武王の娘

 須勢理すせりの死から五年が過ぎても、まだ人々は武王の妃の死を悼んで、なにかと噂をした。なにしろ武王の妃、須勢理姫といえば、数々の武勇伝を残すほどの王妃だったのだ。


 出雲の西方に位置する裏の王都、杵築きつき。その王宮は雲宮と呼ばれる。宮の裏にそびえる小山がよく霧に覆われるので、まるで宮そのものが雲を生み出して見えるから、というのがその由来だった。


 戦を司る武王が住まう杵築の雲宮には、戦に関わるすべてが揃っていた。兵舎、牢屋、それから、宮の周りに点在する武具の匠たちの集落……。


 雲宮に出入りして須勢理の噂をするのは、たいてい戦に関わる者たちだ。


「須勢理様のお姿は忘れないよ。戦が原で軍馬にまたがって、男勝りに大弓を引き……」


「剣を掲げて我々を率いてくださった。あのお姿はまさに刃の女神だ」


「武王、穴持なもち様のお妃にふさわしいかただった」


「穴持様ではなく、大国主おおくにぬしとお呼びすべきだ。あの方こそ出雲最高の武王。出雲を大八島一の大国へと仕上げる軍神よ!」


 そういう噂声を聞きつけると、狭霧さぎりはつい早足になってしまう。……できるだけ早く通り過ぎてしまえるように。


 向かう先はいつもの場所、輝矢かぐやが住まう館だったが、それは広大な敷地をもつ雲宮の西の端にある。狭霧が暮らす館は、父王の居場所である本宮のすぐ隣、つまり、雲宮のほぼ中央に位置していたので、輝矢に会いにいくためには雲宮を半分横切らなくてはならない。名折れの武人の住まいも兼ねている巨大な兵舎も、兵舎を囲む林も、馬屋も、侍女たちが住まう館も炊ぎ屋も……。王宮とはいえ、武人も侍女もが住まう雲宮は、塀と壕に囲まれた巨大な集落のようで、とにかく広いのだ。おかげでここにはふだんから人が大勢いたが、今日はとくにそうだった。


(もう! なんでこんなに人がいるのよ。今日にかぎって)


 兵舎は武人たちでやたらとにぎわっているし、炊ぎ屋から立ちのぼる湯気も、今日に限ってはいつもより多い気がする。


 でも、いくら人出が多くて、いつもより多くの目がそこにあるとしても、狭霧は誰かに姿を見られるわけにいかなかった。少なくとも、輝矢のもとへたどりつくまでは。


 ゆく手に人影が見えるたびに、さっ、さっと木陰や建物の柱に身を潜めて、やり過ごす。


 すれちがった人の目が自分ではないべつの方角を向いているのをたしかめるやいなや、走りやすいように桜色の裳をつまんで物影を飛び出し、山吹色の帯を風にはためかせて……。


 狭霧は林の木立のすき間をぬって、通い慣れた館を目指した。


 




「輝矢、わたしよ」


 輝矢の館を守る番兵がよそ見をした一瞬の隙に、狭霧はこっそりと戸口へ身を滑り込ませた。


 息を切らして忍び込んだ狭霧と目が合うと、そこにいた輝矢はぷっと吹き出した。


「まったく……きみは盗賊になれるよ」


 敵国の王子を閉じ込める牢屋じみた館とはいえ、ここが王子のための住まいであることには間違いなかった。造りはけっして悪くない。滑らかに磨き上げられた壁には華やかな飾り布がかけられていたし、調度類も豪奢で、狭霧が暮らす宮とくらべてもひけをとらなかった。


 ただし、少々狭かった。戸口からたった数歩飛ぶだけで、狭霧が輝矢に抱きつくことができるほどに。


「元気だった? 会いたかった、すごく」


「狭霧が会いにきてくれて嬉しいよ。七日ぶりかな」


 十五歳になっても、狭霧と輝矢の関係は昔のままだ。誰より好きな幼馴染で、一緒にいて一番居心地の良い相手。無邪気に抱きつく狭霧は娘という年になり、抱き返す輝矢も童と呼べる身体ではなくなった。輝矢の背丈はいつのまにか狭霧を追い越して、顔立ちもずいぶん少年らしくなった。でも、もともと輝矢は大人びていたのだ。狭霧にとって輝矢は、幼い頃からまるで変わっていなかった。


 いや……。輝矢の背中を抱きしめる指先に力を込めると、狭霧はそっと目をつむる。顎を輝矢の肩に乗せると、ちょうど鼻先に輝矢の髪飾りが触れた。後ろで一つにまとめた彼の髪には、染め紐を編み上げた髪飾りがついていた。


 童顔のわりに、抱きつくと肩は広い。それがなおさら狭霧には心地いい。


 抱きついたままぼんやりとしていると、狭霧を抱きしめる輝矢の腕にも力がこもった。


「狭霧に会いたかった」


 耳元に落ちてきた輝矢の柔らかい声は、ますます狭霧をうっとりとさせる。


 でも、輝矢の腕からは少しずつ力が抜けていく。


 お互いの顔が見えるほど身体が離れてしまうと、輝矢は寂しそうに笑った。


「いつまでこんなふうに狭霧に会えるんだろう。……きみは大国主の娘だよ。いまに名のある武人か豪族に娶られるだろうに」


「しないわ、結婚なんか」


 狭霧はぶうっと頬を膨らませた。


「ううん、嫁ぐなら絶対に輝矢よ。……そうよ、そうすればいいのよ」


 そこまでいうと、狭霧はぱっと顔を輝かせた。


「ねえ、わたしを輝矢の嫡姫むかひめにしてよ。輝矢もわたしのことを好きでしょう? わたしを妻にしてしまえば、輝矢は正真正銘の出雲の男になれるわ」


「まさか。そんなことが許されるわけがないよ」


 輝矢は苦笑するだけで、考えるふりすらしない。狭霧はつむじを曲げてしまった。


「どうしてよ。わたしじゃいやなの?」


「まさか」


 輝矢は苦笑したままで小さく首を振る。それもなんだか狭霧は気に食わない。ますます頬を膨らませて文句をいった。


「出雲の掟は、『強いものが上に立つ。出雲に血の色は無用』なのよ。伊邪那(いさな)の王子だって、輝矢はとっても賢いんだもの。立派な出雲の男になるわ」




『強いものが上に立つ。出雲に血の色は無用』




 それは、出雲に暮らす誰もが唱えられる呪文のような言葉だった。


 出雲では、親がどれだけ高い地位を得ていようが、それが子供に引き継がれることはない。


 畑を耕す者であれ、魚を獲って暮らす者であれ……どんな生まれの者でも、ひとたび力が認められれば、貴人に成り上がることができた。王と同じ服を着て肩を並べて歩き、王に成り代わることすらできる。


 力を持つ一族の子供たちは、剣技なり智恵なりを学ぶために師匠を得る場合が多いので、完全に平等かといえばそうではないが……血筋だけですべてを引き継ぐ仕組みは、出雲になかった。


「出雲は、敵国から連れてこられた奴婢だって王様になれる国なのよ。輝矢だって……」


 狭霧は誇らしげにいい切るが、輝矢は目を伏せて、儚い笑みを口元に浮かべるだけだった。


「僕には悪い考えしか浮かばないよ、狭霧。『出雲に血の色は無用』というのが掟なら、きみは大国主の娘であろうと、特別な恩恵がまるでないってことだ。僕の嫡姫になったって、きみはいまのように僕のもとへ通うだけだよ。牢屋へ」


「でも、あなたは輝矢よ。伊邪那の王子で、出雲のひじりたちが口を揃えて賢いと認める子!」


「そして人質だよ。戦をしている同士だったらね、人質が賢いっていうのは恐ろしいことなんだよ。……僕は頭が悪いふりをしていればよかったんだ。もっと早く気づけばよかった」


「もう!」


 あまりにも輝矢の応えに手ごたえがないので、狭霧は声を大きくした。


「もう少し明るく考えようよ。最近雲宮に出入りしている男の子の話を知ってる? その子なんかね、海賊だったのよ?」


 海を荒らす、ならず者だったという少年。


 狭霧がその少年と面と向かって話したことはなかったが、彼の身の上は侍女たちの間で暗い噂になっていた。わざわざ耳をそばだてなくても、自然と狭霧の耳に入ってくるほどに。


「名前は高比古たかひこっていうらしいけど、彦名ひこな様がつけたって話よ」


「彦名様が?」


「ええ。立派な名前よね、海賊のくせに」


 彦名というのは、武王と呼ばれる大国主と対を成す出雲の王だ。


 武王として戦を司る大国主と同じように、政を司って出雲の表の王都、意宇(おう)の主を名乗り、東方の王宮に住まう。出雲は、二人の王によって動かされる国だった。


「だからその子は、彦名様と一緒に意宇の宮で暮らしているんだって。最近は雲宮でも姿を見かけるわ。……わたしは好きじゃないわ。つーんとしててね、偉そうなの」


「ふうん」


 輝矢はわずかに顎を引くと、凛とした目つきで床の木目を追った。


「じゃあその高比古が、彦名様の後継として宮に入ったっていう子なんだね。噂は僕も聞いたよ。きっと世継ぎにふさわしい力があるんだろうけど、出雲の力の掟は凄まじいね。もとは海を荒らす賊だろうが、出雲で生まれた者じゃなかろうが、力があれば王の跡継ぎにさせるなんて」


「だから! 輝矢だって平気よ。輝矢ほど賢い子なんてほかにいないわ。わたしを娶ってしまいなさいよ。それで出雲の国を支える立派な若者になればいいのよ!」


 すると輝矢は、ひどく小さな声を漏らした。


「そうだね。そのほうがいいのかな。……でも」


 片膝を抱え込むと、輝矢は一度、きゅっと唇を噛む。


「狭霧なら許せる? もしも五歳で伊邪那へ連れていかれて、敵国の姫というだけで閉じ込められて、敵の象徴として十年も謗りを受けあとに、伊邪那のために生きるなんて」


 あまりにも輝矢の口調が重いので、狭霧はぽかんと口を開けてしまった。


「え?」


 聞き返されると、すぐに輝矢は落ち着いた微笑を取り戻す。


「冗談だよ。……そうだよね。妙なわだかまりなんて捨てるべきだよ。僕には狭霧がいてくれるっていうのに」


 それでも、輝矢の声はまだ妙な影を帯びている。


 輝矢の言葉の意味は、狭霧によくわからなかった。狭霧がいてくれるから、とすてきなことをいってくれているのに、どこか素直に喜べない重さがそこには隠れている。


 狭霧はふうとため息をついた。


「輝矢は賢すぎるのよ。時々、なにをいってるのかわからないわ」


 すると輝矢は、くすっと笑っていい換えた。


「僕は出雲が嫌いなわけじゃないけど、好きでもないんだ。でもきっと今に好きになれるよね。狭霧のことが大好きだから。……そういうことだよ」


 


 


 恋というのがどんなものなのか、狭霧はよく知らない。


 年頃の侍女たちが色めいた噂をしているのを時たま見かけるが、彼女たちの目を輝かせるほどの華やかな気持ちというのもまだ知らないので、輝矢に対する想いがなんなのかもよくわからない。


 ただ、輝矢に大切にしてもらうと胸が弾んでしかたない。


 高床の館から地面へ続く階段を下りゆく狭霧の足は、雲の上を歩くように浮ついていた。


 涼しい顔で輝矢の館から出てくる狭霧を見つけるなり、番兵たちはあんぐり口を開けた。


「さ、狭霧姫、いつのまに!」


 驚嘆顔と目が合っても、狭霧のにんまり顔は崩れない。


「こんにちは、ごきげんよう!」


 機嫌よく彼らの前を素通りすると、うきうきと大路に出た。


「しまった。また怒られる……」


 背後では番兵たちがうなだれていたが、それも狭霧の耳には入らない。彼らの目を盗んで忍び込み、輝矢に会うという目的を果たしさえすれば、こっちのもの。あとでばれようがかまわない。と、そう思っていたからだ。


 だから足取りも軽く、もと来た道を戻り、炊ぎ屋の前を通り過ぎて、兵舎にさしかかっても、狭霧の胸は弾んだままだった。兵舎の門前にいた男と、目が合ってしまうまでは。


「……まずい」


 思わず逸らしてしまった狭霧の視線の先には、一人の青年がいた。そこにいたのは、安曇あずみだ。


 安曇の齢は三十半ばだが、幼な顔をしているせいか、彼は齢より若く見える。狭霧の姿を見つけるなり丸顔の優しい目を歪めた彼は、これでもかと肩を落とした。間違いなく、彼は悟ったのだ。狭霧が身構えた理由を。


 数年前だったら、目が合うなり逃げていた。でも、逃げたところで狭霧が逃げ込む場所などたかが知れている。どうせあっというまに捕まって説教を食らうことは目に見えていたので、狭霧はみずから安曇のそばへ近づいていった。頬を膨らませた狭霧の顔は、いったいなにが悪いのよ、といわんばかりの仏頂面をしていたが。




「狭霧、いい加減に牢屋へ通うのは……。これだけ足しげく通われては、いくら私でもごまかしきれないよ」


 安曇は暗いため息を吐くが、狭霧はベーっと舌を出しておく。


「いいわよ、ごまかさなくたって。わたしが誰に会いにいったってわたしの勝手よ」


 狭霧と安曇のこういうやり取りは日常茶飯事といえばそうで、とくに珍しい光景ではない。でも今日に限って、ものめずらしそうに狭霧を見つめる目がいくつもあった。安曇の背後には、大勢の武人が並んでいたのだ。


 さっきここを通り過ぎたときも、今日は特別に賑やかだと思ったが、よくよく見渡せば本当に大勢が集っている。しかも、そこにいる武人たちの身なりはかなり上等だ。名は知らなくても、どこかで見たことのある顔がちらほらとあった。


 だから、狭霧は突然はっと緊張してしまった。その人たちがここにいる理由に気づいたのだ。


(きっと、出雲中の名のある武人が集ってるんだ。……今日、なにかが雲宮であるんだ)


 いや、集っているのは武人だけではなかった。


 安曇と諍う狭霧の姿に気づいて、ゆっくりと寄ってくる大きな人影があった。


 両耳の上で出雲風の角髪みづらに結った髪も、顎にたくわえた髭も白い。その人の顔に刻み込まれた皺は深く、老齢の風体をしているが、老体には若者にもひけをとらない活力がみなぎっている。その人は、かつて出雲に繁栄をもたらしたという老王で、名を須佐乃男すさのおといった。


 位は現王の彦名に譲って、離宮で隠棲しているが、いまでも諸王から一目置かれていて、賢王と呼ばれる人物でもある。そして、狭霧の祖父だった。


「おじいさま、いらしてたの!」


 はにかんだ狭霧が小さな歩幅で近寄ると、須佐乃男は目を細めて微笑んだ。


「久しく見ないうちにずいぶん娘らしくなったものだ。相変わらず安曇を困らせておるのか?」


「……困らせてなんか」


「そのとおりです、須佐乃男様。まったく困ったおてんばで」


 いいわけをしようと唇を尖らせた狭霧を遮って、先に口に出したのは安曇だった。


 須佐乃男は肩を揺らして笑い飛ばす。


「けっこう。須勢理とあの男の娘だ。おとなしい姫が生まれるわけがない」


 須佐乃男があの男と呼ぶのは、もちろん狭霧の父王である大国主だ。須佐乃男は、狭霧の母である須勢理姫の父王なのだ。


 すでに齢は六十を超えているが、足腰に弱った様子はなく、仕草は颯爽としている。でも、年は年だ。狭霧は、須佐乃男の顔を覗き上げると尋ねておいた。


「おじいさま、お身体はどう? 遠出なさって平気?」


「彦名も穴持も、なかなか隠居させてくれんのでなあ。爺をこき使いよって」


 須佐乃男は冗談を織り交ぜつつ愚痴をいって、背後を振り返る。


 そこには、太柱で支えられた兵舎の大宮があり、その壁の前で貴人たちが立ち話をしていた。須佐乃男がちらりと見やった場所にいたのは、狭霧にも見覚えのある貴人だ。


 武人ではないので背格好は細いが、そのぶんまとっている衣の繊細な飾りがよく似つかう。意宇の宮の主である出雲の表の王、彦名だ。


 彦名の姿まで見つけると、狭霧はぽかんと口を開けた。


「彦名様までいらしてるの」


 彦名も須佐乃男も、出雲という大国を動かす筆頭だ。表の王都と呼ばれる意宇に住まう彼らが、こぞって雲宮へやって来たということは……。


 今晩、政の中心にいる彦名たちと、戦を動かす大国主たちが一同に会すのだ。集っているのは、狭霧の父、大国主が従える武人たちだけではないのだ。


 ごくり、と狭霧は唾を飲んだ。


 きっとこれから、雲宮で重要なことが起きるのだ。出雲のこれからに深く関わるようななにかが――。


 それから狭霧はふと、自分をじっと見つめる鋭い視線を感じた。


 目を向けると、そこには、自分を睨むようにして見さだめている少年がいる。


 思わず狭霧は身構えた。少年の風貌に見覚えがあったのだ。


(高比古だ)


 齢は狭霧より少し上という程度で、背はまあまあ高いが身体は年相応に細い。顔の輪郭は細く、目も鋭い。それはどう見ても出雲の風貌ではなかった。……彼に出雲の血が流れていないせいだ。


 少年は彦名のかたわらにすっくと立ち、三十、四十といった男盛りの貴人に囲まれているというのに、悪びれるそぶりもない。まるで、そこに自分がいるのは当然だといいたげに。


 狭霧はやはり、眉をぴくりとさせた。


(偉そうな子)


 前に姿を見かけたときと、彼に対する印象は変わらなかった。


(海賊のくせに、いい衣を着て、我がもの顔で雲宮を歩いて、当たり前のように彦名様の隣にいて。……出雲はへんな国よ。伊邪那の王子が駄目で、海賊ならいいなんて)


 頬を膨らませかけた狭霧は、須佐乃男へ向かってぺこりと頭を下げた。


「おじいさま、わたしは宮へ戻るわ。今日は大切な日なんでしょう? お邪魔にならないように、部屋でじっとしているわ」


 そして、狭霧は身をひるがえした。まるで、兵舎に満ちる重厚な雰囲気から逃げ出すように。






 早足で兵舎の脇を通り抜ける狭霧の背中を見つめながら、高比古は安曇のもとへ歩み寄った。


「安曇、あの姫は?」


 二十近くも齢が離れているというのに、高比古の口調は横柄だ。でも、安曇にそれを咎める様子はなかった。


「狭霧姫だ。大国主の娘だよ」


 小さくなりゆく狭霧の後姿を見送って、安曇は何度もため息をついていた。


「あぁあ、また穴持様に叱られる。……でもなあ、狭霧が輝矢様のもとへ通うのは、なにも私のせいではないのになあ」


 安曇は独り言のようにぶつぶつというが、口ぶりから察するに、どうやら安曇は狭霧の世話を大国主から預かっているようだった。


「ふ、ん。あれが大国主のかわいがってるって娘か。あんな娘がねえ」


 高比古は短く息を吐くと、鼻で笑う。


「齢はいくつなんだ?」


「十五におなりだよ」


「なら、もう年頃じゃないか。さっさとどこぞへ嫁がせればいいのに。大国主の愛娘という箔付きなら、妻に欲しがる男はどれだけでもいるだろう」


 高比古が眉をひそめて真剣になるので、安曇は苦笑する。


「そうはいかないよ。狭霧が望んでいない」


 だが、高比古は納得しない。頭一つぶん高い場所にある安曇の丸い目を見上げると、彼は鋭い刃のような視線で切りつけるようにいった。


「大国主は? 大国主が出雲のためになる相手を選べばいいじゃないか。娘がなんといおうと……」


「あの方も望んでいないのだよ、高比古。なにしろ最愛の妻、須勢理様の忘れ形見だからね」


 そう答えた安曇の微笑は寂しげだった。高比古から反論を奪うほどに。


 高比古はひとまず黙るが、それでも彼は納得がいかなかった。


「最愛って……妻なら何人もいるくせに。娘だって、息子だって」


 言葉を舌先で転がしながら、高比古は出雲のあちこちに建つ離宮の数々を思い浮かべる。


 大国主といえば、妃が大勢いることで有名だった。


 大国主の妃となる娘は、たいていが力ある豪族か異国の娘だ。大国主にとって妃とは、友朋の証。または占領と降伏の証だ。それは政の一つで、そのすべは須佐乃男の時代から彼に受け継がれたものだとか。


 高比古は薄い唇を噛んだ。


(そんなはずがない。大国主ともあろう人が、妻だの子だのという理由で、人をはかるはずがない。あの人にとって、妃は駒でしかないはずだよ。力を自分へ繋げるための)


 笹の葉先に似た、冷ややかにも涼しげにも見える鋭い目で、高比古は小さくなる狭霧の後姿を追う。


 十五歳になるとはいうが、遠ざかっていく姫は、幼く見えることはあっても、年より上に見えることはけっしてないだろう。


よくいえば無邪気で、悪くいえば能天気。……その姫の名は、狭霧姫だ。


 八つの小国が合わさって成る、戦の大国、出雲。その国を背負って立つ王の一人、大国主は、国内はもちろん、周辺の国々へも勇名をとどろかせる歴代稀に見る武王だ。狭霧は、その武王の愛する娘で、大勢いる子らの中でも唯一大国主のそばで暮らしている。ほかの子たちは、離宮へ移った妃たちと共に雲宮を出ているというのに。


 彼女の母は、伝説の女傑として語られる須勢理姫で、祖父は意宇の賢王、須佐乃男。


 狭霧の生まれは極上だ。出雲一といってもいい過ぎではないだろう。


 でも……。


『強いものが上に立つ。出雲に血の色は無用』。


 出雲連国に根付くこの力の掟どおりに、出雲には、生まれや血筋のよさなどは不要のもののはずだ。


 それなのに。大国主という男が、なぜそこまであの幼い姫を守るのか。


 高比古には、さっぱりわからなかった。


 大国主は、高比古にとって敬愛する相手だった。自分が生まれた故郷というわけでもないのに、この出雲に命を賭けようと、高比古が決意するほどに。


 その大国主に関わることなのに、理解の糸口すら掴めないのが、彼はとても奇妙だった。



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