雲をつくりて霞となりて


 秋が深まっていくとはいえ、南国の島に雪の匂いはまだしない。


 でも、広大な海に囲まれた島の上にいるというのに、こころなしか、風は日に日に乾いていく。


 「雪が降る前に」と、出雲への帰り支度が始まったある日、高比古は山道で矢雲に出くわした。


 人のよさそうな童顔をしている矢雲は、八つ年上とはいえ、まだ若い。人の気配のしない木漏れ日の下で出会い、目が合うと、矢雲は穏やかに笑った。それから、高比古がなにかいいたげに見つめたせいか、吸い寄せられるように二人の足は道の脇へ寄った。


 示し合わせたように隣り合って岩の壁に背をもたれると、高比古は、矢雲の童顔を覗き上げて詫びた。


「その……前に面倒をかけて、すまなかった」


 謝ったのは、桐瑚のことだ。


 狭い島にいるというのに、常に狭霧や須佐乃男のそばにいる矢雲と高比古が、二人きりで出会うことはなかなかない。顔を合わせるたびに謝罪を告げるような目配せは送っていたが、こうして二人で話すのは初めてだった。


 矢雲は穏やかな笑みを浮かべていて、高比古が詫びの言葉を口にする前から、もう許していた。


「いいんだよ。若気の至りを責める気なんかないよ。と、いうより私も、年上ぶってきみを叱れるような真面目な暮らしはしていなかったからねえ」


 矢雲の気性は明るかった。手のひらをひらひらと振って、矢雲は、高比古の緊張をあっという間にほぐしていく。


「でも、ぜひ私がいることに感謝してほしいよ。私も昔はいろいろやらかしたが、その時に詫びに出向いてくれたのは、須佐乃男様だったからねえ」


「……須佐乃男?」


「ああ。もう、後ろめたいのなんの。出雲の賢王みずからに、私のような若造の尻拭いをさせるんだからなあ」


 矢雲は、くすくすと笑った。


「あの方は……私を育てようとおそばにおいて、あちこち連れ回したんだ。まだ私が一人で御使を務められなかった頃、失敗するたびに頼ったのは須佐乃男様だったよ。だから私は、あの方に頭が上がらないんだ」


 高比古は、ふと考えてしまった。


 なんとなくだが、若かりし頃の矢雲に見せていた須佐乃男の顔は、高比古に見せていた嘲笑混じりの笑顔とは、どうも違うようだ。そういえば、須佐乃男が孫娘の狭霧に見せていた顔も、高比古に見せた顔とは違っていた。あの老王はいろんな顔をもつ王なのかもしれない――。


 では、かつてそばにおいて育てたという彦名にはどんな顔を見せて、どんな接し方をしていたんだろう。大国主には……?


(やっぱり、大きい)


 感傷に耽ってしんみりとした真顔を浮かべる高比古を、矢雲は精悍な笑顔を浮かべて見下ろした。


「まあ、気にするな。どうせ、あの方が仕掛けた罠にはまったってところだろう?」


 矢雲の笑みが、宗像での日々を見透かしたようなので、高比古は目を丸くした。


「……わかるのか?」


「そりゃあ。だてに何年もおそばに仕えていないよ。……本当に、気落ちしなくていいと思うよ。誰かを育てるためなら、あの人は容赦ないから。きっときみがなにかを失敗するまで、どんどんどんどん、混乱の種を与えたと思うよ」


 矢雲は思い出し笑いをするようないい方をして、「そのへんで終わってくれてよかったよ」と、高比古と桐瑚の一件を笑い話にすり替えるようないい方をした。


 そして、彼の目はまるで、何人もの高比古のような男を見てきたといわんばかりだった。


「でも、きっときみは、罠の中でもがくうちに多くを得ているはずだよ。あの方は、無駄な意地悪は決してしないから。でも……」


 そこまでいうと矢雲は胸の下で軽く腕を組み、高比古をいたわるような微笑を浮かべた。


「若者の、純粋な想いっていうの? そういうのを使うのは、私はどうかと思うんだよねえ。まあ、実際にあの方のお立場になったら、そんな遠慮などなくなるかもしれないが。……でも、なんというか、もしその罠にはめられたのが自分だったらと思うと、こそばゆいというか……」


「こそばゆ……?」


「とにかく、彼女は……きみが須佐乃男様に惚れさせられた、あの娘はどうするんだ? 倭奴へいかせたままかい?」


「惚れさせられたとか、そんないい方……」


「そうだと思うんだが? 私がいうのもなんだが、初めの宴の晩にあの娘を呼び寄せたあの方には、きみが好きそうな娘をよくぞ見事に選んだものだと、ほとほと感心したよ。それから、あぁ趣味の悪い罠を仕掛けるんだなぁ、とも」


 いい方は、ふくれっ面をする高比古を慰めるように軽快だ。でも、矢雲がいうそれは聞き捨てならない。


「――気づいてたのか? はじめから」


「いったろう? だてに何年もおそばに仕えていないよ」


 岩壁に背を預けると、矢雲は、ちらりと高比古を見下ろした。


「どうだい、目が覚めたろう? 意地を張らずに、奴婢の一人や二人、出雲へ連れて帰ればいいよ。きみは、阿多族との繋がりの始まりになった。はじめの一人になる苦労は、私も……あの方も、よく知っているよ。その褒美は受け取っていいと、私は……」


「いや……」


 手柄の褒美として、桐瑚を物のように迎える気は起きなかった。


 から笑いを浮かべて、高比古も矢雲と同じように岩壁に背をもたれた。


「手放すと……そばに置けないと、おれは決めたし、あいつにも決断をさせた。今さら……」


「硬派だねえ、きみは」


 矢雲のいい方は茶々を入れるようだが、高比古を見下ろす目は優しい。


「でも、きっと彼女も、そういう子だったんだろうね? ――わかった。なら、彼女のことは私が見届けてくるよ」


「え?」


 ぽかんと口を開けて高比古が見上げた時、矢雲の背はすでに岩壁を離れていた。一歩離れた場所から振り返る矢雲の頼もしい肩は、緑色の柔らかな木漏れ日に包まれていた。


「きみと話せたのが今日でよかった。実は明日、私は宗像を出ることになった。倭奴を経由して、阿多の都へ向かうことになったんだ」


「……それって」


 目をしばたかせる高比古へ、矢雲は丁寧に説明を加える。


「ひと冬越して、夏には出雲へ戻るつもりだが……。私を先にいかせるということは、次には須佐乃男様本人か、もしくは大国主、彦名様あたりが足をお運びになるかもなあ。その踏み台をつくりにいくのさ」


 矢雲のいい方は笑い話をするように軽妙だが、いっていることはそうではない。


「阿多の都へ? と、いうことは……」


 出雲は、阿多隼人族との繋がりを本格的に深めていくつもりなのだ。東で力をため込む大和という国への牽制のために――。


 息を飲んだ高比古を見下ろす矢雲の顔は、まだ笑っていた。


「ああ、どうにかなるまで出雲には帰るなとのことらしい。まったく、人使いが荒いんだよ、あのお方は」


 くすくすと笑う仕草も、まだ余裕めいている。


 だが、一度唇を閉じると、真面目な眼差しで高比古をいたわった。矢雲の仕草は、兄じみていた。彼は高比古に、出雲という大国の須佐乃男という家長のもとで、共に鍛え上げられる弟のように接していた。


「だから、彼女の行く末は私が見届けてくるよ。きみは、国で私が戻るのを待っていてくれ。戻っても、彼女は平気だとしかいわないかもしれないが。そういうわけで、安心していいよ」


 高比古は、くしゃっと眉根をひそめて苦笑した。


「……ありがとう」


「ああ。じゃあ、出雲で」


 矢雲はにやっと笑って別れの挨拶を告げ、軽く手をあげた。





 雑木林で肩を並べて、夕空のもとにたたずんで以来、高比古と狭霧は、時おり思い出したように隣り合ってなにかを話すことが増えた。


 真浪まなみ火悉海ほつみとも、道のどこかで出会うたびにもそういうことが起きたが、高比古にとってのそういう話し相手は、少しずつ増えていった。


 それは、高比古が人といることに慣れたせいだが、そうやって人と打ち解けるのを少し愉しむようになった高比古に、狭霧や、周りの人も慣れていったのだ。


 出雲の帆船が、とうとう宗像を発つ日。


 その日も、高比古は狭霧のそばにいた。居心地悪そうに、仏頂面をしていたが。


 宗像の港は、出航を間近に控えた出雲の船に乗り込もうとする船乗りや従者たち、それから、見送りにやってきた大勢の人で賑わっていたが、とくに華やかに目立つ集団がいた。宗像の女たちだ。


 高比古の妃として出雲へ旅立つことになった幼い姫の見送りにやって来た女たちで、色とりどりの衣装に身を包む女たちの輪には、泣き声もある。しんみりとしていて、人はわざわざ近づかないので、女たちがそこですすり泣いている光景は、雄々しい港では異質だった。


 高比古も例外ではなく、そこから遠ざかるように狭霧にくっついていた。


 でも、あえて目を向けようとせず、まるで目に入らないもののように女たちのすすり泣きを無視する高比古を、さすがに狭霧はたしなめた。


「……ねえ、あなたのお妃を迎えにいってきたら? どうしてここにいるのよ。逃げるみたいに」


 話す機会が増えるということは、互いに遠慮がなくなるということだ。


 狭霧が高比古を見る時にする、まるで出来のいい兄を見るような目は変わらなかったものの、いつのまにか狭霧は、高比古をたしなめる第一人者になっていた。


 しかし、高比古は文句を言われるのを嫌う。


「逃げてなんか……」


「じゃあ、どうしてこそこそしているのよ。まるでわたしの陰に隠れるみたいに」


 たしかに高比古は、宗像の女たちの視線から遠ざかるように狭霧のそばにいた。大切な宝を守るように心依姫ここよりひめを囲む女たちの輪から、「婿君、お願いしますよ」という視線を突きつけられるたびに、わざとあさってのほうを向いていた。


「迎えにいけといっても――今はまだ、あの姫も別れを惜しんでいるところだろう? それに、おれだって、心の整理がまだ……」


 隣り合って話すのに抵抗がなくなったとはいえ、高比古が腹にあるものを洗いざらい狭霧に漏らすことはなかった。だが、狭霧には、なぜかいろいろなことがよくばれた。


「心の整理って? ……リコさんのこと?」


 今も痛いところを突いてくる。高比古は、苦し紛れにいった。


「そういうわけじゃないが……。あんなにか細い姫のそばにいったら、おれはきっとあの姫を弱らせてしまう。桐……リコみたいに、ふんぞり返ってる奴を相手にするならともかく……」


 あんたならわかってくれるだろう? と、心のどこかで思ったせいで、高比古の唇から出た言葉はずいぶんと女々しいものになった。


 狭霧は、さも呆れたといわんばかりに、両の拳を勇ましく腰の位置に当てた。


「だからって、逃げてばかりでどうするのよ。まつりごとのための婚姻だものね。戸惑う気持ちもわかるけれど、高比古は、あの姫を連れて帰るって決めたんでしょう? だいいち、わたしのところにいたら、あの子が訝しむじゃない。ちゃんとお世話をしてあげないと――。高比古は、あの子の旦那様になるんでしょう?」


(連れて帰ると決めたというか、あんたの爺さんのせいで、そうせざるを得なかったんだ)


 胸の底で愚痴を吐きつつ、不器用な渋面をして、高比古は狭霧に助けを求めた。


「世話って、なにをすればいいんだ? あんたなら、婿になる奴からどうされたら嬉しい?」


 普通、男が娶る妻は一人だけだと思っていた。高比古が生まれた里ではそうだったし、高比古に記憶を置いていく多くの死霊たちも、そのように信じていた。


 一人目の妻だとか、政のための婚姻だとか――そんなふうに多くの妻を娶るのは、ごく一握りの王族じみた男だけだ。


 だから、いくら大勢の記憶を受け入れている高比古とはいえ、いったいどうすればいいのか、その答えを知ることはできなかった。


 ただでさえ、誰かと四六時中一緒にいたいなどと望むほうではないのに――。


 よくわからない。なんのために娘をそばにおくのか。


 子供をつくるため? でも、手に入れたいという欲求はおろか、そこで宗像の女たちに大事に守られている幼い姫には、そばに寄る気にも起きない。


 胸にあるのは、桐瑚がそばにいた時とはまったく別の想いで、ただ、彼女を傷つけてしまいたくないというだけ。そしてその願いは、自分が離れてさえいれば叶うのではないかとも思う。無意識のうちに人を傷つけてしまう自分などが、そばに寄らないほうが。無意識のうちに、桐瑚を傷つけたように――。


 照れ臭そうにしながらも渋々と悩みを打ち明ける高比古に、狭霧はきょとんと目を丸くした。そして、ぷっと吹き出した。


「……なんだよ」


 仏頂面をして、高比古は咎める。狭霧は謝るが、くすくすという笑い声はやみそうになかった。


「笑ったのはごめんなさい。でも、高比古があの子にどう接すればいいのかなんて、わたしもわからないわ。だって、わたしだって嫁いだことがないもの」


 高比古は、子供じみた文句を胸でぼやいた。


(……なんなんだよ、この孫)


 狭霧は、泣き笑いをするように息を詰まらせていたが、ちゃんと高比古へ助言をくれた。


「あのね、話をすればいいと思うよ。どんなことが好きで、どんなことが不安なのかとか、なんでもいいから話を聞いてあげて? あなたが彼女の味方だって教えてあげれば、きっと安心すると思う。異国の地でも――」


 まっすぐに高比古を見上げる狭霧の笑顔は、二つ年下のくせに妙に大人びて見えた。


 それに気圧されながら、居心地悪く眉をひそめる高比古の胸を、そのうち、狭霧の手のひらがぽんと押しやる。


「ほら、がんばって。……正直に話せば、きっと平気だから」


(正直? おれなんかが正直に話したって――)


 子供がいいわけをするような文句は、まだ胸にあった。


 だが、無理やり押しやられた後に振り返った時、わずかに離れた場所から高比古を見送る狭霧の笑顔は、昼時の陽射しのように温かくて、優しかった。


 それに背中を押されるように、高比古の足は港の隅へ向いた。


 自分に嫁ぐことになった、幼い姫のもとへ――。


                    ...........3話「あかつきに閉じる花」へ続く




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