番外、足跡 (2)

 高比古が嫌いなのは、無駄としか思えない動きをするものだった。


 人の気配がある場所はもともと好きではないが、大国主が定めた軍律にのっとって動く武人といるのはまだましで、逆に、そばにいると苛立つ相手は女だった。女は感情的で、不揃いなものを多く抱えていて、高比古から見れば美しくないものだったのだ。

 

 高比古はとくに、狭霧という出雲の姫のことを嫌っていた。


 その姫は大国主の娘で、母の須勢理は賢王、須佐乃男の末娘。須勢理は戦の姫としても名を馳せた武人で、大国主と共に戦地を回り、得意の馬術と弓術を生かして安曇と共に先駆けを務めた。亡くなってからすでに五年が経ったが、いまだに須勢理を覚えている兵は多く、憧れをもって「刃の女神」と語り継がれている。


 狭霧は、須佐乃男、大国主、須勢理という、出雲の民なら誰でも名を知る三人の血を引く娘だったので、その血筋をもって狭霧の名も広く知れていた。


 そういうことを覚えていくにつれて、「しかし――」と高比古は歯向かいたくなった。雲宮を訪れる機会が増え、その姫に会うようになると、苛立ちがつのった。


(あんな小娘、無知で馬鹿で世間知らずで――血筋というものが本当に立派なものなら、どうして、須佐乃男と大国主の血を引いているくせにああなるんだ? つまりは、血筋には意味がないということだ。そもそも、出雲には血の色など無用のはずなのに、周りがちやほやするから――)


 狭霧が幼馴染の王子と恋仲だという話は、雲宮に出入りする者なら誰でも知る噂だ。


 その王子は伊邪那の王の子で、十年前に出雲と伊邪那との間で交わされた人質。伊邪那との和睦が過去のことになり、出雲と伊邪那の間のいさかいが増え始めると、その王子の住居は牢屋に移されたが、狭霧はそこへ毎日のように忍び込んでいた。


 王子の牢屋を守る番兵は、「まぁた姫様にやられたよ」と笑い話をするようにほかの兵に話していたが、高比古から見れば、たかが小娘に守りを破られるなど、ただの怠慢。


 牢屋に忍び込む狭霧のほうも、大国主の娘だからとそれが許されているだけで、他の者がやれば罪に問われるはずだ。


(『出雲に血の色は無用』なんだから、あんな小娘、さっさと刑場に引っ張り出せよ。誰も口にしようとしないんだから――)


 高比古は、ちっと舌打ちをした。


 狭霧のおこないを知っている誰もが、父王の大国主と祖父の須佐乃男に遠慮している。大国主とその副、安曇が黙認しているのだから、それで良いのだ、と。


 安曇は大国主の片腕であり、雲宮一の智才を誇る男だ。ひとたび戦に出れば大国主に次ぐ副将となり、出雲に戻っている間は王宮を取り仕切る館衆の長、兵舎の長となる。


 高比古も、その男の才能はよく認めていた。しかし、ある部分だけは決して認められなかった。安曇が、その姫の父役を任されていたからだ。


(いくらあの姫が安曇に慣れてるからって、あんな男に下男みたいな役をやらせるなんて、どうかしている。しかも、安曇が喜んでやってるのが手に負えない。暇な身分じゃないくせに、わざわざ用事を増やして自分の首を絞めるなんて、馬鹿じゃないのか)


 高比古が嫌いだったその姫は、数日前に巻向へ向かって旅立った出雲軍に紛れ込んだ。


 そのせいで、高比古までがその姫の世話に駆り出された。高比古は寝床の天幕をその姫のために差し出すことになり、それどころか、夜の番まで命じられた。


(あんな奴の世話なんか下っ端にやらせればいいのに、あいつの血筋のせいでそれができないなんて、力の掟の意味がないじゃないかよ。安曇もおれも、ほかの連中も、みんなあいつに引っ張り回されてるんだ。それなのに、なにが『そんなにいじめないでよ』だよ、身の程知らずが)


 その姫のことを考えるたびに、高比古は憤りを感じた。


 だから、戦が原を去った大国主の軍列が王宮の門に辿りつき、宮へ向かった一行と別れて一人になった後で、その姫、狭霧に出くわすと、身体が奮えるのを感じた。


(またこいつは、ふらふらしやがって――)


 渋面をした高比古と目が合うと狭霧は身構えて、苦し紛れというふうにはにかんだ。


「安曇を探してるの。どこにいるか知ってる? ――あの、戦へいきたくて」


「はあ?」


「とうさまがいく場所を見てみたいの。そうすれば出雲のことがわかる気がして」


 その瞬間、高比古の身体にあった奮えが快楽に似たものに変わって、ようやくその時が来たと、笑みが浮かぶのを止められなくなった。


「おれがいま連れていってやろうか? 安曇に頼んだって、あの人にそんなひまはないよ」


 狭霧は目を丸くした。


「いいの? 本当に?」


 狭霧の手伝いを買って出たのは、その後に起こることがありありと目に浮かんだからだ。


(やっぱりこいつは馬鹿だ。大国主の娘のくせに、戦がわかっていない。一度見さえすればわかる、簡単なものと思ってるんだ。――おれが、思い知らせてやる)


 馬を預けたばかりの馬屋へと戻って二人で馬を駆り、来た道を戻った。


 日は、すでに傾きかけていた。戦が原と王宮はそれなりに離れていたので、早駆けで進まなければいけなかった。


「日が暮れるまでに戻る。急ぐぞ」


「うん」


 隣で馬を駆る狭霧は、無邪気に微笑んでいた。作り笑いを浮かべて返しながら、高比古は胸で思った。


(おれは、あんたを痛めつけようと思ってあんたのいうことを聞いてやってんだよ。それだけ不用心じゃ、安曇からも何も学べてないんだな)


 高比古が尊敬する二人の男から子として愛されながら、狭霧はそれを当然と思って、何も得ようとしていないのだ。そう思うと、手綱を握る手に汗が湿っていった。その時はもうすぐだと、心が奮えて仕方なかった。


 やがて、昼間に発ったばかりの戦場が見えてくる。西日が射していて、戦が原の草は夕焼けで真っ赤に染まっていた。


「ようこそ、戦が原へ」


 馬の足を止めて振り返った時、狭霧は馬上で今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。


(やっと気づいたのか。馬鹿な奴)


 ここまで来れば、「姫君をいじめるな」と狭霧を助ける相手は誰一人いない。


 高比古は、罠にはめて窮地に追い込んだ獲物をいたぶる獣の気分を味わったが、それはこれまで感じたことのなかった奇妙な快楽で、手のひらや指先までそれが染みわたると、恍惚となるほど愉快だった。


「凄い男だぞ、あんたのとうさまは。どうだ、ここへ来て少しはわかったか? 大国主と出雲のことは」



 さあ、これが戦だ。現実を見ろ。あんたはこれをまるでわかっちゃいないだろう。


 この草むらで大勢倒れているのは、あんたが守ろうとしている王子の国の兵だよ。


 こういう厄介事をすべて引き受ける覚悟もないくせに、なにが輝矢と一緒にいたい、だ。


 しょせんは、無知の馬鹿だ。あんたは世間知らずだよ。

 


 そう視線で責めると、狭霧は馬上で髪を振り乱して泣きじゃくった。


「どうして……! わたしをいじめて、なにがそんなに楽しいの! わたしが大国主の娘だから? ……そんなんじゃない、わたしはとうさまの娘なんかじゃない。出来損ないの、ただの子供だ……!」


 狭霧の悲鳴を聞くと高比古の胸がすっと軽くなって、笑みが浮かんだ。


(ああそうだ。あんたは「大国主の娘」じゃなくて、出来損ないのただの子供だ。ようやくわかったか。ざまあみろ)


 半狂乱の狭霧はある時落馬して、それ以上馬を操ることができなくなった。


 仕方なく自分の馬に乗せて王宮まで連れ帰ることになったが、その間も、狭霧は狂ったように手足をばたつかせて、涙を流して顔を赤くした。怒ったり混乱したりしている狭霧の顔は案外きれいで、高比古は少しのあいだ見惚れた。


(ふうん――怒っている顔って、美しいんだ。きっと、感情がふらついていないからだな。せっかくだから、このまま一生怒っていればいいよ。まともに見えるぞ)


 見惚れつつも「おれのおかげだ、感謝しろ」と嘲った。


 そうやって快楽の余韻に浸りながら、高比古は王宮に戻った。


 無邪気に笑っていた大国主の娘姫が、矢を射られて暴れる兎のようになって戻ると、高比古が狭霧を戦場に連れ出したことはすぐに広まった。


「あいつが狭霧姫を戦場へ……」


「はじめて戦を見る若い姫に、むごい」


 非難めいた目配せをほうぼうから感じたが、それでも高比古は「何が悪いんだ」とふんぞり返っていたし、「あの姫にとっていいことをしてやったのだ」と、自分を責めて狭霧を哀れむ連中を、かえって馬鹿にした。


 しかし、大国主から呼び出されて叱られると、非を認めざるを得なくなった。


「おまえは繊細な男だな」


「そうですか」


「繊細だよ。繊細なものは、もろいぞ。もう少し大人になれよ」


 大国主が高比古にいいつけたことは、主に狭霧におこなったことではなく、高比古の気性についてだった。大国主がいうことならどれも受け入れるつもりだったが、高比古は納得がいかなかった。


「大人のつもりです。少なくとも、誰からも大人と呼ばれている男以上には働いています」


 反論すると、大国主は笑みを浮かべつつ高比古に牙を剥いた。それは、高比古が「殺られる」と硬直するほど恐ろしかった。


「いいな、狭霧を……いや、おまえが理解しやすいようにいい換えてやろう。いいか。戦の場でなくとも、策士ならあとになにが起きるかくらい考えて動け。おれが武王と呼ばれるのは戦場だけでない。その意味を知れ」






 大国主とのやり取りの後も、高比古は腑に落ちなかった。


(おれは何かを間違えたらしいが、どっちにしろ悪いのは、あの世間知らずのほうだ)


 わかったことといえば、大国主の言い分と怒り、その時に感じた恐怖だけだ。


 その「何か」の片鱗が見えたのは、狭霧が守ろうとした王子に初めて会った時だった。


 ひそかに忍び込んだ伊邪那の窺見の手引きで雲宮を出た伊邪那の王子、輝矢の追捕を任されたのは、高比古だった。


「名椎王が王妃を囲んだ。おれたちがこそこそする理由は消えた。かがり火を焚け! 早駆けて、王子を捕らえろ!」 


 輝矢と窺見を騎兵で囲い込み、二人の頭上から顔を覗き込んだ時、高比古は目が眩んだと思った。


 そこですっくと立つ輝矢は伊邪那風の顔つきをしていて、顎が細く、目元の印象も出雲の民とは少し違っていた。齢の割に童顔で幼い顔つきをしているのに、立ち居振る舞いは凛としていて齢を感じさせない。輝矢はまっすぐに高比古を見上げて、目を逸らさなかった。悲しみも不安も感じさせない無表情をしていて、その目と目を合わせていると、高比古の中にあったものがぐらぐらと音を立てて崩れていった。


(こいつが、伊邪那の王子――。おれは――)


 高比古がその時味わったのは、敗北感だった。






「泣いてもいい?」


「泣きつく相手がおれでいいなら」


 輝矢の処刑を狭霧は泣いて悲しんだが、高比古も泣きたかった。


 高比古の中で崩れはじめたさまざまなものは、ちぐはぐに動き出した。不安定で、感情は不揃いで、雑多で、これまでの自分にはなかったはずのものが生まれて暴れ回った。


(あの時のあいつの目は、きれいだった。あいつはこういう気味悪い感情をもっているくせに、見せなかった。こういうものを今まで持たなかったおれとも、混乱している今のおれとも違う)


 狭霧は高比古のそばで泣いたが、その泣き顔を見てからは、狭霧に対する嫌悪感もすっと薄れた。


 その時の狭霧の表情は不安定で、高比古が苦手な不揃いな感情が雑多にあった。でも、狭霧はそれにじっと耐えていた。それに気づくなり、高比古には大国主の顔が浮かんだ。


(そうか、大国主がいっていたのはこういうことか。だから、叱られたんだ――。おれは子供だったんだ――)




◆  ◇      ◆  ◇




 雪よかしの忙しない掛け声はまだ響いていたが、いつの間にか遠くへと場所を移している。


 しだいに静けさを取り戻した館の中で、高比古と狭霧は、壁にもたれて並んで座っていた。


 昔のことを思い出すと急に気恥しくなって、高比古は思わず尋ねた。


「なあ。出会った頃のおれ、どんな奴だった?」


「突然どうしたの」


 笑いつつも、狭霧はすぐに答えた。


「意地悪だったよ」


「――かもな。心当たりはある」


 神妙にうなずくと、狭霧はわざわざいいなおした。


「かも、じゃないよ。意地悪だったの」


「――悪かったな。そう言い切るなよ。傷つくだろ」


 居心地が悪くなって目を逸らして、高比古はぼそりと本音をつぶやいた。


「おれのこと、子供っぽいと思ってただろ」


「ううん、全然」


「――そう?」


 狭霧は、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。


「うん。子供っぽいのはわたしのほうだったでしょう?」


「いや、おれは――」


 初めて会った時、高比古は狭霧のことを子供だとか、世間知らずだとか、不用心だとかと毛嫌いしていた。


 でも、ある時からそう思わなくなった。必要なものが足りていなかったのは自分のほうだったと気づいたし、その時を境に、だんだん狭霧は用心深くなったし、我慢強く、懐が深くなった。


 唇を閉じた高比古の顔を覗いて、狭霧はくすくす笑っている。


「高比古は、かっこよかったよ。頼りがいがあったし、冷静だったし。たぶんわたしは高比古みたいになりたいって、あなたに憧れていたよ」


「おれみたいになりたかった? うそだろ。持ち上げるなよ」


 高比古がふてくされると、狭霧は「どうしてそんなにすねているの」と、かえって微笑んだ。


「うそじゃないよ。高比古は薬師としても、とうさまの子供としても、わたしより上だったもの。高比古のことは出来のいいお兄さんみたいに感じていたし、早く追いつきたかった」


 狭霧の笑い声が止んだ後、高比古の手に、狭霧の手が重なる。冷えた高比古の手を、狭霧の手はほんのりと温めた。


「でも、もういいの。今は高比古がそばにいるから、わたしがわざわざ高比古にならなくても、高比古がわたしを助けてくれるものね」


 そこまでいうと、狭霧は両腕を伸ばして、高比古の胴に回した。


「うん、好きだなあ」


 狭霧の腕が胴に絡められると、高比古はぼそりとつぶやいた。


「――それはどうも」


「不機嫌そうな声。あっ、照れてる?」


「それは、照れるだろう」


 ぶつぶつといった後で、高比古は遠くをしんみりと見つめた。


「不思議だよなぁ。おれはあんたのことが苦手だったのに、今はそばにいるし、そばにいてもらえるとほっとするし――」


「本当、面白いね。うん、会ったばかりの頃は、こんなに近くにいる日が来るなんて思いもしなかった。わたしね、高比古のそばに近づくのを怖がってたんだよ? それなのに、今はほっとしてる」


 狭霧がくすくすと笑うのを聞いた後で、高比古は眉根を寄せて微笑んだ。


「そばにいてほっとするなら、もう少しそばにいこうか」


「え?」


「こっち向けよ」


 高比古がそういうと狭霧は照れくさそうに一度動きを止めたが、じわりと高比古の顔を見上げて、目を細めた。ゆっくりと閉じられていくまぶたに吸い寄せられるように、高比古の顔の向きがそうっと傾いていく。


 雪に眠る王宮の、ゆっくりとした時間の中。武王の宮からは話し声も途絶えて、静かになった。高比古は狭霧の手を取って温かさにまどろみつつ、微笑んだ。



                  ........end

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クマシロ 円堂 豆子 @end55

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