青波が割れた後 (2)
「飲めよ。全然減ってねえじゃねえか」
「はい。いただきます」
高比古がちびりと酒を口に含んだのを見届けると、石玖王はあぐらに頬杖をつき、大きな身体を丸めて渋面をした。
「海峡の封鎖か。海とはいえこれだけ狭かったらよ、誰もが考えるだろうな。だがな、俺たちが考えるってことは、大和も考えてるってことだ。ここは、必ず狙われる。自分たちの脅威となる場所を、誰かに封じられる前に獲っておこうってな」
石玖王は、この砦の長としてここで一年暮らしている。高比古がさっきいったことなど、すでに考えていただろう。
静かにうなずく高比古に、石玖王はにっと不敵に笑って話を続けた。
「問題なのは海だけじゃねえ。それより、筑紫……対岸が気になる」
石玖王は、弾みをつけるように盃を煽って空にした。それから、陽に焼けて黒くなった顔で、まっすぐ高比古を向いた。
「しばらくおまえは筑紫を回ってたんだろ?
「遠賀は……おれが寄ったのは隼人の阿多族がつくった浜里ですが、阿多へいって話をつけたのが功を奏して、そこに出雲の砦を築く話が進んでいます。砦造りを指揮する木の匠は、すでに遠賀に渡ったかと――」
「技をもつ奴がいっても、実際につくる手が要るだろう。人は足りるのか?」
「はい。遠賀の隣国、倭奴から乱をよけて逃げてきている民が大勢いますから。彼らを遠賀へ移すことになりましたが、そのまま遠賀に住みついて、阿多の浜里を広げてくれれば、里は栄えるでしょうね」
「倭奴か。滅びのさなかと聞いたが……俺たちにとっちゃ倭奴様様だなぁ、おい」
いい方は軽口じみていたが、いっていることは重い。石玖王は、出雲がとるべき外交戦略の話をはじめた。
「どうせなら、倭奴を丸ごとぶんどっちまえばいいのに。土は肥えてんだろ? 農地を増やすには、もってこいの良地じゃねえか」
高比古は、微笑した。
「須佐乃男様は、阿多にやれと」
「阿多か。まあ、そのほうが楽か。隼人の民ってのは、要領よく地元の民とうまくやるからなあ」
天を仰いで砦を飾る
「北筑紫か……。勘だが、俺は海峡より、どうにかするならそっちだと思うがねえ。これは俺の意見だが、広かろうが狭かろうが海は海。こんな場所、封鎖はできねえ。無理をして戦船を並べたところで、そんなことをすれば大戦のもとになるに決まってる」
「これはおれの勘ですが。彦名様も、この海峡の封鎖を考えていないと思います」
「彦名が? そうなのか?」
「たぶん。彦名様は、とくに瀬戸の動向をうかがっています。そこまで瀬戸にこだわるからには、この海峡ではなく、瀬戸の海を封じたいのではないかと――」
「はあん、小賢しい。本命の、さらに奥に仕掛けようとしているとは、あいつらしいねえ」
夜空を見上げて、石玖王はくつくつと笑った。
同じ夜空を見上げて、高比古はつぶやいた。
「おれがここでしようと思っていることですが、まずは、筑紫と瀬戸がどうなっているのかを探ります」
「探る?」
「渡航の稽古も兼ねて、兵にここと遠賀を行き来させるつもりです。その時に、うまく話を拾えればいいんですが――」
そこまでいうと、高比古は夜の浜辺をちらりと見やった。
「死者の霊に出くわして、声が聴ければ、一番手っ取り早いんですが」
「死者?」
「ああ、あなたは嫌いでしたね。おれは死霊の声を聴くんですよ」
それは、前に高比古と石玖王が口喧嘩をした時に原因となったことだ。
石玖王は、言葉を濁した。
「そりゃ、好きではないが……いや、はっきりいう。俺は好きじゃねえ」
それから、彼は高比古をまじまじと見つめた。そのうえ。
「なあ、おまえさ、死霊だの悪霊だのと頻繁に出くわしてよ、怖い夢とか見ないのか? 夜中に小便にいけなくなることとかねえのかよ」
冗談か本気かわからないような心配をされるので、高比古は苦笑した。
「亡霊より、生きている人間のほうがおれは怖いです」
「たしかに。ちがいねえ」
石玖王は気を良くして、それから何度となく高比古の盃に酒を注いだ。
「おまえ、やっぱり変わったよ。うまく育ったなあ、うん。出雲は、血筋ではなく意思で繋がる国だ。今日から俺のことも、おまえの親の一人と思え。一度そうと決めたら、俺はちゃんと面倒を見るからな?」
そんなふうにいって、石玖王ががっはっはと笑うので、妙に照れ臭くなり、高比古は目を逸らした。
「はい、ありがとうございます」
石玖王の顔から目を逸らしたついでに、粗末ながらも賑やかな野天の宴の様子を目で追った。
砦の外に焚かれた松明の炎の下には、ここに赴任することになったすべての兵がいて、互いに酒を酌み交わしている。
それから高比古は、奇妙なことに気づいた。ここにあるべき青年の姿が一つ足りなかった。引島で会っておきたいと、ここへ来る前から思っていた相手の姿が――。
「石玖王。そういえば、
阿多の地で、大和を寝返って出雲側につくと決めた青年、佩羽矢は、帰りの船旅の途中で石玖王に預けられることに決まった。
彼は、巫女の手でおこなわれた神事を経て、高比古の影役を務めることを望んだ。
たしかに、彼と高比古は見かけが似ていたが、高比古の影を務めるには経験が足りないと、彼は稽古に放り出されることになった。佩羽矢が預けられることになった先が、戦技の第一人者と謳われる石玖王のもとだった。
石玖王は、あっさりと答えた。
「佩羽矢? あいつなら、砦にはいねえよ」
「いないとは」
「対岸にある長門の里で寝泊まりしてる。いつもなら朝になったらこっちに渡ってくるんだが、今日はたまたま非番だ」
「長門の? なにかやらせているんですか」
「いいや。あいつが望んだ」
(どういうことだ?)
首を傾げていると、石玖王は、ああそうか、と唇をひらいた。
「そうか、いってなかったな。そういや、あいつ、祝言をあげたんだ」
「祝言?」
「ここに置いてかれて、十日後だったかな。長門の里の娘と出会って、びびびっと来たんだと。上役が俺になったもんだから、あいつ、俺のとこに来てさ、その娘を妻にしたいから、その子の親に口添えしてもらえねえかってさ」
「……はあ?」
「で、俺とあいつで海を渡ってよ、娘の親のところに妻問いにいって、その子も一緒に出雲にいくことになったよ。色白の可愛い子だよ。あいつ、けっこう手が早いな。おまえも見習ったらどうだ。かくいう俺も見習いたい……。羨ましいよ、ああいう、なにも考えてなさそうな奴は」
「はああ」
「俺はな、駄目なんだ。女を見ると妙にあがっちまって――。綺麗な若い娘だととくにそうでさ、うちの母ちゃんみたいな、女にはあんまり見えねえいかつい女じゃないと、どうもしっくりこねえ」
そんなふうに、石玖王が自分の后のことを話し始めるので。高比古は、意味ありげな目配せを送っておいた。
「そんなことをいっていいんですか。今の話、奥方にばらしますよ?」
石玖王は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「てめえ、脅す気か? 男と男の話は、女には口外しないってのが基本だろうがよ!」
「真に受けないでください。冗談ですよ」
高比古はすぐに種明かしをしたが、豹変した石玖王には、忍び笑いを漏らさずにいられなかった。
高比古が佩羽矢と再会したのは、翌日だった。
高比古が着いたと誰かから聞き知った彼は、対岸から引島へ渡ってくるなり会いにきた。
二人が顔を合わせるのはひと月ぶりで、それほど月日は流れていない。でも、高比古の目に、佩羽矢は様変わりしていると映った。
「高比古! 久しぶり!」
高比古を探して駆け寄った佩羽矢の黒目は、きらきらと輝いていた。
「似たような身なりをすると、やっぱり俺たちって似てるよな。見分けがつくように、髪飾りかなにかを変えてもらおうかな」
祖国を捨てて出雲に生きることを誓った彼は、いまや衣も髪型も出雲風になっている。
彼の顔つきは、たしかに高比古に似ていた。でも、雰囲気はまるで似ていなかった。話し方も、高比古とは似ても似つかぬふうに快活だ。
「なあ、実は俺、祝言をあげたんだ」
「ああ、聞いたよ。長門の娘だって?」
「そうなんだ。しかも、名前が……
「妹と?」
「ああ、運命としかいいようがない! 俺が阿多にいったのも、出雲にいくことになったのも、すべて、ここであの子と出会うためだったんだ」
「はあ……」
「出会った瞬間に、この子だと思ったんだよ。照流もそうだって――。もうすぐ出雲にいくから、今だけの恋かもしれないと思ってたんだけど、照流は、俺と離れることなんかできないし、一緒にいくってーー!」
「おい、落ちつけ」
聞いてもいないうちから矢継ぎ早にのろけ話をされるので、苦言を呈しておく。でも、佩羽矢の目から輝きが薄れることはなかった。
「なあ、出雲で俺に住む場所が与えられるなら、そこに二人で住んでもいいよな?」
「それは、問題ないだろうが」
「子供は三人くらい欲しいんだけど、そこって五人で住める広さはあるかなあ」
「知るか、そんなこと」
呆れ口調で吐いた高比古の手を、佩羽矢の手はぎゅっと握りしめる。彼は、熱心に高比古を見つめた。
「なあ、姫様はいま、
まぶしいものを見るように、高比古は目を細めた。
「狭霧なら、
「意宇? それって、もういっこの都かよ? 杵築じゃないのかよー! 頼む、高比古。俺に、意宇にいく用事をくれ! 姫様に照流を会わせたいんだ!」
「狭霧に? どうして……」
「照流は、薬の知恵があるんだ。だから、姫様のところに預けられないかなと思って――。あの姫様は出雲の薬師なんだろう? あっ、もちろん、ただでとはいわない。土産の薬草の種も、ちゃんと用意したんだ!」
「だからって――。その娘を薬師にする気なのか?」
佩羽矢は力強く首を横に振った。
「薬師じゃなくてもいい。薬草園で働く農婦でも、侍女でも――」
「でも……。おまえが暮らすのは石玖王のそばだろう? おまえの住まいは、杵築か石見国になるんじゃないのか。狭霧がいるのは意宇だから、そうなったら、おまえとその子は離れて暮らすことにならないか」
「そりゃあ、もちろん、一緒に住めるようには頼むけど……」
一度、佩羽矢の声は弱々しくなった。でも、高比古を見つめる目は、それまで以上に強くぎらついた。
「それでも。戦地に旅立つことだってあるだろうし、杵築なり石見国なりに、俺がずっといるかどうかはわからないだろう? 俺は、照流が安心して暮らせる場所をつくってやりたいんだ。だから、姫様に頼みたいんだ。きっと姫様なら、ちゃんと照流の面倒を――」
高比古の目の前にいる青年は、守るべきものを手に入れた男の顔をしていた。
奇妙なものから自分の目を守るように、高比古はもう一度目を細めた。
(妻か――)
佩羽矢と別れると、自分の妻のことを思い出した。
今回の引島行きは、阿多で安曇の機嫌を損ねた時からある程度決まっていた。
出雲へ着くなり赴任地へ――という休む暇がほとんど与えられない役目だったが、阿多から遠賀を経て、出雲へ戻るまではひと月以上あったので、高比古には心の準備をする時間がたっぷりあった。
でも、妻はそうではない。半年の別離の後で、再び一年の遠方赴任を命じられたと伝えると、妻、
「また、お行きになってしまうのですか――」
高比古とその姫は、祝言をあげたとはいえ、宗像と出雲という国が繋がりをたしかめ合うために結ばれた、
出雲へ迎え入れてからも、心依姫とはほとんど会う機会がなく、高比古はその姫のことをまだよく知らなかった。
でも、いつのまにか、その姫は自分に恋をしたらしい。
月に一度か二度くらいは顔を見にいかないとまずいだろうと、半ば役目をこなすように高比古が離宮を訪れるたびに、心依姫は目を輝かせて帰りを喜んで、着替えるといえばその手伝いをしたり、夕餉をといえばそばについて給仕をしたりと、かいがいしく世話を焼いた。
でも、高比古にとっては、なぜそんなふうに世話を焼かれるのかがわからなかった。
着替えくらい一人でできるし、飯も一人で食える。むしろ、そばに始終いられるほうが不便だった。妻にはいわなかったが――。
旅立つ少し前に別れをいいに離宮を訪れると、心依姫はそっとしがみついてきて、目を潤ませた。
「いってらっしゃいませ、兄様。御無事にお戻りなさることを、心依はなにより……」
「ありがとう。また寂しい想いをさせるが、すまない。許してくれ」
それは、なんとなく男はこういうべきだと思って口にした言葉だった。
すると、涙ぐんだ心依姫は苦しげに笑った。
「いいえ、お役目ですもの。仕方ありません。そのお言葉だけで、心依は――」
(言葉だけでいいのか? 心から思ったわけでもない、形ばかりのこんな言葉で?)
自分を慕う小さな姫を泣かせたくない、悲しませたくない、そうするべきではないという想いに従って、それっぽい真似をしようと心がけてきた。
そうして一年近くが経ったが、夫婦の暮らしというのが、高比古はいまだによくわからなかった。
「じゃあ、いくよ」
別れの朝、しがみついた心依姫をそっと押しやろうとすると、その時に限って、細い指はかたくなに袖を放そうとはしなかった。
「その、兄様、お願いが――。御子が、欲しゅうございます」
小さな声でそう頼んだ心依姫は、この世の終わりといわんばかりに、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
同じ寝所に入ることはあっても、二人はまだそういう仲ではなかった。
心依姫がしたのはその先の催促だが、娘の身でそういうことを口にするのは、とても気恥かしいものなのだろう。
(二度目をいわせては、いけないんだろうな)
それはなんとなく理解したが、やはり高比古はよくわからなかった。
だから、こうすべきだと思った正答の返事をするのを、ためらわなかった。
「約束するよ。無事に帰って、次にここに来たら心依を抱く。だから、もういわなくていい。気持ちなら、わかったから――」
穏やかに笑ってそういうと、心依姫はほっとしたように笑った。
「……はい」
幼い姫の嬉しそうな顔を見ると、胸の底が凍った。
それから、自分が妻としたやり取りを、いまさらふしぎがった。
胸は苦しがって、ぶつぶつと文句をいった。
そんな形ばかりの答えでいいのか? それだけでは、たぶん問題は解決しないぞ。
それに答える声もあった。
抱けば、今よりも優しくなれるよ。たぶん。
すると、それを馬鹿にする声も沸いた。
道具みたいに、使えば愛着が湧くからか?
(道具か――)
泣いて喜ぶ姫の小さな顔を見下ろしているのが、気味悪くて仕方なかった。
(おれみたいのが相手で、おまえは、本当に貧乏くじをひいたよな。おれは、こんなふうにしか思えない奴だよ。こんな奴が相手なのに、そんなに喜んで――)
ここにいるのは、苦痛だ――。そう思った。
だから、長門への赴任は好都合だった。遠すぎず、近すぎず、逃げるにはちょうどいい場所だった。
引島へ渡ってから半月が過ぎ、石玖王と高比古が率いる小勢の合同稽古がひと段落すると、石玖王と部下たちは引島を離れることになった。
石玖王と一緒に出雲へ戻ることになった佩羽矢は、妻にしたという娘を連れていた。そして、高比古のもとへ来て娘を引き合わせると、そわそわと用事をねだった。
「その、前に頼んでた、姫様へのことづけは――」
「あぁ、そうだったな」
とはいえ。そういわれても、狭霧への用事はとくになかった。
(狭霧なぁ)
その姫の名を聞いてつい目がいった先は、袖に結わえた黄色の染め紐。それは、何度か狭霧の手首に巻かれたものだ。
紐の端をひいて結び目を解き、腕から抜き取ると、手渡そうと腕を浮かせた。
「これを渡しにいくように頼まれたといえ。意味はないが、狭霧にだけわかる特別なものだといい張れ。狭霧に会って理由を聞かれたら、正直に話せ。あいつは理解するから」
そして、その娘のことを思い出すなり妙な胸騒ぎがして、むしょうに腹立たしくなった。
(狭霧か――。杵築を出て意宇に移ったって、いったいどうして――)
目の裏に彼女の笑顔がふっと浮かぶと、苛立ちがつのった。その笑顔は妙なほど美しくて、綺麗だった。でもそれは、朝や夕の黄昏時に一瞬だけ訪れては消えていく儚い光に似ていて、そんな笑顔をしていることを咎めたくてたまらなくもなった。
『いったい、なにを考えている』
『……なにも考えてないよ』
その笑顔をする狭霧と交わした会話を思い出すうちに、いつのまにか、高比古はしかめっ面をしていた。そのうえ手は、佩羽矢の手のひらの上で宙に浮いたまま止まっている。
「どうしたんだよ、高比古。それを俺にくれるんじゃないのかよ?」
「あ、悪い……」
はっとして、指につまんだ黄色の染め紐をまじまじと見つめたが、つい、その手を引っ込めてしまった。
「……これはやめて、ほかのものにしよう」
思えば、その紐が狭霧の手にある時には、厄介なことばかり起きた。
迷信は信じないほうだが、それをみたび狭霧のもとに置くのは気がひけて、結局、腰にさしていた小刀の玉飾りを渡すことにした。紐を切って、小さな玉石がつらなった
「ありがとう! 恩に着るよ。よかったなあ、照流! これで姫様に、おまえのことを頼みにいけるよ!」
勢い余って、彼は妻にしたばかりの娘に抱きつくので、
「やめてください、高比古様が呆れています!」
娘は、恥ずかしそうにその腕を押しやった。
やがて、石玖王の船団は引島を離れる時を迎える。
出航間際の船の上から、石玖王は高比古へ大声で呼びかけた。その王は、我が子を見るような優しい目で高比古をじっと見ていた。
「そのまま偉くなれ。それで、一番上までのぼりつめろ。おまえが一番上までいけば、
たしかに、そのとおりだ。
出雲の血が一滴すら流れていない高比古が、もしも出雲の王にまでのぼりつめたなら、他に例のない大出世だ。でも、なぜかその言葉は胸にひっかかる。
(兵の希望、か――)
そして、出航の時がくる。船団は、浜辺から遠ざかり始めた。
「じゃあ、次の一年、頼んだぞ!」
高比古へ檄を飛ばした石玖王は、がっはっはと大声で笑っていた。
波打ち際まで見送りに出た居残りの兵たちに混じって、しだいに波の上を遠ざかる船団を見つめながら、高比古はふうと肩で息をした。
(いってしまったか、がっはっは大王……。寂しくなるな)
石玖王の乗る船のそばをいく船からは、佩羽矢が大きく手を振っていた。佩羽矢は妻となった娘の肩を抱いていて、遠目からもそうとわかるほどにんまりと笑っている。
(幸せそうにしやがって。おまえに教えてほしいよ。妻をもつ幸せってなんだ? 子供は三人欲しいって? 子供を……家族をもつ意味ってなんだ?)
家族と暮らした覚えがない高比古にとって、それは未知のものだった。
それから、ふいに疑問がこみあげた。
(一番上にのぼりつめて、兵の希望になって――それから、おれはどうするんだろう?)
でも、咄嗟に眉をひそめると、振り払うようにこめかみを振った。
(ばかばかしい。家族どうこうなんか、おれには関係ない。おれは、大国主を継げればそれでいい)
その時。ふっと耳もとに疼いたのは、狭霧の声だった。
『高比古がもっと幼い時に出雲に来ていても、きっとあなたは子守唄なんて聞かなかっただろうね。だって、あなたが一緒にいた相手はきっと、とうさまか彦名様だもの。とうさまも彦名様も、子守唄を歌うような人じゃないわ』
そういって、くすくすと笑った狭霧の顔も目の奥に蘇る。
(ああ、そうだ。子守唄なんか……家族なんか、おれはもともと要らない。ふつう、子供は親を選べないが、出雲は、身寄りのないおれでも欲しい親を選べる国だ。おれは大国主の子になりたい。だから――)
きゅっと唇を結んで海上を見つめた時、すでに石玖王の船団は見えなくなっていた。港を出て、出雲を目指して進む向きを変えたので、陸影に隠れたのだ。
(……どうでもいい。いまのおれに、余計なことを考える余裕はない)
踏ん切りをつけると、身体の向きを砦の方角へ変えた。
そこには、半月のあいだ一緒に過ごした戦友を見送る兵たちの、和やかな笑顔がある。その一人一人へ鋭い目配せを送りながら、高比古は颯爽と砂浜を横切って、砦へ向かった。
「友は去った。戦陣の稽古を始める。船を用意。頭を切り替えろ」
命令が下されると、浜は急に慌ただしくなる。
稽古に使う船の支度を始める者、武具を取りに戻る者。兵たちの身動きで、あちこちの砂が跳ねる。浜に、軍の居場所らしい猛々しい気配が戻ったのを見届けると、高比古はふと足を止めた。
青い海を振り返ると、その彼方には陸が見えていた。それは、海峡の対岸、筑紫の地だ。
(北筑紫か――。向こうの内情がわかれば、すこしはやりやすくなるんだが)
海の彼方を見つめる高比古の横顔を、海風が通り抜けていった。
その風は、高比古には重く感じる。そこに、暗い気配が混じっているせいだ。
浜という海と陸の狭間には、ふつうの人の目には見えないものがよく集まってくる。
それらが力を得て、姿を現すのはたいてい夜中だが、昼間のいまも、その片鱗が海風にあることは、高比古にはわかった。
暗い想いが混じる重い海風を見つめるうちに、笹の葉を彷彿させる涼しげな目は鋭さを増していく。いつしか、彼方の陸地を睨む目は、斬りつける刃のように変わった。いまや彼の顔は、ふつうの人の目に視えないものを操る時の暗い影を宿していた。
(死か――)
高比古の目は、いずれ訪れる真夜中を待っていた。
(来いよ、亡霊ども。天にのぼれるように
高比古が望んだのは、亡者を亡者と成した死の恐怖を共に味わい、肩代わりするのと引き換えに得られる力だ。
他人の死を味わうのは苦しいが、彼らから得る知らせは、高比古を今の位に押し上げたものだ。みずからそれを待つことに、いまさらためらいはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます