頭が働かないので、とうとう足を止めてうつむいた。
ザ、サシュ……。沓の底が岩の粉を擦り合わせる音が響き、それを最後に、足音も止まる。高比古に合わせて、須佐乃男も少し先で立ち止まった。
――老王の歩みを止め、待たせている。それも、高比古の焦りに拍車をかけた。
(考えろ、考えろ……。ということは……?)
その手で動かした駒になれと、老王はいったが。はたしてそれは、どんな動きをしていたか。
武人を乗せた戦船が、出雲を離れることはなかった。動いたのは、兵糧など、物を運ぶのを主とする船ばかりで、それらは倭奴を取り囲む異国の地へ向かった。倭奴の近隣国に手を貸し、倭奴を滅ぼす手助けをするためだ。その駒に、自分でなるということは――。
(つまり、共に倭奴を滅ぼそうと、さっきの奴の本拠地へ話しに出かけろということか? しかも、おれ一人で――。でも、おれが? それこそ矢雲の仕事じゃないのか)
矢雲は、須佐乃男の名をもって異国の王たちと話をつけてくる、出雲きっての交渉役だ。だが今、その男はまるで下っ端の侍従のように、狭霧の山歩きの案内役に徹している。
高比古は、歯向かいたくなった。
「それは、おれの役目ですか? 矢雲が適任では……」
須佐乃男は一笑にふした。
「矢雲? あれを使うほど、大それた役目ではない」
(大それた役目ではない? おれはこんなに躊躇しているのに?)
黙り込んだ高比古を振り返ると、須佐乃男は止めていた足を動かし、再び歩きだした。
「いこう。わざわざ立ち止まってするような、難しい話でもない」
つられて後を追うものの、高比古の足取りはまだおぼつかない。
須佐乃男は、いい諭すように説明を加えた。
「二日後、三日後の決起をうながすような、急を要する用ではない。ただ、出雲の意思を知らせて、出雲が後ろ盾になると伝えればそれでいい。どのみち、あとで正使を遣わせる」
「でも、おれが?」
高比古は、策士。戦場で策を立て、軍を動かすのが主な役目だ。
納得がいかずに渋っていると、須佐乃男はあっさりといった。
「いやなら、狭霧にやらせる」
「……え?」
「彦名の名代でも、『須佐乃男と大国主の血をひく娘』でも、どちらが使者として向かっても、出雲の意思は伝わるだろう。狭霧にとっても、いい経験になる」
「待ってください。狭霧に?」
頭の中が、真っ白になった。
狭霧は、矢雲を伴って、宗像で物見遊山に興じている年若い姫君だ。そんな娘に任せられるほどの役目だということか?
ぎり、と奥歯を噛み、高比古は、混乱した頭をいい聞かせる。
(そんなはずはない。絵地図の上で駒を進めた時、おれは、そんな軽い気持ちで動かしたわけじゃなかった。なら、なぜ……)
「いったろう? 急を要する用ではない。狭霧には、縁談という手段もある。さきほどの若者は、火悉海といったか――。いずれ阿多の王か、武人の長になる男と見た。相手が彼なら、いい縁談だ。出雲と阿多隼人が繋がれば、世の中は、さぞかし面白いことになろうな」
穏やかに降り注ぐ緑の木漏れ日――そんなものは、もはや高比古の目に映らなかった。
目の前を悠々と歩く老王を、高比古はぎらついた刃のような視線で睨んだ。
「狭霧は、あなたの駒ですか? 娘の忘れ形見なのに?」
須佐乃男が口にしたのは、狭霧を、
須佐乃男は高比古を振り向いたが、その時の老王の目は、哀れなものを見るように同情していた。老王は、高比古の渾身の文句を一蹴した。
「なにか間違えているぞ、高比古。狭霧は、名実ともに出雲の姫だ。わしはかつて、目をかけていた長子を、
もしくは――? 高比古は、食らいつくように言葉の先を待つ。
須佐乃男は、苦笑した。次に老王の唇が開いた時、出てきた言葉は今の続きではなかった。
「まあいい。やるのか、やらないのか? 自分で決めろ」
須佐乃男が突きつけたのは、最後の問いかけだ。しかもそれは、命令の口調ではなかった。
やってもやらなくても、どちらでもいい。突き放すようにも聞こえる問いかけは、命令よりよほど高比古を脅した。
……代わりはいくらでもいる。
高比古には、そう聞こえたからだ。
『力ある者が上に立つ。出雲に血の色は無用』
この力の掟に従う出雲では、力さえあれば、どこまでも上りつめることができる。身寄りのない高比古が、策士という、出雲王の名代にまで上りつめたのも、この掟のためだった。しかし、裏を返せば、この掟はとても冷たい。
……力のない者は、出ていけ。
唱え続けた掟からも脅されたと思った。
出ていけといわれても、故郷の村を賊に滅ぼされた高比古に、帰る場所はない。帰る場所どころか。胸の底では、記憶の番人が常に睨みをきかせている。片鱗が蘇るだけでがむしゃらに遠ざけたくなる、不気味な問いかけも――。
……おれは、なにもの? 精霊? 死霊? ……人じゃないの?
これから待ち受けている役目ではなく、これまでしがみついてきたものに蹴落とされる錯覚と闘いながら、じわじわと了承する用意をした――その時だった。
道の先に、騒がしい集団がいる。数えれば人は四人いて、一人は矢雲、一人は狭霧、残りの二人は
須佐乃男と高比古に気づくと、事代たちはぞっと凍りついたように身動きを止めて、それから、裾の長い衣をはためかせて、脇目も振らずに駆けてくる。
二人の事代は、須佐乃男の足元で平伏した。
「申し訳ありません、須佐乃男様!」
「姫様は悪くありません、私たちがいけないのです」
なにかが、起きたらしい。
張りつめた緊張感からいきなり解き放たれたような、新しく起こった事件に身構えるような――。呆然としつつ須佐乃男の表情を窺うと、そこから笑顔は遠のいていた。だが、動じた様子もなかった。
祖父のもとへと、狭霧もすぐに駆け寄ってくる。息を切らして近づいてくる狭霧の顔は
矢雲も追いついた。神妙な真顔を浮かべる矢雲は、ことの経緯を主へ説明するべく、慎重に唇をひらいていく。だが、狭霧の涙声のほうが早かった。
「ごめんなさい、おじいさま! 実は、禁を破って、宗像の薬草園に足を踏み入れてしまいました」
身体をがちがちに凍らせて狭霧が頭を下げると、平伏していた事代たちは、狭霧の袖に取りつくようにして庇った。
「違うのです、姫様は私たちを連れ戻すのに足を踏み入れただけで……」
「誤って入ってしまったのは私たちです。その……知らなかったのです。そこが、それほど大事な場所だなんて……」
事情は見えてきたが、まだはっきりとしない。
事代と孫娘の青ざめた顔を一通り見回すと、須佐乃男は、矢雲へと顔を向けた。
なにが起きたのか、詳しく話せ。老王の目配せは、無言の命令だった。
矢雲はじわりとうなずくと、ゆっくりと応えた。
「少し先の山奥に、宗像の巫女が手入れをする草園があります。祭祀でまじないに使う草を育てているのですが、神聖な場として、そこへ足を踏み入れることは禁じられております。ただし、垣根や、そうと知らしめる何かが用意されているわけではなく、入ろうと思えば誰でも入れてしまうのです。その場所の意味を知らない事代たちが、初めて見る野草につられて、そこへ入ってしまいました。狭霧様もです。そこへ、手入れに訪れた巫女がやってきて、騒ぎになり……」
「なるほど」
腕を腹の前で組んだ須佐乃男は、ふうむと唸った。
怯えて縮こまる孫娘をちらりと見やり、矢雲に視線を戻すと、尋ねた。
「どうにかできるか」
「今、筒乃雄様のもとへ伺うところです。申し開きをしたいと巫女に願い入れたのですが、聞き入れてもらえず……」
「そうしろ。筒乃雄の館にまわれ」
須佐乃男はうなずき、孫娘を見下ろした。老いた顔に笑顔を浮かべて、優しく声をかけた。
「そう泣くな、狭霧。矢雲がなんとかする。だが、次からは気をつけなさい。ことに祭祀やまじないについては、異国の者同士ではなかなか理解しにくいこともある。薬はそれと同じ部類といっていい。順序を一つでも間違えたら、うまくいかないこともある。修練をするなら、丁寧にしなさい、狭霧」
最後、須佐乃男は噛んで含むようにゆっくりといったが、その言葉は、高比古の耳もとで気味悪く響いた。
――順序を一つでも間違えたら、うまくいかないこともある。修練は丁寧に。
(この言葉、いつかも聞いた。ずいぶん前だ)
高比古の目の前で、須佐乃男はすでに爺様の顔をしている。孫娘の細い肩を抱き、甘やかすように続けた。
「失敗したなら、どうにかすればよいのだ。おまえは当事者で、このたびの一件では事代の主だ。狭霧、矢雲とともに筒乃雄のもとへいっておいで。矢雲がすべてやってくれるから、おまえは後ろで頭を下げるだけでいい。……正しいやり方を覚えなさい、狭霧。慎重にだ」
――正しいやり方を覚えなさい、狭霧。慎重に。
その言葉も、高比古の耳元で疼いた。
(この爺さん、まさか……)
いつか、胸の底には恐怖がいた。
茫然となった高比古の目の先で、狭霧の背中は、そこに勇気づけるように手のひらを添わせた矢雲と共に、筒乃雄の宮殿へ向かって遠ざかっていく。
遠のきかけた高比古の意識を、須佐乃男はからかうように呼び醒ました。
「孫娘を甘やかしすぎたかな?」
はっと我に返るなり、眉根を寄せて須佐乃男を睨み上げた。
(甘やかしてるんじゃない。そうじゃない……。さっきの言葉を、はじめに聞いたのはいつだ?)
追い立てられるように記憶をたどると、それは、宗像にたどり着く前だった。風待ちの退屈を紛らわすのに、須佐乃男は、狭霧と
いや、今思えば、あれは遊んでいたわけではなかった。須佐乃男は、薬師の真似事を狭霧にさせながら、別のことを教えていたのだ。
(別のこと……?)
それも、今なら考えがつく気がする。高比古に浮かんだのは、さきほど出会った隼人の青年の顔だが、すぐにそれを打ち消した。今、自分が思いつくことなどでは、きっと須佐乃男をはかれまい――そう思ったのだ。
(この人、どれだけ考えてたんだ?)
高比古が須佐乃男に感じたのは、畏怖ではなく、胡散臭いという思いだった。
しかめっ面をして見つめるが、須佐乃男は微笑み、無言の抵抗など、軽くあしらった。
「で? さっきの答えをまだ聞いていなかったな? やるのか、やらないのか」
(この男の言葉は、表だけを見ていては駄目だ。この男を見ろ、合わせろ――)
もはや高比古に、別の答えなど浮かばなかった。
「やります」
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