生命の淵 (2)
高比古が土牢から出た時、あたりに人の気配はなかった。
奥から運び出された虜囚を担ぐのに番兵はかり出されていたし、石玖王も安曇も、付き添ってここを去っていた。
(さっきは、なにが起きたんだ――なにが……)
夏の宵の光が、西の方角からかすかに雲宮を照らしている。夏の光や、東の方角から迫りくる夕闇は強いくせに無垢で、それに背を向けると、ぐいと背を押されて無理やり歩かされる気分になった。
胸が、苦しかった。息の仕方を忘れたような、思い出したような――。
(おさまれ。どうしたんだ……)
土牢に入ってから石玖王に投げ飛ばされるまで、ろくに意識はなかった。頭が思うように動かず、無意識に支配された。いや、それは、土牢に入る前から、もっといえば、狭霧に会ってからずっとそうだ。
狭霧……と、その名を思うと、やはり、不気味な濁流に脅かされている気分になる。それは、さっきと同じく「死」を連想させる。狭霧のことを考えると、どうしても高比古は死にたくなった。
(あいつはあんなに生きてるのに、どうして、そんなことを……)
ちっ。舌打ちをした。
それは、解けそうで解けない問いで、答えが見えそうになると吐き気がする。
(落ちつけ。なんなんだよ、くそ……)
こんなふうに、死にたい、死にたいと望むなど、どう考えても尋常ではない。
高比古はひとまず、逃げる場所を探した。どこか、風が吹く場所を。頭が真っ白になるくらい、風に吹かれてぼんやりできる場所を――。
夏草で覆われた茂みを踏み分けながら、足は、兵舎を抜けて大路を目指した。
そして、宵闇に誘われるように早足で進んでいると、本宮につながる大路と交差する十字路が見えてくる。そこまで来ると、はっとして足を止めた。無意識のうちに自分の足が向かおうとする場所がいったいどこなのかと、気づいたのだ。
その十字路を曲がると、大国主の居場所、本宮に着く。その隣に建つ館には、狭霧がいるはずだ。
狭霧とは、用が済んだらいくと約束をしていた。でも――。
高比古の用とは、土牢での尋問だった。その用はたしかに済んでいたが、納得のいく終わり方では決してなかった。
(――いい。いまは会いたくない。そんな気分じゃない)
約束など、やぶってしまえばいい。放っておこう。
うつむいて、再び歩き始めると、これまでどおりに一人になれる場所を探すことにした。
幸い、雲宮は広い。広大な敷地の中には林も庭もあるし、高比古一人がひそかに寝転ぶ場所くらい困らないだろう。
(そうしよう、そのほうが正しい。狭霧に会ったら、たぶんいまの妙な焦りがつのるだけだ。死にたくなって、終わりたくなる。――終わる? なにを終わらせる気だ? ……わからない。でも、もういい)
逃げ道にすがるように、高比古の足は大路を歩き続けた。できるだけ狭霧から離れたいと願った。
(あそこさえ越えれば、遠ざかる。早く――)
その十字路は、しだいに近づいてくる。
胸の高鳴りを鎮めながら早足で歩いていたが、結局高比古は、その十字路にいきつく前に足を止めることになった。左手の方角から、馬の蹄の音が近づいていた。
本宮のほうからやって来たのは、馬に乗った武人たちの群れ。立派な馬にまたがる武人のなかには、見覚えのある青年もいた。その青年は、まっすぐ前を見据えて手綱を操っていて、顔立ちはすこし大国主に似ている。
彼は、八つ当たりをするように部下へ文句をこぼしていた。
「親父殿はどこへいったのだ。いつになったら戻るんだ!」
盛耶は、出雲風とはすこし異なる黒衣に身を包んでいた。襟元や帯は毛皮や皮で縁取られていて、青年の雄々しい風貌に、その黒衣はよく馴染んでいる。
高比古と盛耶は、会えばいつも口論になる仲だ。姿を見られたらまたややこしいことになると、高比古は咄嗟に大路を逸れて木立に身を隠した。実のところ、いま出会って喧嘩をふっかけられても、いい返せる気がしなかった。
「何度でも来てやる。早々に子でも孕ませないと、狭霧は大和にとられるんだ。そう何度も申し上げているのに、親父殿は耳を貸そうともしない――!」
どうやら、盛耶は大国主に妻問いをしにきたのだ。狭霧を自分の妻に欲しいと。
高比古は、あきれて思った。
(あの馬鹿。いったいなんの話をしてるんだ。でも、まあ、大国主を通すことを覚えたなら、大した進歩か――。前のあいつは、狭霧を手に入れようとして襲ったんだから)
聞き耳を立てて通り過ぎるのを待っている間、高比古には苛立ちがこみ上げて仕方なかった。
(というより、まだ出雲にいたのかよ。さっさと
盛耶は、出雲と越の両国から諏訪の御使を任されている。彼に任された地は諏訪で、出雲ではないのだ。
高比古が身を潜ませた木立に、盛耶は目を向けようともしなかった。
十字路を通り過ぎる間に、彼の部下は不機嫌な主へ進言した。
「こうなったら、狭霧様とじかにお話をなさったらどうです? いま、狭霧様は
「じかに? でも、狭霧は俺を嫌ってるかもしれん。前に一度、機嫌を損ねたから」
「しかし……。それならなおさら、大国主が若君と狭霧様とのご縁を許すとは――。やはり一度、狭霧姫のもとへいかれたほうがいいのではないでしょうか」
「そういうものか?」
馬上で、盛耶は勇壮な姿に似合わないふうに太い首を傾げた。
それから、やれやれとばかりに日没の方角を見た。
「親父は、明朝には戻るらしい。明日まで
「ええ、ぜひともそうなさってください。娘の機嫌を損ねないほうがいいものですよ。ご縁がまとまってしまえばどうにでもなるのですから、それまでは」
かつ、かつ、か。何頭もの馬の蹄は軽やかに土の音を鳴らして、砂を小さくまきあげていく。
そして、高比古の目の前を通り過ぎた馬の群れは十字路を越え、王門の方角へ向かった。
木立の陰を出て十字路に立つと、高比古はそこで、一行の後姿を見送った。
(あいつ、やっぱり馬鹿だろ。狭霧を妻にしたら武王を継げると、本気で思ってるんだ。大戦が起きるかどうかって時に、そんなにうまくいくかよ)
胸に湧いたのは、単純だのなんだのと盛耶を罵る暴言だった。
それと同時に、身の内のなにかがぐらりと崩れた気もした。
(あいつ、知らないんだ。いま、狭霧が杵築に来てると――)
もしそれを知っていれば、盛耶は狭霧に会いにいくだろう。目と鼻の先に、彼が妻にしたがっている娘がいるのだから。
(もし、あいつが意宇に押しかけて、また前と同じことが起きたら? あの馬鹿なら、逆上したらやりかねないぞ。それが意宇なら、おれは助けてやれない。意宇と杵築は、すぐには行き来ができないくらい離れてるんだから)
それに――。高比古は、もう一つ思い出した。
(狭霧に、気をつけろっていわないと。また、身を守るものを渡しておかないと……)
引っぱたかれたようにそう思って、つい足は十字路を左へ、本宮の方角へと進む向きを変えていた。
そのまましばらく進むが、そこで、はっと我に返って足を止めた。
(どうしておれ、焦ってるんだ? 前、おれはそうなればいいと望んだはずだ。そうなれば、狭霧を大和にいかせなくて済むと)
足を止めている間、胸はどくどくと音を立てて大きく響いていた。脈も胸も、うるさいほど高鳴って高比古を責め立てた。
(いいじゃないかよ。盛耶に襲われて生娘でなくなったら、狭霧は大和にいかなくて済むかもしれない。盛耶は大国主から半殺しの目に遭うかもしれないが、まさか大国主も、大事な娘が傷つけられたといって、自分の息子を殺すことはないだろう。そうしたら、杵築が二分することもなく、大和と争うということで出雲はひとまずまとまる。おれが、わざわざ止めにいかなくても)
見過ごしていればいい。冷静な自分はそう告げた。でも、高比古は足を止めたままでいることができなかった。
(……ばかばかしい。狭霧がそんなことを望むかよ。あいつは、大和へいくのを覚悟してるのに。それが
そして、脳裏には、陽射しの色に似た山吹色の髪飾りをつけて、にこりと笑う狭霧の顔が浮かぶ。
(あいつなら、大和に嫁いだ後もああやって笑うんだろうな。敵に……いまに自分の命を脅かすかもしれない男に嫁いでも……。でも、敵だぞ。敵なんだぞ?)
ふいに泣きたくなって、さっき気が遠くなりながら幻の狭霧に尋ねた言葉が、色濃く蘇った。
(どうして、笑っていられるんだ。どうして――)
こみ上げたのは、喉が渇くのに似た想いだった。
(会いたい――)
狭霧に会って、聞いてみたかった。なぜ、大和へいくと決めたのか。なぜ、出雲を離れると決めたのか。なぜ、生まれ故郷を捨てる決意をしたのに、笑っていられるのか。ここを離れると決めたのに、なぜ――。
(駄目だ、いかないほうがいい。いったら、さっきの妙なのがまた来るぞ。どうせまた、死にたくてたまらなくなる。さっき土牢で起きたみたいに狭霧の前で気が遠のいて、妙なことをしでかすかもしれない。いくな)
冷静な自分は、懸命に足を止めようとした。でも、足はもう命令を受け付けない。熱に浮かされたように、かえって進みは速くなった。
大路の果てには、大国主の居場所である雲宮一の大舘がそびえている。狭霧が寝所として使っている部屋は、その大舘の東に建つ東の宮にあるはずだ。高比古がそこに足を踏み入れたことはなかったが、そこはかつて大国主の妃たちが暮らした場所という話で、華やかな飾り造りをほどこした宮だとか。
そこへ向かう道をたどる間に、高比古は、雲宮に仕える侍女や武人たちとすれちがった。今日は狭霧がそこに戻っているせいか、東の宮へ近づくにつれて、彼らが話す噂には狭霧の名が混じるようになった。
「それにしても、狭霧様はすっかり大人になられたわねえ。こうして時々戻られると、つくづくそう思うわ。きっとこの一年で、いろいろなことがあったんでしょうねえ」
「それにしても、顔立ちはちがうけれど、雰囲気が母君に似てきたわ。凛としたところがきれいで、つい目がいくというか」
「ねえ、聞いた? 狭霧様が、大和へ向かう使者になるっていう話が出ているらしいの。武王様はかんかんだから、ありえないでしょうけれど」
「いや、狭霧様は、須佐乃男様の血を受け継ぐ方だよ。使者として向かう先が敵国だろうが、見事、和をおさめてくださるのでは――」
「なにを申しておるのだ。
「しかし、大和という国は、なにやらよくわからん――」
狭霧の噂をする者には、にこやかに笑う者も、歯ぎしりをして憤る者も、残念がる者も、脅える者もいた。
彼らのそばをすり抜けてそれぞれのいい分を聞くたびに、高比古はどれも正しいと思った。事実、狭霧がするべきことに、本当に正しい答えなどはなさそうだった。
高比古が杵築で暮らすようになってから、一年近くが経っている。大国主のいる本宮にも頻繁に出入りしているせいで、高比古がそこに現れても、訝しがる人は誰一人いなかった。
しだいに日が暮れ、太陽が山の向こうに沈みきって、空が、青と闇の色が混じった紫色に染まった。
淡い色合いの闇に彩られると、本宮の大屋根は暗く翳って、昼間に見るよりも重々しく荘厳に見える。
武王の居場所にふさわしい重厚な影となった本宮は、そばを通ると、天高くそびえる巨大な壁に見えた。前庭を通り過ぎている間、高比古は何度もその壁を気にして、そのたびに自分を止める声を聞いた。
(やめたほうがいい。いくな)
でも、胸の高鳴りがおさまる気配はなく、足は脈の速さに脅かされたように、ますます早くなる。
そうして、いつか、高比古の足は垣根で仕切りをされた東の宮の庭へ入った。
そこは、大勢の人が仕える本宮とちがって、ほとんど人影がなかった。
庭に面した回廊をゆっくりと歩く侍女の足音が時おり静かに響いたが、それ以外には、庭の隅にある小さな泉がほとほとと音を立てているだけ。物音らしい物音は、ほとんどなかった。
庭にやってきた高比古に、狭霧はすぐに気づいた。
狭霧は回廊に腰掛けて、足をぶらぶらとさせていた。狭霧がいたのは、ここへやってくる者にいち早く気づけるところで、庭の出入り口となった垣根の隙間の真正面だった。
たぶん、自分を待っていたせいだ。用が済んだらいくといったから――。自分がやって来れば一番に気づける場所に座って、待っていたのだ。
そう思うと、これまで懸命に足を止めようとしていた冷静で優等な部分が、一気に消し飛んだ。
代わりに、高鳴っていた胸がぐしゃりと鷲掴みにされて、潰れたと思った。死にたい、死にたいと呪文のように繰り返す妙な想いにとうとう身体が乗っ取られて、一足先に死んだとも――。
狭霧と目が合った瞬間に、高比古は諦めた。
(これで、終わった。もういい。おれは、死にたい)
頭の中を流れる濁流に押し流されることを選ぶと、自然と笑みが浮かんだ。死と隣り合わせになった快楽のようなものがそこにあることに、気づいてしまった気分だった。
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