形代の契り (2)


 狭霧たちがくぐった門の先にあったのは、小さな杉の林。林を成すのはいずれも神木と呼ぶべき樹齢の大樹ばかりで、地上まで張り出した太い根は黒い大蛇のようにうねり、苔色に覆われかけた太い幹は、薄青の春空へ向かってまっすぐに伸びている。


 木々の荘厳な霊気に清められたように林の中はひんやりとして、凛とした気配が立ち込める。大巫女と呼ばれる女性が住まう館は、そういう場所にあった。


「こちらです」


 案内役の侍女に先導されて階段きざはしをあがり、長年の間に大勢の足に踏まれたせいで艶やかになった床の木目に素足をつけ、奥を覗くと、そこにはほのかな明かりが差し込む小部屋があり、女人が一人、正座をして待っていた。


「いらっしゃい、心依姫ここよりひめ宗像むなかたからはるばる、よく来てくれたね」


 呼ばれたのは、心依姫だ。はにかんだ心依姫は深く頭を垂れて、大巫女らしき女人が指先で指した場所へと静かに腰を下ろす。


 狭霧は心依姫の付き添いで、侍女のような役目でここにいる。心依姫の背後で、狭霧はそっと膝を折るが、その頃には大巫女はすでに心依姫と話を始めていた。


「出雲はどうだい? こちらの暮らしにはもう慣れたかい?」


「ええ、皆様よくしてくださるので。狭霧様も、兄さ……いえ、高比古様も……」


 齢若い娘らしい細い声で応える心依姫は、いい間違えを恥ずかしそうにいい直す。


 大巫女は「老巫女」と呼ばれることもあるが、そこで心依姫に微笑んでいる女性は、齢が四十代か、せいぜい五十歳というほどで、老と名がつくほどではなかった。


 さきほどすれ違った日女と似た格好をしており、彼女の身を飾るものの中には、純白と紅以外の色がなかった。


 大巫女は、柔和な笑みを浮かべていた。


「出雲の女神のはふりをと思ったのだが、しなくてもよさそうだね。そなたを守る宗像の神は、出雲の女神と少々似ているようだ。出雲の者ではないと、出雲の土地神がそなたを疎んじることもなさそうだ」


 心依姫の背後で二人の会話に耳を傾けていた狭霧は、ひそかに目をしばたかせた。


(出雲の、土地神……?)


 神様というものを、もちろん狭霧は知っていた。どこかにいて、人を見守ってくれる尊い存在だ。



 神を祭る社は、出雲のあちこちにある。ある社は山そのものを神として祭り、ある社は川を、ある社は美しい石を……と、祭られるものは場所によって異なる。


 でも、まるでたった一人の誰かの話をするように、神を語られた覚えはなかった。


 それは心依姫も同じようだ。


「出雲の土地神? すみません、実は初めて耳にして――。出雲には神らしい神はいないと兄さ……じゃなくて、高比古様にお聞きしていたので……」


「ほう。高比古も?」


 大巫女は片眼を細めて、面白がるような笑みを浮かべた。それから大巫女の眼差しは、心依姫を越えてその後ろ、背後で正座をする狭霧の表情も撫でた。


「そなたはどうだ?」


「――もしかして、大地の母神のことですか? よく知らないのですが、どこかで聞いた気が……」


 急に話に混じることになって動揺しつつも、思いつくままを応えると、大巫女はにこりと笑う。


「いいんだよ。出雲の女神はあまり知られていないからね。なにしろ、外に出ていくのは事代ことしろばかりで、母神を祭る巫女はここに籠りがちだから。……とにかく、母神はそなたがやってきたことを快く受け入れてくれそうだよ。私の手で祝りをする必要はなさそうだ」


 大巫女の口から語られる言葉には、冗談をいっているような軽さがあった。でも、秘すべきものを秘している誇りを謳うようでもある。


 大巫女の笑顔は美しいが、侵しようがないほど強い印象があった。


 先ほど心依姫を睨みつけた日女を思い返すような奇妙な笑みで、じっと見つめ合うと、ふとした瞬間に、身体の内側の何かを抜きとられてしまいそうな危うさがある。


 ……どうしよう、怖い……


 狭霧の内側のどこかが脅えて、早くこの時が過ぎてくれればいいのにと、時の流れの遅さを恨むほどだった。


 それを見透かしたように、ふっと目を細めた大巫女は終わりを告げた。


「さて、もういいよ。高比古のもとにやってきた大切な姫が、この先無事に過ごせそうだとわかったのだから、私の用は済んだ。……そなたたちは? 私に、何か訊いておきたいことはあるかい?」


「いえ、その……」


「なければ、少し助言をしてもいいかい?」


 心依姫を見定める大巫女の目は、ほとんど瞬きをしなかった。


 笑顔は、相変わらず大陸の美人図のように美しい。でも、強固過ぎた。目が合うと、深い森の中で蛇に出くわしてしまったような気分になり、居竦んでしまうほどだった。


 助言を、と大巫女はいったが、獲物を睨むような眼差しといい、薄暗く、妙に恐ろしい雰囲気といい、彼女がしようとしているのは、それほど幸せな話ではなさそうだった。


 心依姫は、おずおずと尋ねた。


「悪いことでも――?」


「よくはない」


 狭霧は、さっと膝を立てた。


「……わたし、外へ」


 でも、身を乗り出した心依姫がそれを引きとめる。


「待って。お願い、いてください! 一緒に……!」


 振り返って狭霧を見つめる心依姫の表情は強張っていて、これから始まる恐ろしい予言に脅えているようだった。


 それを見越したのか、上座から大巫女の声はいった。


「いいのかい? 聞かないと選ぶことも、そなたはできるのだよ?」


「……いえ。聞きます」


 唇を噛んだ心依姫はじわじわと前を向き、姿勢を正すとじっと大巫女を見定めた。


 大巫女は、表情をほとんど変えなかった。笑顔は強く美しいまま。見開かれた目はやはりほとんど瞬きをすることがなく、朱に彩られた唇を小さく動かして、大巫女はぽつぽつと続けた。


「伝えたいことというのは、他でもない。そなたの夫のことだよ」


「え?」


 兄様の……と、心依姫は唇の中で反芻する。


 先視を告げる大巫女の声は、はじめから変わらず淡々としている。それはまるで、華やかなものも汚れたものも、いっしょくたにしてさらさらと流れゆく、冷たい川の流れじみていた。


「残念だけど、そなたが彼の御子を授かることは、ないね」


「――えっ?」


「一生だよ。今のままでは、ないね」


「え……?」


「そなたの夫は、いまに必ず事代主ことしろぬしとなる。巫王の呼び名として、事代主の名を大八嶋おおやしまに知らしめるだろう。大国主おおくにぬしという呼び名が、武王の意味をもって知れ渡ったようにね」


「あの……」


「とはいえ、あの子は、ああ見えて臆病で、優しい子だよ。血を分けた妹のようにそなたを大事にするだろう。そなたは彼の家族になれるが、妻にはなれない」


「……」


 狭霧から見える心依姫は、小さな背中だけだった。表情はわからないが、地その背中は大巫女の言葉を聞く前も聞いた後も、ぴくりとも揺れず、氷の波を浴びて凍てついたようだった。愕然とし過ぎて、青ざめる余裕すら失った、そういう雰囲気だ。


 それに気づくなり、狭霧の顔は心依姫に代わるように青ざめ、その後で血が上る。そしてつい、心依姫の背中越しに身を乗り出して、大巫女へ文句をいってしまった。


「ちょっと、待ってください。心依姫が、高比古の妻にはなれない? そんなものが、決まっているわけがないじゃないですか」


 ぴくり、と心依姫の背中が頼りなさげに揺れて、ゆっくりと振り向いた目が、狭霧を向く。その瞳は緊張と不安でびくびくと震えて見えた。


 心依姫の目は、異を唱えた狭霧に、すがりつくようだった。いまの大巫女の助言は信じなくてもいいですよね、と。


 心依姫の向こう。上座に座る大巫女は目を細めて、くすりと狭霧へ笑った。


「そなたは、狭霧だね? 大国主と、須勢理すせりの子」


 大巫女が、狭霧の素性を知っていたところで不思議はない。狭霧が心依姫の付き添いとして、ここ、神野くまのを訪れるという話はすでに伝わっているはずなのだから。


 でも、大巫女のいい方は、とても親しい相手に呼びかけるようだった。狭霧の両親のことは、大国主のことも須勢理のことも、よく知っている、と――。


「その……」


 口ごもる狭霧へ、大巫女は美しい笑顔を向ける。でもそれも、妖しいと呼べるほど強固過ぎた。


「そなたの父も母も強情でね、運命など信じないとそなたと同じようにいって、頑として私の言告げを聞かなかったよ?」


「……え?」


「でも、私がいった通りになった」


 目の前で呆ける心依姫と同じように、狭霧も、蛇に射竦められたように言葉を失った。頭が朦朧としていった。


「出雲の土地神はね、男に甘く、女に厳しいのさ……この世ではね。死後は、逆になるが」


「え――?」


 大巫女がするのは、狭霧には知りえない話ばかりだ。でも、両親と深く関わることらしい。そして、心依姫や、高比古とも関わることらしい。だが――。


「出雲で王たる男は、この世ではなかなか死なない。対を成す、形代かたしろをもつからさ」


「……形代?」


 形代――。その言葉は、さっきも聞いた。


 それは、高比古と一緒にどこかへ去った、日女という若い巫女が口にした言葉だ。


「形代っていうのはね、王の身が危うくなった時に、その身代わりとなるものさ。そなたの母も祖母も、形代として命を落としたのだよ? 男の命を生きながらえさせるためにね。夭逝と引き換えに、彼女らの魂は、死後、土地神の体躯に混じり、出雲を守る女神の一部となって祭られる。永遠にね」


「……」


 もう、相槌も打てなかった。


 大巫女のする話は、狭霧にはとても難しく、うまく理解できなかった。いや、そうではなくて――。


 口を閉ざした狭霧に笑んだ後で、大巫女は再び、心依姫へ顔を向けた。それから、心依姫の髪や頬や、首や肩や……頭の先から足のつま先までを舐めるように見ると、満足げにうなずいた。


「なるほど、そなたは力ある巫女のようだね。その力を使えば、やりようはある。さて、どうする?」


(……どうするって、何が?)


 狭霧はやはり、大巫女が、いったいなんの話をしたがっているのか、わからなかった。でも、わからないなりに、どうしても突っぱねておかねばならないと胸が疼いて、仕方がなかった。


「待ってください。なんの話です? 心依姫に何をさせたいんです? あなたの思惑がどうあれ、今あなたがいったことをすぐに飲みこめるわけがないし、信じられるはずがないじゃないですか。急がせないでください。無理に信じ込ませようとしないでください。心依姫と高比古、二人の問題です……!」


 狭霧は、夢中で唇を動かしていた。目の前で縮こまっている心依姫に代わらなければ、と、その思いに突き動かされた。


 無我夢中でいい切った時、狭霧はいつの間にか怒っていた。自分の口から出ていった言葉に、みずからの心が、染まってしまった気分だった。


「では、わたしの運命は? あなたには、視えるんでしょう? 教えてください」


 狭霧は大巫女をけしかけるが、大巫女は、笑顔のままで首を横に振った。


「そなたの運命? それは、いえない」


「どうして? じゃあ――!」


「そうではない。そなたのことは、いろいろと視えるよ。でもね、そなたには、そなたを守るものが大勢ついているんだよ。魂となった母や祖母や……つまり、出雲の女神が。――おや、ほかにもいるようだね。――そなたを守るものは、私を惑わせようとする。だから、いろいろと視える。いいかえれば、どうにでもなる」


「……え?」


「実は、そなたの母もそうだったのだよ? 須勢理の母も、須佐乃男すさのおの形代として命を失ったが、須佐乃男に嫁ぐ前は力のある優秀な巫女だった。母の魂が混じった母神に守られた須勢理は、どのようにもできたはずだった。でも、須勢理は、形代になることを選んだのだよ」


 当然の事実を語るように話す大巫女ほど、狭霧は形代というものを理解したわけではなかった。


 でも、胸の底のほうでは少しそれを理解して、いつかごくりと息を飲んだ。


「かあさまが形代になったって……それって、もしかして、野つ子を救ったことをいっていますか? それが、とうさまを守ったと……?」


 狭霧の母、須勢理が亡くなったのは、亡霊となって出雲へ戻ってきた幼い弟の魂を癒すためだった。


 幼い頃に目と鼻の先で感じた、死というものが迫りくる恐怖――。それを思い出しながら、なかば睨むように見つめると、大巫女は美しい笑顔をしたままで、こくりとうなずいた。


「大国主だけではないよ。……死んだ子供ほど、恐ろしいものはないのだよ? 神を人の世に呼び下ろす依巫よりましには、童をよく使う。事代たちも、幼い子供のような心を持つ者がほとんどだ。……なぜだと思う? 強いからだよ。無垢は強い。須勢理は大国主と出雲を、出雲を恨む怨霊から守るために命を投げ出したのだよ」


「……でも」


「きっとそなたは信じないだろう。須勢理のようにね。そして、そなたは須勢理と同じで、先に何が起きるかを私に視せない」


 狭霧は、とうとう唇を閉じてしまった。大巫女は狭霧をじっと見つめるが、朱色の化粧に飾られた目は、もはやほとんど瞬きをしなかった。森の奥で人を待ちうけ、威嚇する蛇のように狭霧を凝視して、神託というもので狭霧を怯えさせた。


「思うようにやるといいよ。私の勘では、どちらに転んでも、そなたはいずれ、出雲の母神の体躯に混じるような気がするがね」


 最後にふふっと笑って大巫女は話を終わらせたが――。心依姫へのものも狭霧へのものも、大巫女の話はどちらも、助言というよりは呪いじみていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る