銀星夜の小宴 (2)

 

「この国は……倭奴わぬは、哀れな姿になっているな。おれは、あなたがたがこの国の主になったほうがいいのではないかと思う。大和側の報復が不安だというなら、そのための手助けなら、出雲ができる」


 倭奴の権力を大和派から奪い取り、北筑紫から遠ざけるなら。それが条件だ。


 ただし、それは阿多隼人にとってもいい話のはずだ。ここは、交易の要地なのだから。


「砦をつくろう。越の木の匠は倭国随一の技をもっているから、彼らをここへ連れてきて、大和に怯えなくて済む都をつくろう。後ろ盾には、出雲がなる」


 技術力でも軍事力でも、出雲は協力を惜しまない。


 暗に高比古が伝えたのは、そういうことだ。


 高比古は、目に入る人すべての顔をじっくりと見渡した。


 隣であぐらをかく火悉海ほつみは、身じろぎもせずに高比古の言葉に耳を傾けている。


(…まだ、足りないか)


 火悉海のそっけない仕草に高比古は悟るが、これ以上はどうすればいいのかわからなかった。


 できもしないことを適当にいってしまうわけにはいかないし、彼らのやり取りに耳を傾けていたところ、どうも、あれこれうまいことをいって、話を聞いてもらえるような連中ではない気がした。


 仕方がないので、話を終わらせることにした。


「大事なことだ。あなたがたの判断に任せる」


 時を与えるのも重要だ。これで駄目なら、まだ出雲には矢雲が控えている。


(おれにできるのは、ここまでだ――)


 負けるのが嫌だとか、そういう幼稚なわがままがまかり通るような状況ではないことも、身に染みた。


 じわじわと唇を閉じた高比古に、隣にいた火悉海が顔を向けた。


「待て。もうひとつだけ答えろ」


 いい方も目つきも今は鋭く、野獣じみていた。それは、火悉海がこれまで部下たちにしていた、守るべきものを見る目ではなかった。


「出雲はどんな国だ? 俺が知っているのは、大国主と名高い武王が率いる一騎当千の武人の国。歯向かわなければ侵攻しない。ほかには?」


(ほかには?)


 高比古は、戸惑った。


 大国主と名高い武王が率いる一騎当千の武人の国、歯向かわなければ侵攻しない――。火悉海がいったことはだいたい合っていると思ったが、それは、高比古の知る出雲の姿の半分でしかなかった。


 武王として近隣諸国へ名を馳せる大国主が領地とするのは、出雲の西半分だ。残りの東半分を領地として、出雲王として君臨する彦名は、そういう性格の王ではない。


 胸が、すっと落ちついていった。


 高比古は彦名のもと、東の王家で暮らしていた。火悉海に尋ねられた問いには、間違いなく答えられる。


「出雲は、武王が従える一騎当千の武人の国。その裏で、大勢の薬師くすしと呪術者を抱える、まじないの国だ。おれは、出雲王、彦名様に仕える呪術者、事代ことしろの主だ」


「呪術者だと? おまえが?」


「ああ、そうだ」


 口でいってもわからないだろう。なにしろ、崇めるものも祀るものも異なるんだ――。高比古はまぶたを閉じると、小さく指先をたてた。そして、胸で風を呼ぶ。


(誰か、来てくれ。ここに花の香りを届けてくれ)


 甘酸っぱい花の香りで目が覚めた、いつかの心穏やかな早朝。あの時の風景を思い出しながら呼びかけると、すぐにそれはやってきた。


『あら。呼んでくれるなんて嬉しいわ。花はこれでいいかしら?』


 微笑んでいるような雰囲気でやってきたぬるい風は、南国の甘い花の香りを乗せていた。


(ありがとう。いい香りだ)


 胸の中で微笑み返して目を開けると、茜色が薄れかけた簡素な広間では、そこに集った男たちが目を白黒させていた。


「風が吹いたぞ……」


「花の香りが……」


「これは……あなたが……?」


 鼻先をひくつかせる者、目をしばたかせる者。隼人の男たちの驚嘆顔に、高比古は小さく微笑んだ。そして、丁寧に念を押した。


「あなたがたに何かあれば、出雲にいようが、きっと風がおれに知らせる。――出雲は、あなたがたを援護する」





 目の前で妙な技を見せつけられた隼人の男たちは、狐につままれたような奇妙な顔をして、一人、また一人と広間を後にした。


 話し合いは済み、するべき事はどうにか終えた。――が。慣れないことを終えた高比古の頭は、疲労でぐったりとしていた。


(……つ、疲れた)


 夕餉をふるまわれて口にしたが、ろくに食べた気がしない。でも、頭は妙に冴えていて、眠れる気もしない。胸は、こんな役はもう二度とやりたくないと喚いていた。


(苦手だ、こういうの)


 そう胸で吐くたびに、矢雲という人物との違いを思い知る。それから、狭霧のことも想った。


(狭霧に任せていれば、もっとうまく事は運んだかな。あいつの笑顔は、なんていうか人を癒す。それが、無邪気というものか。……矢雲の笑顔に似てる)


 浜里に自分の家をもつ隼人者のように行き場のない高比古は、そこに泊ることになったが、寝床でぼんやりする気分でもなく、外に出た。舘のそばには井戸が掘られていて、周りには庭のような場所があった。そこで、壁に寄りかかり、足を投げ出した。


 そっと顎を傾けて天上を見上げると、美しい星空が広がっていた。


 そういえば、今日は朝から雲ひとつない快晴だった。夜になってもそれは変わらず、星の光を遮る薄雲はなく、月と星は青白い光を地上に降らせて、倭奴の地につくられた阿多隼人の集落を、おぼろげに煌めかせていた。


 足音が近づいてきた。音のするほうを見上げると、火悉海がそばまで来ていた。


「飲まないか?」


 雰囲気は粗野なくせに、笑顔は相変わらず澄んでいる。


「ああ、いいよ」


 応えた高比古も似たふうに笑った。力尽きて、身構えることもできなかった。 


 火悉海は小さな壺を小脇に抱えていて、高比古の隣に腰をどっかと下ろすと、さっそくもってきた小さな杯で、壺を満たしていた酒をすくう。


 高比古に杯を手渡し、自分の分も用意すると、火悉海は目配せをして軽く杯を掲げた。


「乾杯」


 火悉海の、やけに清らかな笑顔は、高比古をほっとさせた。


(済んだんだ。どうにか)


 疲れを称えて、ねぎらうようにも、杯をあおった。……が。酒を口に含むやいなや舌が驚き、癖のように飲みこむと、今度は喉が喚き出した。


 酒は、高比古の喉が驚いて暴れるほどの強さだった。


 のたうち回りたいのをこらえて、声にならない悲鳴を漏らしていると、面白いものを見るように自分を覗きこんでいる火悉海と目が合った。火悉海は、いたずらの成功を喜ぶようににやけていた。


 自分も杯をあおると、火悉海は力強い握り拳をつくって、酒の強さに耐えている。


「この酒、キツいだろ? ……きっつー!」


(なんだ、こいつ)


 さっきまでは、無言のうちに部下を従える勇壮な若王にしか見えなかったのに。


 火悉海はくっくっと肩を揺らしていて、目尻には涙まで浮かべていた。


「ほんとに効くな、これ。涙が……。あ、おまえも泣いてるな」


「……は?」


 笑われて、初めて気づいた。極度に強い酒を煽ったせいで、いつの間にか高比古の目も潤んでいた。


「なっ……なんなんだよ、この酒!」


「これ? 延命酒だよ」


「……延命?」


「死んだ奴でも生き返りそうな強さだろ? これはうちの商いの品でさ、大陸でうけがいいんだ」


「大陸で? 延命……? これが?」


「ああ。大陸の奴らは死ぬのが怖いらしくて、うそでも延命とかいえばかなりウケる」


 くっくっくっ。火悉海は肩を震わせて忍び笑いを漏らすが。


(うそでも延命といえばって……)


 北だろうが南だろうが、商人というのはどこでもちゃっかりしているようだ。


 火悉海は、高比古の手のひらから空になった杯を奪うと、再び同じ酒で満たす。高比古が文句をいっても、聞かなかった。


「……普通の酒はないのかよ」


「そのうち慣れるって。ゆっくり舐めろ」


 無理やり高比古の手に杯を乗せると、自分の杯と軽くぶつけてくる。飲もうという合図だ。


 仕方がないので、杯を唇に触れさせる火悉海の仕草を真似ることにした。


 初めて味わう、異国の酒。そういえば、酒の入った壺も、よく見れば見慣れない赤色をしていた。


 見渡せば、高比古と火悉海が二人で背にしている簡素な建物も、質素とはいえ工夫が凝らされていると気づいた。壁を成す小枝は丁寧に束ねられていたし、外にしつらえられた炊ぎ屋には、奇妙な丸型をした飾りもついている。


 いわれた通り、唇と舌が酒に驚いたのは初めだけだった。こういうものだとわかって飲めば、それなりに味わうこともできた。


「この酒を大陸まで運ぶのか? あの船で?」


 胸に浮かんだ疑問を口に出すと、隣で両足を投げ出して酒を飲む火悉海は、ぼんやりと答えた。


「まさか。酒なんか運んだら、重すぎて船が沈む。この酒に味をつけてる果実を運ぶんだ」


 交易をするには、軽いものがいい。前に真浪がいったそれは、隼人でも同じようだ。


「ふうん」


 これまでに見聞きしたことが、どこかで繋がっている奇妙さに浸るように、高比古もぼんやりと闇を眺めた。


 そうするうちに、火悉海はにっと笑って話しかけてきた。


「さっきの、すごかったな。うちの連中なんか、すっかり脅えて青ざめてたぞ。出雲の呪術者って、みんなあんなふうに自在に風を操れるのか?」


 闇の中でも、火悉海の目はきらきらと輝いている。好奇心旺盛らしく、高比古に興味津々というふうだ。


 照れくさくなって、高比古は簡単に答えた。


「ある程度は。……そっちこそ。この浜里には、おれが見たことがないものがたくさんあるな。あれはいったいなんだ?」


 高比古が指差したのは、炊ぎ屋のかまどのそばに垂れさがった丸い飾りだ。拳大のそれは、木の色をしていて、表面全体に小さな棘のようなものが突き出ている。


「あれか? はりせんぼんだ」


「……なんだ、その変な名前」


「棘のある魚だ。干して、ねずみ避けに使うんだ」


「ねずみ……? へえ」


「棘と丸みが邪魔して、ねずみはあの上によじ登れない。あれから上に置いておけば、たいていの食いものは無事ってことだ。じゃあ、これは知ってるか? うちの一番の人気の品なんだが」


 火悉海が手を伸ばして掴んだのは、小枝の太さの棒だった。木のように見えるが、色味は薄くて、節がついている。それは、高比古の目が初めて見るものだった。


 いや……記憶を探せば圭亥けいの魂は覚えていたかもしれない。だが、今は、他人の記憶を漁る気になれなかった。そばに、火悉海がいるのだから。


「……知らない。なんだ?」


「竹っていうんだ。軽くて丈夫だし、なにより細工が楽だ」


 手渡されるので、自分の手で握ってみるが、それは磨き上げた木材のようにつややかで、たしかに軽かった。身の丈はあろうかという長さがあったが、それを縦にしたり、斜めにしたりして、じろじろと見検める高比古に、火悉海は説明を加えた。


「細工をすれば、身の回りのものはたいていつくれるし、鉄ほど切れ味はよくないが、槍や矢のようにも使える」


「槍や矢? これが」


「ああ。よく飛ぶし、しなりもいい。鉄だけが極上品じゃないぞ。だいたい鉄は、よく切れるが重すぎるんだ。細工をするにも、窯やら炭やら大仰なものがたくさん要るし。――なあ……」


 一度、舐めるように酒を飲んだ火悉海は、爽やかな笑顔を向けて、まっすぐに高比古を見つめた。


「うちの竹と出雲の鉄を組み合わせたら、いい武具になる。そう思わないか?」


 手を組むか? そういう意味をほのめかした言葉だった。


 頭で理解する前に胸が安堵して、高比古はほうっと唇をほころばせた。


「……ああ、いい武具ができそうだ」


 笑顔を見つめ返すと、火悉海はくすぐったそうに笑った。


「なんだ。ちゃんと笑うんだな」


「――は?」


 いわれるなり、たちまち真顔に戻ったが。


 火悉海はそれ以上からかうこともなく、話を変えた。


「ところでさ、あの爺さんがいってた話なんだが……」


「爺さん? 須佐乃男のことか?」


「ああ。ほら、孫娘の婿を探しているとかどうとか」


「ああ……?」


 火悉海が気にしているのは、狭霧のことだ。


 そうするうちに、火悉海の雰囲気がまたもや変わった。火悉海は、獰猛な印象を与える引き締まった肩を恥ずかしそうにすぼめると、そわそわと尋ねた。


「なあ、その子ってどんな子だ?」


「どんな子って……どういう意味だ?」


 問いかけよりなにより、火悉海の変わり様に半ば怯えて、腰が引けたように反芻すると、火悉海は太い眉をむっとひそめて顔を赤くした。


「どういう意味もなにも、嫁にするなら、気の強いわがまま娘だと困るし、そうじゃなくても……ほら、いろいろあるだろ?」


「嫁だあ?」


(いったい、なんの話になったんだ)


 火悉海が、高比古の顔色を窺うことはなかった。


「弱ったなー、出雲の姫か。俺、心の底から惚れられる女を一生かかっても探すって、決めてたんだけどなあ」


 まるで、渋々覚悟を決めるようないい方をしているが。


(じゃあ探せよ、その女を。いつのまに狭霧を娶ると話が決まったんだ?)


 たしかに須佐乃男は、火悉海に会った時にそれっぽい話をした。だが、いくら記憶をたどっても、須佐乃男が彼にいったのは「孫娘の婿を探している」とだけで、求婚などしなかった。それどころか、冗談に近いやり取りだったはずだ。


(まさか、おれが筒乃雄の孫娘を娶る話が出雲を出る前からあったみたいに、実は、狭霧をこいつに嫁がせるって話も、すでにされていたりして……いや、ないな)


 狭霧に、誰かからそういう話をされた様子はなかった。


 須佐乃男はそう思っているかもしれないが、狭霧は須佐乃男の孫だが、大国主の娘でもあるのだ。大国主は、狭霧を手元に置きたがっていた。妻の忘れ形見として溺愛しているようにも見えた。


 大国主が、狭霧の意思を問わずに異国へ嫁がせるわけがない――。と、結論にいき着くと、脈の速さがゆっくりに戻った。


「あのさ。須佐乃男のあれって、冗談かも……」


 はたして意味を解したのか、どうか。火悉海は、高比古と目を合わせることもなくぶつぶつと続けた。


「でもさ、須佐乃男と大国主がらみの娘じゃ、話が来たら、うちの親父様たちは小躍りして了承しちまうよ。出雲は西の雄って信じてるからなぁ」


「出雲が西の雄って……そうなのか?」


「ああ。倭国の小国を束ねるにふさわしい英雄のいる国ってね。うちの一族は、出雲を気に入ってるよ。……というより。正直にいうが、うちは英雄だとか賢王だとか、色ものに果てしなく弱い」


「色もの? はあ?」


「有名どころに弱いってことだ。諸国に名を馳せてる出雲の須佐乃男、大国主あたりがうちの都を訪れてみろ。親父たちは騒ぎまくって、飲めや歌えやの宴をがんがんひらくと思う。はっきりいって、我が親ながら、見てて恥ずかしいくらいだ」


「はあ……」


 色もの――。その言葉や感覚は、高比古には覚えがないものだ。火悉海と話すうちに、なんとなく意味は解したが。


 だが、目の前で狭霧との縁談話に目を輝かせる火悉海は、見ていて恥ずかしいといいきった彼の親と、そう変わらないように見えるのは、はたして気のせいか。


「で、どう? かわいい? 大国主の娘は」


「は?」


 高比古を戸惑せたのは、問われた内容よりも、目の前の火悉海の豹変だ。火悉海にあった野獣の王じみた印象は、いまやすっかり影をひそめている。


 気圧されたように、問われるままに狭霧の顔を思い浮かべてみると、浮かんだのは、まっすぐに自分を向いて微笑む優しい笑顔だった。不遜な態度をとろうが、高比古に笑いかける時の狭霧は、いつも安堵しきったように笑う。


(狭霧が、かわいい……?)


 考えたことがなかった。


 顔立ちは……一目見るだけで美しい娘だと目を引く桐瑚ほどは目立たないだろうが――。いや、桐瑚は目が生意気なほど強いから華があるように見えるが、狭霧も……たぶん。


「……普通じゃないのか。まあ、かわいいよ」


 娘を褒めるのが、こんなに照れ臭いものだとは。目を逸らして、渋々といった高比古の横顔を、火悉海は食い入るように見つめた。


「……きっと、ほんとにかわいいんだな」


「えっ?」


(そんなことをいった覚えはない!)


 誤解を責めるように火悉海の火照った顔を睨むが、目が合うことはなかった。


 火悉海は、奇妙なものを思い出すように、星明かりに彩られた庭の土を見つめていた。


「なあ、越の三の王って奴に会ったか?」


「真浪か? ああ、会ったが」


(なぜ、今あいつの名が?) 


 不審に思っていると、火悉海は、高比古に横顔を向けたままでぼそっと吐いた。


「あいつさ、会うなり、俺に越の姫を嫁にいらんかと寄ってきたんだが。どれもこれも美人揃いだといい張ってさ。信用ならないのなんのって。……あいつ、鬱陶しいよな」


 火悉海が話して聞かせた真浪の姿は、あのお調子者ならやりそうだと容易に想像がつくものだった。


 高比古は、腹を抱えて笑い転げるのをどうにかこらえた。


「ああ、鬱陶しい」


 火悉海も、真浪に対して自分と同じ感想をもっていたらしい。そう思うと、愉快でたまらなかった。





 明朝、まだ暗いうちに、高比古が乗った小舟は隼人の港を出た。


 小船の上での高比古と火悉海の話し声は、終始和やかだった。


 行き道では火悉海の居場所だった舳先に二人で腰を下ろして、船の先端が切り分けていく大波に見入った。小さな船が乗り越えていくには、その海の波は荒く、船はひどく揺れた。だが、高比古は前ほど驚かなかった。


 むしろ、爽快だった。火悉海は前に、これくらい揺れないとあくびが出るといって笑ったが、その通りだと賛同した。


「気持ちのいい風だな。行きより、揺れが小さいか?」


 高比古に応える火悉海は、あぐらを崩して足を投げ出していた。


「ああ、向かい波じゃないからな」


「向かい波?」


「波を乗り越えるか、波に追われるかで揺れが違うもんだ。今日の波は追い波だ」


「波を乗り越えるか、追われるか……」


 高比古の頬に、むず痒い苦笑がこみ上げた。なぜだか、宗像で過ごした日々を思い出して、感傷に浸った。


「波は、追われるほうが楽なものなんだな。たしかに、向かい続けると疲れる――」


 そばで足を投げ出す火悉海は、にやっと笑った。


「でも、向かい波のほうが楽しいぞ? こんな揺れじゃ、あくびが出ちまう」


 少々面倒なほうが愉快だと、そういいたげに笑う火悉海の笑顔は、やはり爽快だ。


「そうだな」


 高比古も、吹き抜ける海風で頬を洗いながら、自然と口元をほころばせた。





 宗像の都に戻ると、火悉海は、自分の仮宿に高比古を誘った。


「もうすこし話さないか?」


 言葉は多くないが、火悉海の雰囲気は、言葉足らずを補って余るほど人懐っこい。火悉海は高比古に興味があるようで、鋭い目元も、今は誘いかけるような愛嬌がある。


 でも、それは高比古も同じだ。高比古も、火悉海に興味があった。


「いいけど。普通の酒はあるんだろうな?」


 からかうようにいって連れだって歩いていると、道の途中で真浪に出くわした。


 真浪は、肩を並べて歩く高比古と火悉海が笑い合っているのを見つけると、大仰な動きで指をさして、責めた。


「ちょっと、なに二人で仲良くやってんの! おれも混ぜてよ!」


 仲間外れにされたのを、本気で悔しがっているらしい。


 結局、真浪は、断る隙も与えずに二人にくっついて歩く。高比古は、からかっておいた。


「やだよ。おまえはいつも、一人で喋る」


「あ、そんなこというわけ? じゃあ、狭霧ちゃんを誘いにいくけど、いいんだな?」


 真浪の童顔には、得意げな笑みが浮かんでいる。真浪は、兄ぶっていると高比古をからかいたいのだ。高比古は、小さく吹き出した。


「勝手にしろよ。狭霧なら、今ごろ須佐乃男のそばで夕餉を食っている。爺様の団欒だんらんを邪魔して、須佐乃男に八つ裂きにされるのがおちだ」


 にこやかに端をあげた唇から、するすると冗談が出ていくのは、すこし奇妙な気分だった。そして、愉快だ。


「須佐乃男のそばで夕餉って……もしかして、その狭霧ってのが須佐乃男の孫か? おい、真浪。なんでおまえが、その子と知り合いなんだ?」


 火悉海は、狭霧を見知った風に話す真浪に苛立っているが、火悉海のいい分は、高比古にとっては聞き捨てならない。


(なぜ、おまえが怒る?)


 火悉海は、真浪をせせら笑うような顔をして続けた。


「ちょうどいい。その狭霧って出雲の姫と、おまえが前にいってた越の姫は、いったいどっちが美人だ? 越には絶世の美姫が四人いて、四人まとめて娶るとお得ですとか、適当にいってただろ、おまえ?」


 それは、本当に適当だ。でも、真浪ならいいそうなことだった。


 思わず吹き出した高比古は、うつむいてくっくっと忍び笑いを漏らした。


 そばを歩く真浪の口が重くなった。


「あー、えーっと、それはだねぇ。ここに高比古がいなきゃ、うちのほうが絶対美人っていい張るんだけどなあ――」


 ……高比古。


 それは、自分の名だ。だが、真浪の口から、まるで幼友達の話をするようにその名が出ると、高比古は目を丸くした。そんなふうに名を呼ばれたのは、初めてだった。


 これまで高比古の名を呼んだのは、たいてい自分より格上の相手か、自分の力を恐れる部下たちだった。似たような境遇にいる若者など、そばには一人もいなかった。物心ついてから、ずっとだ。


 越の若王と、隼人の若王。それから、出雲の――。


 見慣れない模様の岩山に囲まれた異国の風景の中で、三人で連れだって歩いているのはとても奇妙で、すがすがしい。


 胸に湧いた爽やかな困惑に、人知れず浸った。だが、高比古が無言でいれば、そばで騒ぎ合っている二人に気づく気配はない。真浪はいつもの調子を取り戻し、火悉海の肩にぐるりと腕を回すと、笑ってごまかした。


「まあ、それはこれからゆっくり話そうよ。酒でも飲んでさ」


 背中を押しやって、真浪はみずから、火悉海の仮宿へ案内した。


「ほら、きみの仮宿はこっちだろ? 隼人の阿多族って、宗像にまで集落をもってるんだね。いや、すごい」


「……おまえ、本当に調子がいいな」


 火悉海は呆れたが、真浪はあっさりとかわす。真浪は、越服の深い袖の中から黒い布のようなものを取り出した。


「まあね。用意もいいよ。北の海の幸を、酒の肴にお持ちしたからさ」


「なんだ、その黒い帯?」


「これはですね、昆布こんぶといいまして。出汁だしを取るにも最適、そのまま食べても美味、乾燥させて保存もきくという、三拍子揃った、なんとも便利な食材でして。ではひとつ、お味見を」


 黒い帯に似た昆布というものを一口大に裂いていくと、真浪は、火悉海と高比古の手に握らせた。ためらいもなくさっそく口の中に放った火悉海は、もぐもぐと頬を動かすなりうなずいた。


「あ、うまい」


「気にいった? 大量の取り引きになるなら、お勉強しますよー」


 真浪は、腕を大きく広げて火悉海と高比古の背中をぐいぐいと押すと、屈託のない笑顔が似合う声でいった。


「と、いうことで。では、三大国の若王の集いをひとつ、いたしましょうか!」


(三大国の若王の集い――)


 高比古は、吹き出してしまった。そんな大それた雰囲気ではなかったからだ。


 だが、真浪に誘われるままに、足はちゃんと行く手へ向かって動いたし、胸は、今の困惑を愉しんでいた。




 あたりが茜色のとばりに包まれ、しだいに闇が忍び寄り、いつしか天を覆うものが星空に代わっても、まだ高比古は火悉海の館にいて、真浪たちと笑い合っていた。


 それを遠くから見つめて、憤る娘の目があった。


 高比古の居場所を人づてに聞きつけてやってきた、狭霧だ。


「もう……高比古ったら! 戻ったなら、一度くらい顔を出しにくればいいのに! 心配してたんだから……!」


 高比古の姿は、阿多隼人の一族の集落の奥に建った館の隙間から見え隠れしていて、狭霧が外からどれだけ目配せを送っても、高比古が外に目を向ける様子はなかった。


 館の中では狭霧も見知っている越の若王が立ち上がって、大きな身振りでなにかを話している。高比古の目は、絶えずそれを追っていた。高比古の口元には愉快げな笑みがたたえられていて、杯が行き来して――。


 ふう……。憤りを抑えるように息を吐くと、狭霧は、一緒に連れてきた娘を振り返った。


 そこにいたのは、高比古から預かった娘だ。狭霧といる間、その娘はにこりともしなかったが、今もそうで、館の木窓の隙間から覗く和気あいあいとした雰囲気や、そこにいる高比古の姿のかけらを、ぼんやりと目で追っていた。


「あのね――宴で騒ぐのも大事な役目だって、よくおじいさまがいってたの。きっと今は、近づかないほうがいいよ。たぶん、高比古は大事なお役目の最中なんだと思う。今夜も、わたしの寝床で一緒に寝る?」


「いや、わたしは、その……」


 娘は、はっと我に返って唇を閉じた。星の光に浮かびあがる唇は、それ以上動かなくなった。


 狭霧は、高比古の代わりに詫びるように苦笑した。


「今夜はわたしのところにいることにして、高比古のところで待っていたらどうかな? もう都に戻っているんだから、きっとこの宴が終わったら、仮宿に帰るよ」


「……ありがとう」


「ううん。いいの、リコさん。――じゃあ、王宮に帰ろうか」


 狭霧はにこりと笑って、その娘の手を取った。大事な預かり物を守るように細腕をひいて、陽気な笑い声が響く隼人の集落を後にした。




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