隼人の若王 (2)



 

 高比古が倭奴わぬへ渡る日は、それから三日後に決まった。


 正しくは、いつになるかわからないから毎日その気でいるようにと、ある日、高比古が仮宿とする小屋が並ぶ通りへ、火悉海ほつみはみずから告げにきた。


「なんつっても風次第だからさ、船出する時には誰かに伝えにこさせるよ。おまえの宿はここか? 決まるのは夜明け前だから、そのつもりでいろ。じゃあな」


 つくり笑いを浮かべることもなく真顔をしていたが、わざわざ足を運んでやってきたところといい、一応は高比古を気にかけているようだ。


 いうだけいうと、軽く手のひらを上げ、火悉海は背を向けて立ち去った。


 話は要件のみ。あっさりと遠ざかる火悉海の気配は、一瞬吹き抜けた爽やかな風のようで、話し込んだわけでもないのに、妙に安堵を誘う。


(火悉海――。隼人はやとの、阿多あた族の王の子とかいったか。ああいう王族もいるんだな)


 蛇文様で彩られた肩布や、幅広の帯など、見慣れぬ衣装に身に包む異国の王子の後姿が道の果てに消える前に、高比古も背を向けた。


 すると、通りの反対側に、見覚えのある青年がちょうどやってくるの見つけた。


 深い袖のついた膝下まである上衣を、玉飾りをあしらった豪奢な帯で留め、白い袴をはいている。越の国の三の王、真浪まなみだった。


 真浪のそばには、多少飾り気が少ないものの、似た衣装に身を包む従者らしき男もいる。着飾った男二人が通りを歩く姿は優雅で、見る者の目を奪う。それはたしかに、前に真浪が自分でいった通りだった。


「あ、出雲の策士どの!」


 真浪は大げさに手を振って、近づいてくる。


「今、狭霧ちゃんと小舟に乗って、入り江を回ってきたよ」


「狭霧と? また?」


「またまた、そんな顔する。あっ、もともとそんな顔なんだっけ? いっておくけど、今回は狭霧ちゃんがおれを誘ったんだからな? 舟遊びが気に入ったとかでさ、おじいさまにも見せたいから、とかなんとか。優しいいい子じゃないか」


 真浪は、からかうような言い方をした。それから、いくぶん神妙な表情になって続けた。


「なあ――。前に、狭霧ちゃんの想い人が亡くなったって話をしてただろ? あの話って、彼女にしないほうがいいよな? その、思い出させないほうがいいんだよな? ……なんていうか、あの優しい笑顔がさ、悲しみの上にあると思うと切なくてさぁ。ずっと笑わせてあげたいから、きみから聞いたよって一言いいたいんだけど……会ったばかりのおれからそんな話をされたって、余計にいやだよなあ」


 そういって、真浪はふうと大きなため息をつく。


 目の前にいるはずの真浪を、高比古は、遠い彼方にあるもののように見つめた。


(会ったばかりの異国の姫相手に……。こういう王族もいるんだな)


 真浪は、出雲からしばらく旅を共にしてきた自分よりよっぽど、狭霧を気遣っていると思った。狭霧が、想い人の遺した髪飾りを抱いて泣きじゃくるところに偶然出くわさなければ、高比古は、狭霧の悲しみに気づきもしなかっただろうに。


(王族だからか。おれには、とても誰かを気遣う余裕なんかない。そういえば、狭霧もよく人を気遣うが……こいつらは、王族同士か。――なんだろう、胸が寂しい)


 かすかに笑った高比古は、真浪のそばを通り抜けた。


「たぶん、おまえが思うとおりにしたほうが、狭霧を慰められるよ。おれは正直、あいつのことはよくわからない」


「え、ちょっと……」


 すれ違った高比古の背中を、真浪は妙な文句で責めた。


「その意味深な笑顔はなに! また誘えってこと? 妹との交際を許すってこと!?」


(妹? 誰もそんなことはいっていないっていうのに――)


 胸で文句を唱えたものの、立ち止まって振り返った時、高比古の目には力がこもらず、ぼんやりと真浪を眺めただけだった。


「任せるよ。おれは、あいつの主でも従者でもない」


(ついでに、兄なんかでもない)


 目を合わせたのは、わずかな時間だった。止めていた足を浮かせると、再び高比古は真浪から遠ざかった。


 ふと、桐瑚のことを思い出した。


(そういえば、あいつ……おれが倭奴にいっているあいだ、どうする気なんだろう)


 桐瑚は、まだ夜ごとに高比古のもとに通っている。


 高比古は一度たりとも来いと命じた覚えはないが、きっと奴婢を取り仕切る長のような立場にある者の耳には、高比古という出雲の要人が、桐瑚を所望していると届いているはずだ。桐瑚は、奴婢だ。思い通りに働かせるために異国から連れてこられた娘で、誰かの命令に従ってしか動けない身分なのだから。


(もとは倭奴の身分ある娘なら、なぜ身分を訴えないんだ? そうしたら、さすがに奴婢にはされないだろうに)


 考えると、高比古は唇を固く結んだ。


(身の上が明らかになれば、倭奴を従えようとする宗像の駒になるだけか。もしくは、須佐乃男の――。いずれにしろ奴婢だ。……血筋の良さは、時に不都合だな)


 脳裏に、須佐乃男と筒乃雄つつのおという二人の爺の、老獪な笑みが蘇った。


 そういえば、宗像に着いたばかりの日。到着の挨拶を交わした二人の老王は、判じ物じみたやり取りをした。思い出すなり、高比古は、その時のやり取りを前とまるで別のものに感じた。今は、意味を理解していた。


『宝なあ。して……筑紫つくしの宝はどうする気だ?』


『さあて、得るならわしは女がいい。女でないなら……ほかにくれてやればいい』


『ほかにくれてやるだと? ――それは、出雲の意思か?』


 男同士の冗談に隠したのは、倭奴をどうするという話だったはずだ。


 筑紫の宝とは、倭奴のこと。ほかにくれてやれといった須佐乃男が、その相手としたのは、隼人の阿多族だ。


 倭奴の地など、それを欲しがる交易国へくれてやれ。友国となるための手土産に。


 ――それは出雲の意思か? そう訊ねた筒乃雄に、その時の須佐乃男は即答した。


『ああ、そうだ。――で、女のほうは? 宗像の宝は、いただけるのだろうか?』


 高比古は、ふうとため息をついた。


(はじめから……出雲を出る前から決まってたってことか。大国主と彦名様のもくろみでもあるってことか)


 この旅の狙いは、高比古と、筒乃雄の孫娘の成婚。それは、出雲と宗像の結びつきを意味する。そして、倭奴という国を手土産に、隼人の阿多族に近づくこと。


(戦に、婚儀に、同盟に――たった一度の旅の間に、どれだけのくさびを打つつもりだ? とんでもない爺さんたちだよ。歯が立たない)


 その時の敗北感まで、思い出した。一度大きくため息を吐き、迷いごとを振り切ってしまおうと、首を横に振った時だった。


 風に吹かれたいと、宮殿の外へ出ようと門へ向かった高比古の姿を探して、走り寄ってくる男たちがいた。身なりは宗像のもので、それなりにちゃんとしている。宮殿を守る武人のような勇ましさはなく、格好からすると、筒乃雄の従者のようだ。


(今さら、おれになんの用だ?)


 これまで、筒乃雄は高比古を相手にしなかったた。筒乃雄が見ていた相手は、須佐乃男だけだったのだから。


 だが、筒乃雄の従者らしき男たちは、高比古のもとへと迷いもなく駆けて来る。そばまでたどり着くと、男たちは深々と頭を下げた。


「お探ししておりました! 実は、筒乃雄様が、ぜひ高比古様とお話をと――」


心依ここより姫様のことで、お知らせしたいことがあると……」


 高比古は、その名に覚えがない。


「心依姫?」


 うなずこうとしない高比古に、男たちは慌てて説明を加えた。


「心依姫様は、沖ノ島の巫女姫です」


「筒乃雄様の御子の、さらに御子で……」


「その、あなた様の……」


 おそらく、心依姫というのは筒乃雄の孫娘で、高比古が妃として娶る娘だ。それはわかった。


 だが、不思議だ。警戒して、高比古はますます眉をひそめた。


(筒乃雄が、おれを直接呼ぶ? 妙だ。そういう場があるなら、筒乃雄のもとへいけと命じるのは須佐乃男のはずだ。筒乃雄は、まず須佐乃男を呼ぶはずなんだから)


「須佐乃男様も、筒乃雄様のおそばにいるのか?」


「いえ、須佐乃男様は、狭霧姫とお出かけになりました」


「狭霧と?」


「ええ。狭霧姫が、須佐乃男様を連れて入り江を回りたいとおっしゃったので、宗像の船頭とともに、お出かけに……」


(奇妙だ。これじゃまるで、須佐乃男がいない隙をわざわざ狙って、おれを呼び出そうとしているようじゃないか)


「わかった。なんの御用だろうな?」


 従順にうなずいてやると、男たちはほっと肩の力を抜く。そして、宮殿の奥まった場所にある王の館へ向かって、我先にと一歩を踏み出して先導をした。


「こちらです、どうぞ」


 しきりに頭を下げつつ先をいく男たちの後を追いながら、高比古は、胸が奮えていくのを感じた。それは、わりに心地よい緊張をもたらした。


(どうやら筒乃雄は、おれのことも気になるらしい)


 高比古を呼び出した筒乃雄の意図は読めないが、散々須佐乃男にからかわれ続けたせいで、こういう緊張にはとっくに慣れていた。


(筒乃雄も、須佐乃男みたいにおれを試すつもりなのか。それとも、また別の思惑か? おれも、筒乃雄がいったいどんな男なのか知りたいんだ――こっちだって)


 試し返してやる――。高比古は、無表情の裏に気迫を隠した。





 なにも知りません。なにも気づいていません。


 そういう真顔をとりつくろって、筒乃雄のもとへ向かった。


「来たか、婿どの! こっちじゃ! はよう来い、はよう」


 筒乃雄の出迎えは相変わらず陽気で、上座から大きく手を振っては、高比古をそばに呼び寄せる。


 舘の入り口をくぐった高比古は、苦笑を浮かべて近づいたが、それはわざとだった。


 この老王の陽気な手招きも、本心からのものかどうかはわからない――いや、芝居だ。そう悟ったからだ。


 ほのかに笑った高比古をそばに座らせた筒乃雄は、上機嫌で、みずから膝を何度かぱしんと打ってみせた。


「今朝がた、沖ノ島に迎えの船をやらせた。わが孫娘は、ここ数日のうちに戻るじゃろう」


「心依姫ですね」


「名を知っておったか? いつのまに」


「さきほど、あなたの従者の方から」


「そうか、それはいい。しっかり覚えて、間違えるなよ? 名を呼ばれると娘は喜ぶが、間違えると、たいそう怒るものだ」


「そうですね」


 笑い返すと、筒乃雄はさらにぱしんぱしんと膝を打って、「それはよい、それはよい」と、白ひげの内側で唇を何度も動かした。


 孫娘の晴れ姿を喜ぶ、爺様の姿。――それも、今の高比古の目にはすんなりと映らない。


 須佐乃男のそういう顔は、どれも単なるにやけ顔ではなかったと、すでに知ったからだ。


 のんびりとした仕草をとりつくろって、高比古は、老王の次の言葉を待った。筒乃雄が自分としたい話というのは、孫娘の到着を知らせるだけではないだろう。それが、わかったからだ。


 ある時老王は、皺で覆われたまぶたを閉じ、ゆっくりと顎を下げた。それから、白ひげを震わせて、はっはっは! と豪快に笑い始めた。


「出雲の……いや、彦名の跡取りか。なるほど」


 それには、思わずむっとした。なぜ、「出雲の……いや、彦名の」といい直す必要があるんだろうか。


 呆気にとられたふりをしつつ、老王の笑顔の行方を追った。すると、小柄な老王は、ふと高比古を覗き上げた。目は笑っているが、目の奥では笑っていない。


 他人を射通すような鋭い眼差しで見つめられても、高比古は落ち着いていた。


 その目で見られるためにやってきた。


 狙いは外していなかったと安堵して、ますます肩の力を抜き、穏やかな笑みをたたえた。


 高比古と目を合わせると、老王はあぐらをかく足を組み変えて、座りなおした。


「そうか、そうか……」


 老獪な笑顔の底に生まれた暗い眼差しを、隠すこともなく高比古へ向けた。それから、老王は、白ひげに覆われた小さな唇をゆっくりと動かした。


「須佐乃男はどうだ? おまえを育てているようだな」


 話し方の印象は、前に老王同士で交わしていたやり取りにあったものに近い。


 高比古は、ゆっくりと息を吐いた。


 正解に近づいている――。それに喜ぶ興奮を宥めようと、胸を落ち着かせた。


「そうなのでしょう。おれは若年で、経験も浅く、策士としても彦名様の名代としても、まだまだ力足らずですので――」


「そう謙遜するな。……なるほどな」


 老王は、白ひげの内側で忍び笑いを漏らしている。


「心依姫は、心優しい娘だ。出雲へ連れて帰ったからには、寂しい思いはさせてくれるな。よう愛でてやってくれ。頼んだぞ?」


 穏やかな微笑を崩さないように心がけながら、高比古の胸の内は喜びで沸いた。


 孫娘を嫁がせる相手として、筒乃雄は高比古を認めた。それにふさわしい才能を持つ若者だと――。筒乃雄がいったのは、そういう意味なのだから。


「はい。ぜひ」


 にこやかに端をあげた唇で、それっぽく答えた。


 実のところ、会ったこともない娘の幸せなど、微塵も考えていなかったが。


 だが、筒乃雄も、人情味あふれる答えを期待したふうではなかった。


「で、高比古。訊きたいことがある」


 とうとう、本題に移った。


「はい、なんでしょうか」


 高比古は、筒乃雄の老獪な目の奥を追う。だが、老王の関心は、高比古が想像もしなかったところにあった。


「須佐乃男の孫娘の、狭霧姫――。あの姫は、なにものだ」


 この場で、その名が挙がろうとは。それより、須佐乃男のいない隙を狙ってまでこの老王が知りたがったことが、狭霧のことだとは――。


 おかしなことを申されますね、と、とぼけた表情をつくるのが精一杯だった。


「なにものだ、と申されましても――。あの姫は、須佐乃男様の娘、須勢理すせり様と、大国主との間にできた御子で……。たしかに、出雲の縮図のような娘ですが」


「それだけか?」


薬師くすしをめざしています。一人で戦を任せるにはまだ力及ばず、見習いですが」


「そうか、薬師をめざしているのか。わかった。娘ながらに戦へ出向く道を選ぶなど、母君と同じく稀有な娘だな」


 筒乃雄はくっくっと笑うが、目は笑わない。射抜くような眼差しを向けたかと思うと、切り込むように短く尋ねた。


「で、本当は?」


 でも、それ以上は高比古にも答えようがない。


「はい?」


「須佐乃男が育てておるだろう?」


「須佐乃男様が? なんのことでしょう」


 自分も知らない。いや、気付きかけた気はするが、それほど重要なことだとは思っていなかった。


 本心を隠すべく、驚いたふりをするのに必死だった。幸い、本音の焦りは、気づかれなかった。


「しらばっくれるな。出雲は本当に口が堅いな」


 筒乃雄はそれ以上追及するのを諦め、骨ばった肩から力を抜くと、高比古を見つめた。


「須佐乃男め……あいつは、人を育てる天才だ。大国主も、彦名も、巻向まきむく桂木かつらぎも、ほかの従者も、もっといえば、出雲という大国も、みんなあいつが育てあげたんだ」


 いまや、筒乃雄が高比古を見る目つきは、小さな宝を惚れ惚れと眺めるのに似ていた。だが、老王が称える相手は、そこにいる高比古ではなく、やはり須佐乃男だった。


「狭霧とかいうあの姫も……矢雲にぴったり添わせているところをみると、第二、第三の矢雲をつくる気か、それとも、もっと別のものか――。後継者が次々育って、出雲は安泰だな」


 筒乃雄の眼は、大国の未来を羨望するものだった。


 高比古の心は戸惑っていたが、どうにか顔は苦笑してくれた。


「お褒めの言葉をいただいたようで、須佐乃男様も喜ぶでしょう」


 芝居をするように頭を下げていくと、筒乃雄は小さく鼻で笑った。


「彦名みたいな奴だな、おまえは」


 そんなつもりは、なかったのだが。


 彦名は、高比古の主だ。出雲へ流れ着いてから、策士という位をいただくまでの二年間、高比古は、彦名のそばに従者として仕えていた。だから、いつの間にか彦名の仕草を覚えていて、どうすればいいのかわからなくなった時には、咄嗟に真似ているのかもしれない。


(……真似)


 なぜか、愕然とした。だが、実際に顔に浮かべている表情は、彦名のものによく似た、冷たい微笑かもしれない。


 今、この老王を相手にどうすればいいのか――。たしかに高比古は、よくわかっていなかった。





 なんに対しての苛立ちかもわからないが、むしゃくしゃとして仮宿へ戻ると、中では桐瑚が待っていた。桐瑚は寝床の木床に腰かけていて、隣に、夕餉の乗った籠を置いている。


「夕餉を……」


 桐瑚は、いつもどおりに渋々来てやったのだといいたげな不機嫌顔をしていた。だが、高比古と目が合うと、目をしばたかせる。


「どうした?」


「なにがだ」


「なにか、あったか?」


「……なにがだ」


 問われてすぐに答えられるような苛立ちなら、とっくに一人で解決している。


 乱暴に薦を跳ね除けて小屋へ入った高比古は、桐瑚のそばに近づくなり細い手首を掴み、引きずるようにして外に出た。


「どこへいく?」


 茜色に染まった夕空のもとに強引に連れ出されることになり、桐瑚は眉をひそめる。だが、高比古は答えられなかった。


 桐瑚であれ誰であれ、他人のいいなりになるのが、どうしても今はいやだった。


 高比古の足は、まっすぐに宮殿の中枢へ向かう。そこには須佐乃男に充てられた館があり、そばに建つ小さな舘は、狭霧の仮宿になっていた。


 宮殿の奥へ進むにつれて、周辺を守る番人の数は増えていき、番兵たちが背にする松明の土台は、高比古の仮宿が並ぶ通りにあるものより丈夫そうな造りに変わっていく。


 敵の本拠地に近付くのを脅えるように、桐瑚が青ざめていく。


「どこへ……」


 それを無視して、高比古は桐瑚を連れ、狭霧がいるはずの舘を目指した。


「狭霧、いるか」


 戸口で薦越しに呼びかけると、すぐに、人が近づいてくる気配がする。ゆっくりと薦があいて、狭霧が姿を現した。


「高比古――。どうしたの?」


 狭霧は、高比古より頭一つ分背が低い桐瑚よりまだ背が低くて、そのうえ小柄だ。齢は十五で、桐瑚よりも二つ年下。顔立ちはどちらかといえば童顔で、幼い。


 高比古を見上げる目はまっすぐで、笑顔は、敵意などかけらもなく、安心しきっているように無邪気だ。


(血筋がいい奴の顔だ)


 太刀打ちできないものを前にしたように気味が悪くて、すぐに目を逸らした。


 だが、これまでもそうだったが、狭霧は、高比古が不遜な態度をとっても物怖じしない。高比古を見上げる無邪気な笑顔も、変わらなかった。


 狭霧は、ついと視線を高比古の背後に向かわせた。そこに桐瑚がいるのに気づくと、ほうっと口元をほころばせる。


「あ……! どうしたの? その人がなにか?」


「――しばらく、預かってほしい」


「え?」


「早ければ明朝、宗像を出ることになった。その間こいつを、あんたの侍女かなにかとして、しばらく匿ってやってくれないか」


 高比古は、狭霧の目をじっと見つめて真摯に頼んだ。だが、胸の中では自問自答が続いていた。


(いったいおれは、なにをしてるんだ? たしかに、そうしてもらえれば助かるが。……助かる? なぜ)


 実のところ、桐瑚のことは口実でしかなかった。


 ここへ来たのは、たんに狭霧の顔を見たかったからというだけだ。筒乃雄があれほどいった狭霧が、今どんな顔をしているのか。それが気になって、仕方がなかった。

 目の前の狭霧は、野花が咲いたような可憐な笑みを浮かべて、くすくすと笑った。仕草は、幸せなものを祝うふうだった。


「いいよ、もちろん。よかったね、高比古」


「よかった? なにがだよ」


 条件反射のようにいい返しても、狭霧の温かな笑顔が崩れることはない。そのうえ、むくれた高比古を気遣うように、言葉を選んだ。


「だって……。誰かといるのが苦手だっていってたでしょう? それなのに、大切な人が見つかったみたいだから――」


「苦手だよ。だから、あんたに預けにきたんだ」


「でも……」


 狭霧は、不思議そうにしていた。


 今のいい合いは、自分の負けだ。自分がいい張ったのは、理由にならない。本当に苦手なら、奴婢をわざわざ気遣う必要はないのだから。


 だが、狭霧はそれ以上いわなかった。苦笑して、わざと高比古の言い分に飲まれてやったというように、「わかった」とだけいった。


 決まりの悪さを隠すように、次を尋ねた。


「そういえば、草園の件はどうなった?」


 狭霧が、事代ことしろたちと一緒に、宗像の巫女の禁を破った時の話だ。あの後、狭霧は、矢雲と連れだって筒乃雄のもとへ謝罪に出向いたはずだ。


 狭霧は口を大きくあけて、おどけたように笑った。


「それがね、大丈夫だったの! 矢雲さんがとりなしてくれたから……。すごいね、あの人!」


「矢雲が?」


「うん。お詫びに、次に宗像へ来る時には、この島にない薬草を届けましょうって話してくれたの。筒乃雄様も、評判がよければ出雲土産に名物が一つ増えるって、笑ってくれたわ」


「筒乃雄が? この島にない薬草?」


「うん、しばらく山を歩いていたら、出雲の山とは生えているものが違っていて、薬の種類も、出雲のほうが多いみたいなの。だから……」


「だから……って、あんたがそれに気づいたのか? そう言えと矢雲に頼んだのは、あんたなのか?」


 問い詰めるような高比古に、狭霧はいくらか身を引いた。


「高比古だったら、きっと一日山を歩けば気づいたよ? 本当に違うんだから。わたしより、ずっと薬草に詳しいでしょう?」


 謙虚な姿勢を貫こうとしてか、狭霧は、いいわけをするようにいった。


「嘘かもしれないけれど、矢雲さんも『それはいい』って褒めてくれて、筒乃雄様の館を出てからも、なおよくなったから、草園のことは気にしないようにって慰めてくれたの。薬は軽くて、小さくても値打ちがあるから、交易の手土産にするにはもってこいですものねっていったら、『そうですね』って」


 薬は軽い。小さくて運ぶのが楽。いい土産。


 それはいつか、高比古も聞いた。言ったのは……真浪だ。


 真浪は、狭霧と二人で何度か会っているはずだ。


「それをあんたに教えたのは、真浪か?」


「え、どうしてわかるの? すごいね」


 狭霧は目をしばたかせて、高比古の勘の良さを褒めた。


「うん、そうなの。真浪様って、とっても話しやすい人よね」


 にこやかに笑う狭霧の顔を、高比古の目はろくに見られなくなっていた。目の裏にちらつくのは、須佐乃男の嘲笑であり、筒乃雄の暗い笑顔だった。


(物見遊山に興じるような真似をさせながら、矢雲のやり方を毎日そばで見させてたってわけか。それから、真浪や、異国の連中に会わせて――)


 どうやら、宗像へ来てからの高比古と狭霧は、まったく別の日常を送りながら、ほぼ同じところに行き着いているらしい。


(ほぼ同じところ?)


 そう思うなり、高比古は血の気が引いた。


(同じところに達してたまるか。おれと狭霧は、もともと違うのに……)


 狭霧は、ただそこにいるだけで、異国の名だたる王たちが欲しがる極上の血筋をもっている。狭霧はいわば出雲の大国主を表した軍旗であり、出雲の縮図のようなものを、生まれた瞬間から身にたずさえている。


 もともと持っているものからして違うのに、狭霧はいつの間にか知識を得て、自分の背後近くに迫っていた。それどころか狭霧は、高比古にはないものをもっていた。


 狭霧は、茫然と立ちつくした高比古へ、心配そうに声をかけた。


「どうしたの? ――平気?」


 他人を心配するような余裕など、自分にはないというのに。


「――なにもない。なら、頼んだぞ」


 その場を立ち去ろうとする高比古に、顔をひきつらせた娘がいた。桐瑚だ。


「ま、待て……! いったいなんの話だ?」


 桐瑚には、一切の話をしていないのだ。


 だが、高比古には桐瑚を気遣う余裕すら、すでになかった。


「おまえが知ることじゃない。いいから、しばらく狭霧に従え」


「なんだと?」


 凛とした目もとを歪ませる桐瑚に、表情を変えたのは狭霧だ。狭霧は一転して、高比古を責める側に回った。


「なにも話さずにここへ連れてきたの? ちゃんと話したほうが……。あなたが発つのが明朝なら、ここに匿うのはその後でも……」


 だが、高比古は耳を貸す気になれなかった。


「考えることが山ほどある。奴婢なんかを気遣う暇はない」





 いうだけいうと、高比古はさっさと背を向けて立ち去ってしまった。


 取り残された狭霧は唖然として高比古の後姿を見送ったが、腰に手を当てて、文句をいうことを忘れなかった。


「もう! わがままなんだから!」


 ほんの今まで高比古がいた場所には、美しい娘がぽつんと立ちつくしていた。


 娘は、黄昏時の淡い光が似合う高貴な顔立ちをしていた。その両の目は、茜色の光に覆われて見えなくなってしまいそうなほどぼんやりとして、小さくなりゆく高比古の後姿を見送っている。


(本当にもう、高比古って――。恋人ができたと思ったのに、想い人に対してもこんな扱いしかできないなんて――)


 高比古にしてやりたい説教が、狭霧の胸でうずいた。でも今は、高比古に代わって娘を気遣うことにした。


「困った人ね? でも、きっと今の高比古は、なにをいってもきかないわよ。文句をいおうものなら、百倍になって返ってくるもの。しばらく、わたしのところに避難していたほうが、きっといいわ」


 おどけるような冗談を加えつつ、懸命に言葉を選んで、狭霧はそばで身を強張らせる娘を宥めた。


「たぶん、なにか大事なことを任されているんだと思う。高比古はいつも……ううん、ええと……。とにかく、高比古が戻ってくるまで、わたしのそばにいてくれると嬉しいわ。よかった、話し相手ができて――!」


 娘はおずおずと狭霧と目を合わせたが、娘の華麗な顔立ちは歪められていて、淡い色をした双眸は、狭霧を睨むように見ていた。


「……あなたは? 彼のなんだ?」


 娘のいい方も表情も、奴婢にあるまじきもので、身分差のある相手に対してのものではなかった。


 狭霧は目を丸くしたが、それは、変わった娘に出会った驚きのせいではなかった。


 むしろ、幸せなことに気づいてしまった気分で、ますますにこやかに笑った。


「わたしは狭霧といって、高比古とは……出雲から一緒に宗像へ来ただけで、それ以上の関係はないの。だから、安心してね」


 娘がまず知りたがった問いに答えてやると、娘の顔の強張りが、ふっとほころぶ。


(安心してるんだ――。そうよね、気になるよね。それにしても、この人、高比古に雰囲気が似てる)


 狭霧は目を細めて、娘の照れ臭そうに歪められた目元を見つめた。


「……あなたは、高比古の双子の妹か、お姉さんみたい」


「え?」


「目に、誇りが……いえ。なんでもないです」


 余計なことはいわないでおこうと狭霧が口を閉じたのは、高比古の相手に慣れているせいか、かなり早かった。


「ところで、あなたの名は? どう呼べばいいですか?」


「わたしの、名?」


 娘は、すこし迷ったふうだった。しばらくして、じわじわと唇をひらいた。


「ここでは、リコと呼ばれている」


「そう、リコさん」


 聞いたばかりの名を反芻して、狭霧はにっこりと笑った。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る