青波が割れた後 (1)



 高比古が赴任地、長門ながとの引島にたどりつくなり、石玖王いしくおうは海上での模擬戦をもちかけた。


「よう、策士様。遠路はるばる、ようこそ来やがったな」


 引島は、出雲から続く海岸線からすこし離れた海上にある小島だ。その北の浜で、石玖王は五艘の小船に乗せた選りすぐりの兵たちと共に、青波を乗り越えてくる出雲の船団を待っていた。


 その王は、出雲連国を成す小国の一つである石見いわみ国の首長。武具造りが盛んな石見国からは武人もよく輩出されるので、武の国と知られていた。中でも、石玖王はずば抜けた巨体を誇る大男で、出雲一の豪傑と謳われている。


 頭二つ分高い場所から高比古を見下ろす目は睨むようで、いい方には棘があった。


「俺たちは一年かけて、長門から遠賀までの潮の流れを覚えた。おまえなら一晩で覚えるかも知れんがな。天才策士様とは違う凡人の俺たちでも、一年かければいったいどれほどのことができるのかと、たしかめさせてくれよ」


 天才策士様と凡人の俺たち――。それは皮肉だ。


 顔を合わせるのは一年ぶりだというのに、突然喧嘩じみた模擬戦をふっかけられるのは心外だった。


 しかし、出雲王の全権を預かって軍を率いているとはいえ、策士の高比古と、一国の首長の石玖王とであれば、位は石玖王のほうが上だ。年も、石玖王は大国主や彦名より年上。そのうえこの王は、大国主や彦名と何度も戦を共にして、出雲のいまを築いた有力者の一人だ。


 仕方なく、高比古は従うことにした。


「わかりました」


 なにより、こういうふうに相手がひどく不機嫌な時は、逆らわないほうがいいものだ。





「互いに、船は五艘。五対五だ。開始の合図で浜を出て、南の方角にある浦……本砦のある浜を目指す。先に浜に上がるか、海上で相手を囲んだほうが勝ちだ。いいか?」


「はい」


「潮と風の読み方と、船の速さ、それから戦術で勝負だ。いいな?」


 そこまでいって、高比古がうなずいたのを見届けると、石玖王はみずから選んだ指折りの部下たちを振り返って大声を出した。


「いくぞ、野郎ども。あいつに目にものを見せてやるぞ。あのくそ生意気な坊主の鼻っ柱を、ぶっつりへし折ってやれ!」


 野太い雄叫びで応える石見国の兵たちと石玖王のやり取りを横目で見て、ようやく高比古は、ああ、そういうことかと意味を解した。


 そういえば、前に高比古は石玖王の機嫌を損ねたことがあった。


(あれはたしか、伊邪那いさなの王子を捕えると決まった宵だっけ。でも、一年前のことをいちいち蒸し返さなくても……)


 いや、じっくり考えれば、この王の機嫌を損ねたことはほかにもあった気がする。


 胸の中でぼやきつつ、高比古も自分の手駒となる兵と船を選ぶことにした。


 出雲から、高比古が率いてやってきた小勢は五十名。数は少ないが、今回連れてきたのは、戦になれば兵を率いる立場にある上位の武人ばかりだ。高比古と彼らに課せられたのは、いつか起こるかもしれない戦へ備えるという役目だった。


 やがて、高比古側と石玖王側の五艘の小船が、そこに乗り込む兵の手によって浜に並べられる。模擬戦の開始となる太鼓を打ち鳴らしたのは、浜に残ることになった残りの兵たちだった。


「合図だ。いけぇ! 沖へ船を押し出せぇ!」


 石玖王の大声と共に、両者の小さな船団を海へ送ろうと、力強く船を押す兵たちの足が海底の砂を蹴る。


 石玖王と同じく、高比古は、五艘からなる小さな船団の長として船の上にいた。


「水が深くなった。船を押していた奴らを引き上げてやれ。港を出ろ。話はそこからだ」


 高比古が指示を出した時、波は、船を押す兵たちの胸のあたりまで上がっていた。


 命令に従って船にあがった兵たちはびしょ濡れになっていたが、身のこなしは鮮やかだ。船が転覆しないように位置を選んで、そこから素早く船に飛び上がり、それを待ちうけていた仲間の手から櫂を受け取ると、自分の持ち場に腰を下ろす。


 それは、彼らの経験と稽古のたまものだ。高比古が率いる小さな船団は陣形を成し、港を出て、波に乗った。


 島と入り江に囲まれた港は潮の流れがほとんどなかったが、外に出ると一変する。


 兵たちは手際良く櫂を操るものの、船はなかなかうまく進まない。


 先頭の船に乗った高比古は、舳先から海面を覗きこみ、やれやれと息を吐いた。


「この海の潮の流れは、めちゃくちゃだな。石玖王が自慢するわけだ」


 天才策士様とは違う凡人の俺たちでも一年かければ……と、かの王が肩をそびやかしていた理由を悟った。そして、石玖王から模擬戦に誘われた理由もわかった。


(……はいはい。負ければいいんだろう? 負ければ)


 高比古の船で指揮官の役目を与えられた武人は、波を覗きみつつ息を飲んだ。


「噂にたがわず、ここの波はすごいですね。いろんな方向へいくさまざまな流れが混じっている。扱いやすい流れを見つけたと思って潮に乗っても、なかなか速さが出ません。……向こうの船は速いですね。あの王は、本当にこの海域を攻略したんだ」


 武人の声は、感嘆混じりだった。


 たしかに、石玖王が率いる船団はうまく潮を見切っていた。先頭をいく石玖王の船に乗った潮見役と呼ばれる男が、じっと海を見つめて兵たちに指示を送っていたが、その男の采配の賜物だろう。


「この分では、速さでは向こうにかないませんよ。北風さえ吹けば……」


 武人は、神頼みでもするような目で中央の帆柱を見上げた。船の真ん中に建つその柱に、帆はくくりつけられたままだった。その日は、波と同じく風も方々へ向かって吹き荒れていたので、帆をひらくほうが船にとっては危なかったからだ。


「あんなふうにけしかけられて負けるなんて、悔しいなあ。いい風さえ吹けば……」


 背後にいた武人が舌打ちをするのを、高比古は諌めておいた。


「負かしたいんだよ。あとでおれが、参りましたと頭を下げれば納得するさ」


「でも、来たばかりの俺たちと向こうじゃ、はじめから話にならないじゃないですか。それなのに……」


「たかが模擬戦だし、向こうがこの海を行き来する技を掌握したのは事実だ。同じ出雲の軍が海を制する技を得たなら、文句をいう必要は……」


 そこまで話すと、ふと高比古の目は海の彼方を向いた。


 敷島と筑紫に挟まれた狭い海峡では、水中と同じく海の上も、あちこちへ行き交う風の交差路になっている。青波の上を渦を巻くようにして唸りながら通り抜ける風を、高比古はじっと見つめた。


「あれは……」


 それから、そっと片腕を浮かせた。


「帆をひらく用意をさせろ」


 宙に浮かせた左腕は、「この船に倣え」というほかの四艘のための合図だ。


 背後にいた武人は、怪訝そうに眉根を寄せた。


「帆を? この強風の中で? 煽られて転覆でもしたら、あなたを見下したがっている石玖王の思うつぼでは……」


「いいから。進路を沖へとれ。ちょうどいい波もそこにある」


「波?」


 武人は半信半疑というふうだった。


 潮を選びぬき、櫂を見事に操った石玖王の船団は先をいき、すでに小さく見えていた。後方で潮に四苦八苦する高比古の船団を振り返っては指をさして、石玖王はがっはっはと豪快に笑っている。


 しかし、高比古が率いる船団には、相手の嘲笑を気にかける兵はすでに一人としていなかった。


 策士がなにかを仕掛けようとしている――。櫂を操る兵の目にも、指揮官として各船に乗った武人の目にも緊張が走り、それは高比古の一挙手一投足をじっと追いかけている。


「帆縄をほどけ。まだ広げるな。押さえていろ」


 高比古の声は、張り上げるような大声ではなかった。しかし、食い入るように指示を待つ兵たちは、すみやかに動いた。


「まだだ、焦るな。もう少し。風はいまに変わる……」


 波に翻弄される船の上で、高比古は海の彼方をじっと見つめる。そして、ある時、不敵に笑った。


「こっちの勝ちだ」


 ばしゃん、と背後で青波が弾けた。船縁に叩きつけられたせいで、船の周りの水面は泡立てられて白くなった波で飾られていた。


 ふん、と高比古は鼻で笑った。


「北風が来るぞ。帆を張れ」


 その瞬間。海上をめちゃくちゃに吹き荒れていた風が、一つの大流にまとまった。背後から吹いた風を、勢いよく広がった白い帆が捕まえてばさりと唸る。北風に押された五艘の船は、またたく間に速さを増し、海の上をやすやすと滑っていく。


 石玖王の船団でも、急に吹いた北風にあやかろうと帆を広げる支度が始まった。しかし、強風に煽られてなかなか作業は進まず、手間取っている。


「くそっ。風を呼びやがったのか? 妖しい技でも使いやがったのか!?」


 見る見るうちに石玖王の船団に追いつき、あっという間に追い抜いた高比古の船団を睨みつけて、石玖王は悔しがった。


 石玖王の船団のそばをすり抜けた高比古は、自分が率いる兵たちを見渡して、はじめて声を張り上げた。


「二艘は背後に残って風上を取れ! 先頭の船は前に周り込んで、全船で四方を包囲。矢をつがえて帆を狙え」


 若い青年の声が、荒れ狂う波の上で強風を裂く矢のように響いた。


 高比古を乗せた小船はさらに速さを増して、水面に渦を巻いた潮の流れを利用して石玖王の船団の先に回り込む。そして――。兵が櫂から弓矢に持ち替えて相手を狙い終わると、高比古は最後の指示を出した。


「帆を畳め。終わった」


 いまや、石玖王の船団はこれ以上先へ進むのを諦めていた。


 櫂を漕ぐ手をとめた船乗りは、呆然としていた。


 先頭の船で顔を赤くして悔しがる豪傑に向かって、高比古は淡々と呼びかけた。


「こっちの勝ちですね、石玖王。これが模擬戦ではなく実戦だったら、おれは火矢を撃たせて、帆柱を燃やしていました」


 勝ちを宣言した高比古に、石玖王は巨体を震わせて歯ぎしりをした。


 石玖王の船団にいた兵たちも悔しがったが、小さな船の上にすっくと立つ高比古を見つめる彼らの目は、どちらかといえば恐ろしいものを見たというふうだった。


「あの方は、いったい何者だ……。一年かけてこの海に慣れた潮見役が、てんで歯が立たないなど――」





 勝負がついたとわかると、背後から追いかけてきていた残りの船団がゆっくりと間合いを詰めて近づいてくる。


 足並みが揃うと、ふくらんだ船団は本砦のある浦へ向かい、浜に船底をつけて上陸する。


 ばしゃん、ばしゃんと水音が響く中、ほかの兵と同じように船から水際に飛び降りた石玖王は、しきりに太い首を傾げていた。


「すげえな、こりゃ。ほんとに勝っちまうんだもんなあ。ただの生意気なくそガキじゃないなんて、めんどくせえことこの上ねえな」


 ぶつぶつというものの、浜にあがった石玖王は足を止め、自分より後に船を降りた青年を探す。


 ざばり、ざばと水音を立てて波打ち際を歩く高比古を見つけると、石玖王は顎で合図をしてそばに呼び寄せた。


「腹が立つが、さっきのはおまえの勝ちだ。本当に、おまえって奴はむかつくガキだよなぁ」


 船上げの喧騒の中で、石玖王は渋々とそういったが、高比古の顔が勝利に酔うことはなかった。


「いえ――。いい風が吹いたのは偶然だし、さっきのように風を読むのは事代(ことしろ)にしか……もしくは、おれにしかできないことです。おれがいる時になにができても意味がありません。最上の策であったとしても、万能ではないんです」


 高比古は思いつめるような真顔をして、言葉を探しながらいった。


「でも、あなたのやり方だったら、全員に教えることができます。頼みの風が吹かない時の波の選び方にも、陣形にも無駄がなかったし、考え抜かれていたと思います。あなたの軍が身につけた技を、おれが連れてきた連中にもぜひ教えてやってください。早く戻りたいでしょうが、出雲に帰るのはその後で……」


 熱心に頼み込む高比古に、石玖王は「お?」と黒髭に覆われた口をぽかんとあけた。


「おまえ、どうした?」


「どうした、とは」


 へんなことをいったつもりはなかった。高比古は正直に石玖王の戦術を褒めたはずだったし、けなすような言葉を使って、ことを荒立てることも避けたはずだ。


 石玖王は目を丸くして、それから、にやりと笑った。


「ははあん、さては、誰かにこっぴどく叱られたか?」


「はあ? なんのことでしょう」


(誰かにこっぴどく叱られた?)


 その言葉を聞いて、ぎくりとするような記憶も、高比古にはなかった。


 高比古が引島行きを命じられたのは、位を得ているくせに勝手な真似をするなと安曇にこってりしぼられたせいだが、そのせいで自分の中のなにかが変わった気はなかった。


 もしも誰かが関わることで、大きく自分が変わる瞬間があったとしたら――。考えるなり、高比古は目の奥に張り付いて離れないものを思い出した。でも、覚えているその顔も、叱っている顔ではなかった。それは、賢王と呼ばれる男の嘲笑だった。


 その男は今なお力を顕す出雲の老王で、名は須佐乃男。その人を出し抜こうとしたものの、まったく歯が立たずに嗤われ続けたことがあった。高比古が何かにつけて思い出すものといえば、その時に老王からされ続けた暗い笑みだった。


(そうだとしたって、石玖王がいうのは間違いだ。おれは須佐乃男からこっぴどく叱られたわけじゃなくて、子供扱いをされて、馬鹿にされただけだし)


 黙りこむ高比古に、石玖王は吹き出して、肩を大きく揺らし始めた。


「なあんだ。俺がへし折ってやろうと思ってたその鼻は、とっくに誰かにへし折られてたみてえだな。前のおまえだったら、他人がなにをうまくやろうが、おれのほうがうまくできる、ザコどもめ、の一点張りだったのに。丸くなったもんだなあ!」


「ザコどもめ? そんなことをいった覚えは……」


 がっはっは。と、豪快に笑う石玖王は、高比古のいい分を聞こうとしなかった。


「あった、あった。ザコどもとはいってなかったかもしれねえが、そういう目をしてた」


「目? それ、いってないじゃないですか」


「そういう目をしてたんだ。いったのと同じだよ」


「同じじゃ……」


「同じだっつったらそうなんだよ。たった一年で変わるもんだなあ。背も伸びたし、顔つきもなんとなく変わったし。こりゃあ、将来有望だ」


「……いってないのに」


 喧嘩を売られたり褒めそやされたりするより、昔のおまえはこんなだったと過去をもちだされるのは、なにより腹が立つ。いや、恥ずかしい。


(うるさい。がっはがっはと妙な高笑いしやがって。がっはっは大王め)


 悔しがってそっぽを向く高比古の肩を、石玖王はばしんと叩いた。


「高比古、悪いことはいわねえから、そのまま大きくなれよ。武王として君臨した穴持なもちはな、兵の絶大な支持を得た。あいつは兵に厳しかったが、何年もぶっ続けで遠方にやらせるようなことは絶対にしなかったし、出雲に帰っている間は家族といる時間をもたせたりして、下っ端にいたるまで、兵が困ることはさせなかったんだ」


 昔話を愉しむように、石玖王はにんまりと笑った。


「ただ腕がよくて、偉そうにしていても下はついてこねえもんだよ。見習うべきところは見習えよ」


 それは説教だ。恥ずかしい過去をいまさら咎められる気分で、高比古は苦し紛れにいった。


「おれが大国主に見習うべきところなら、すべてです。できることなら、そっくり全部真似したいです」


 高比古にとって、武王、大国主は憧れの存在だ。その人と比べて自分が勝っていると思える部分など、何ひとつない。


 しおらしく本音を吐いた高比古を、石玖王は笑い飛ばした。


「そりゃぁ駄目だ。他人を真似たところで無駄だ。てめえでやんなきゃ」


 がっはっは。愉快そうに笑うと、石玖王は砂浜の奥を顎でさした。


「まあいい。話は後にしよう。さあ、ここが、おまえがこれから一年暮らす本砦だよ。暑い日には海で泳ぎ放題、魚も獲り放題だ。稲田がねえから、魚か獣でも狩らないと食うもんがねえともいうが、なかなか風光明美で、雲宮に見劣りしない離宮だろう?」


 砂浜の奥に建っているのは、柱を組み上げて葦で屋根を葺いただけの掘っ立て小屋だ。百人以上の寝床がつくれるほど巨大は巨大だが、広大な敷地を誇る武王の居城、杵築の雲宮とは比べようがなく、離宮などとは呼べない簡素な場所だ。


 砦を見つめる高比古の肩をもう一度ぽんと叩いて、そばをすり抜ける間際に石玖王は宴に誘った。


「さあ、長居の支度を済ませてこいよ。終わったら、酒でも飲もう」


 石玖王の髪は首の後ろで束ねられているが、黒髪には少々うねりがあり、紐で結わえると、強靭な首を飾る黒いたてがみがあるように見える。眉も濃く、黙って腕組みをして立っていれば、獣のごとき荒れた雰囲気がある。でも、不思議と目は澄んでいる。太い黒眉の下から覗く目は丸くて、人懐っこい童の雰囲気があった。


 石玖王が、位の上下にわけ隔てなく情に厚くて、兵からの人気が高いということを、高比古はよく話に聞いた。でも、石玖王はこれまで高比古を気にいらなかったようで、会えばいつも半ば敵対するような言い合いになった。だから、石玖王が兵に人気があると聞いても、高比古はいまいち信じられずにいた。


 思い返してみれば、高比古ももともとこの王が気に食わなかった。もっといえば、この人なら従ってもいいと心から思える相手は、大国主と彦名の他にいなかった。


 だから、ほかの誰からなにかを誘われようが、いつも断っていた。戦地で士気を高めるために開かれる宴などは自分に必要がないと思っていたし、宴に意味はなく、興味のない相手とわざわざ話す必要はないとも思っていた。


 いまでも高比古は宴が好きではなかった。でも――。


「はい、わかりました。では、後で――」


「おう。じゃあな」


 打ち解けたように笑って遠ざかっていく石玖王の背中を見送りながら、高比古は胸で思った。


(宴か、面倒だなあ。でも、あの王と話したら、面白い話が聞けるかもしれない。おれが知らなかったなにかが、わかるようになるかも――)


 胸の底には、酒宴への小さな期待が生まれていた。




 

 住まいとなった砦が粗末なら、宴ももちろん粗末だ。


「これはな、長門の奴らがたまに届けてくれる酒なんだ。大事に飲めよ」


 出雲からやってきた後任の小勢を迎える祝宴をひらいた石玖王は、高比古を隣に座らせて、みずから盃に酒を注いだ。


 夕暮れ前に始まった酒宴で、まず話題になったのは、昼間におこなわれた模擬戦のことだ。


「なあ、いったいどうやって北風が吹くとわかったんだ? 本当に妖しい技を使ったわけじゃねえのか?」


 石玖王から、手の内を明かすように詰め寄られるので、高比古は丁寧に説明した。


「風の動きを読んだだけで、妖しい技を使ったわけでは――」


「ふうん? なら、稽古すれば俺たちにもできるものか?」


「たぶん、無理です。おれ以外の事代ことしろにもできないと思います」


「なら、いったいどうやったんだよ。ほんとに妖しい技じゃねえんだな?」


「なにを妖しいと呼ぶのかはおれにはわかりませんが、今日おれがやったのは、風を見切っただけです。海の水にも風にも、上下左右に重なる平たい層があります。層によって流れ方は違うので、それを読み解いてわかったことを繋げていけば、いまにどんな風が吹くかが読み解けるんです」


 石玖王や彼の部下たちは、興味津々というふうに高比古の言葉に耳を傾けるが、表情は一様に頼りない。息継ぎをするついでに話をやめると、高比古は一同の顔を見まわした。


「あの、わかりますか」


「いいや、さっぱりわからん」


「じゃあ……簡単な例えを。人で考えてみましょうか。人がまず住みつくのは、肥えた農地があるなり、海や山の恵みのそばなり、食べ物に困らない場所です。風も人と同じで、風にとって都合のいい場所を選んで流れます。人のように、集まり過ぎて狭くなるとほかに流れたり、混乱を起こして渦を巻いたりします。そういう風の性質を知った上で大地を見渡せば、狙いどおりの風が来る時を見極めることができます。ここまで、わかりましたか」


「……さっぱりわからん。それって、妖しい技とは違うのか?」


「もういいです――」


 高比古は早々に説明をするのを諦めたが、石玖王が諦めるのも早かった。


「ああ、俺ももういいわ。凡人の俺たちにはわからん、難しい話だ」


「またそれですか」


 石玖王が、天才策士様と凡人という皮肉をまだ続けるので、高比古はすねておいた。


「とにかく。おれは、事代の中でもとくに目がよくて、なにもしなくても風が視えます。とはいえ、風を見極めようが、都合のいい風が吹くためにはいろいろな偶然が重ならなければならず、いつ来るかはわかりません。昼間、おれが勝てたのは運がよかったからです。幸運を見逃さないことはおれにできますが、奇跡を起こすことはできません」


 すでに理解は諦めたとばかりに、石玖王は柱に背をもたれて楽な姿勢をとっていた。それでも高比古の話には興味があるふうで、盃を唇に近づけながら、彼は話を続けた。


「ふうん。起こすことはできないのか。事代って、妖しい技を使うんじゃないのかよ」


「それは、ことによります。事代の技は天地のことわりを読み解いて利用するものなので、大がかりなことはできません。巫女なら、もしくは――」


「巫女? ああ、神野くまのの呪女か。巫女と事代って違うのか? なにが違うんだ。巫女には霊威じゃなくて神威があるって聞くが、霊威より神威ってやつのほうが上なのか?」


「なにを霊威、神威と呼ぶかは、おれもよく知りません。大きく違うのは、巫女が力を顕す時は、必ずなにかしろがいることです」


「代?」


「もともとそこにあるものを利用する事代と違って、巫女はなにもない場所に力を生みます。代は、そのための仲立ちです。術者の寿命や血や髪など、さまざまらしいですが、とくに強い力を顕す時に好まれるのは、女か子供のにえと聞きました」


「贄……? それって――」


「使う技によって違うそうですが、おれはあまり知りません。代を用意して技をかけても失敗することがあるとかで、うまくいくかどうかも読めないそうです。正直にいうと、おれはあまり興味がありません。贄なり生贄なりを使わないと成り立たない上に、運任せに見えて――」


「はああ……生贄。それも、女子供の……。俺、神様に願い事をするの、やめよう――」


 石玖王は大きな身体をぶるっと震わせてみせた。


 そのまま話が尻すぼみになったので、話題は次に、今後の戦略へと移った。


「で、彦名はなにをしようとしてんだ? ここ引島は、友国、長門に間借りしている対筑紫、対瀬戸の出雲の外港だが。おまえをここに送りこんだのは、彦名になにか考えがあるからなんだろう?」


「……わかりません」


「わからない?」


「おれをここに向かわせたのは、安曇です。だから、大国主の意図でしょう」


「穴持の?」


「おれは、ここで一年過ごせというほかは、なにも命じられていないんです。なにもない状態から、最良の策を探せとのことかもしれません」


「最良の策? ふうん、聞いてみたいね。おまえならここでどうする?」


 酒で唇を濡らしつつ、石玖王は人懐っこい黒眼でちらりと高比古を見やる。その頬や、口もとを飾る黒髭は、砦に焚かれた炎を浴びてあかあかと照っていた。


 小島には闇が落ち、本来の色を失った森の緑や砂浜はどれも炎の色に染められていた。


 手にしていた盃の形を指でいじりながら、高比古は暗くなった夜の海を眺めた。そこには、真っ黒になった陸地が見えている。敷島と筑紫島の間にある海はとても狭く、夜闇のもとですら対岸の影が見えるほどだった。


「まだわかりませんが――。地の理を見ただけなら、まずは、この海峡を封鎖する方法を探すでしょう。瀬戸と、筑紫の東岸にある隼人の一族が大和側についたそうです。大和の狙いは、新しい海の道をつくることで間違いないでしょう。大和の港から瀬戸を通り、日向ひむかの助けを借りるなどして、遠賀までたどりつければ、そこで取り引きされる大陸産の宝を手に入れる場をもてるのですから。とはいえ、彼らの海の道には明らかな欠点があります」


「明らかな欠点?」


「はい。この海峡を封じられれば、大和と瀬戸から繋がるその海の道は、どこにも出口のない死に体になります」


「だが、どうやって封鎖する? 狭いとはいえ、じゅうぶん広いぞ? 神様に頼んで、和邇わにでも並べるか」


 戦の真剣話に石玖王が冗談を添えるので、高比古はふっと肩の力を抜いた。


「魚を意のままに動かす技を神野の巫女が知っているなら、話が早いですね」


 軽口で返した高比古に、石玖王はがっはっはと大笑いをした。


「ばあか。そんなものをもし知ってるなら、戦に使う前に海民に教えてやれっつうんだよ。人が魚を操れれば、海民は魚を獲り放題。暮らしが楽になるだろうに」


 石玖王が気にしたのは、浜里に住まう民のことだった。


(位の上下にわけ隔てなく情に厚くて、兵に慕われる、か――)


 陽気に笑う豪傑には、砦をあかあかと照らす炎のような明るい雰囲気があった。






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