雲の切れ味 (2)



 

 かろうじてその娘から岩室いわむろの場所を聞き出し、向かってみるが、「裁き」という名がついているとおり、そこは牢屋ひとやとして使われていた。


 海辺の岩場にぽっかりと口をあける洞窟の入り口には頑丈な木の柵が組まれて、中から逃げ出せないようになっている。


 時おり宗像の番人が覗きにくるが、それ以外に訪れる人はない。だから、見咎められずに近づく方法はいくらでもあった。だが、高比古の足は怖気づいていて、それ以上先へ進むことができなかった。


(いって、どうする。会って、謝りたい。悪かった、おまえは奴婢なんかじゃないといいたい。でも、それで、どうする)


 詫びたところで、番人に頼んで牢屋から出したところで――。桐瑚が宗像に身を買われた奴婢であることは、変わりようがないのだ。


 きっと近づけば、高比古を睨みつけてくるだろう。


 なにをしにきた? 謝って、それでどうする? 


 おまえは奴婢だと、現実を受け止めろと、そういうために来たのか? と、せせら笑うような桐瑚の目を想像すると、くらりと気が遠くなった。


(だから、どうする……)


 桐瑚は、宗像の奴婢だ。


 桐瑚が倭奴わぬの月の大巫女の娘だと知っているのは、高比古ではなく圭亥けいという死者の記憶だ。死霊に胸を乗っ取られるのはいやだと抗って、あの娘は、ただの奴婢だとみずからをいい聞かせていたのは、高比古自身だった。


 ……仕方のないことだ。放っておけばいいのか。


 高比古の中にいる冷静な男は、そのように助言するが、どうしてもうなずけなかった。


(違う。あいつはたしかに奴婢だったが、あいつが、奴婢に似合わないくらい偉そうで、なんていうか……誇りを守っているということは、おれも知ってた)


 出会った晩に、身分を憚ることもなく桐瑚を睨みつけてきたことや、同情して頬に手を伸ばした高比古に激昂したこと。


『なにもせずにわたしを帰すのか?』


 同情なんかするな。とっとと奪え。


 思い返せば、あの時の桐瑚の目は、そのようなことを訴えていたのだ。


 憎々しげに歪められた美しい唇のわずかな隙間から高比古へ吐いた言葉の意味も、いまならわかる。


『……逃げる気か?』


 あれは、喧嘩を売っておいて逃げる気かと、そういう意味だった。


 先に同情して、可哀そうだと手を差し伸べたのは、高比古のほうだったからだ。


 前はさっぱり意味がわからなかった言葉や仕草がどんどんと意味を得ていくのは、とても苦しかった。


 なぜ気づかなかったんだろう。どうしてわかってやれなかったんだろう。


 どれだけ独りよがりで、幼かったんだろう――。


 過去の身が切られるような苦しさも、耐えがたかった。痛みを感じているのはたしかなのに、切り刻まれている身は過去のもので、こらえようとしてもそれはすでに過ぎ去っていて、実在しない。


 高比古は、背をもたれていた岩壁に拳を押し付けた。現実の痛みを味わっていないと、気が狂いそうだと思った。


「……」


 声にならない息が、嘔吐するように何度もこみ上げる。どうにか息を整えると、高比古は桐瑚が籠められた岩場を、離れることにした。


 どうにかしないと。どうにか――。


 足がふらりと向かったのは、隼人の集落。火悉海ほつみのもとだった。





 火悉海の顔は、すっきりとしていた。


「おう。昨日は楽しかったな。またやろうな!」


 浴びるほど飲んで、真浪まなみに散々喧嘩をふっかけていたくせに。青ざめていた真浪とは裏腹に、火悉海は何事もなかったように元気だ。


 でも今、高比古に、火悉海の健やかな笑顔に笑い返せる力はなかった。


「少し、いいか?」


「……いいよ?」


 火悉海は太い眉をひそめたが、すんなり従って、高比古が先に背を向けて歩き出すと、後を追ってついてきた。


 高比古が火悉海を連れ出したのは、港の端だった。


 異国の大船のためにつくられたその港に、島の漁師が船を着けることはなかったので、大船の大がかりな入港がなければ、そこは閑散としている。


 その港は、周りを切り立った崖で囲まれていたので、入り江の岸壁に阻まれて力を弱めるため、波の音は緩い。潮騒も、ゆったりとしていた。


 並んで岩場に腰を下ろし、ざざ、ざん……という潮騒をしばらく聞いてから、話しかけた。


「なあ、頼みがある」


「なんだ? 改まって」


 火悉海は、訝しがった。だが、高比古も、どうすればよいのかわからなかった。


 倭奴で、隼人の面々を説き伏せた時の冷静さなどは、今はかけらも残っていなかった。胸で疼いているままを口に出して、相談するほかなかった。


「実は……助けてやりたい女がいる。倭奴から宗像に連れてこられていた奴婢だ」


 そばであぐらをかく火悉海は、興味深そうに目を丸くした。


「……ほう」


 じわじわとうなずいて、高比古は横顔を向けたまま続けた。


「おれがここにいるうちに、そいつを倭奴へ戻してやりたい。まだそいつにも話してないんだが、その女が望めば、阿多隼人のあの港で暮らせるようにしてやってくれないか」


「あの港に? それは構わないが――。筒乃雄つつのおの許しは得てるのか? 宗像の奴婢なら、筒乃雄のものだろう? それに、船は? どうやって島から出すつもりだ?」


「それは……勝手にする。責めは、そいつをここから出した後で負う」


 高比古の顔を覗きこんで、火悉海は太い眉をひそめた。


「だが、どうして倭奴なんだ? どうして出雲に連れて帰らないんだ? おまえの女なんだろ?」


 問われると、高比古は自嘲するように吹き出した。


「……自信がない」


「自信?」


「国へ連れて帰るって、そいつの一生を守るって約束するようなものだろう?」


「そりゃあ、妃にでもするならそうだろうな。でも、その女は奴婢なんだろ? なら、奴婢のまま手元に置けば……」


 高比古は、ゆっくりと首を横に振った。


「奴婢のままじゃ駄目なんだ。おれはそいつを奴婢じゃ……へつらってしか生きていけない奴じゃなくしてやらないと――」


「惚れたわけじゃないのか? そばに置きたいわけじゃなくて?」


 火悉海は、不思議そうにしている。


 高比古は首を横に振ると、救いを求めるように火悉海に顔を向けた。


「おれは、おかしいか? なにか、こう……連れ帰るだけでいいから妃を娶れだのといわれて、わからなくなっているのかもしれないんだが……。人って、そんなに何人もの一生を守れるものなのか。――普通はできるというのなら、おれはたぶん、そんな余裕がないんだ。できもしないことをできるといってそいつの身を掻っ攫うのが、怖くて仕方ない。そいつの一生を、おれが無駄に使うということだろう? ――人の一生ってそんなに軽いものか?」


 問いかけを続けながら、胸は、それは違うと何度もつぶやいた。


 夜ごとに高比古が受け入れる死霊の一生分の記憶は、どれも重くて、襲いかかってくる記憶の大津波は、死の瞬間の幻を見せられるより、よほど高比古を翻弄して痛めつける。


 人の一生は、そんなに軽いものではない。女を一人、妻としてそばに置くのは、それほど簡単な決断でできることではない。


 そう思って仕方ないのだが、目の裏には、今朝初めて引き合わせられた心依姫ここよりひめという娘の顔も浮かびあがる。


 まつりごとのためにどこそこの姫を娶れという命令は、これからも下されるかもしれない。そんなに大勢の娘の一生を守ってやる余裕など、寂しいほど高比古にはないというのに。


 自分のことすらよくわかっていないのに、人の幸せを守るだなんて――。


 涙が出ないのが不思議なほど、声は細くなった。


「なあ。前に、心の底から欲しいと思う女を、一生かけても探すっていってただろう? そういう女かどうかって、いつわかるものなんだ?」


「――え?」


「そいつのことは助けてやりたいとは思うが……おれは正直、まだわからないんだ。そいつを守りきるだけの自信が持てない」


「心の底から欲しいと思う女、か――。俺もそんな女、まだ出会ってない……のか、どうかもわからないな。……だよな。もし出会っていたとしても、そんなの、わからないよな」


 火悉海はしんみりといって、腕を頭の後ろに組むと、背中からゆっくりと岩場に倒れていった。



 


 火悉海の腕には、身にまとう肩布の蛇文様と同じ模様が描かれた腕飾りがあった。火悉海はその飾りを、腕から抜き取った。


「これをその女にもたせて、俺が許していると伝えさせろ。これは王族の文様だから、これを見せれば、阿多隼人の奴はいうことを聞くはずだ。それと、倭奴の奴といさかいが起きたら面倒だから、俺の女ってことにしておけよ。次に俺が戻ったら説明するからさ。あ、でも、もともと倭奴の娘なら、そこまで世話をする必要はないのか?」


「いや……助かるよ。もとの暮らしに戻るかどうかは、あいつに選ばせてやりたいから」


 大事なものを受け止めるように、高比古は手のひらを柔らかく丸めた。


「船は? うちのでよければ積み荷に紛れさせて連れ出してやるぞ?」


 火悉海は、虫のいいつくり笑顔を浮かべることもなく、いい方も温かい。今も、真剣に付き合ってくれている。それが身に沁みると、すぐに首を横に振った。


「そこまで迷惑をかけるわけにはいかないよ。筒乃雄の持ち物を盗み出すようなことなんだ。そんな手伝いをさせるわけには……」


 じゃあ、どうする気だ? 火悉海の真顔は、そういいたげだった。


 でも、それ以上手助けを申し出ることはなかった。


「まあ、いい。必要になったら来いよ?」


 それくらいの素っ気ない優しさは、今はなによりちょうどいい。


 唇を軽く噛んで笑うと、「じゃあ……」と別れを告げようとした。


「ところで、その女の名は?」


 それは、すんなりとは答えにくい問いだった。


(どう答えればいい? 桐瑚か? リコか?)


 さきほど奴婢の住みかを訪れて、桐瑚が、この島ではリコと名乗っていたことを知った。


 愕然としたと同時に、当然だとも思った。


 倭奴を攻める道具にされるのを恐れて、身の上を明かさずに奴婢という身分に甘んじていたくらいで、桐瑚は利口だ。誰かに知れているかも知れないもとの名を隠すくらいは、考えただろう。


 だが、納得すればするほど、別の想いが高比古の胸を締めあげる。


(じゃあ、どうしておれにだけ真名を教えた?)


 わかるようでわからないし、わからないようで、答えに気づいた気もした。結局、わからないままだった。


「悪い……いえない」


「いえない? 名を?」


「おまえから、そいつに尋ねてくれないか? これからどの名を名乗っていくかは、そいつに選ばせてやりたい」


「……わけありか?」


 火悉海は眉をひそめたが、肩をすくめると、笑ってみせた。


「そんなに大事にしているのに、手放すのか? ――まあ、いい」


 火悉海は、手のひらを差し出した。初めて会った時に、そういえば挨拶代わりに握手をしたが、同じ真似をするのかと高比古は手を差し出すが、火悉海がしたのは、握手ではなかった。


 火悉海の手は握られたままで、拳がつくられている。それを真似した高比古の拳に、中空で軽くぶつけると、火悉海はにやっと笑った。


「こうやって拳をぶつけ合うのが、隼人の流儀なんだ。じゃあな。いってこい」


 仕草は同族の友人を見送るようで、その目配せに、安堵した。


「……ありがとう」


 心の底から、言葉が染み出た。





 桐瑚のもとへ向かう間、高比古は、まともに地面を歩いている気がしなかった。


 でも、手にした腕飾りや、高比古を見送った火悉海のそっけない笑顔が、前へ前へと足を進ませる。


(どうする。……どうにもできない)


 海の香りのするぬるい風を吸い込み、吐き出し。気を落ち着かせながら、さきほど訪れた時に足踏みをした場所から、さらに奥へ進み、岩室へと近づきゆく。


 閉じ込められた無法者をいちいち気遣うつもりはないのか、番人はいなかった。


 岩室の入口には、丸太を組み合わせてつくった堅固な柵があった。向こう側の様子がほとんど見えないほど、隙間は狭くつくられている。その隙間から目を凝らして中を覗くと、陽の光が入らず、暗く翳った岩室が見える。そこには、小さな人影がある。人影は一つだけだった。


 柵そのものは堅固だが、柵を閉ざしている棒を外から一本引き抜いてしまえば、門のように開けることができた。


 ぎっ、ぎっ……。軋んだ木が危うげな音を立て始めると、奥で膝を抱えていた桐瑚は、じわじわと開きゆく柵へ、ぼんやりと目を向ける。でも、そこで柵を動かしているのが高比古だと気づくなり、桐瑚の顔が変わった。まるで化け物を見るように、脅えた。


 目を合わせているのがつらくて、目を逸らした。


「……出ろ」


 呼びかけると、桐瑚はふらふらと光のもとに出てくる。だが、海面に跳ね返された日差しが縦横無尽に行きかう海辺の岩場では、悲しいほど桐瑚の立ち姿は弱々しく見える。


「……こっちへ」


 見回りにくる番人に見つかって邪魔をされたら、元も子もない。


 脅える細い手首を掴むと桐瑚をその場から連れ出した。


 桐瑚は、引きずられるようにしてとぼとぼとついてくる。今の桐瑚からは生気と呼ぶべきものが遠のいていて、この娘が何度も喧嘩を吹っ掛けてきたなどとは、とうてい思えないほどだ。


 高比古が桐瑚の手を引いて向かったのは、港の端だった。


 さきほど火悉海と話し込んだ、異国の船のための船着き場ではなく、地元の漁師たちが魚を獲る時に使う小さな釣り船が繋がれる場所だ。


 たどり着いても、高比古の足は止まらなかった。港の先の藪をかき分けていき、人の気配のない小さな別の入り江を目指した。そこには、一艘、小さな帆船が繋がれていた。桐瑚のもとへ向かう前に、高比古がそこへ着けておいた船だ。


 小さな船をくくった縄のそばまで来ると足を止めて、桐瑚を見下ろした。


 目が合うと、桐瑚は顔をそむけた。桐瑚は、高比古に脅えていた。今の仕草も、まるで逃げるようだった。


 ……逃げるだなんて。これまでの桐瑚は、そんな臆病な真似は一度もしなかったのに。


 それは、すべて自分のせいだ。自分が、自分と同じように慎重に心を開いたはずのこの娘を傷つけて、臆病者に変えてしまったせいだ――。


 それを理解していたので、今は、慰めようと手を伸ばす気は起きなかった。今の桐瑚が、触れてしまえば簡単に壊れてしまいそうな危ういものに見えたせいもあった。


 みずから見本を示すように岩場に腰かけて、そばで立ちつくす桐瑚を見上げた。


「……座ろう?」


 お願いだ、話を聞いて……と、すがりつくように訴えた。


 そんな目をして誰かを見つめたのは、生まれてはじめてのはずだ。桐瑚と同じように、高比古も臆病になっていた。


 桐瑚は、ためらったあとでゆっくりと膝を折り、高比古の隣にしゃがみこむ。目の高さが、同じになった。


 火悉海といた時と同じく、落ち着きなど抜け落ちていて、実のところ、今自分がなにをしているのかもよくわからなかった。


「誰かに見つかったら、おまえはまたさっきの場所に籠められるかもしれない。時間がないんだ。だから、大事なことから話す」


 先にそのように断りを入れると、桐瑚の琥珀色の瞳をじっと見つめた。


「今朝、おれはとても酷い真似をした。すまなかった」


 頼むから、話を聞いてくれ。そう念じながら、一言一言を大事に口にした。


 それに、本当にこれでいいのか? と、こみ上げ続ける胸の疼きといさかいながら、話を続けた。


「おまえを助けたい。宗像を出て、倭奴にいかないか?」


「倭奴へ?」


 隼人の腕飾りを差し出した。桐瑚をこれ以上怖がらせることがないように、妙なものではないと示そうと心がけた。


「いま、倭奴には隼人の港がある。これは、そこを仕切っている若王からもらってきた。彼の名を出せば、おまえの身を守ってくれる。家族のもとに戻れ」


 そこまでいうと、桐瑚はかっと顔を赤らめた。苦しそうに息を吐いた。


「戻る場所などないと前にいったろう? ここで奴婢として汚れたわたしに、どのつら下げて戻れと……」


 桐瑚がそういうのは、きっと彼女が月の巫女だったせいだ。


 倭奴の巫女は神に嫁ぐので、男に嫁ぐことはないと火悉海は話していた。桐瑚が、浚われる前と同じ暮らしに戻るには、娘の純潔が必要なのかもしれない。それはすでに奪われていて、二度と手に入ることはないというのに。


 高比古が素性に気づいていると、桐瑚は知らないはずだ。だから、いちいち尋ねて不安を煽るような真似をする気は起きなかった。


「でも、おまえの国はまだあるだろう? 血の繋がった奴も生きているんだろう? ……いや、おまえがいやなら、いいんだ。もとの暮らしに戻るのがいやで、倭奴から去りたいというなら、隼人に匿ってもらえ。南方の母国へ連れていってもらえるように話しておくから――。とにかく、ここを去れ。おまえはここにいるべきじゃない。今の暮らしから、抜け出せ」


 しだいに桐瑚の目は、奇妙なものを見るように歪んでいった。


「……なにがあった?」


 琥珀色の瞳からは、ぽろりと涙が流れ落ちる。


「前と、まるで違うぞ。どうしてそんなに優しい。おまえに、なにがあった……」


「なにが?」


 熱い涙がこのうえなく美しい滴の玉に見えるほど、桐瑚は困惑顔すら美しかった。


 それほど美しい泣き顔が手に届く場所にあって、心が乱されない男などいるのだろうか。


 高比古の胸は、もうなんの命令も受け付けなかった。


「なにがって……。桐瑚を泣かせた。そんなふうに悲しませて……申し訳なくなった。悪かった」


 桐瑚が、ひくっとしゃくり上げた。


 熱い涙をはらはらとこぼして、桐瑚は高比古の瞳の奥を窺うようにじっと見つめた。それから、こみ上げる嗚咽を苦しそうにして、何度も肩を震わせた。


 目の前でしゃくり上げる桐瑚を、高比古はじっと見守るしかできなかった。それに、桐瑚は不満を口にした。


「少しは、肩を抱くとかなにかしないのか。こんなに泣いているのに……。気の利かない男だ」


 いい方は、いつもの桐瑚だ。今、先に我に返ったのは桐瑚のほうだった。高比古はまだ、気弱な声を出すしかできなかった。


「……触れてもいいなら」


「ばか……」


 桐瑚が胸に飛び込んでくるので、高比古は懸命にその細い身体を抱きとめた。


 腕の中でしゃくり上げる桐瑚は温かくて、一生守ってやりたいという奇妙な想いがこみ上げるほど可愛らしくて、手放そうとしているのが寂しい。


 こういうのが、心の底から欲しいってことなのか――。


 火悉海と交わしたやり取りを思い出して、胸は熱く火照るが、それを引き戻そうとする冷やかな声は、常に隣り合わせにあった。


 ひとしきり泣くじゃくると、桐瑚は、高比古の腕の中で恨むようにつぶやいた。


「倭奴へ向かうのは、わたしだけなのか。おまえは一緒に来てくれないのか」


 桐瑚がした問いかけへの答えは、胸を冷やし続ける心の奥底の脅えだ。高比古は笑うしかなかった。


「おれは、いけない」


「どうして」


「どうしてって、おれは……」


 唇は、それ以上口に出すのを脅えて、動きを止めてしまう。


 なぜ、桐瑚といくのを……いや、倭奴に関わりのある娘をそばに置くのを、ためらっているのか。


 なぜ、出雲にこだわって、裏切られたり見限られたりするのを恐れているのか。他人の死を、両手を広げて迎え入れまでして――。


 なぜ、出雲を出て、一人で外を歩く自信が持てないのか――。


 問いかけの答えは、いつも胸の底にあった。



 ……おれはなにもの? 精霊? 死霊? ……人じゃないの?



 帰る場所や、行くあてがないだけではなくて、高比古の背後には記憶の番人じみた不気味な問いかけが常に睨みをきかせている。


 出雲にいないと――親からも忌み嫌われた奇妙な力を、事代ことしろと呼ばれる呪術者の力だと称えてもらえる出雲にいないと、自在に息をすることすら、高比古には難しかった。


 たちまち、目が潤む。それを懸命に抑えた。


「……は」


 こらえていたけれど、涙はついに目尻から落ちて頬を伝った。


 こぼれた涙の理由は、自分を絶えず脅えさせる不気味な影のせいではなくて、細い腕をからませて泣きついてくる小さな娘に、応えてやれない不甲斐なさや、悔しさだ。


「ごめん、桐瑚。おれは……」


 情けなくてすまない。掻っ攫ってやるという言葉を待っているだろうに、応える自信がなくてごめん。こんな奴なのに、触れてしまって悪かった――。


 謝りたい言葉が、喉元までこみ上げた。


 それを口に出すことすらできずに、高比古は唇を噛みしめて、両腕を桐瑚の身体を包み込むように、そうっと回すしかできなかった。


 きっと桐瑚は、なにかを感じ取ったのだ。唇をきゅっと噛んで、悪態をつくふりをして話を変えた。


「……おまえからは、なにもないのか。おまえのもとを去るわたしに、隼人の若王の腕飾りを握らせるだけか」


 桐瑚は高比古に贈り物をねだったが、苦しそうに唇を震わせる高比古へ、もういいと諭したようなものだ。「わかったから、落ちつけ」と、桐瑚の凛とした気配に包みこまれたと思った。


 どうにかして慰めようとしたが、慰められたのは、結局、自分のほうだ。


 桐瑚を包むように丸めていた身体を起こすと、高比古の手は、出雲風に結われた角髪みづらの片方に向かった。身にまとうのは飾りや文様のほとんどない素朴な出雲服で、宝玉などで首回りや腕を飾ることもない高比古についている飾りは、耳もとにしかなかった。


 髪から出雲風の髪飾りを抜き取ると、まぶたを閉じて、それを頬に抱く。


 しばらく経って、飾りに温かさが移ったと感じてから、桐瑚へ差し出した。


「念を込めた。おまえの身を守るはずだ」


 桐瑚を守りたいという気持ちをすべて込めた時、出雲風の髪飾りには、たしかに不思議な力が移っていた。


 それは、いつだったか、狭霧の手へ戻してやった伊邪那いさなの王子の忘れ形見に似ていた。伊邪那の王子が遺したそれは、今も狭霧の胸元に忍ばせられていて、狭霧を温かみで包み、守っている。自分が、狭霧を守るお守りじみたものを造り出したのは、とても奇妙な気分だった。それを、自分の手を離れようとする娘に贈るのも、不思議な気分だ。


 だから、それを桐瑚の手のひらに握らせると、慎重に告げた。


「必要がなくなったら、捨てろ」


「さっさと捨ててやる。こんなもの」


 桐瑚は吐き捨てるようにいったが、目は寂しげに潤んでいる。それは、前に、離れるのを寂しがる胸とは裏腹の文句を、二人でいい合った時に似ていた。


 ……相変わらず、喧嘩の続きだ。いや、終わりだ――。


 喧嘩といいつつ、互いの寂しさを癒し合うように抱き合ったことも思い出すと、桐瑚を抱きすくめる腕に、力がこもっていく。


「……桐瑚」


 桐瑚も、伸ばせるぎりぎりのところまで腕を伸ばして、高比古の背中を抱いていた。


 だが、それも終わりがくる。高比古の耳元にやってきた海風が、告げた。


『見つかったよ! あなたがさっきここへ隠した小舟の持ち主が、舟を探しはじめたよ』


 岩場に運び込んだ小さな船は、藪の向こうの港から失敬してきたものだ。


 高比古に従って見張り番をやってのけた海風に、かろうじて感謝を告げるが、胸は暗く沈んでいた。


(ありがとう……)


 これが、最後か――。


 桐瑚の泣き顔を覗き込んで、高比古は丁寧に笑いかけた。


「人が来る。早く出ろ」


 高比古が目配せをしたのは、人の気配のない入り江で波に揺らいでいる、小さな帆船だ。それを見やって、桐瑚はいくぶん気弱にいった。


「一人で荒海を渡れと?」


「おまえは乗っているだけでいい。おまえの船を押す風は、おれが送る」


 桐瑚をどうやって宗像から出すかと考えた時から、そのように風の精霊に話をつけていた。


 誰かのためにそこまで大仰に霊威を使うのはこれが初めてだったが、熱心に頼むと、風はすぐに了承してくれた。前に、花の香りで祝福した娘が乗る船を押すのなら、と。


「風を?」


 桐瑚は訊き返すが、それ以上深く尋ねることはない。自棄やけになったような危うげな苦笑を浮かべた。


「あなたの周りには、不思議な風が吹くのだったな。でも、どうでもいい。このまま海に沈んでも、わたしは……」


 桐瑚が見つめる小舟の向こうには、広大な青海原あおうなばらが水平線の彼方までえんえんと続いている。そんな場所に、たった一人で粗末な船に乗って出るのは、桐瑚があやぶんだように死を覚悟すベきことで、無謀だ。


 だが、高比古は桐瑚の無事を疑わなかった。泣き笑いをするような苦笑を浮かべて、いい諭した。


「ばかだな。今おまえが海に沈んで息絶えても、誰もおまえを覚えていない。忘れ去られるだけだ。悔しかったら生き延びろ」


 桐瑚は、帰る場所を奪われたとはいえ、倭奴の王族の血を引く姫だ。


 身の上をすべて慰めるように、語りかけたつもりだった。


 高比古が桐瑚の正体を知っているという話は、桐瑚とはいっさいしなかった。

 

 ひっく――と、桐瑚は発作を起こしたようにしゃくり上げた。でも、一度だけだ。


「……いく」


 桐瑚は、月の色の瞳に凛とした輝きを取り戻していた。そして、みずから高比古の腕の中を出ていく。自分から小舟に寄って、水面で頼りなげに揺らぐ舟の上に、小さな足を踏み入れた。





 風たちが桐瑚の乗る船を押し、みるみるうちに遠ざけていくのを、高比古は岩場に立ちつくして見送っていた。


『あの子はまかせて』


『すてきね、きれいな子ね』


 離れ離れになりゆくというのに、桐瑚を乗せた船を押しやる役目を引き受けた風の精霊たちは、浮かれていた。いつか、二人で目覚めた早朝に運んできたのと同じ花の香りや花びらまでをたずさえて、祝福するようにやってくる風もいる。


(どうしてだよ――。おれとあいつは、別れ別れになったのに。もう小屋に戻ってもあいつの不機嫌顔は待っていないし、怖い夢を見た後に現実を思い出させてくれる温かい腕も、なくなってしまうのに……)


 切なく愚痴をいうが、入れ替わり立ち替わり吹き去っていく風は、爽やかに笑うだけだった。


『悲しいの? なら、どうしていかせたの?』


『いかせたかったから、いかせたのではないの?』


(それは……)


 神風に煽られるようにぐいぐい遠ざかる小舟は、もう沖まで流されていて、船影を目で追うのも難しくなる。


 小さな帆が、水平線の青さに混じって見えなくなりゆくと、次の不安が押し寄せた。


(どうしよう、桐瑚を島から出してしまった)


 やるべきことを終えた今、次にしなくてはならないことを考えると、気が滅入った。


(筒乃雄に……いや、その前に須佐乃男だ。まずいことをしたと伝えないと)


 考えると、迷いが生まれる。迷いはどこまでも広がりゆく波紋となり、高比古を取り囲んで動けなくするが、最後には、いいわけをするように目をつむった。


(これでおれは、狭霧以下だ。……いいよ。どうせ、もともと並べるような身の上じゃない)


 王宮へ戻ろうと、背後を振り返った。その時、時が止まったと思った。


 目の前に、大きな人影があった。


 そこにいた人物は、老年のわりに逞しい肩を海風に誇らしげに晒して、柔和な笑みを浮かべて悠然と立っている。――須佐乃男だった。


 腕組みをして、妙に人懐っこい笑顔を口元にたたえて、老王は高比古を見据えている。


 目が合うなり動きを止め、息を詰まらせた高比古に苦笑して、須佐乃男は声をかけてきた。


「あの娘は、筒乃雄の奴婢のはずだろう? どこへやった」


 すぐさま核心を突かれるので、血の気が引いたと思ったが、ただへつらうには、今の状況は悔しすぎた。


(なぜ、ここにいる。なぜ……そのようにおれを見張り続ける)


 出雲を出てから散々動向を見張られ、試され続けていたことを、今さら思い出した。


(落ち着け。焦ったら負ける――)


 懸命に高ぶった気を落ち着かせると、一歩一歩を踏みしめながら、老王のもとへ歩み寄った。そばまでいくと目を伏せて、粛々と告げた。


「勝手をして、申し訳ありません。あの娘は、元の場所へ戻しました。故郷は倭奴でした」


 ――さあ来い。嗤え。


 高比古は身構えていた。だが、須佐乃男の応えはえらくあっさりとしていた。


「……そうか」


 それだけだ。


 見放されたのか、それとも別の意図か。


「責めないのですか? おれは、筒乃雄の宝を無断で奪うような真似をしました。それに……あの娘は、倭奴の王族の娘でした」


 わざと怒りを煽るようにそこまで告げても、須佐乃男はくすりと笑うだけだ。


「王族の娘? おまえは稀有な娘に縁があるな」


 たちまちかっと頭に血がのぼった高比古は、目を血走らせて須佐乃男を真っ向から睨みつけた。


「ええ、王族の娘です。あの娘を使えば、倭奴にいくらか揺さぶりをかけることができたはずです。なぜ使おうとしなかったと咎めないのですか!?」


 血を吐くような大声を出したが、須佐乃男は笑顔を崩さない。


「叱られたいのか? 妙な奴だな」


 それどころか、高比古をそこへ置き去りにするようにも大きな背を向けてしまった。


 高比古は激昂していた。顔を真っ赤にして叫び続けた。


「おれを咎めてください! おれは今、なにも生まないことをしたんです。むしろ混乱を、この手でひとつ生んだんです。あの娘におれと……助けを買って出た隼人の若王の飾りを持たせました。出雲と隼人の飾りを共に手に携えて、あいつは倭奴へ戻ったんです。もしかしたら、親のもとへ! 出雲と隼人が仲良く宗像にいると、倭奴へ知らせたようなものです。馬鹿な真似をしたんです!」


 高比古が睨み続ける老王の肩は、ふつふつと小さく揺れていた。……笑っているのだ。


 老王は振り返ったが、目はまるで、愉快な見世物を見るようだ。


「それが、おまえの生み出した混乱か? いたく些細な混乱だ。おまえは貧乏くさいなあ」


 からかい文句で返されるので、高比古は追いかけるような仕草をしたままで、そこで動きを止めてしまった。


「は?」


 貧乏くさい。


 よく意味のわからない言葉ひとつで勢いを削がれて、その場で身体を凍りつかせた高比古へ、須佐乃男は穏やかな目配せをした。立ち止まった老王は、胴をゆっくりと高比古へ向けると、逞しい腕をふわりと胸の下で組んでみせる。


 老王は、今の奇妙な言葉のなぞ解きをした。そこで、じっと身構える高比古をあやすようだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る