生命の淵 (1)

 大庭で狭霧と別れた高比古がそばを通りかかると、ちょうどそこにいた下男が、にこりと笑って彼を呼んだ。


「ああ、高比古様。心依姫様の侍女様からことづてなのですが、いつでも離宮へお立ちより下さいとのことです。どうしてもお話したいことがあるとか――」


 その下男は、心依姫の離宮に出入りしている馬飼だ。杵築きつきの馬飼は、時たまあちこちの里や離宮にかり出される。


 飼い馬の出産や子育てにはそれなりの技が必要で、出雲一の技をもつ杵築の馬飼は重宝され、あちこちの里へよく呼ばれたのだ。


 離宮の馬屋には、腹が大きくなっている雌馬が一頭いた。この男が頻繁に離宮を訪れているのは、その雌馬の面倒を見ているせいだ。


 わざわざ話を聞かなくても、そういうことだろうと高比古の頭は理解した。そして、離宮に通ううちに、彼が心依姫に同情的になっていることも察しはついた。


 それはわかっても、いまは妻の名を聞くだけで頭が痛くなった。


 結局高比古は、一瞥して足早に通り過ぎた。


 下男はぽかんとしていたが、すれちがった後で、高比古の背中に向かって不満を吐いた。


「噂にたがわず、冷たいお方だなあ。あんなに健気に待っていらっしゃるお妃様を気にかけようともせず……」


 でも、高比古は気にならなかった。


 背後はもちろん、目の前にあるものですら、ろくに見えなくなっていた。


 すこし前から、繰り返し思い出しては消えない記憶があった。離宮へ向かった日に、艶やかな黒毛をもつ立派な若駒とすれちがったときの光景だ。


『この黒雷は丈夫な駿馬で、あちこちの馬屋から、ぜひ夫にっていう話がしょっちゅう来るんですよ。こいつと結ばれた雌馬が、父親似の見事な子馬を授かるようにって』


 そう答えた下男は、仲間たちと他愛もない冗談をいいあった。


『そこらじゅうの里に奥方がいるなんて、方々からお妃を集めた大国主や須佐乃男様みたいです』


『この黒雷がもし人なら、武王か賢王かってところですよ』


 その、雲宮の宝ともいえる軍馬が雲宮を出たのは、種馬にされるためだ。


 高比古には、それが羨ましいとはまったく思えなかった。


(おれは、駄目だな。武王か賢王どころか、家畜の哀れな定めとしか思えなくて、むしろおぞましく思う)


 下男たちが話していたとおり、大国主も須佐乃男も、大勢の妃を抱えた王だ。


 それは、勇名を成したことに対する褒美だったろうし、まつりごとのためでもあったろう。大国主の一の后は、越の王の娘。須佐乃男の一の后は、巻向まきむくの王の叔母だ。異国の王に繋がる娘を后にするということは、その男にとって、特別な御使の役目を得たのと同じだ。力の掟に従って、位を手に入れたとしても、さらに力のある者が現れれば地位を失うことも起こりうる出雲で、それは、終生消えることのない唯一の位といえた。


 それと同じ役目を、高比古も得ていた。心依姫の夫になったということは、終生に渡って宗像むなかたと取り次ぐ役を得たのと同じ。おそらく、宗像を足場にして北筑紫を手なずけろという意図も、そこにあるだろう。


 心依姫を娶るように命じられたとき、高比古は会ったこともない娘を妻にしたくないと拒んだ。すると、高比古にそれを命じた須佐乃男はいった。


『なにをごねている? わしや穴持なもちは大勢妻を抱えたが……妻たちを残らず愛していたと思うか? 繋がりをつくればいい。情を交わすならなおいいが、それがあるかないかは問題ではない。いいな? 娶れ』


 老王がいったとおり、その姫を妻に娶って二国の仲立ちとなりさえすれば、役目は終わるはずだった。


 でも、幼い姫の望みを叶えてやりたい、悲しませたくないと思うと、夫として振る舞わなければ――そうすべきだ、と追い立てられる。そして、何度か心依姫のそばに寄ったが、ついには、これは家畜と同じだと吐き気に似たものがこみ上げるようになった。


 それからというもの、うっかり気を取られて隙をつくるたびに、蘇る記憶がある。


 それは例えば、ぶしつけに顔を近づけて覗き込んでくる、ひげ面の男の気味悪い目。それから、そいつがいった言葉だ。


『男だぞ、こいつ。娘みたいな顔だな。……への、いい土産だ。あいつはこういう女みたいな坊主が好きなんだ』


 でかい手のひら。おぞましい目つき。人の肌というものが、あんなに気色悪いものだとは……。誰かに触れてほしいと願い続けた幼い夢が砕かれた瞬間の、愕然とした思い。


 その苦痛は、いまでも身体が弱った時に夢に現れて、何度となく脅かしにやってきた。


(……消えろ!)


 忘れていたはずの気味悪い記憶が、痛みを伴ってこみ上がったとき、高比古は吐き気を感じて、歩くのを止めてしまった。


 目の前が暗くなってふらついたので、小道のそばに立つ木の幹に寄り、深い茶色をした樹皮に手のひらを押しつけて、息を止めた。息も脈もすべて止めれば、脳裏に蘇った奇妙な記憶も止まると信じた。


(なぜ、いまさら――。しばらくなかったのに)


 それから高比古は、急に身体が冷えたと思った。それは、肌に残る記憶の寒さだった。


 次に思い出したのは、死んだほうがましだと嵐の海に飛び込んだときのこと。そのとき、高比古は、人の身体などばらばらにしそうな大波に飲まれていた。水に口を塞がれたせいで、息もできなかった。


 生来、精霊と自在に話ができたせいで、精霊はいつも高比古を助けようと世話を焼いた。


 でも、そのときは、海の水も荒れた風も彼を助けようとしなかった。高比古が生きようと思っていなかったからだ。


 もういい。これで終わるよ――。


 誰もいないところで放っておかれるのも、魔物を見るように見られるのも、男娼みたいに生きたまま食われるような真似をされるのも、もうたくさんだ。


 いずれ自分から命を奪うだろう嵐など、まったく怖くなかった。むしろ、水の暗さと、耳元で唸り声をあげた暴風と水音に、早くおいで、こっちだ――と、安堵を求めていた。


 気が遠くなったように、高比古はそのときのことを思い出していた。


 身動きもせずに木の幹に寄り掛かって、じっと目をつむる高比古を、心配する声があった。


「高比古、どうした」


 そばを通りかかったのは、三人の男。安曇あずみ石玖王いしくおうと、もう一人は、箕淡みたみという古参の武人だ。


 高比古は、はっと目をあけた。それから、慌てて目をこすった。


白昼夢ひるゆめ?)


 声がしたほうを向くと、そこには陽射しに包まれた緑の野道がある。高比古に声をかけた三人の武人は、そこにいた。


 ぼんやりと振り向いた高比古を、三人のなかでも群を抜いて大きな体躯をもつ豪傑、石玖王はしげしげと覗きこんだ。


「顔が青いぞ。調子が悪いのか」


「調子? いえ、そんなことはないです」


 木の幹に突っ伏するように傾いた身体を、ぱっと起こした。すると突然、げほっと咽返るような咳をした。息のできない夢を見ていたせいか、息の仕方を忘れたように、苦しくなった。


「ほんとに、平気か? どうした。立ちくらみか」


「立ちくらみ? たぶん、そうです」


 自分でも、いまのがなんと呼ぶべきかよくわからなかった。適当に答えると、石玖王は苦笑して高比古をいざなった。


「若いのに、なんだよ。寝てねえのか? まあいい、いこう。おまえも俺たちと同じ場所にいくんだろ」






 高比古を兵舎の奥に呼び出したのは安曇だったが、一緒にいるところを見ると、石玖王と箕淡も同じ場所へ向かうらしい。


 兵舎の囲いの奥へ続く野道を進んでいるあいだ、安曇と石玖王の話声は始終やむことがなかった。二人の背後を歩く箕淡も、ときおり二人のやり取りに口を挟む。


「それで、結局大和はどう来るかねえ」


遠賀おんがを狙うでしょう」


「やっぱ、遠賀か? なら、戦になるなら遠賀から始まると?」


「おそらく――いや、わかりませんよ、石玖王。わからないのが当然だし、むしろ、ここだと当たりをつけて動けば、あとで痛い目を見るものです」


「まあなあ」


 安曇と石玖王は、出雲と大和の間で起こりうる戦を懸念していた。


「なあ、安曇。大和の邇々芸ににぎっていう若王は、遠賀の紫田って場所を拠点にしてるんだっけ?」


「ええ、狭霧がそういっていました。その若王は、自分には四つ故郷があるといって、一つは母の故郷の伊邪那いさな、一つは生まれた国の倭奴わぬ、一つは育った地の紫田、一つは大和だと」


「そのお嬢ちゃんは、そいつに浚われたんだろ? たいしたもんだねえ。びびって泣きじゃくっててもおかしくねえのに、浚われた先で聞いたことを、よくもまあ細かく覚えてるもんだ。しかし、その紫田ってどんな場所だ? 聞かねえ名だが」


「探りを入れましたが――。大河の湊にある里で、土が肥沃で米の実りがいいようです。あとは、邇々芸という若王につねに付き添っていた男がいたと狭霧がいっていましたが、その男が、紫田の首長の息子のようです。名前は、穂耳ほみみとか」


「はあん。なら、紫田ってのは大和の外里も同然だな。しかも、大河の湊ってことは、遠賀のど真ん中かよ。そいつが遠賀を獲れると思うのも、うなずけるなあ」


 丸太のような腕を胸の前で組んで、石玖王はふむふむと顎を上下させた。


 対して、隣を歩く安曇は腑に落ちないというふうだ。


「しかし、たしかに遠賀は重要な地ですが、大和本国は東にあるんです。こっちの目が筑紫に向いている隙に、巻向まきむく淡海あわうみを狙われるのも厄介かと」


「淡海ねえ。たしかに、あそこを突っ切って北上すれば、大和からも北の海に出られるもんなあ。そういえば、あそこは? 穴持なもちの息子がいってた、諏訪すわの道は――」


「ああ、盛耶もれやの。諏訪の湖の南北には、海に繋がる川がそれぞれあって、二つの海を行き来して物を運ぶ連中がいるというので、あそこも海の道の拠点になりうるという話です。でも、正直、私はあまり――。急がば回れとはいえ、手間がかかり過ぎるので、大和がその道を狙うとは思えません。その道を狙うとすれば、諏訪の南の別の国だと、私は――」


「だよなあ」


 安曇も石玖王も、何度も軍を率いた有力な戦の君だ。


 二人が交わすのは目先の話ではなく、出雲という国がとるべき外交戦略の話だった。


 でも、高比古は二人の声を聞き流していた。二人の口から「狭霧」という名が出たときから、べつのことを考えずにはいられなくなった。その娘は、高比古が入ろうかどうすまいかと足踏みをしている王者の道に、すでに片足を踏み入れていた。


(大和の邇々芸か――。あいつは、いまにそいつのもとに嫁ぐ気だ。でも、それが自分にしかできない役目だからだといって、まだ命じられてもいないうちから、どうしてみずから望めるんだ? おれは須佐乃男から説得されてやっと心依を娶っても、まだ逃げたいと思っているのに)


 ふっと思い出す狭霧の顔は明るく笑っていて、前に高比古を苛立たせた、いまにも消えそうなきれいな笑顔ではなかった。


 いつのまにか狭霧は、あの寂しげな笑顔をしなくなった。それどころか、髪に山吹色のかんざしを飾って、会うたびににこにこと笑っている。そして、ほんのわずかな間に、意宇おうの都を変えてしまった。王宮に里から童を呼び込んで、はじめはいい顔をしなかった古参の薬師たちに、いまや自分と同じ望みを抱かせて――。


 意宇の都はいまや、高比古の知っている姿とは様変わりしていた。あれも始めよう、これも……と、異様なほど活気づいて――。未来のその都に、狭霧の姿は見えないのに。


(いまに去りゆく場所にものを残すために、どうして昼も夜も働くんだ? しかも、あんなに楽しそうに。それに、髪飾りだのなんだの、どうしてあいつは着飾り始めたんだ。いまに大和に嫁ぐから? 人質になりにいくようなもので、死んだ王子と同じ身の上になるのと同じなのに――。もしかして、あの王子と同じ身の上になりたいのか。まだ、そいつを想ってるから?)


 しばらくその話をしていないから今がどうかは知らないが、もしかしたら彼女の衣の合わせには、その王子が残した髪飾りが、お守りとしてまだ忍んでいるかもしれない。


(そんなもの、とっとと捨てろよ。いい加減、おかしいだろ。あんたの王子はもう死んでるんだぞ。もういないんだぞ)


 うつむきがちに歩いていた高比古の唇が、ぴくりと揺れた、そのとき。彼は、自分を呼ぶ声を聞いた。


「高比古、おい、高比古」


 はっとして顔をあげると、前をいく安曇と石玖王が振り返って、怪訝顔をしていた。


「はい?」


「はいって……聞いてなかったのか。二度も尋ねたのに」


「二度? すみません、考えごとをしていて」


 適当に告げると、石玖王は太い首を傾げつつ、彼の言葉でいうと三度目になるらしい問いを口にした。


「なあ、高比古。奴らは、なにをしたがっているんだろうな。戦が始まる場所は遠賀か、それともほかの場所か。おまえはどう思う?」


 奴らというのは、大和のことだ。石玖王が尋ねたのは、出雲としての一番の関心事だ。


「それは――」


 その問いなら、これまでに一人で何度となく考えたことだ。だから、ふいに彼らの問答に引きずり込まれたいまでも、すぐに答えることができた。


「戦の始まりの場所を考える前に、おれには、一つふしぎに思うことがあります」


「ふうん、なんだ?」


「奴らが、大和と遠賀を結ぶ海の道をつくろうとしているのは、間違いありません。でも、連中の目的はいったいなんなのでしょうか。大陸の宝を、遠賀でやり取りすることなのでしょうか」


「どういうことだ?」


「瀬戸なり淡海なりを通って、連中が遠賀までたどり着けば、大陸の宝はそれなりに取り引きすることができます。大陸から遠く離れた大和とは比べ物にならないほど、北筑紫には宝が溢れているでしょうが、国々のなかには、越や阿多のように、みずから船を大陸へ遣わしている国もあるわけです。越や阿多がもたらす宝は、出雲に運ばれます。出雲がじかに宗像まで出向いて、そこで望みの品を宗像の海民に願うこともあります。つまり――遠賀にたどり着くだけでは、大和は、多くの友朋のいる出雲以下の取り引きしかできないはずです」


「……ほほう」


 石玖王が、ちらりと高比古を振り返って相槌を打った。その隣を歩く安曇も、頬を傾けて高比古の表情をうかがった。


「おれは、奴らがそれで満足するとは思えません。滅びかけている倭奴をもう一度統制下に置くなり、もしくは、宗像の都を襲うなり――。大陸へ向かう海の道を制することも考えているのでは、と」


「なるほどなあ」


 黒いたてがみじみた黒髪を振って、石玖王はしきりにうなずいた。


「だが、宗像ってのは、大陸へいく船乗りを大勢かかえているんだろ? 聞いた話じゃ、大陸へいく航海の技はそこにしかないとか。だから、そいつらを襲うだけじゃ……」


佩羽矢ははやに聞いた話ですが、伊邪那を乗っ取ったとき、大和はもともとそこにあった里を武具で脅して回って、統制下においたそうです。同じことを宗像でもしようと考えているのかもしれません。ただし、宗像は諸国にとって必要な地。宗像を支配しようと企んだところで、伊邪那のようにすんなりとはいかないでしょう」


「だよなあ。宗像を仲立ちにして取り引きをしてる国が、全部すっ飛んで来るわなあ。戦が始まる場所は、遠賀じゃなくて、宗像かもしれねえってことか」


 小山じみた体躯を折り曲げて腕組みをしつつ、王は何度もうなずいた。


 四人のあいだに沈黙が流れると、石玖王は高比古を振り向いてにやっと笑った。


「しかしおまえは、たいしたもんだなあ。若いのに、広い海をよく見てるよ。俺がおまえの齢の時は、そんなことできなかった。感心するよ」


「いえ」


「そう謙遜するなって。前みたいに、当たり前だって顔してろよ」


 石玖王はからかったが、高比古が首を横に振ったのは謙遜したわけではなく、本心からだった。


 いま高比古が答えられたのは、その問いが、数か月に渡って考えたことだったからだ。高比古の頭のなかでは当然のことになっていたから、ぼんやりとしながらもすらすらと口にできた。


 戦略の話をしながらも、頭には嵐の海や狭霧の顔がちらついていて、実は上の空だった。


(ばれなかった。よかった)


 肩で息をした、そのとき。身体がびくりと震えた。


 ひそかに胸をなでおろした高比古を、ちらりと見やった目があった。安曇だった。


「平気か?」


「平気? なにがだ」


 癖のように横柄ないい方をすると、安曇はすぐに前を向いた。


「平気なら、いい」


 それ以上問いかけられることはなかったが、高比古は血の気が引いていく思いだった。


(たぶん、ばれた)


 胸の奥を見透かされた、そう思った。






 四人が向かった先は、土牢だった。


 雲宮の端が接する丘の斜面を利用した手掘りの洞穴で、入り口を矛を構える番兵が守っている。入り口を塞ぐ柵を越えて穴を進むと、二股に分かれる場所がある。右側の道を選んでさらに進むと、すこしだけ広くなる場所があった。


 土穴の果てには、暗い広間があった。そこには、縄を噛まされた異国の窺見うかみが転がされていた。


 身につけているものから、瀬戸から出雲に入った窺見と探り当てられたが、口が固く、なにも喋らないのだとか。捕えられた窺見は二人いたが、そのうち一人はすでに死んだ。ひと月前に捕えられてすぐに尋問されたが、その場で舌を噛んで自害したのだ。


 その男のそばで矛を構える番兵は、安曇たちがやってくるとほっと息をついた。


「安曇様に高比古様に、箕淡様に、石玖王様まで。皆さんがいらっしゃったら、こいつも口を割りますよ。往生際が悪いし、また死なせてしまうわけにはいかないしで、ほとほと手を焼いていたんです」


 異国の風体をしたその男は、剛縄で身体をがんじがらめにされて、湿った土に転がされていた。頬も腕も土で汚れ、そこには傷や青痣も見える。これまでに、いくどか尋問されているのだろう。


 四人のうち先頭を歩いていたのは、石玖王だった。じ、じりっと、湿った土の地面を堅いくつの底で踏みつけながら近づくと、石玖王は身を屈めてその男を覗きこんだ。


「ふうん。一人はみずから死んだんだってな。殊勝な心がけだといいたいところだが、俺にいわせれば大馬鹿だよ。こんなところまで連れてこられて、忠誠もくそもあるか。前に嫌な目に遭って、どうしても屈したくねえってんなら、大した意地だと一応褒めるが……それでも俺は馬鹿だと思うねえ。たとえ、自分が同じことをやってもな」


 大きな背中を丸めて捕虜の顔をじろじろと覗くと、石玖王はくっと笑った。


「さて。なにを訊く。さっきの話の後だと、訊きたいことが変わった気もするんだが」


 そして、石玖王は背後の高比古を振り返った。


「さあ、策士様。なにを訊けばいい? 彦名仕込みなら、こういうのは得意だろ」


 人一倍背の高い石玖王は、低い天井にぶつかりそうになる頭を窮屈そうに屈めていた。その王の興味深げな目と、目が合うと、高比古は戸惑った。


 石玖王の言葉は、よくわからなかった。たぶん、師の彦名がこういう尋問を得手としていたのだろう。と、それは理解したが――。


(得意? おれが……? なぜ)


 思わず、目が下を向く。そこには、あなぐらの冷たい湿り気で衣を重そうにたるませた男がいた。男は、一緒に捕えられた窺見と同じく若くて、高比古とそう齢が変わらない。その青年は、斬りつけるような目で地べたから高比古を睨み上げていた。その、刺々しい眼差しを見つめるうちに、高比古はなぜか、鏡を覗いている気になった。


(おれが得意なものなら……幼い頃から周りにあったものなら――それは、死だ)


 幼い時から、いや、生まれた時から、高比古の周りには死がいた。周りではなく、もしかしたらこの身には、はじめから死が宿っていたのかもしれない。


 夜ごとに高比古のもとを訪れて死の記憶を置いていった悪霊に、幼い頃から高比古は抗わなかった。それは苦しいが、生まれつきの病に似ていて、抗えると思った覚えもなかった。


(ここも、死の臭いがする。妙な洞穴ほらあなだ――)


 しだいに、気が遠のいていった。


 いまいるような場所には、妙な馴染みがあった。


 阿多で訪れた笠沙かささという隼人の聖地や、出雲の聖地、神野くまのがそうだったが、人が聖なる場所と崇めるところへいくと、なぜか決まって、高比古は薄暗い洞窟に迷い込んだ気になった。そこは暗くて、湿っていて、広いが、出口がどこにもなかった。


(ここも、同じだ――。暗くて、狭くて、行き止まりだ。それは、この先もそうなのかな。死は、おれについてくるのかな。なら、生きるってなんだろう。家畜になることか? 嵐の海に飛び込みたくなるような、男娼みたいな真似をすることか)


 いつか、唇は事代ことしろの技を口ずさみ、高比古は狭い土牢に暗い風を起こしていた。


 高比古を見つめる虜囚の目が、恐怖を感じたふうにぴくりと震えた。


「な、ま……む……」


 男はしきりになにかをいったが、縄を噛まされているので言葉にはならない。そのうち男は、狂ったように身をよじり始めた。異国の窺見は、恐ろしい死神に出会ったというふうに顔を引きつらせて、暴れはじめた。


 高比古の唇は、服従を強要した。


「諦めろ。おまえは一度死んだ。今後は出雲に忠誠を尽くせ。さもないと――」


 なぜそんなことをいったのか、自覚はなかった。


 もしくは、そうするべきだと、自分をいい聞かせようとしたのかもしれない。


 人ではない生き物のような冷気をまとい始めた高比古に、そばで見守る番兵が震えて、彼が手にした矛がかたかたと鳴った。背後で見守る安曇は眉をひそめて、石玖王は黒髭に覆われた唇をひらき、感嘆の声を漏らした。


「すげえ。この坊主……」


 でも、それはもはや高比古の意図とは別の場所にあった。


 頭にあったのは「死」という言葉や、生きるということに対する疑いだけで、繰り返し脳裏をよぎるのは、嵐の海と、明るい陽射しの色をした髪飾りをつけた狭霧の笑顔だけだった。


(なんで、あいつはそこまでして、死んだ王子を追っかけるんだ。虜囚になるかもしれないのに、なんで大和に嫁ぐっていい張るんだ。そんなの、家畜や傀儡くぐつと同じじゃないのか。どうして――。おれなら、嫌だ。それが生きるってことなら、おれは死んだほうがましだ)


 あのとき、死んでおくべきだったのだ。


 高比古が、「出雲の高比古」としていまここにいるのは、波の上を漂っていた時、偶然彦名の船団が通りかかったからだ。高比古の才覚を見抜いた彦名は、出雲へ来るようにいった。高比古がもつのは、出雲では事代と呼ぶ素晴らしい霊威だからと。


 それから、高比古は出雲の頂点を目指し続けた。


 ここは、力の掟が支配する国。幼い頃に親に見放された高比古でも、好きな親を継げる国だ。だから――。


 でも、いざその地位が手に入りそうになると、その位に付きまとう暗い部分が目について仕方なくなった。それは、かつて死ぬ思いをして逃げ出したものと、すこし似ていて――。


(あそこに戻るくらいなら、そんなものはいらない。死にたい。おれは死にたい)


 高比古の目は、なにも見ていなかった。でも、彼の手が操る暗い風は、地べたで脅える虜囚の身体へじわじわと迫りゆく。涙を流しながら、男は高比古を見上げて懇願した。


「ん、ん……!」


 縄を噛んでいるので、やはり言葉にはならなかった。しかし、彼は慈悲を求めていた。


 高比古の背後で、石玖王が満足げに笑った。


「気配だけで脅すとは、たいしたもんだ。……穴持みてえだな。あいつも、睨むだけで兵を自在に動かした」


 でもそれも、高比古の耳には届かない。まばたきもせずに虚空を見つめる目は、なにも見ようとしなかった。


 高比古が起こした暗い風は、男の汚れた鼻先を囲みはじめていた。火に炙られた芋虫のように、虜囚は土の上で身体を大きく跳ねさせた。


「ん、ん!」


 声にならない呻き声で、虜囚は苦しいと訴える。暗い風は縄を噛まされた口も覆い始め、虜囚から息をするすべを奪った。


 背後でうなずいていた石玖王が、恐る恐るというふうに高比古を覗きこんだ。


「もういいんじゃねえか? おまえって、ぎりぎりまで追い詰めるほうなんだな」


 でも、高比古の目は石玖王を見ない。足元の虜囚が涙を流して懇願するのも、まるで見ようとしなかった。


「高比古? そろそろやめねえと……」


 石玖王が異変に気づいたとき、鼻と口を塞がれた虜囚がびくんと身体をのけぞらせて、目を剥いた。その瞬間、咄嗟に伸びた石玖王の手が、背後から高比古の肩を掴んで揺さぶった。


「おい、やめろ! どうした? おい!」


 がくがくと頭が揺れるほど揺さぶられて、はじめて高比古は石玖王と目を合わせた。


「あ――」


「あ、じゃねえ。いますぐやめろ! そいつが死ぬ!」


 高比古の気が逸れた瞬間に、虜囚をいたぶっていた暗い風は弱まり、消えた。次の瞬間、高比古の足は宙に浮いていた。石玖王に胸倉を掴まれて、そうかと思えば身体が吹っ飛んだ。湿った土壁に叩きつけられた高比古を見下ろして、石玖王は、それこそ武神のような形相で仁王立ちになり、責めた。


「高比古、いまのはなんだったんだ。答えろ。いまのは――!」


 答えようと唇を動かすものの、ちりと痛んで、思いどおりに動かすことができなかった。壁に叩きつけられた時に、口の中が切れていた。


「すみません、ぼんやりしていて――」


「ぼんやり? ぼんやりだと?」


 石玖王は、獣が咆哮するように吠えた。


「ぼんやり、で済む話じゃねえだろうが。人を殺すかどうかのときに、なにも考えてないなんて、てめえは本当に人か!?」


 石玖王は渾身の問いをしたが、高比古は答えようがなかった。


 そのとき、安曇は痙攣する虜囚に駆け寄り、脈をたしかめていた。


 安曇のそばには箕淡もうずくまっていたが、あるとき彼は口もとをほころばせる。


「よかった。息はある……」


 二人のそばでは番兵が矛を握り締めて、がくがくと震えている。歯をがちがちと鳴らせて恐怖にひきつった番兵の目は、人に死をもたらす悪霊を見るように高比古を見つめていた。


 石玖王は、舌打ちをした。


「てめえなあ――。いったいどうしたんだよ。遠賀でのてめえはそんなんじゃなかった。てめえが駄目になったら、今後、出雲の掟はほんとに働かなくなるかもしれねえんだぞ」


 石玖王は高比古の身を案じたが、そのほかのことも懸念した。


「てめえが自分でつぶれるのはどうでもいいが、俺は、力の掟が好きなのよ。あの掟は出来のいい奴を探そうって気にさせるし、下の奴らに希望を与えられる。力の掟の恩恵を、いま一番受けてるのはてめえのはずだろ。てめえが潰れたら、掟の意義も崩れる。しっかりしろよ。てめえだけの問題じゃねえんだよ!」


 でも、高比古は答えようがない。


 石玖王がどれだけ熱心に叱ろうが、そんなことはどうでもいいとしか、いまは思えなかった。


 石玖王は首を横に振りながら、辟易とばかりに高比古を追い払った。


「なんなんだよ、その顔は。……もういい。頭を冷やしてこい。その顔をどうにかしてこい」


 そして、ぐったりとする虜囚のもとへ寄って背後から担ぎあげると、安曇と箕淡へ声をかけた。それから、その虜囚を救う手立てを探した。


「こいつは一度外に出して風に晒そう。薬師も呼んで来い」







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