大陸の羽娘 (2)


 髪飾りがたった一つ増えただけで、狭霧の顔はずっと明るく見えた。


 そっけない結い紐だけで結っていたときよりも、驚くほど雰囲気は娘らしくなって、すこし艶が出た自分の顔を覗いていると胸が弾んだ。早く舘の外へ出て、今日も目いっぱい頑張ろうと、気力がこみ上げもした。


「お似合いですよ。あなたの顔には山吹色が合いますね。年頃の若者は、つい振り返ってあなたのお顔を見るでしょうね。ええ、とってもすてきです」


「大げさよ、恵那えな


 恵那が自信満々におだてるのには、さすがに遠慮した。でも、鏡に映る自分の顔には、狭霧も満足した。顔周りがすこし華やかになるだけで、ふしぎなほど楽しいし、それに――。


(赤じゃなくてこっちの色だったら、派手すぎなくて、高比古も驚かないかも)


 間違い探しをするように、前にじっと自分の顔を見つめた青年の顔が浮かぶと、狭霧は思い出し笑いをした。


(馴染み過ぎて、気づかないかもしれないけど。それなら、そのほうがいいわ。わたしも恥ずかしくないから)





 髪に飾りを一つつけるだけで、気構えは変わるものだ。


 それまでより、狭霧は身なりに気を使うようになった。


 裳や袖にある汚れに目ざとく目がいくようになったし、帯の結び目にも気を配るようになった。それに、姿勢も――。昨日までよりしゃんと背筋を伸ばして颯爽と歩く狭霧を、恵那はここぞとばかりに褒めた。


「ほら、やっぱり、若い娘は身を飾るべきなんですよ。須勢理すせり様がいらっしゃったら、もっと早くから変わっていたのかもしれませんが……。恵那が戻ってきたからには、どうかご安心くださいね。あなたに似合う衣も帯も飾りも、恵那が見立ててさしあげますから」


「いいよ、恵那。これでじゅうぶん」


 狭霧がいっても、恵那は聞かなかった。


「またそんなことをおいいになる。娘は愛らしくあるべきです。どうせあなたも母君のように、美しさを磨くより大事なことがあるとおっしゃるのでしょう? ええ、けっこう。そのために恵那がいるんです。どうぞお任せください!」


「本当に、いいのに」


 狭霧は、苦笑した。


 そうして二人で意宇おうの宮の大路を歩いていると、林のそばにさしかかった。


 ちょうどそのとき、木立のあいだから大きな蝶がふわりと宙に躍り出た。


 手のひらの大きさはあろうかという大ぶりの蝶で、そのうえ、はねの模様はため息が出るほど美しい。深い海の底を眺めたときのような群青色に、鳶色の細い線模様がついて、そのうえ、鮮やかな桃色や黄色をした大小の玉模様が散っている。まるで、南国の海の底の鮮烈な彩りが、蝶の形に切り抜かれて風に舞っているようだった。


 行く手をふわりといく大きな蝶に見入って、狭霧は足を止めた。


「見て、恵那。すごくきれいな蝶……」


「あら、珍しい。大陸の羽娘ですね。意宇にもいたんですね。須佐すさの山に入ったらたまに見かけるんですが、恵那も最近は見ていませんよ」


「大陸の羽娘? それが、この蝶の名前?」


「本当の名かどうかは知りませんが、私の里ではそう呼んでいますよ。大陸からやって来る美しい女官のような姿をしているからって」


 そこまでいうと、恵那はくすぐったそうに笑った。


「でも、娘と呼ばれますが、この蝶はおすなんですよ?」


「雄?」


「ええ。翅に、桃色と黄色の雨粒みたいな模様があるでしょう? これは求愛の紋といって、めすを探している雄だけに顕れる紋なんです」


「求愛の紋?」


「ええ。紋が美しいほど、相手が寄って来るようですよ」


 迷い出てしまった大路から林へ戻ろうとしたのか、その蝶はふわりと宙を舞って、飛ぶ向きを変えようとしていた。


 二人が足を止めた大路のそばに広がる林には、小川が流れていた。奥にある、彦名の庭の泉から続く川だが、さらさらと水音を立てる水面の上を、大陸の羽娘という大きな蝶は、大きな翅を重そうに揺らしてふわりふわりと舞っている。


 蝶の行方を追って、狭霧は林の中に足を踏み入れていた。


 落ち葉が降り積もる小川の淵を歩いて、くつでかさりと物音を立てながら後を追うが、その蝶を見失うことはなかった。すこし薄暗い林の木漏れ日のもとでも、蝶の翅はとても目立っていた。


 でも、豪華絢爛な翅模様とは裏腹に、飛び方は危うい。すこし浮いたかと思うと失速して落ちかけて、翅が川の水に触れそうになって、慌ててまた浮いて――。


「なんだか、ふらふらとしているね。あっ……!」


 じっと目で追う狭霧の前で、あるときその蝶は水に落ちる。川の水で翅が濡れると、脅えたふうに勢いよく翅を動かすが、何度かふわりと浮きあがったものの、とうとう水面に翅を横たえ、蝶は水に浚われた。


「あ――」


 庭の泉から続くその小川は、宮の外へ向かって流れている。


 大ぶりの美しい蝶はときおりばたばたと翅を動かしながらも、木漏れ日にきらきらと輝く水に漂って、しだいに川下へと流れいった。


 呆然として見送る狭霧へ、恵那は背後から告げた。


「きっと、雌と別れた後なんですよ。雌が卵を生む支度を始めたので、逢引きを終えたんでしょうね」


「そうなの?」


「ええ、たぶん。卵を残す支度を終えると、この蝶は死んでしまうんです。卵を生みつければ、その後で雌も――」


「ふうん――」


 卵を生んだ後で弱ってしまう生き物がいることを、狭霧は知っていた。


「そういえば、雄の蟷螂かまきりは、逢引きの後で雌に食べられてしまうんだってね。自分の身を食べさせて、雌に卵を生む力を渡すんだって」


 卵を残すというのは、生き物にとっては、自分の命と引き換えにするほど重要なことなのだろう。


 そういう意味では、蟷螂のやり方も、雄と雌の二匹で力を合わせて卵を残すようなことで、雄の蟷螂は、それが生まれ来る子蟷螂の父の役目だと、みずから身を差し出すのかもしれない。


「いまの蝶も、同じなのかもね。だって、あんなにきれいで大きな翅をもつのって不自然よね。飛びにくいに決まってるのに。でも、雌に自分を見つけてもらうために、あんなにきれいになるんだろうね」


 川の流れに揺られて、すでに蝶の翅は見えなくなっていた。


「どうして、きれいになるんだろうね――。いまに死ぬとわかっているから、身動きが取りづらくなるのもかまわずに着飾るのかな。それより大事なことのために――」


 狭霧の言葉は、独り言に近かった。


(わたしはどうして、身なりに気をつけるようになったんだろう。なんのために――)


 目の前で水に落ちた蝶に、自分の姿を重ねずにはいられなかった。


 いま、狭霧の黒髪には愛らしい山吹色の髪飾りがついている。


 それは狭霧を、それがないときよりもきれいに見せてくれるが、あるのとないのとだったら、あるほうが頭は痛いし、すこしばかり重い。動きづらくなるというのに、狭霧はいまもそれを外したいとは思えなかったし、自分をすこし華やかに見せてくれるその飾りが、いとしいと感じずにはいられなかった。


 水の流れを目で追ってぼんやりとする狭霧へ、恵那はくすくす笑って冗談をいった。


「蟷螂! そうでしたねえ。雄を食べている蟷螂を見たときは、子供心に恐ろしいと思ったものですよ。でも、人の世でも、女の力がそこまで強ければいいんですがねえ。男に向かって、ざまあみさらせ、と一度くらいいってみたいですよ」


「恵那ったら」


 軽快に笑う年上の侍女に、狭霧は肩をすくめた。





 時間があいたときに出来立ての学び舎や童たちの居場所を訪れるのは、狭霧の日課になっていた。


 師となった薬師も、なにも知らない童を相手にするのに慣れて、童たちも王宮での暮らしに馴染んできた。里に戻るのは一年後という決まりだったが、互いに打ち解けた童たちは朝も昼も一緒に過ごすようになったので、いつも楽しそうに笑っていた。はじめは里に帰りたいと泣いていた子も、もうそれほど塞ぎ込んではいないようだ。


(学び舎のほうは、きっともう大丈夫。次は――)


 童たちが一年後に里帰りをするというなら、そのときに合わせて、里に薬草園をつくったらどうだろうか。近くの山に生えていないものや、とくによく使うものだけでも、里で育てることはできないものか――。


 そうすれば、童の親も里の人も、王宮へ送りだした童の成長を感じて安心するだろうし、きっと童も、自分が学んでいることがなんなのかを理解できるはずだ。


(薬草園か。開墾するなら、耕す人がいるわね。一年後の里帰りに合わせるなら、もう動き始めないと。どういう支度をすればいい? 薬草園に詳しい人に里を回ってもらって、手ほどきをすれば――。頼めそうな人はいるかな)


 一人になると考え事ばかりをしてしまって、狭霧はうまく寝つけなくなっていた。


 真夜中の舘は真っ暗だったが、長いあいだ暗闇のなかにいると、すっかり目は慣れてしまう。ごろりと寝返りをうって目をあけてみると、枕元においた小刀がぼんやりと見える。その小刀の柄には、小さな玉石がつらなった御統みすまるがついていた。


 それは、いつだったか、佩羽矢ははやが意宇にきたときに、高比古から預かったともってきたものだ。高比古が佩羽矢にそれを託したのは、妻となった娘を狭霧へ紹介するための口実だった。だから、狭霧の手もとにあることにとくに意味はない。返さなくちゃ、杵築きつきにもっていくのを忘れないようにと、いつも持ち歩いている小刀に結わえておいたのだが――。


(返すの、忘れてた)


 薄闇のなかで、小刀は重々しい影になっていた。そっと手を伸ばして触れてみると、夏の夜の闇に冷やされて冷たくなっている。


(高比古か――)


 ため息をつき、寝返りをうって真上を向く。そこには、屋根の裏側の木組みがぼんやりと浮かび上がっていた。斜めに渡された木材には、立派な木目が見えた。


(高比古も、眠れないときはこうやって木目を見ていたのかな)


 もともと眠気はなかったが、前にこの舘を使っていた友人のことを想うと、ますます眠気が遠ざかった。


(いま、なにしてるのかな。……こんな真夜中じゃ、寝てるよね。もしかしたら、心依姫のところにいるかも。……よかったね、幸せになってね)


 そう思うなり、胸がどきどきと脅えた。嘘をついている気になってきて、思わずばさりと掛け布を引き寄せ、寝床の上で丸まった。


(わたし、どうしたんだろう。幸せにねって思うと、寂しくなる。……もしかして、こういうのも恋って呼ぶのかなあ。――でも、こんなの、全然楽しくない。こんなのが恋ならいらないわよ。面白くない。地味だし)


 恋というのは、もうすこし華やかなものだと憧れていた。たとえば、娘を見る見るうちにかわいくらしく、魅力的にさせるものだと。


 でもいま、かえってそれは狭霧をひどい渋面にさせていく。だから、これが恋というものだとは、やっぱり認めたくなかった。


(たとえそうだとしても、なにも起きないわよ。高比古には心依姫がいるし、わたしは大和へいくんだし。……華やかな恋なら、大和へいった後ですればいいのよ。邇々芸ににぎ様を相手に)


 大和の邇々芸――。そう狭霧に名乗った大和の若王は、背の高い、美しい青年だった。


 狭霧が邇々芸と出会ったのは、いにしえの森の小道の、緑の海の底のような木漏れ日のもと。


 その人は、出雲で見かける若者たちとはかなり雰囲気が異なっていて、狭霧が見たことのないものを数多く身にまとっていた。すっと横に伸びた眉。憂いを帯びて見える優しげな目。白い頬と、華やかな桃色の唇。それに細い顎。なんて品のある姿なんだろう……とつい見入ってしまうほど、その青年には、優雅さや奇妙な存在感と呼べるものがあった。


 でも、その人のことを思い出すと、重いため息をついてしまう。


 遠賀おんがで戦が起きかけたとき、彼を逃がした狭霧に、その人は感謝を告げるどころか、嘲った。


『いったでしょう? 僕を逃がせば悔やみますよって』


『できることなら、一生あなたの身に残るような傷でもつけてしまいたいのですが……これが限度です。でも、次は奪いますよ? そして変えます。あなたも、この大嶋も』


 ――いやだ。絶対にそうはさせません。


『あなたは、まだ子供なんですね……。あなたがどういおうが、いつか必ずそうなりますよ。あなたは僕の妻になります。いつか、あなたが大人になる日に』


 ――いいえ! 絶対にそんな日は来ません!


 彼の言葉や、冷たい目を思い出すなり、狭霧は背筋がぞっと寒くなる。


(わたしは、本当にあの人のところにいくのかな。あんなに怖い人のところに)


 でも、胸に溢れたのは不安や脅えだけではなかった。そこには、ほんのわずかな安堵もあった。


(あの人のところへいきたいと思うようになったなんて、わたしは、大人になれたのかな)


 邇々芸といい争ったときと今とでは、考え方も、行動の起こし方もたぶん変わっている。


 こんなふうに考えるようにもなった。


(わたしがあの人と結ばれるだけで出雲と大和の戦が避けられるなんて、簡単じゃない。いやだと思うほうが間違ってる)


 でも、それをいらいらと拒む高比古を思い出すなり、胸は急に脅えて、考えるのをやめてしまった。


(高比古がそうするべきだっていってくれれば、なにも迷わずに大和にいけるのに)


 学び舎のことも、ほかのことも、誰よりも一番背中を押してほしい相手は高比古だった。


 会って、互いをけなし合うような問答をするのも、彼をいい負かすことができれば、それが絶対に正しいときっと信じられるからだ。


 でも、狭霧が大和へいく云々の問答についてだけは、いくら繰り返したところで彼は必ず反論すると思った。それはもしかすると、彼の好戦的な性格のせいで、出雲は屈服するべきではないと考えているのかもしれない。でも、もともとそれは、結論がどうなったとしても、正しいのかそうでないのかが曖昧な問いだった。


 とうとうその日が来て、彼の反対を押し切らなくてはいけないとしたら――。


 そう思うと、やはり憂鬱になり、ため息をついた。



 



 前に杵築を訪れてから半月後。


 狭霧は、またもや杵築に向かうことになった。父から呼ばれたのだ。


 「安曇には会ったらしいが、おれには会っていないだろう? さっさと来い!」とのことで、使者がいうには、父はかなり怒っていたらしい。


 でも、それは少々首を傾げたくなるいい分だった。


「会いにいったけど、とうさまはお出かけしていたじゃないのよ。ひと月に一度杵築に戻って、安曇かとうさまに会って話をすればいいっていったのは、とうさまなのに! 安曇には、ひと月のことをしっかり話したわよ!」


 帰りの道中、馬に揺られながらぶつぶつという狭霧を、恵那は苦笑しつつ宥めた。


「よっぽど穴持なもち様は、あなたに会いたいんでしょうよ」


「会いたいって……。とうさまに会っても、二言三言話せばもういいって追い出されるのよ? たったそれだけのために意宇と杵築を行き来するなんて、ばかみたいよ」


「それでも顔を見たいんでしょうよ。本当、子離れができない父君ですね。娘姫は、こんなに親離れをしているのに」


 恵那は始終くすくすと笑っていた。



 


 恋かも。恋かも? 恋ねえ――。そんなふうに思う相手のことを考えると、行く手に雲宮の門が見えてくるだけで、狭霧は先へ進むのが億劫になった。


 彼に話したいことは山ほどあった。でも、なぜか、いいたくないことも聞きたくないことも増えた気がする。顔を見たいような、会いたくないような。とにかく、彼に対して抱くのは、ひたすら会いたいと願うような、狭霧が知っている恋心ではなかった。


(むしろ、会わなければいいのに。高比古がいそうな場所は避けて通ろう)


 雲宮の門をくぐったときには、そんなふうにも思った。


 狭霧たちの一行がまず向かう先は、兵舎。そこに、乗ってきた馬をつなぐ大きな馬屋があるからだ。そしてそこは、高比古がまずいそうな場所でもある。そんな場所へわざわざ向かうのは、緊張した。


 でも、そういう自分を嘲る声も沸いた。


(ばかみたい。なにをそんなに渋ってるの? 高比古が心依姫と仲良くなれたのなら祝えばいい話よ。それから――)


 ふう、とため息をつく。


 狭霧には、高比古に会ったら、どうしても教えてあげたいことがあった。


 だから、狭霧は馬上できゅっと唇を噛んだ。


(なにが会いたくない、よ。会わなくちゃ。それから、高比古と話をしなくちゃ。高比古は、もしかしたらあのことを知らないかもしれないもの)


 やがて、王門から続く大路の四つ角を西方向に曲がり、兵舎を目指す。行く手には人が大勢歩いたが、雲宮の大路は馬で早駆けができるほど広くつくられていたので、それでもなお広々として見える。


 そして、歩いている人影のうち一つに目がいくと、狭霧は一度、びくりと震えてしまった。そこには、白い簡素な服を身にまとった青年の後姿がある。高比古だった。


 蹄の音を聞きつけたのか、あるとき彼も背後を振り返った。そして、大路を進んでくるのが意宇から来た一行で、そこに狭霧がいるとわかると、気まずそうに目を逸らした。


 その態度が、狭霧は気に食わなかった。


(なんなのよ、いきなり)


 会いたいような、そうでないような――。そんなふうに自分も思っていたことを棚にあげて、むっとした。


 高比古の姿を見つけたときは緊張したものの、いざ目が合うと、とくに胸が弾んだり、苦しくなったりすることもなかった。まったくいつもどおりで、むしろ、久しぶりに顔を見ると、胸がすっと落ち着いていく。これまで奇妙な問答を一人で繰り返したことを、馬鹿らしく思うほどだった。


(これ、やっぱり恋じゃないわよ。勘違いよ)


 安心すると、狭霧は笑顔になった。慣れた手つきで手綱を操り、軽々と馬を乗りこなす。


 高比古は、狭霧たちの一行が近づいてくるのを待つように歩みを遅くした。狭霧もすこし馬足を速めて、横に並ぶほど近づくと、そこでひらりと鞍から下りた。


「久しぶり、高比古。元気だった?」


 いつもどおりに声をかけると、彼も、ほとんど表情のないいつもの真顔で応えた。


 でも、半月ぶりに会ったというのに、彼はろくな挨拶をしなかった。彼は、狭霧をじっと凝視した。


「久しぶり。……ん?」


「――なにかついてる?」


 妙なものを見るような視線の先は、狭霧は髪の上あたりに向かった。高比古は狭霧の顔をじろじろと見ながら、首を傾げてみせた。


「そうじゃないが。ここしばらく、会うたびに感じが変わるなと思ったんだ」


「ああ、それなら、きっと髪飾りのせいよ。別の色のをもらったの」


「髪飾り……。ああ」


 高比古の目は納得したというふうに変わって、狭霧の頭上を見やった。


「前にしていた赤いのよりは、落ち着くでしょう? 前のはちょっと派手だったから、高比古もあのときはおかしいって思ったでしょう?」


 笑うと、高比古はむっと渋面をした。


「そんなことを、おれはいったか」


「いってはいないけど。からかったり、へんな顔したりしてたじゃない」


「……していない」


「前のほうがよかった?」


「いや、いまのほうが似合ってると……」


 高比古はそこまでいうと、ふいっと目を逸らしてぶつぶつといった。


「あんたがよければ、人のことはどうでもいいだろう。おれは褒めるのが下手らしいし」


 狭霧は、苦笑した。


 結局狭霧を笑わせたのは、彼とのいつもどおりのやり取りだった。それから、思った。


(やっぱりこれは恋じゃないよ。なにかがあるとしたら、そうじゃないなにかだ)






 高比古も兵舎にいくというので、馬を下りた狭霧は手綱を従者に預けて、一緒に大路を歩くことになった。


 馬に乗った武人や恵那が先をいき、二人になると、狭霧はずっといおうと思っていたことを伝えることにした。


「そういえば、前に意宇へ戻る前にね、心依姫に会いにいったよ」


 笑い話にしてしまおうと、狭霧はできるだけ明るい声でいった。


「実は、のろけ話を聞いちゃった。心依姫、幸せそうだったよ」


 高比古は前を向いたまま、狭霧を見ることもなく、なにもいわなかった。


 でも、彼と話しているときにこんなふうに反応がないのは、慣れっこだった。狭霧は話を続けた。


「心依姫、本当に心配していたんだよ。前にね、わたし、心依姫と二人で神野くまのにいったことがあったでしょう? そのときに、大巫女がね……」


 どうしても高比古に話しておかなくちゃと思っていたのは、そのときに心依姫がされた先視さきみのことだった。


 高比古の家族にはなれるが、妻にはなれない。御子を授かることも一生ないと予言された心依姫が、どれだけ脅えて、不安がっていたかを。


 その先視を、心依姫はたぶん、高比古に遠慮して話していないだろう。だから、教えてあげなければと思った。高比古と一夜を過ごした後で、どれだけ心依姫が安堵して喜んだかを――。


「だからね、すこし安心しちゃった。高比古も、よかったね。心依姫にどう接していいかわからないって、前に困っていたでしょう? 仲良くなれたなら、よかったね」


 にこりと笑って、狭霧はいうべきことをいいきった。


 やはり胸は「嘘つき」と苦しくなったけれど、前ほどではなかった。祝いたいと思う心は、「嘘つき」と思う気持ちよりもずっと強かった。


 狭霧が話しているあいだ、高比古は相槌すら打たなかった。


 それどころか血の気が引いたようになって、虚空を向いたまま苦しげに息を吐いた。


「よかった? おれは、苦しかった」


「――え?」


「なぜこんなことをしているのかと気味悪くて、そんなふうに思うことが、あいつに申し訳なくて。これがこのまま続くなら、家畜になるみたいで……昔に戻るみたいで、死んだほうがましだとさえ――」


 狭霧は、目をしばたかせた。彼がいったいなんの話をしているのかが、わからなかった。


 それで、目をひらいて、青ざめた横顔をじっと見つめていると、高比古ははっと我に返って言葉を濁した。


「なんでもない……」


 つぶやくと、高比古は歩みを遅くしていった。いや、足が動かなくなったというふうで、歩みはいつか止まる。


 大路の真ん中で立ち止まり、土を踏む二人の足音がやむと、高比古はぼんやりと狭霧を見下ろした。


「なあ、その――」


 高比古は何度か、なにかを話そうとした。


 でも、結局、ふいっと目を逸らして自嘲するように嗤うと、つぶやいた。


「あんたは、なんだかんだと強いよな。おれみたいな付け焼刃には、意外に早く終わりが来るのかもしれない」


 高比古の横顔は、夕前の強い陽光のもとにいるというのに、いまに消えていきそうな幻のようで、とても頼りなかった。


「どういうこと? 高比古、平気?」


 頭一つ分高い場所にある彼の顔を見上げて、続きの言葉を待つが――。苦しげに笑った高比古が、その話を続けることはなかった。


「……へんなことをいったな。あいつには、いうな」


 そして、行く手へと顔を戻した高比古は、さっきと同じ歩調を取り戻して、兵舎へ向かって進みはじめた。


 でも――。意味深な独り言をされたまま沈黙されて、聞かなかったふりをするなど、狭霧にはできなかった。


「ねえ、平気? 終わりが来るってどういうこと」


 兵舎へ向かうわずかなあいだに何度も尋ねるが、高比古はまともに取り合わない。


「なんでもないよ。わけのわからないことを口走っただけだ。あんたは、そういうことがない? 自分でもなぜこんなことをしているのかわからないってことを、眠れなくなるほど考えたり、ぼんやりすることが――」


「それは、あるけど。……高比古も、あるの?」


「あるよ。ここしばらく、おれ、おかしいんだ」


 結局、投げやりなふうに高比古は話を終わらせてしまった。


 二人が兵舎へ向かって歩き始めた場所は、兵舎の門からそう離れた場所ではなかった。


 すぐに二人の足は兵舎の門に行き着き、狭霧は恵那の待つ馬屋へ、高比古はどこかべつの場所へいくとかで、大庭で別れることになった。


「ねえ、また話したいことがあるの。高比古が時間のあるときでいいから……」


「話? また、学び舎がどうとかか」


「そうよ。あれから半月も経っているもの。困ったことも起きているし、次にしたいことも見つかって、だから――」


 それは事実だったが、本当に話したかったことは、さっき彼がした意味深な言葉の続きだった。


 意外に早く終わりが来るかも――。彼はたしかにそういったが、狭霧はこれまで、高比古がそんなふうに、棘も反発もない弱音を吐くのを聞いたことがなかった。


(なにかがあったの? 平気?)


 心配で仕方なくて、高比古を見上げる狭霧の目は、目の奥を覗こうとじっと見据える。


 こんなふうに弱った顔を見るくらいなら、皮肉をいわれても怒鳴られてもいいし、冷笑されたり、追い払われたりするほうがよほどましだった。


 高比古は苦笑していたが、笑顔すらいまは弱々しかった。


「いいよ。じゃあ、後で」


「後でって、今日?」


「ああ。いまから済ませなくちゃならない用があるから、それが終わったらいくよ」


「用があるの? わたしと約束をしたら、慌てたりしない? わたしなら待つから、明日でも……」


「明日も杵築にいるのか?」


「ふた晩は泊るつもりだから、あさってまではいるよ。あ、でも、明日はとうさまと会う約束だから――。でも、とうさまと会うといっても、一日中じゃないし……」


「明日もあさっても、おれが雲宮にいないかもしれない。……すぐに終わらせるよ。寝所で待ってろ。近くにいったら、庭から呼ぶから」


 ぼんやりと笑うと、なぜかいいわけをするように、高比古は狭霧を見下ろした。


「そういえば、前に越の里にいってきた。水路の造り手に会って、話も聞いたよ。たぶん、あんたが知りたかったことは聞けたと思うから、後で話すよ」


「あ、うん――」


「じゃあ、後で」


 交わしたのは、これまでの「会えたら」というような手ごたえのない約束ではなかった。


 それに、別れた後も――。狭霧のもとを去りゆく高比古の後姿は、背格好も身なりも前と同じなのに、別人のように頼りなかった。いつもなら、気に食わないことや納得のいかないことがあれば、誰かれかまわずに睨んでいる人なのに。


(いったい、どうしたの)


 背中に尋ねても、彼は振り返ることなく遠ざかり、馬屋の角を曲がって、さらに奥の林へ向かって後姿は小さくなる。


 高比古を見送ってそこで力なく立ちつくしていると、唐突にこみ上げる想いがあった。


(やっぱり、恋じゃないよ、これ)


 胸にあるのは、高比古が心配だという想いばかりだ。


 なぜ、あんなにぼんやりしているのか。誰かれかまわず睨みつけていた、刃のような眼差しが消えてしまったのはなぜなのか。


 前はうまく笑うことができなかった彼が、今日はとても穏やかな笑みを浮かべていた。でも、その笑みは弱くて、その笑顔を見ていると、狭霧はかえって苦しくなった。彼がそんな顔をするようになったのは、いったい――。


(なにがあったんだろう。早くもとに戻ればいいのに。それから、高比古が心依姫といるのに慣れて、二人が幸せになりますように。わたしは、大和へいくから――)


 後姿が見えなくなっても、狭霧はそこを動けずにいた。


 だから、踏ん切りをつけるように、影を縫いつけられたように動かなくなった足を叱りつけた。


(いこう。恵那が待ってる)


 馬屋にいって恵那と合流したら、寝所へ戻って、やるべきことを始めておかなければ。


 父に会うのは明日の約束だったが、この後で高比古と会うのなら、杵築でしておくべき用事は先に済ませておくべきだった。





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