雲の切れ味(3)
「貧乏くさいといったのは、おまえが、贅沢にも、余計なものを持つことにも慣れていないという意味だ。欲しければ奪い取ればいいし、誰がなんといおうが囲い込めばいい。それに、おまえの話を聞く限りでは、隼人の若王と二人で貸し借りができるほどの関わりを得たことのほうが、よっぽど重要だと思うが? おまえは誰だ? 出雲の策士なんだろう?
思い返してみても、須佐乃男の言葉の裏に、重みが隠されていなかったことなどなかった。
きっと重要な言葉を聞いている――と、それはわかったが、耳も目も老王の妙な気配に痺れたのか、言葉をろくに理解できなかった。ただ、祈るようにも、高比古は老王の唇の動きを待っていた。
……おれでもよくわからないものを、その口で説明できるほど、あなたは理解しているんですか?
なら、教えてください。早くおれを縛めてください。
動かないでいると、須佐乃男は、今度こそ咎めるようないい方をした。
「おまえが目指すのは、誰かに叱られるような男ではないのだろう? 一番上にのぼりつめた時、誰がおまえを叱る? 誰がおまえに助言して、誰が甘やかす? ――自分で決めろ」
もう、なにもいえる言葉はなかった。
呆けた高比古の胸にあったのは、あらゆるものを吹き飛ばされてできた広大な隙間に生まれた、たった一言だけだ。
――完敗した。
真っ青になって小さく指先を震わせた高比古に、須佐乃男は追い討ちをかけるようにいった。
「
須佐乃男が告げたそれは、おそらく、この旅の理由だ。
大国主と彦名は、高比古を彦名の跡取りと口を揃えて推したという。だが、高比古の胸にあった戸惑いに気づいて、憂いたのだろうか。
それをどうにかできないか。須佐乃男は、そのように頼まれたのだろうか――。
高比古には知るよしもなく、あえて知りたいとも思わない。
だが、自分でも気づき得なかった内側の困惑を読んで、どうにかできると一計を案じて国で待つ大国主と彦名や、常に手の上で転がすようにして、高比古の戸惑いをつぶさに見張っていた須佐乃男を、畏れた。
それに、宗像で高比古を迷わせ続けたあれこれは、桐瑚のことにしろ模擬戦にしろ、隼人とのやり取りにしろ、始まりはすべて須佐乃男にあった。
一度、怖いもの見たさで、須佐乃男の目を覗くように見つめた。恐ろしくて、目が合うなりすぐに逸らしてしまったが。
たった一瞬目が合っただけで、高比古は老王の眼差しに声を聞いた気がした。
……わしは、おまえを甘やかしたいとは思わん。
……さあ、迷え。迷え。
……それとも、おまえは甘やかされたいか?
須佐乃男の言動に、何一つ無駄はなかった。発した言葉のどれをとっても、軽薄と呼べるものは、おそらく一つたりともなかった。
いつか、須佐乃男が狭霧にいった言葉――いや……そのように狭霧を仕向けるべく、繰り返しその唇から語られていた言葉があった。
……順序を一つでも間違えたら、うまくいかないこともある。修練は丁寧に。
……正しいやり方を覚えなさい。慎重に。
それを須佐乃男は体現していたし、高比古にも、それを身体で覚えこませようとしていたはずだ。わざと間違いを起こさせて――。
完敗したと胸は悔し泣きをしていたが、底には、まだ老王を嗤い返したいという気持ちが残っていた。
だからは、どうやったら勝てたのかを考えた。
いったい、どうすればよかった?
須佐乃男が遣わした桐瑚に、はじめから心を開かなければよかった?
……それは、きっと違う。
この身と出雲を賭けても――たとえば、
……それも、たぶん違う。
でも、きっとなにか方法があった。方法があるということに気づけないほど、未熟だった。次から次へと須佐乃男から突きつけられた未知の数々を咀嚼しようと励んだものの、とうとう混乱して……最後には、自信がないといって逃げるしかできなかった。
逃げるなんて――。
須佐乃男のいう一番上に立つ奴が、一番するべきではないことだったろう。
高比古の瞳から、ぽとりと涙の筋がこぼれた。
高比古は、絵地図のない場所で繰り広げられた模擬戦で負けたのだ。おそらく須佐乃男が読んだうちでも、もっともわかりやすい負け方だったはずだ。
ぎり。奥歯を鈍く噛んで、頬を伝いかけた涙を指先でぬぐった。須佐乃男は、それをじっと見ていた。
「迷いは出尽くしたか?」
老王は、高比古が見続けた穏やかな笑顔を浮かべていた。思えば、高比古が惨敗を期した模擬戦がおこなわれている間、須佐乃男は眉をぴくりとひそめることもなく、ずっとその笑顔を保っていた。
「戸惑いの感覚、おのれの癖……すべて、その身で覚えこめ。覚えたら、捨てろ」
言葉は命令の形だが、きっとそれは、須佐乃男が前にいった通り、命令ではないのだろう。
だが、今の高比古には、それに抗おうという気持ちは微塵も浮かばなかった。
「はい……」
誓いを立てる気分だった。
すると、須佐乃男は目配せを残して、再び高比古に背を向けて、遠ざかっていった。
結局、手も足も出なかったのだ。
誰かのいいなりになるのは大嫌いだ。それなのに――。
どこかへいきたい。そう思っても、一人になれるなど贅沢この上ないと思っていた薄暗い仮宿は、桐瑚が去ったことを思い出すと、近づくのも脅えるほど寂しい場所に成り果てている。
高比古の足がふらふらと向かったのは、南国の草花が安穏と揺れる緑の山道だった。
『あっちにいたよ。姿を見かけたよ』
風に頼み込んで訊いたのは、狭霧の居場所だった。
狭霧は、丘を少しのぼった場所にいた。
華やかな花が咲いているとか、珍しい獣が隠れているとかいうわけでもなく、雑草の茂みにしか見えない草むらで狭霧はうずくまって、細い木の根元を熱心に覗きこんでいた。
きっと、自分には気づけないことに気づいて、夢中になっているのだ。自分が、しばらく絵地図に没頭していたように――。
(それも、須佐乃男の意図か……)
完敗したと認めるしかない今は、浮かぶのはもう、力の抜けた笑みだけだった。
さく、さく……と、野花を踏み分けて近づくと、先に高比古に気づいた
高比古は、事代の長でもある。主の姿に気づいた
「こ、ここここれは高比古様!」
「ごごごご機嫌、よろ、よろ……!」
彼らは、高比古を神の使いか神の子かとでも思っているようで、なぜだか顔を合わせるとこのように声を震わせる。
そういえば、
(とんでもない。そんなたいそうなものじゃないよ……)
力が抜けきった笑顔を、部下へ向けた。
「先に戻れ。狭霧と話したい」
「は、はい……!」
逆鱗に触れるのを恐れるように、紫蘭と桧扇来の後ろ姿は一目散にそばを離れていく。
それを見送ってぼんやりとしていると、南国の野花を踏み分ける足音が近づいてきた。目を向けると、狭霧がすぐそこまで来ていた。
「どうしたの?」
狭霧は高比古を見上げて、不思議そうにしていた。白い細腕には、野花やら、剥いだ樹皮やら、木の実やらを盛った籠がかかえられている。今日一日かけて集めた薬草らしい。運び手は事代たちだったに違いないが、彼らが突然去ってしまったので、狭霧がみずから運んでいるのだ。
「いつの間にか、ここに来ていた。……持つよ」
腕から野花を盛った籠をすくい上げてしまうと、狭霧はぽかんと目を丸くした。先に一歩を踏み出してから、高比古は振り返って、それと目を合わせた。
「少し歩かないか? 海が見たい」
「うん、いいよ?」
うなずいたものの、狭霧の目は奇妙なものを見るようだった。
夕暮れが間近に迫っていて、降り注ぐ光は、赤みを帯びた月の色のような琥珀色をしていた。
山道をのんびりと歩きながら、高比古は話しかけた。
「矢雲は? 一緒にいたんじゃなかったのか?」
「矢雲さんなら、
「筒乃雄の?」
「うん。おじいさまの従者が探しにきて、矢雲さんの力がいるからって。――なにか起きたの?」
狭霧はこわごわと見上げてくるが、高比古は答える気になれなかった。
(きっと、桐瑚のことだ。おれが宗像から逃がしてしまったから。……矢雲の出番になるようなことか)
高比古が倭奴へ渡って隼人の面々と話をつけてきたことより、よっぽど大きなことを、きっと自分はしでかしたのだ。そこまで考えがいきつくと、耳は……いや、胸は、須佐乃男の声を思い出していた。
(――ありがたいことだよ。それでも咎められないのは、それだけ買ってもらってるってことだろう? おれをどうにかするほうが、筒乃雄の機嫌を損ねるより重要だと――)
喜ぼう。そういい聞かせるが、胸はまだ戸惑っていて、奇妙な喜びという新たな想いが生まれてそこに混じるなり、気味悪いものがこみ上げて、目頭はじっと熱くなる。
それをこらえると、高比古はつい足を止めてしまった。
「高比古?」
海が見える場所へいこうといっていたはずなのに。
木漏れ日に覆われた雑木林の隙間で、ふらつく身体を宥めるようにしゃがみこんだ高比古のもとへ、狭霧は心配そうに歩み寄ってきた。
両膝を立てて草の上に腰を下ろした高比古は、うつむき、手のひらで額のあたりを覆っている。
狭霧は、高比古の隣に同じように腰を下ろした。それから、か細い声で声をかけてきた。
「平気? ……じゃないよね」
伏せた頬に結局涙は流れなかったし、うなだれただけで、肩にも身体にも震えはなかった。
でも、隣で表情を曇らせる狭霧は、まるで高比古に起きたすべてを理解したように、神妙な真顔を浮かべて、熱心に気づかってくる。
なぜわかる? どうして? あんたに、おれのなにが……。
いつもだったら、そういう暴言を吐いていた。でも今は、悔しい以上に、そばにある小さな身体にしがみつきたかった。
少し、そばにいてくれ。……泣かせて。
喉元までこみ上げたどうしようもない泣き言を、それ以上出てくるなと懸命に抑えていると、高比古を見上げる狭霧は、微笑んだ。
「その……いやじゃなかったら、抱きしめてあげようか? 前に高比古にそうしてもらった時、とても落ち着いたから」
狭霧がいっているのは、悲しみに暮れる狭霧を、高比古がそばで見守った時の話だ。想い人だった伊邪那の王子が息絶え、狭霧が寝床から動けなかった時のことだ。
(でも……あの時だって、おれはあんたを慰めようとしたわけじゃなかった。そういうこともいくらか考えたかもしれないが、あの時あんたを腕に抱いたのは、頼まれたからそうしてやっただけで、自分が罪悪感から逃れるためだった――)
でも今、高比古の唇は、あれはそうじゃなかったとは、いえなかった。今に自分を包み込んでくれる細腕を、じっと待っていた。
「いやだったら、いってね」
自分より大きな身体を抱きしめるために狭霧は中腰になり、ふわりと白い袖をなびかせて、細い両腕で、高比古の顔をそうっと包む。小さくて温かな手のひらが肩に降りて、頭を包み込んだ別の手のひらは首に添って。
思わず、目を閉じた。目を閉じると、額や鼻先に狭霧の香りがふんわりと漂っているのを感じた。温かい、人のぬくもりも――。
年下の小娘に……かつて散々あざけった相手に慰められているなんて、いったいおれは今、どんな間抜けに見えているんだろう。
自分への文句は次から次へと湧きあがってくるが、それに散々責められても、包み込んでくれる小さな身体を押しのけようとは、悔しいほど思えない。やるせなさに、微笑むしかなかった。
「前と、逆だね」
狭霧の唇は額の上あたりでつぶやくが、それはまるで、高比古のためのいいわけだった。
「これであいこだね。よかった。借りを返せて」
気位の高い高比古の自尊心を傷つけまいと、狭霧は遠慮しているのだ。
たまらなくなって吹き出した。
「もういいよ。……ありがとう」
一度、感謝を告げるように華奢な背中へ手のひらを添わせてから、高比古は狭霧をそうっと押しやって遠ざけた。
離れゆく狭霧は、照れくさそうにしながらも高比古の表情を窺っていた。でも、じわじわと笑顔を浮かべていった。高比古の顔に影がないと気づいて、安堵したようだった。
(そんな、腫れものに触れたような顔するなよ。――おれってそんなか?)
さっき、恐ろしいものから逃げるように立ち去った紫蘭たちの後姿といい、いまの狭霧といい――いや、そんなふうにさせたのは、もともと自分だったはずだ。
それでも、どれだけ不遜な態度をとろうが、狭霧が身構えることはもうなかったし、今も狭霧は、隣で高比古を真似るように膝をかかえて、琥珀色が混じった木漏れ日をぼんやりと見つめている。
(……ありがとう)
もう一度、声に出して伝えたかったが、唇は不器用にかたまって動こうとしない。
かたく結ばれた唇をほどこうと人知れず奮闘しているうちに、耳が狭霧の歌声を聞きつけた。
まるで森の光か虫や、もしくは、彼女がしばらく懇意にしていた草木や樹にでも囁きかけるような、ひそやかでのどかな調べは、子守唄じみていた。
「昼のあいだは ひとつはふたつ。夜になったら ふたつはひとつ。わたしはあなた あなたはわたし。ねんねの向こうで 一緒にいよね。明日になったら また遊ぼ……」
南国の森にまどろみを誘いかけるような、のんびりとした調べ。それを奏でる狭霧の唇を、高比古は、気味悪いものを見るように凝視していたらしい。
視線に気づいた狭霧は、はっと驚いたように歌いやめる。
「ごめん、うるさかった?」
「……そんな。……おれ、そんな顔してたか?」
高比古が謝り返すと、狭霧は微笑んだ。そして、もう一度同じ歌を口ずさんだ。
再び歌が終わりへいきつくと、狭霧はにこりと笑う。
「かあさまがよく歌ってくれた歌でね、口が寂しくなると、つい歌っちゃうんだ」
「かあさま……って、
須勢理は、武王、大国主の最愛の妻であり、豪気な女傑として多くの兵に慕われた、いまや伝説のようにその名を語られる王妃だ。狭霧の母親は、そういう女だ。
「うん。かあさまが亡くなってからは、
「安曇が?」
安曇は、大国主の片腕といわれる側近で、高比古も共に戦に出かけたことのある武人だ。ひとたび戦に出れば勇猛さは他の追随を許さないが、そういえば安曇は、大国主から娘の世話を任されていて、出雲にいる間は狭霧の父代わりを務めている。
「そうか……。大国主も? あの人も、あんたにその歌を歌ったのか?」
狭霧は、大国主から溺愛される唯一の姫だ。大国主は、須勢理だけでなく多くの妃を娶ったので、子らも大勢いる。だが、大国主が気にかける御子は、最愛の妻の忘れ形見である狭霧だけだという。
きっと狭霧は、かの武王からも愛情を注がれて育ったに違いない。伝説的な王妃や、出雲の誰もが名を知る武王の側近から愛されて育ったように――。
羨むでもなく、狭霧の幸せを喜ぶように微笑んで尋ねると、狭霧は目をしばたかせて、吹き出した。
「ううん、まさか。とうさまは子供に構うような人じゃないもの。だから、きっと高比古がもっと幼い時に出雲に来ていても、きっとあなたは、子守唄なんて聞かなかっただろうね」
「……え?」
「だって。あなたが一緒にいた相手はきっと、とうさまか彦名様だもの。とうさまも彦名様も、子守唄を歌うような人じゃないもの」
狭霧は屈託なく笑ってきっぱりというが、それは、じわじわと高比古の胸を温めた。
高比古の唇は緩んでいって、とうとう、吹き出した。
「そうだな。どっちにしろ、知らないかもな。子守唄なんて」
子守唄はおろか、実の母親の笑顔も、高比古は覚えていないのだが。だが、高比古が子守唄を知らないのは、どうやっても仕方がないことらしい。知らなくても、自分は自分らしい。
幼い頃のことを振り返ったついでに呼び起こしてしまったのか、ふと耳の奥に蘇った懐かしい声があった。それは、冷たい岩室で自分を慰めてくれた岩の声だった。
『つらいことがあったのかえ? 抱いてやるから、身を横たえて寝そべりなさい』
親どころか、人は誰一人そばに寄りつかなかったが、幼い高比古には、大事に身を包んでくれた岩がそばにいた。岩だけでなく、風も、花もそばにいた。
それは今も変わることなく、高比古がどこへいこうが、風も岩も花も、どれも変わらずそばにある。それに今、隣には――。
狭霧は、年頃の娘に似合う花の色の上衣をまとっていて、裳が夕風になびくのを軽くおさえるように細腕を膝の下に組んでいる。とくに笑いかけることもないが、狭霧の横顔は穏やかで、そばにいる高比古を信じ切っているように、身構えることもない。
さっき、自分を包み込んだ白い腕を一度ちらりと見下ろして見ると、その細さに驚いた。だが、それ以上眺めることもなく、高比古も、狭霧に横顔を向けた。
(妙な関係だな――)
情けない話はしたくないから、狭霧は、腹を割って話せる相手というわけではない。
男ではなく、娘だということはもちろん知っているが、手に入れたいという衝動がこみ上げるわけでもない。ただ、なにも話さなくても、そばにいるだけでほっとする。
(兄妹って、こんななのかな)
ふいにそんなことを考えたものの、笹の葉先に似た涼しげな目を細めると、高比古は、無言のままで小さく微笑んだ。
(もともとおれはそんなものを知らないし、べつに、知らなくてもいいことだ。……いいよ。じゅうぶん満足だ)
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