銀星夜の小宴 (1)


 

 高比古が乗り込むことになった隼人はやとの船は、宗像で取り引きされた荷を運ぶための、小さなり船だった。


 港で見かけるとため息が出そうになる、越の国の見事な商船や、堅固な木組を誇る出雲の帆船とは比べものにならないほど、隼人の船は小さい。


 なにしろ、刳り舟だ。どれだけ立派な大木を削ったところで、幅の狭さだけはどうにもならない。十人近くを乗せる長さはあるものの、横幅が狭いので、海に落ちそうになりながらでないと、船上ではすれ違うこともできない。


 夜明け前の、ほのかな明かりのもと。その船は、大陸産の鉄玉や絹を盛られた籠を積み込んで港を出た。


 乗り込んだのは、男が六人。船の中央に据えられた帆柱のそばには、三人の船乗りがついて、力強く身体をしならせながら帆を操る縄をひっきりなしに動かしている。


 船は小さくとも、速さはなかなかのものだ。壱岐の島を離れてしまうと、帆は海風をはらんで船を押し、大波を乗り越えさせていく。


 速さがある分、揺れも大きい。荒波という、竜蛇じみた巨大な生き物のくねった背中の上を滑っているようで、はじめての大揺れを味わった高比古は、船縁から手を放すことができなかった。


「すごいな……」


 船乗りたちは、大揺れの中でも平然と仕事に就いている。同じように舳先に腰かけていた火悉海ほつみは、唇の端をつり上げてにっと笑った。


「だろ?」


 火悉海は、船に乗り込んだ男たちの中では、高比古と並んで若かった。


 一行の長である火悉海が仕事に手を貸すことはなく、大波を乗り越えていく船の先で、海原を見据える番人のように座っていた。


 眉は強気な性格を表すように太く、目は少々目尻が垂れがちだが、眼差しは鋭い。火悉海の印象はまるで、野の獣。裸の胸元をむき出しにして、呪術じみた蛇文様で彩られた布を身体に巻きつける彼ら独特の衣装は、火悉海の顔立ちによく似合った。


 その獰猛な雰囲気を、耳たぶから垂れる濃い緑色の耳飾りがやわらげている。出雲であれば、娘が結うような形の髪もそうだった。彼らの身なりは野性的だが、どこか中性的だ。


 粗野ではあるものの、火悉海の仕草は品がよかった。


「これくらい揺れないと、あくびが出ちまう。でかい船はとろいしな」


 眼差しが鋭いので一見睨んでいるようにも見えるが、笑い方もすがすがしい。


「波はこんなだけど、風がいいから、すぐに倭奴わぬの港に着くよ。着いたら、すぐに人を集める。話をするのは今日だけだ。明朝には倭奴を出るから、そのつもりでいろ」


 火悉海が話したのは船が倭奴に着いた後のことだ。


 高比古はつられたようにはにかみ、わずかに眉をひそめた。


「長居は無用か?」


 短く尋ねた高比古に、火悉海はため息をつくような仕草をした。吹きつける海風で日に焼けた頬を洗い、はためく長い髪をおさえつけながら、火悉海は苦笑した。


「倭奴はいま、大和派と反大和派に分かれて揉めてんだ。うちは、大和派でも反大和派でもない。おまえがいると、反大和に見られてしまう」


「――わかった。すぐに去るよ」


 了承すると、火悉海は腕組みをして軽くうなずいた。


 隼人の船乗りは、絶え間なく働いていた。風の動きに逐一目を光らせ、風向きがわずかに変わろうものなら、すぐさま帆の向きを変え、船の行き先を操る。よほど倭奴と宗像の港を行き来し慣れているのか、もともと船を操るのが得意な一族なのか、仕事は見事だった。


 火悉海がさきほど予言したように、倭奴へ辿り着くまで、そうは時間がかからない。


 海原を覆う荒波が穏やかになり、船の進みがゆっくりになると、火悉海は、遥か彼方を顎で指した。


「あそこだよ」


 海を隔てた対岸。そこには、北筑紫の陸地が見えていた。





 須佐乃男によると、隼人は、交易先で気に入った土地を見つけると住みついてしまう一族で、あちこちに居住区をもつのだとか。隼人のうちでも、阿多族という火悉海の一族の、そういう港の一つが倭奴にあり、今その港を取り仕切る役に就いているのが火悉海だと、そういう話だ。


 隼人の小さな帆船が倭奴の港に入り、集落の風景が目に飛び込んでくると、高比古は妙な懐かしさを覚えた。


 入り江の奥に並ぶ簡素な舘や、その向こうに広がる農地。浜里の背後にそびえる山々の稜線や陰影――。


 こんな風に懐かしいのは、この景色を見慣れた人の記憶を得ていたせいだと、疑わなかった。


(名はなんだっけ。たしか……圭亥けい


 桐瑚を守っていたが、守り切れずに主を賊に奪われ、命果てた男だ。おそらくその男は、倭奴で生まれて、この地で死んでいったのだ。


 初めて足を踏み入れた場所を懐かしがる目が気味悪くて、一度まぶたを閉じて、目元を手のひらで覆った。


(消えろ。この目はおれのだ)


 目を気にする高比古の仕草を、火悉海は気にした。


「どうした?」


 高比古は首を横に振った。


「なんでもない。いこう」


 そして、先に船を下りていった隼人の船乗りに倣って、高比古も船を下りた。





 港は、大勢の人で賑わっていた。すれ違うのは火悉海と似た身なりをする人がほとんどだが、そうでない人もいる。よく見回せば、隼人のものらしき衣装を身につけた人は、そこにいる人々の半分くらいだった。


 高比古に混じった圭亥の記憶は、その格好を覚えていた。


「倭奴の人も、この里で暮らしているのか?」


「勘がいいな?」


 隣り合って歩く火悉海は「おや」と目を動かして、高比古を称えた。


「ああ、そうだ。前に、この近くで乱が起きたとかで、そこから逃げてきた人がここに移り住んだんだ」


「乱って、大和派と反大和派で?」


「ああ、そうだ」


「……どっちだ? ここにいるのは」


 慎重に尋ねた高比古に、火悉海は軽く吹き出した。高比古を見やる火悉海の目は、誇りに満ちていた。


「どっちもだ。ここは、隼人の居場所で倭奴じゃない。普通に暮らしている連中が、みんな大和派だの反大和だのとこだわると思うか? 連中は、ただ平穏に暮らしたいだけだ」


 火悉海の答えは理にかなっている。高比古は、ふうと息を吐いた。


「……そうだな、たしかに」


 それから、桐瑚のことを思い出した。


 桐瑚が倭奴の王族だと知った瞬間から、彼女に対する見方が、高比古の中では少し変わっていた。放ってはおけないが、そばにも置きたくない――。そう思うたびに、自分を嘲笑う声も聴いた。


(ばかばかしい。あいつはただの宗像の奴婢だよ)


 何度となく胸にいいきかせたが、圭亥という名の従者の記憶が混じったせいで、胸のどこかでは、桐瑚を守らなければとしきりに焦っている。それも気味悪い。


(おれの胸だ。おれの身体だ。……落ち着け)


 気をつけていないと、身体が別人の記憶に乗っ取られてしまいそうだった。


(これだから、死霊を受け入れるのは厄介だ――)


 幼い頃に苦労したことまで、今さら思い出した。


 先をいく火悉海の背中を追って雑踏をかき分けつつ進んでいたが、ある時、火悉海が急に立ち止まる。


「どうした?」


 小声で尋ねるが、返事より先に火悉海は少し身体の向きを変えて、自分の身体で高比古を隠そうとした。


(おれを隠してる? おれがいると知られるとまずい奴がいるのか)


 火悉海の肩越しにそっと向こうを覗くと、そこには、不思議な一行がいた。


 中央にいるのは三十半ばという齢の女人で、女人のそばには、二十歳前後の娘が数人従っている。女たちは、揃って奇妙な格好をしていた。身にまとう上衣は袖も裾も長く、優雅だの動きにくいだのと真浪まなみがいっていた越服に似ているが、布の地色は、若草色と黄土色の細かな文様で埋め尽くされている。


 特に中央にいた女人は、位が高いのか、額に清らかな純白の領布ひれを巻き、耳たぶからは金の耳飾りが垂れている。唇には紅をさし、頬には、衣装の文様と同じ文様の化粧もあった。


(巫女? 神に仕える女か)


 納得するなり、高比古の中にある圭亥の記憶もうなずく。


 雑踏の向こうから、巫女らしき一行はゆっくりと歩んでくる。一行の邪魔にならないようにと、港を行き来する人々は道を譲った。その人波に紛れるように、火悉海も高比古をともなって道の隅に寄った。


「火悉海、あの人たちは巫女か?」


「ああ、月の大巫女だ。倭奴は月を祀っているからな」


「月を?」


「おかしいか? 実は、俺たちの神も月の神なんだが。じゃあ、出雲はなにを祀る?」


 巫女一行が通り過ぎるのまでの暇つぶしか、本当に興味があるのか。火悉海から興味深そうな目配せを受けると、高比古は小声で答えた。


「出雲に、祀るような神はいない」


「ほう? 巫女のようなものは出雲にいないのか?」


「いや、いるが――。出雲の巫女や呪術者は、土や風や木や、あらゆるものに精霊が宿ると信じている。神がどういうものかはおれはよく知らないが、とにかく、精霊は神じゃないし、万能でもないし、恐ろしいものでもない。人と同じだ」


 説明しながら、高比古には、自分を愛する精霊たちとの記憶が蘇った。高比古にとってそういう精霊たちは、血のつながった親よりも家族に近かったのだ。


 火悉海は、小さく笑った。


「なるほど、人と同じか。考え方が違うと面白いな。――俺たちの神は、闇だ」


「闇?」


「ああ、闇だよ。この世に、闇より恐ろしいものはないだろ? だから、俺たちは闇に祈る。だいたい、暗闇が恐ろしいと言う奴は、自分の心の中に後ろめたい闇があるんだ。それを恥じろとの教えだと、俺は思ってる」


 火悉海の鋭い目つきは好戦的に見えるが、やはり笑顔は爽やかで、目は澄んでいる。


 だから、高比古は、彼がした闇の神の話より、彼自身を称えて微笑んだ。


(こいつは、きっといい奴だ。まっすぐで……)


 その時。軽く笑い合っていた高比古と火悉海は、互いにびくりと動きを止めて、目尻で道の中央あたりを向いた。二人は、広くなった通りの隅で、大巫女の一行から隠れるように人垣にまぎれていた。しかし、その大巫女が、二人のそばへ近づいていた。


 人波に潜む二人を見つけたのは、火悉海が月の大巫女と呼んだ、ひときわ豪奢な姿をする女人だった。いや、その女人が見つめる相手は、高比古だけだった。大巫女の眼は、不思議なものを見つけたといわんばかりだった。


 息を飲んだ高比古の耳元で、火悉海が囁く。


「倭奴の月の大巫女、桐影比売きりかげひめだ」


 名を聞いた瞬間に、頭のどこかに紛れ込んだ圭亥の記憶が、その名を懐かしがった。そのうえ、勝手に騒ぎ出そうとする。


 ……桐影比売様、私は……!


(うるさい、黙れ。おれの身体だ!)


 自分に混じった別の男の記憶を牽制するが、それは従おうとしなかった。


 ……申し訳ございません!

 ……あなたさまの巫女を……姫を!


(いいかげんにしろ、黙れ)


 桐影比売が高比古の真正面までやってきた時、高比古は、奥歯を噛みしめてどうにか真顔を保っていた。


 胸の中では、別人の魂の余韻が騒ぎ続ける。自分の中の混乱を必死に抑え込む高比古の無表情を、桐影比売は訝しげに覗きこんだ。高比古は、息を忘れた。


(見透かされてる?)


 高比古のそばで大巫女が歩みを止めると、周りの人々も高比古を気にし始める。


 もともと、高比古の身なりは、倭奴のものでも隼人のものでもなかった。異国の人がやってきていると人々は噂を始め、好奇な眼差しの数々が高比古に集まった。


 周囲のざわめきが届いていないのか。大巫女は、大事な探し物をするように高比古の目の奥をじっと見つめた。


「月の香りがする――。あなたは、どこぞの国の神官か?」


 桐影比売は、三日月の弧を黒で描いたような秀麗な眉をわずかにひそめる。


 大巫女の懸命な視線を遮ったのは、火悉海だった。


「桐影比売、彼は、その……。失礼、先を急ぎます」


 火悉海は、月の大巫女とも顔見知りらしい。火悉海は強引に高比古の背を押すと、ぐいぐいと雑踏を掻き分けはじめた。


「急ごう、あまりおまえの姿を晒したくない」


 火悉海は、人々の怪訝な眼差しから高比古を匿うように、あえて人に紛れることのできる道を選んでいた。


 火悉海に掴まれるままに後を追いながらも、高比古は目がくらむ思いだった。胸には、圭亥がさっき叫んだ言葉がまだ響いている。


 ……申し訳ございません!

 ……あなたさまの巫女を……姫を!


(もしかして……)


 答えには、もう気づいている。あとは、その答えが正しいかどうかを確かめるだけった。


「ひとつ、訊きたいことがあるんだが」


「なんだ?」


「あの大巫女に、娘はいるか?」


「いや? 巫女は神に嫁いだ女だ。男に嫁ぐことはない」


「なら、誰が後を継ぐ?」


「月の大巫女になるのは、たいてい王族の娘だ。数人が巫女として神殿に仕えて、次の大巫女に選ばれるのを待つ」


「王族の娘が? ……なあ、あの大巫女は、なぜこの浜里に逃れてきている? 近くで起きた乱に、あの巫女の住まいも巻き込まれたのか?」


「ああ。今この国で面倒が起こる場所といえば、まず月の神殿だ。なにしろ大和の女王は、もとの月の大巫女だからな」


 火悉海を見やる高比古の目が、しだいに脅えていった。


「……そうなのか?」


「ああ。すでに王に嫁いだ身でありながら、神官をいいくるめて大巫女の位を得たかと思えば、あの女は軍を引き連れて伊邪那いさなを滅ぼす旅に出た。それからというもの、月の大巫女の権威はがた落ちだ。大和の女王は、倭奴を端から端までめちゃくちゃにしたんだ。先日、神殿が襲われたのも――、前なら、神殿に刃を持ち込むなんてことは、誰も考えもしなかったろうになあ。……実は、大巫女の候補だった姫が一人、いまだ行方知れずだ」


「――姫が?」


「噂では、乱のさなかに賊に浚われたとか――」


(間違いない、あいつだ。桐瑚はおそらく、あの大巫女の――)


 胸の奥が、再び気味悪く疼き始める。自分の中に生まれた迷いを、殴りつけるようにして、高比古は力ずくで抑え込んだ。


(だからなんだっていうんだ。おれはそんなこと知りたくないし、知ったところでどうにもできない。あいつは、ただの宗像の奴婢だ。それでいい)


 迷いを無理やり覆ってしまうと、前を睨んだ。目の前には、初めて見たはずの倭奴の山並みや、集落を為す屋根の数々が見える。


(これは、おれの目だ。おれは、おれだ――)


 初めて訪れた異国の風に、むき出しの目を晒した。





 火悉海から案内されたのは、火悉海が根城として使っている舘だった。


 造りは宗像とさほど変わらず、簡素。出雲の大舘のように巨大な宮柱を軸にした造りではなく、か細い柱を要所に建て、同じ太さの梁を渡し、枝や葦で壁や屋根を造っている。ここまでやってくる間に通り過ぎたほかの建物はまだ質素だったので、浜里の中では際立って目立っていたが。


 戸口をくぐってみても、床は、突き固められた土が見えたまま。


 質素なたたずまいに漂う冷えた空気を味わうと、真浪の言葉を思い出した。


(越の木の匠は、大船を造るのも建物を造るのも得意で、そういう匠は、出雲に大勢移り住んでいるとか――。出雲の大舘おおたちを建てたのは、そいつらなのかな)


 越の建築技術というのは、類いまれなものなのだろう。越の恩恵を受けた出雲のものと比べると、宗像や隼人の建物の質素さは、差が歴然としていた。


(越の木の匠を出雲へ呼び寄せたのが、須佐乃男。そこまで話が進むほど、出雲と越の関わりを深めたのも、もしかしたら――)


 筒乃雄つつのおの言葉も蘇った。


『須佐乃男め……。大国主も彦名も、巻向まきむく桂木かつらぎも、ほかの従者も、もっといえば出雲という大国も。みんなあいつが育てあげたんだ』


(須佐乃男、か。すごい爺さんなんだろう。でも……負けたくない)


 自分を嘲笑うようなその男の目を思い出して、幻を振り切ろうと、軽く首を振った時だった。館の奥から、騒ぎ声が近づいて来るのに気づいた。


「出雲だと?」


 大声を出していた男は、足早に高比古目がけてやって来て、あっという間に胸倉を掴んでくる。なにが起きたかわからないものの、乱暴な手つきに腹が立って、高比古は男を突き飛ばそうと腕を上げる。だが、振り払う前に男の手のひらは衣から離れて、高比古の顔に影を落としていた大柄な身体も遠ざかった。


 目の前では、目を血走らせた男が、火悉海や彼の部下らしい青年たちから羽交い締めにされている。四肢を押さえられても、なお男は高比古を睨みつけ、吠えていた。


「出雲の民が、なぜここに……! 出てけ、出ていけ!」


 男の身なりは、隼人風ではなかった。


(倭奴の者か。……大和派?)


 大和の名を聞いた時に、敵の名だと高比古が気色ばんだように、その男も敵が来たと憤ったのだ。


 男は興奮していたが、しだいに冷めていくことになる。火悉海が取り成したのだ。


「まあまあ、落ちつけよ。こいつの身は俺が預かってるんだ。使者だよ」


「使者? 預かってるって、若王が?」


「ああ、そうだ。たった一人で乗り込んできたんだ。度胸と俺に免じて、厄介事はなしにしようぜ、な?」


 男は、渋々といった。


「若王がそういうなら……」


 二人のやり取りを、掴まれたせいでよれた胸元を直しながら高比古は見ていた。


(若王、か――。こいつにとっては異国の王の子だっていうのに、まるで、自分の主みたいだな)


 手を緩めた隼人の青年たちの腕から自由になると、男はすぐさま背を向けて、立ち去ろうとした。男は、高比古をちらりと見て、無礼を詫びるように軽く頭を下げた。


「申し訳なかった」


 男はそそくさと高比古のそばを通り抜けたが、その背中を、火悉海が呼びとめる。


「おい、待て」


 隼人の若者たちの中でも、火悉海はひとさら存在感を示している。腕組みをして、そこですらりと立つだけで、火悉海は男を脅した。


「ここで見たことは、誰にもいうな。とくに、すぐに頭に血が上るような連中には。ことを荒立てたくない。いいな?」


「……わかってますよ、若王」


 こそこそとした動きで、いち早く館を去りゆこうとする男に、高比古に掴みかかった時の気迫はもはやない。


 男が去った館に、妙な静けさが訪れる。凝り固まった静寂の中で、慎重な囁き声が交わされた。


「若王、見張りましょうか?」


 火悉海の部下だ。答えた火悉海の声も、ひそやかだった。


「いや、いい。あいつもわかってるだろう。ほかに行き場がないから、ここにいるんだ」


 火悉海は、男がくぐり抜けていった戸口の薦をぼんやりと見つめていた。


 それから、高比古を向く。火悉海は、騒動を謝るように苦笑していた。


「しょっぱなから悪かったな。気を悪くしないでくれ。ここには、いろんな連中がいるから」


「そうなんだろうな。おれは気にしない」


「助かる。じゃあ、奥へ」


 館の奥には、円い小部屋がつくられている。火悉海は、そこを顎で指した。


 火悉海にかしずく隼人の若者たちが主を見る目つきは、従順だった。理由は、火悉海の立ち居振る舞いからも察しがつく。


(そういえば須佐乃男が、こいつのことを、いずれ隼人の王か武人の長になる男だと評していたが……そうなのだろうな)


 それから、もうひとつ思い出した。高比古を守るように、須佐乃男は、火悉海を脅した。


(すごい爺様なんだろうな)


 須佐乃男の存在の大きさは、とうに思い知っていた。出雲を出てからこのかた、高比古はそれに威圧され続けていて、もう差を認めるしかないとわかってはいる。しかし、それでも。


(負けたくない――)


 幼い頃の反発か。誰かの都合のいいように振り回されるのは、大嫌いだった。





 奥の間に通されてしばらくすると、ちらほらと人が集まってくる。


 やってくる男たちは、みな隼人の蛇文様の肩布を身につけていた。薄暗い部屋にやって来ると、まず奥であぐらをかく高比古の姿を探し、じろりと見た後で、高比古から離れた場所を選んで、順々に腰を下ろしていく。


 まるで、見世物になった気分だった。


 次々と現れる男たちと目を合わせるのを避けるように、床を見つめた。


(出雲の策士がやってきたと、話をされた上で集まってるんだな。でも、いったいどんな話になってるんだ? 出雲の策士、彦名の跡取りがやってきたと? なにをしに? 出雲に手を貸せ……いや、大和に手を貸すなと訴えにやってきたと?)


 こんなふうに、異国の陣営に、たった一人で向かった経験はこれまでにもあった。だが、これまで経験したのは、どれも戦がらみだった。


 胸が、出雲一の交渉役と呼ばれる男を気にした。


矢雲やくもなら、こんな時どうするんだろう……)


 二十五という若さでそこまで上りつめた矢雲の持ち味は、身の軽さだという。話をして相手を諭すだけなら、須佐乃男、大国主、彦名など、出雲の核を成す王たちに勝る者は出雲にいない。だが、王と呼ばれる彼らが、あちこちに出向くことは多くない。


 高比古の役目も、国を出ることが難しい彦名の名代だ。


 王の名を負って異国へ出向くのは矢雲の役目と同じだが、高比古の場合、向かう先はたいてい戦場だった。敵陣営へ向かうのなら、敵意だけをもっていればよかった。


 だが、これから高比古がするべきことは、宣戦布告ではない。憎み合うためではなく、人と人を、国と国を繋げるためにやってきたのだ。


(軍使なら、慣れているのに)


 無表情の内側で、ため息をついた。





 奥間には、ざっと数えて、二十人ほどの男が集まった。


 高比古たちは輪をつくって座っていたが、そこまで広い場所ではないので、輪に入りきれない男たちは、壁際で立ったままになっている。男たちの身体が、窓や天井から射し込む光を遮るので、夕時の薄暗い部屋には、ますます闇色が混じった。


 最後まで誰も座ることのなかった高比古の隣へ腰を下ろしたのは、火悉海だった。


「揃ったか? 時間をかける気はない。てみじかにしよう」


 広間に集った男たちの年はさまざまで、老いた者も壮年の者もいる。十代、二十代の若者もいたが、そう多くない。中でも、十八だという火悉海の若い顔立ちは、大勢の中でひときわ目立っていた。


 高比古と同じ若さではあるが、火悉海は上に立つことに慣れていた。堂々とした振る舞いで男たちの顔をひととおり見渡すと、自分の隣に座る高比古に、軽く目配せをした。


「彼が出雲からの使者で、名は高比古。出雲の策士で、出雲王……彦名の名代、それから、出雲の賢王、須佐乃男が遣わした使者だ」


 火悉海の声で、高比古の肩書きが並べられた。


 彦名と須佐乃男の名を背負って、いまさら恥をかくわけにはいかなかった。


 耳もとでは、須佐乃男の嘲笑がこだましていた。


『矢雲を使うほど大それた役目ではない。――いやなら、狭霧にやらせる』


(矢雲に負けてたまるか。狭霧にはなおさらだ)


 いったい何者だ?

 出雲は何をしに来た?


 自分を見つめる怪訝な眼差しを一身に浴びる緊張に耐えつつ、火悉海の挨拶にこたえようと、頭を下げる。軍使がするように、跳ねのけるのではなく、受け止めるのは、不思議な気分だった。





「俺は一度、阿多あたの都へ戻ろうと思う」


 火悉海がそういうと、広間に集った隼人の男たちが、小さくどよめいた。


「なぜです、若王?」


(なんの話だ? 火悉海が故郷に帰るっていうのが、ざわめくような話なのか?)


 真顔を貫きながら、さりげない仕草で隣に座る火悉海の表情をうかがう。


 火悉海はわずかにうつむいていて、野性的だが品のある彼の顔立ちに、表情と呼べるものはない。唇も、淡々と動いた。


「まだ、迷っているが……。戻って、親父と祖父どのに、このたびの宗像の話をしたほうがいいと思っている」


 輪を成して座す男たちは、火悉海の真顔に見入っている。輪の中の誰かがいった。


「若王、宗像の話とは」


 問われても、火悉海の唇はすぐに動かなかった。しばらく黙ったかと思えば、ちらりと隣の高比古に目配せをする。


(なんだ?)


 内心焦った。でも、なにかを伝えようとした合図ではなく、ただ高比古を気にしただけらしい。一度目が合うと、火悉海はすぐに目を逸らした。


「……出雲が動いている。出雲側、というべきか」


 火悉海の口から「出雲」という国の名が出ると、そこに集った男たちの目が一斉に高比古を向いた。


 出雲はいったい何をしに来た?


 再びそういう視線を浴びるが、それに詳しく答えられる言葉を、高比古は持たなかった。須佐乃男から、これをしろ、あれをしろと事細かに命じられてここにいるわけではなかったし、意図を確かめ合った上でここに来たわけでもなかった。


(どうしろっていうんだよ――)


 焦りと同時に、脳裏には、これまで宗像で過ごした風景が蘇っていた。


 宗像の都のある島と、そこから大陸へ繋がる海の道。そして、その海を示した絵地図。その上で繰り広げられた、模擬戦。須佐乃男の嘲笑と、筒乃雄の得意顔。高比古が娶ることになった、心依姫ここよりひめという名の宗像の姫。その姫に妻問いをしていたという、越の国の三の王、真浪――。


 ゆっくりとした間を取りながら話を続ける火悉海の声は、高比古に蘇った日々の記憶を、さざ波が砂浜を洗うように撫でていく。


「越、宗像――。どちらも、古くからの出雲の盟友だ。……なあ、高比古。宗像で聞いたが、おまえは、筒乃雄の孫娘を娶ることになったんだろ?」


 火悉海も噂で聞きつけたのか、それとも噂になるべき大事なのか。


(おそらく、後者だ)


 火悉海がその話をするやいなや、高比古を見つめる視線の数々が凍りつくので、高比古はおのずと悟った。


「ああ、そうだ。今、沖ノ島へ迎えの船を向かわせていると……」


 火悉海は一度ふうと息をした。


「と、いうわけだ。宗像が、出雲側に立つと明言したようなもんだ。越は、もともと出雲の友国として名高い。越の船が行き来する各地には越を慕う小国があり、宗像も同じように、多くの海民一族に影響を与える。つまり、筑紫から越に至る海全域が、出雲側に回ろうとしているということだ」


 広間には、もはや息の音もしなくなった。薄暗い広間に集う男たちは固唾を飲んで、若い王の言葉の続きを待っていた。


 火悉海は、ゆっくりと問うた。


「うちは、どうする?」


 広間に流れ込む風すら止まったように、広間は静まり返った。大勢の男たちがつめかけて、足の踏み場もないはずなのに、まるで無人であるかのように、人のいる気配すら消え去る。


 人が言葉を止めても、時だけは動いていた。小窓から漏れ滲む空の赤みだけが、じわじわと増していく。今頃空には、美しい夕焼けが広がっているのだろう。


 それぞれの頬に届く赤い影が強くなり、そこに集う人の顔を茜色に染め上げていく。

緊迫した静寂の中に、ひゅうと風が吹く。小窓を通って夜の冷気を連れてきた夕風は、広間をいっそう冷やしていった。


 風の吹き込み口の木窓の位置をたしかめるように、火悉海はちらりと顔を傾けた。


 そのわずかな身動きに誘われるように、広間でひときわ渋い顔をしていた男が、唇を震わせた。


「しかし、若王……。敵味方をつくらないのが隼人だと――」


「ああ、そうだ。それが隼人の掟だ。では、大和にも出雲にも手を貸すべきではない。これが、阿多族の意思でいいか?」


 火悉海のいい方は、相変わらず静かだ。


 一人で散々迷った後だから、なにを迷っているのかはすっかりわかっているんだ――。火悉海の淡々とした口調は、そういいたげだった。


「だが、親父たちは倭奴を憐れんでいる。倭奴が滅びの道をたどったのは大和のあの女のせいだと、大和だけには手を貸さないというぞ? ということは、どうなる? それでも俺たちは、なにもせずに見ていられるのか? 今の宗像の動きは伝えに戻るべきだと思うが……意見を求められたらと思うと、正直、ためらう。俺の一存では決められない。みんなは、どう思う?」


 もろ手を広げるようないい方だった。どんな意見も大事だ、認めると。


 火悉海の誘いに乗るように、広間のあちこちで、そわそわとした声が上がり始めた。


「しかし……我々はあちこちに港をもち、そこでは、伊邪那や大和ものと常に隣り合っているのです。歯向かえば、そういう港が真っ先に攻められるでしょう。――ここのように」


「うん、そうだ」


「でも、出雲と手を組むなら。出雲の武人がここを守るのでは?」


 誰かがそういうなり、みたび人々の視線は高比古に集まる。


 高比古は、彼らのやり取りに始終耳を傾けていた。彼らの恐れや望みや、心の向く位置が少しずつ変わっていったりするのに、懸命に心を合わせていた。


 出雲は何をしに来た?

 いったいどうする気でいるんだ?


 今も、彼らの眼差しは訝しげだったが、今は高比古の言葉を望んでいる。そういう気配が、ここにはあった。


 ……ふう、と、ゆっくり息を吐く。


 心を落ち着かせると、彼らの望みに対峙する覚悟をした。


 唇をひらいていく。迷う人々をいい聞かせるように静かで、ゆっくりないい方をするべきだと思った。




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